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すでに第3章の文頭でふれたように、北京大学は清華大学とともに、いずれも清朝末期 に近代教育機関として中国政府が開設したものである。「京師大学堂」という名称で「戊 戌変法」の内容の1つとして開設され、民国時代に入り、現在の名称に変更されていた北 京大学は、近代中国で始めての国立高等教育機関である。清朝末期より専門人材をはじめ、

社会の各分野のリーダーを育成する教育機関として、全国でトップの位置を占めている。

1917 年に蔡元培が北京大学の校長に就任した後、「学問の自由」という教育改革の方針を 打ち出し、北京大学の管理運営の体制や教育課程および教員陣に対し大規模な改革を行っ た。その結果、北京大学は 1920 年代より、「学問の自由」という特徴を以て、全国の高等 教育機関の改革のモデルとなり、近代中国のエリート養成教育機関として全国の基幹大学 となった。

この章では、西洋から新しい教育内容・制度の導入が余儀なくされた際に、従来の中国 の伝統的学問教養教育を近代のエリートの養成教育の中にどのような位置づけさせるべき か、伝統的学問教養の「私的」、「公的」な機能をいかに問うべきか、また、新しい時代に 対応させるために、伝統的学問教養にいかなる新たな要素を注入すべきか、つまり、科挙 の廃止に伴った近代社会のエリート層を構成する新しい人材の養成教育の中に、何を、何 のために、どのように教えるべきか、清朝末期以来、様々な論議の展開が見られてきたが、

それらの論議や実行活動を通して現れた葛藤が大学の教育の中でどのように表れたかを検 討する具体的な事例として、北京大学の教育を取り上げる。とりわけ、清朝末期から民国

「南京政府」時代の 1937 年(日中戦争が始まったとき)まで、西洋の近代的学問知識の導 入およびそれとの融合が余儀なくされるようになった際に、従来のエリート養成教育の中 核となってきた伝統的学問教養は、いかに新しく位置付けられ、かつ、新しい教育の中で どのような新しい機能が持たされたのかを基本的な視点に据えながら、北京大学における 教育の目的、方針および実行活動、教育成果などを中心にして考察を試みる。なお、この とき、教育成果の要因を総合的に分析していくその一環として、教育運営に関わる学校運 営組織と教員陣、また、資金運営などの状況も視野に入れて検討してみたい。

北京大学は 1898 年に、「京師大学堂」という名称で、清朝政府により創立された。それ は当時、中国政府が設立した唯一で、しかも最初の高等教育機関であった。それに、この

「京師大学堂」は近代社会のエリート、すなわち、有為な人材養成の最高教育機関である

とともに、清朝政府の最高教育行政機関とした役割も果たしていた。

1912 年に民国時代に入り、北京大学は廃校になる虞は克服されたが、「北京大学」とい う名称に変えられただけにとどまり、1917 年まで実質的な教育改革が行われなかった。

1917 年に蔡元培が学長として就任した後、本格的な教育改革を始めたのである。蔡が主導 して推進していた一連の改革によって、北京大学は「新文化運動」および「五・四運動」

の主要な拠点となり、また、「学問の自由」を求めるパイオニアとして、近代中国の教育史 上1頁を残し、全国の高等教育機関の中軸となったことに至ったのである。

ところが、民国時代は政治的・社会的な不安が長く続いたため、それらの不安定な背景 が北京大学の教育にも影響を与えていた。学校経営の停滞、学生による反政府デモ進行と ともに、運営上の規定に対する反発・抗議などは、1923 年に蔡元培が辞任した後、さらに 頻繁に行われ、問題が表面化した。このような問題を抱えている中、1928 年に、北京大学 は他の8つの大学とともに「九校合体」という政府の新しい改革計画が出された。この計 画によると、北京大学が「中華大学」という新しい大学の1部として編成されたが、結局、

この計画に関係する大学の強く反発されたため実現されなかった。しかし、まもなく 1929 年に政治と教育との分離を図り、蔡元培が中心となって計画した大学区という改革案によ って、北京大学は「北平大学」の1部の教育組織として編成されることとなったが、これ も大学側の強い反対があったので、実現されなかった。このような政府による様々な組織 変更案という試行が重ねられ、また、数回もの学科組織と教育内容の編成・調整が行なわ れて、北京大学は 1937 年の日中戦争が始まるまでの間、ようやく近代的人材の養成教育機 関として、本格にその役割を果たすようになっていたのである。

そこで、本論の課題意識に沿って、清朝末期に開設された「京師大学堂」の教育から民 国時代の 1917 年から 1923 年まで、蔡元培が実施した北京大学の教育改革および蔡元培以 後、北京大学の校長を務めた蒋夢麟による改革という3つの段階に絞って検討したいと考 えている。とりわけ、各段階における政府の狙いとそれに基づいて出された関係法令が北 京大学の教育の目的にどのように関与していたのか、また、政府は教育の目的の達成にど のような政策・措置を制定したのかを考察する。一方、北京大学の校長たちはいかに政府 の意図を理解し、それを学校運営の実行の中に移したのか、それに、彼らはいかなる教育 理念に基づいて教育方針を定めた上、教育活動を展開していったのかに焦点を当てて、分 析していくことにしたい。

