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第1章 清朝末期における近代エリート養成教育の成立過程とその実態

1. 日本留学派遣の動機とその関連政策

1896 年に清朝政府の在日公使が業務上の必要から、唐宝鍔らの 13 人の教育を高等師範 学校学校長の嘉納治五郎に依頼したことは日本への官費留学生の派遣の始まりとなってい る。その背景は、日清戦争の後、日本の近代化における「躍進」を認めざる得なくなった 事実とともに、多くの不平等な条約に列強から押し入られた清朝政府は一層深刻な財政難 に陥って、「新政」の実施に必要な人材を養成する学校の開設にあたる経費の不足に加えて 教員の極度の不足からこれが容易に進まず、海外に、ことに距離的近くて、留学の派遣費 用が比較的安い日本へ送ることにしたことが挙げられる。そして、政府が日本を派遣先と して決めた理由としては儒学道徳を守った日本の教育に強い感銘を受け、中国の現実と政 体に適応しうるものと認識したことが最も主要なものである。これについては、変法維新 派の日本を学ぶ主張と同様に、張之洞は『勧学篇序』において「遊学」の内容を紹介する 際にして、外国留学のよさを「時勢に明らかになり、志気を伸ばし、見聞を広め、才智を 増やすには、外国に留学するのが最も手っ取り早い方法である」85と主張したとともに、

留学先について「西洋より東洋の方が良い。それは中国に近いので、視察するに便利であ る。また、日本語は中国語に類似しているため勉強しやすい。それに、中国と日本との情 勢・風習が似ていて、学びやすい」。さらに、「西洋の学問は極めて煩瑣過ぎて、その不要 な部分を日本人がすでに削除、或は改めた」86というように、日本への留学を勧めていた ことから始まっている。このときの張の日本の教育に対する認識は、まだ教育費の節約可 能という経済的および文化的に便利の理由をもとに、日本を介して西洋に学ぼうとしたこ とが窺える。

ところが、義和団事件後の「新政」期に、「新政」改革を担う人材養成が緊迫となってい る中で、新たな教育改革が行われざるを得なくなり、より広範囲の「西学」の導入の必要 性が増加した一方、中国の伝統的学問教養の「中学」と「西学」に関して、その位置付け をめぐる葛藤が以前より激しくなってきた。このとき、張之洞は日本の教育に対する関心 が上述した葛藤を深く懸念したうえ、教育の思想的基盤の形成に注目するようになったの である。例えば、彼は上述した羅振玉らを視察者として日本に派遣したとき(1901 年 11 月)に、「学校を考える者、固より其の規則の存する所を考えるべきといえども、尤も其の 精神の寄る所を観るべし。精神が貫かれなければ、規則も亦徒らに存するのみ」というこ とを繰り返し強調した87。また、このとき政府の高官・王族による外国視察も頻繁に行な われた。彼らはいうまでもなく、いずれも伝統的な教育を受けて、儒学思想で育成された 者である。彼らの視察はやはり政体と伝統的道徳観に重点を置いていたので、結果として

日本教育の儒学道徳の保持に最も感服したことを帰国後の報告書において強調していた文 脈から窺われる。例えば、1901 年に在日留学生の総監督に任命された夏偕復は日本の教育 をモデルとしてとるべきことを「わが国が今日学校を設立しようとすれば、宜しく日本を 手本にすべきである。(中略)わが国と日本とは、古くから政治のおおよそのやり方が相同 じく、宗教においても儒・仏を並んで重んずること相同じく、同州同種、往来が最も久し く、風土も尤も相同じである。故にその国現行の教育はわが中国の性質に背くことがない のであり、則ちこれを行なうなら、害無くして功が大きい」88と主張したことが挙げられ る。

また、1902 年に清朝王族の固山貝子鎮国将軍載振はイギリス国王の戴冠 式に派遣され、

その帰国途中に日本を視察し、その感想を「余は日本の学校管理法問答を閲読して、喟然 として吾が中国の先王の人に教える法、其の本は倫規を正し道徳を修めるにあると思う」89 と述べていて、日本の学校教育が儒教道徳を重んじていることに強く感銘を受けていたこ とがわかる。

そのほか、直隷省学校司督辧胡景桂らが日本視察の間、日本の学術の分野における重要 な人物であった大隈重信、菊池大麓、嘉納治五郎らからはいずれも教育における儒教道徳、

忠君愛国の重要性などの提言であった90ことも彼らにインパクトを与えたとも考えられよ う。

このように、日本の教育には西洋のものと異なり、一言を言えば、「中体西用」思想に適 応しうることを政府による認めたため、表5のとおり、一連の日本留学に関わる政策・規 定文書を公布した。

表 1-5 1898-1910 年清朝政府の日本留学に関連する政策一覧 1898年 「軍機処伝知総理各国事務衙門面奉之諭旨片」

1901年 「清帝派遊学諭」

1902年 「奏議復派赴出洋遊学辧法章程摺」

1903年 「鼓励遊学畢業生章程」

1906年 「奏定考験遊学生章程摺」

1906年 「通行各省選送遊学限制辧法」

1906年 「管理日本由遊学生章程」

1907年 「中国留日学生教育協議約款」

1907年 「奏定日本官立高等学堂収容中国学生名額及各省按年分認経費章程」

1907年 「酌擬遊学畢業生延用試験章程」

1910年 「改定管理遊日学生監督処章程」

(出典:金林祥主編『中国教育制度通史(第六巻)』、山東教育出版社、2000 年、p.270 をもとに作成)

表5に示した各種の公文書には、留学生の派遣方式から帰国後職に就く際に基準となる ランクが詳しく定められている。財政難の問題を抱えて、これまで官費留学生のみの派遣

を改めて、各分野の政府機構および地方政府がそれぞれの必要に応じて留学計画を立てて 留学生を派遣することを認めるとともに、個人の私費留学も認めるようになった。また、

私費留学生であっても国・公立大学か高等専門学校に入学すれば、官費留学生と同様に処 遇することもありうるという私費留学の奨励策も盛り込まれていた。他方、優秀な成績で 日本の学校を卒業した者は帰国後、国の定める試験に合格すれば、それぞれの科挙試験ラ ンクに相当する資格を与えるという方針も定められている。