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第3章 基幹大学におけるエリート養成教育―「清華大学」の場合

2. 周詒春の教育理念とその具体化

前に示した表1のとおり、1928 年まで「清華」を管轄する権限は教育部ではなくて、外 交部となっていた。また、民国初期の外交部について、顔恵慶21が「外交部の管理職の人 はその考え方が非常に民主的である、彼らは他の政府機構の管理者と違い、外国に関して 豊富な知識をもっている」22と述べたことから、「清華」の教育に対する管理の姿勢は、清 朝末期の「学部」官僚の多くが民国初頭の「教育部」に転じたことによって、「中体西用」

の教育観が濃厚に残っている「教育部」の管理姿勢と異なっていたことが考えられる。つ まり、政府の関与が薄かったといえよう。それに、表3にも示したように、1918 年に「清 華」の運営資金の管理を強化するために、「清華学校基本金委員会」および当該「委員会」

の設置章程の第二条に基づいて、「清華学校理事会」(原文:「董事会」)が設置される23ま で、 学校の運営はすべて校長に任せていたことがわかる。さらに、民国初期の外交総長 1912-1927 年の間に 20 回も頻繁に更迭された24ことが1つの原因となり、「清華」の教育方 針に関しては、政府側が具体的、かつ適切な規定・条例を定めていなかったため、校長の その運営に関する権限が大きかった。また、この時期の教育活動は主に校長が自分の意思 によって展開していったと考えられる。

このような民国初期の事情を背景にしながら、この部分では、「清華」をアメリカへの 留学準備の教育機関より近代社会の発展を担っていく人材養成の教育機関へと転換させる ことに精力を傾けていた周詒春校長が務めている間に、どのような教育理念を持っていた のか、それに、その理念をいかなる形で教育の中に具現化していったのであろうかを検討 する。

周は早年に「上海聖約翰書院」で勉学をしていた後、1907-1910 年、前後してアメリカ のイェール大学とウィスコンシン大学での留学経験を積み、1911 年に「進士」25となって いる。辛亥革命後、民国政府の外務部と孫文の英文秘書を経て、1912 年に、「清華学校」

の副校長兼教務長を務め、1913 年 10 月には、「清華」の校長に就任している。

彼の「清華」での教育活動については、1927 年の『清華年刊』で掲載されている「清華教 育政策的進歩」という文において、その一端が示されている。それは「周はアメリカの学 校を丸ごと清華園に移植したがっている。教員のほとんどはアメリカ人で、教育課程も教 授法もアメリカのものである。さらに、椅子、黒板、チョークまで、すべてアメリカのも のである。当時に盛んになった課外活動も彼によるアメリカから導入したものである。(中 略)周校長の教育政策は完全なアメリカ式の大学を築くことに目指しているものである。

学校の中はアメリカの雰囲気が十二分に漂っている。(中略)外部からは『買弁学校』であ

る、中国語を軽視していると批判されていた。」26という。しかし、彼の教育思想とそれの 実行活動を考察すれば、この発言に指摘されたことが必ずしも適当であるとはいえない。

まず、彼は「清華」をアメリカ留学の準備教育機関から独立した学術・教育が実施でき る四年制大学への転換を図ったが、アメリカの教育をそのまま、中国に移植するには賛成 しなかった。これに関して、彼のもっている教育観、すなわち、「新しい国民教育の目標は 聡明で、生計を立てる生活技能と独立自主的な人格を持っている公民の育成にある、また、

この目的を達成するためには、伝統的な教育の中にある反民主的・非生産的なものの代わ りに、職業教育と民主教育を国民教育に取入れるべきである」27。この教育観に基づいて、

具体的に「清華」の教育について、「西洋の学問知識を中国社会に同化させたうえ、新しい 知識内容と文化を作り上げることが必要である」28という教育方針を決めたことからそれ を裏付けられよう。さらに、彼の具体的な改革案を参考にすると、理・工科、医学などの 分野には中国語版の教科書がないため、暫定的に現状を維持するままでよいが、歴史、政 治、経済、法律などはすべて中国語を使用するという主張が見られる。それに、当時の「清 華」では、「西文部」がほとんどアメリカ人教員であり、「中文部」が中国人教員からなっ ており、しかも、アメリカ人教員と中国人教員は供与・住宅条件における待遇の差が大き かった事実から、中国人教員と外国人教員を平等に扱うべき、同等の権利・待遇を享受さ せなければならないと主張している彼の実際的な教育活動における改革も、ある意味で上 述した彼に対する批判への反論になるのであろう。