1節 「京師大学堂」の教育

「北大」の前身である「京師大学堂」は 1898 年に行われた「戊戌変法」(「百日維新」と もいわれる)の中にあった学制改革の一環として創設された。しかしながら、その創設後 は、計画された教育活動が順調に行われたとはいえない。これについては、前述した 1900 年の義和団事件により、八国連合軍の侵入で校舎などの教育設備が破壊され、教育活動が 停止の状態となり、1902 年に清朝政府が列強との間に講和に関する「北京議定書」の調印 によって、事態が収拾されたとともに、『欽定京師大学堂章程』という中国で初めての近代 教育制度が制定され、大学堂も再開された。なお、1904 年に「奏定学堂章程」の制定によ って、「京師大学堂」は高等教育機関として他の段階の教育機関とともに近代教育制度の一 部を構成することになった。

この部分では、近代教育の導入期に当たる清朝末期において、「京師大学堂」が開設当初、

高いレベルの人材養成をめぐって、どのような議論があったのか、その議論は大学堂の創 設および教育に関わる諸規定にどのような影響を与えたのか、とりわけ、関係者らがどの ような特質を持っている人材を養成しようと考えていたのかを中心に検討し、清朝末期の 大学堂の教育特徴を明らかにするとともに、次の時代の民国期に入った北京大学にどのよ うな教育の基盤を築いたのかも解明したい。

(1) 開設の経緯

すでに第1章で述べてきたように、1860 年代から洋務派によって近代学校の開設が始め られた。19 世紀の末頃までの数 10 年の間、各地域において、「京師同文館」(1862 年)や

「福州船政学堂」(1866 年)や「天津電報学堂」(1880 年)などのような外国語教育、軍事 教育、近代科学技術教育という分野にわたる近代教育機関が数多く開設されていた。これ らの近代学校の教育は専門分野における人材の養成に寄与したことは言うまでもないが、

1894 年の日清戦争で小さい国であり、なおかつ、古代より中国から文化教育・農業技術な どを導入した日本に負けたことによって、当時中国の教育に内在する問題点が露呈してき たと考えられる。また、日清戦争の後、洋務運動期に導入されてきた近代教育を批判する 声が次第に大きくなってきた。例えば、1897 年に維新派の重要な人物であり、「戊戌変法」

の参加者でもあった梁啓超が「学校総論」という文を発表した。そこには「なぜ今の同文 館、広方言館、出師学堂、武備学堂、自強学堂、実学館などによって総合能力のある優秀 な人材が得られていないのか。それは専門技術の教育が中心に行われていたが、新しい制

度の導入に関する検討や教育における文化・教養の内容が欠けていることがその原因とし て考えられる。なお、専門技術といっても、言語と文字のような表面的なものと軍事に関 する末端的な技術に限ったものである。それらの分野について奥深いところまでの研究が 行なっていない」1と洋務派による開設した近代学校の問題点を指摘した。また、同時に、

以下のような改革案を示した。それは、「1)科挙制度を改革しないと、優秀な人材が得ら れない、2)師範学堂を設立しないと、教員が得られない、3)学科を分けた教育を実施 しないと、その専門についての研究が深くできない。(中略)いまの時代では、中外の学問 に通暁したうえ、はじめて国の改革が担っていけることとなる。また、中外の学問に通暁 した者こそ、自ら持っている知識を運用して、さらに意欲的にものを考え、結果を追求す ることができる。(中略)いま、国家は学校を設けて、近代社会に対応できる人材の養成を 図っている。しかし、高いレベルの有為な人材が養成することができなければ、他のレベ ルの人材の養成も考えられない。(中略)このような高いレベルの有為な人材を養成できる 学校の設置はなにより急務である」2と学問研究を行いながら、近代社会に対応できる総合 的な能力のある人材の養成教育も実施できる高いレベルの教育機関を開設する必要性を論 じた。

一方、有能な官僚の育成を目指し、より専門性の高い研究・教育機関である「京師大学 堂」の具体的な開設プランが李瑞蘂3によって、1896 年に提案された。彼は『請推広学校 摺』において、30 歳以下の「官学」(「国子監」)学生を選んで入学させ、中央政府の官吏 で学習意欲のある者も受け入れることや教育課程について専門性を充実させ、3年間の研 究課程を設けることなどを提案した4

このように、これまでの近代学校への批判と新たな提案が出されている中、1898 年に公 布した「戊戌変法」において、憲法制定、国会開設、学制改革という急激な変革を求めら れた政策が見られる。この「戊戌変法」の中で、中国の近代教育史上、初めての国立高等 教育機関として「京師大学堂」が創設された。しかし、アヘン戦争以来、軍事にかけた費 用や敗戦により生じた賠償金などの支払いのため、深刻な財政難に落ち込んでいた清朝政 府はその開設にあたって、当初からその経費の不足という問題を抱えていた。創立には 35 万テール、毎年の経常費に 18 万テールあまりの経費が必要であったが、これは当時のヨー ロッパの大学の十分の一にも及ばなかった5。また、この諸経費は華俄道勝銀行の 500 万テ ールの預金の利息を充て6、さらに 1902 年に、地方政府の管轄地域の規模によって、大き い省から小さい省まで、それぞれに2万テール、1万テール、5千テールという割当額で