次に、周のときに盛んになった課外活動についての評価に関して、それは彼が様々な教 育活動を通して、学生の道徳・素養を向上させることは重要であるという考えをもってい たことである。彼によると、道徳・素養の養成は人間の発達の各段階で行う必要があり、

学校では教育の内容によって高尚な道徳・素養を植え付けるだけでなく、規律を守る自己 的制約力や社会奉仕の精神も育てるべきであるという。その社会奉仕の精神を養成する具 体的な方法例として、学生に医療サービスチームを作らせることや、学校の周辺において、

知識を普及させるためのボランティア活動をとおして、貧困の人々に関心を持たせ、その 人たちに接する機会を学生に提供させたことなどがあげられている29。このような教育方 法は言うまでもなく、彼が留学したときの見聞知識に基づいて、西洋から「公徳」育成の 人格教養方法を借用して、当時の中国の社会に使っていたと考えられる。なお、彼による と、このような活動を通して学生の人格育成は、西洋の文明を取入れて、中国の伝統的な 学問教養を廃棄することには直結せず、むしろ両者を有効的に結合させることが必要であ

ると説明している。その例として、1917 年の夏に、アメリカ留学に出発する「清華学校」

の卒業生に対して「西洋人の長所を取入れ、我々の短所を補うべきだが、卑屈になっては いけない」、「皆さんはアメリカへ渡ってからも引き続き常に人格を磨き、自己の反省を覚 え、社会サービス精神を忘れず、中国の伝統的優れたものを輝かすべきである。(中略)チ ャイナ・タウンにいる華人の知識を啓発する社会教育の活動を行い、外国人から中国人に 対する侮辱を払うことも忘れてはいけない。それに、外国人との付き合いの際にして、高 ぶらず卑屈にならぬ態度をとり、中国の伝統的文化を発揚するように心がける」こと、ま た、卒業論文に関しては「中国の学術・政治・社会・実業に関するものや、または中国の 社会改革へ示唆の得る外国の内容を課題にする」ことが重要であると指摘している30こと からも明らかになろう。

このように、彼は自分の教育観に基づいて、学校の教育環境の改善や学生の素養・教育 レベルを高めるために、「清華」の教育をさらに、次のような具体的な改革の構想を出して いた。それは、1)図書館・体育館などの建設、2)留学予備生の募集方法の改革、3)試験 選別によって他の大学の卒業生にも留学機会を付与、4)留学予備生の制度の廃止と大学制 度の導入、5)最終的には清華大学の卒業生と他の大学卒業生とともに留学試験を受けさせ て、合格者のみを派遣するという5つの段階に分けて実現するものであった31

周の「清華」での教育実践は中国の伝統的学問教養を西洋の近代知識と融合させる視点 からみると、中国語で教育を実施することや中国人教員の地位を上げるという具体的な措 置をとることによって、「中学」が教育における位置付けを無視したとはいえないが、明確 な特徴を出していないため、この時期の「清華」の教育は西洋の社会奉仕という「公的」

道徳の育成が強調されていたことが大きな特徴であると考えてよい。彼が辞職後、「清華」

の教員と学生が自主的に集金して、彼に記念品を送ったことと 1933 年に「清華」の学生総 会が彼を名誉会長に任したことから、上に挙げた彼に対する批判の声あったものの、周の

「清華」での貢献およびその声望が大きいかったことは否定できなかろう。

以上のとおり、「清華」について、「遊美肄業館」の時期から「清華学校」の時代まで、

いわゆるその「草創期」を中心に、政府の関連法令・規定とそれに関わった教育活動およ び校長の教育理念を含むその改革活動に焦点をあてて検討してきた。清朝末期の「遊美肄 業館」と「清華学堂」の時期には、留学生の派遣活動に関して、将来の人材像をめぐり、

清朝政府の外務部と学部が相異なる考え方を示したが、双方の意見を折衷した結果として、