18 世紀末の第 2 次大覚醒による宗教的高揚は、プロテスタント諸教会の福音宣教活動、
ミッショナリー・ムーヴメントを背景に、アジア諸地域にもプロテスタント教会を成立さ せていった。その推進の役割を担ったのは青年キリスト者たちであったと言われており、
YMCA、YWCA、 WSCF1の創設もこうしたミッショナリー・ムーヴメントと連動している2。 日本では 1880 年に東京 YMCA(東京基督教青年会)が結成されている。また 20 世紀第一年 目にちなんだ全国的規模の大挙伝道活動(1901 年)などもおこり、学校教師や学生、実業 家などの都市部知的階層および中産階級を中心に、日本のプロテスタント信者数は二倍3 となる一種のリバイバルが起こっていた。こうした情勢の中、YWCA 設置の気運は高まって いた。当時日本に派遣されていた婦人宣教師の中には、母国で YWCA 運動に接していた者も おり、赴任先で「YWCA」を名乗り、少女たちの集会を開く者や、過酷な労働を強いられて いる紡績、製糸工場の「女工」のために働く人材を、母国の YWCA に派遣するよう働きかけ を行なう者がいた。こうした動きを受け、1900 年世界 YWCA 初代総幹事(General Secretary 事務局長)レイノルズ(Miss Annie M. Reynolds 生没不明)が視察のため来日した4。こ れを機に、日本の YWCA 創立の準備が開始され、創立委員会は 1904 年若い女性のための聖 書研究を中心とする機関誌『明治の女子』を創刊した。日本 YWCA の最初の仕事はこの機関 誌の発刊であったとされている5。1905 年日本 YWCA は正式に発足し、その 1 ヵ月後ローカ ル YWCA6として東京 YWCA が発足した。1906 年には世界 YWCA 加盟、国際団体の一員として の確立を見た。同年加盟した中国 YWCA と共に、キリスト教国以外に YWCA が設立された最 初のものとなった7。
西洋キリスト教社会において形成された YWCA 運動は、単に宗教的な行動として日本社会 に位置付き継承されたのであろうか。日本の YWCA も教会や宣教団体に準ずる宗教組織であ るが、その活動の中身を詳細に見てみると、日本の女子青年一般を対象とした活動を展開 し、社会教育関係団体として長く位置付けられてきている。とはいえ、キリスト教を磁場 とする西洋社会でのありかたと、日本におけるそれとはやや異なるのではないだろうか。
社会教育的な事業展開の中で、YWCA 運動はどのような方法で、どのような人々により継承 されたのだろうか。1905 年に日本の YWCA は設立されたが、その時代の女子教育、キリス ト教や婦人宣教師たちの状況を概観することから始める。
33 第1節 日本における YWCA 成立期の女子教育
1.明治期の女子教育
明治維新後、政府は日本の近代国家としての成立を目指し、1871 年教育行政の府として 文部省を創設、翌年学校教育制度を示す学制を公布し、四民平等で女性をも対象とした近 代的教育理念を示した。しかし急激な教育体制の改革は混乱を生み、学制実施に当たり文 部省が重視した小学校の就学率は低いものであった。学制公布の後、「欧米流の知識技術に 重点を置く実学主義的な、また主知主義的な傾向は、民衆の実生活そのものからは遊離し、
明治政府の意図する文教政策からも逸脱するところがあるかのような観」8に対し、東洋 道徳に基づく教育の基本思想の必要性が説かれ、「教学聖旨」(1879 年)に基づく教学の根 本方針即ち「知識才芸よりも先に仁義忠孝に基づくいわば儒教的な道徳教育」9を教学の 要として文部省は教育令(1879 年)・改正教育令(1880 年)により教育制度全般の改革を 実施し、教育政策の刷新を図った。この流れは国民道徳および国民教育の基本とされ、国 家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなる教育勅語(1890 年)発布へと進展す ることとなった。
こうした流れの中で女子教育は、教育令によって「女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ
(第三条)」と教育内容の相違がつくられ、男子の高等、専門学校、大学に女子の入学を許 可しない根本法となる「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルコトヲ得ス但小学校ニ於テハ 男女教場ヲ同クスルモ妨ケナシ(第四十二条)」において、男女7才にしてという封建的な 男尊女卑の思想を持つ国家の女子教育の根本原理が確立されていった10。
その一方では、「近世以来の私塾、寺子屋のような教育機関はたくさん存在し、また新し い時代に応じて生まれ続けたという事実」11があり、キリスト教系の学校成立史において も、宣教師の渡来を機に 1870 年(明治 3 年)頃より多くの教育機関が設立されたことが見 えてくる12。東京都都史紀要 9『東京の女子教育』においては、東京の女子教育施設成立 の経過を萌芽期(1870 年~1879 年)、委縮期(1880 年~1884 年)、開花期(1885 年~1889 年)とし、開花期に成立した女子教育施設の特徴を、①プロテスタント系のミッションス クールに専門コースが新設、②ミッションスクールに対し日本人がイニシアチブをとるク リスチャンスクールのスケールが大きくなったもの、③社会事業に集中していたカトリッ ク系の団体が女子教育の開拓を始めたもの、④仏教マ 関係マ が女子教育に着目、⑤一般の女子 教育に極めてハイカラなものが成立した反面、実利を重視した裁縫、手芸を中心とした高
34 等女学校が増加した、と分類している。
新たに設置された女子教育施設の多くは、尋常小学校卒業若しくは高等小学校卒業程度 の入学資格で、英語や数学を始めとする教養教育や、裁縫編物などの実利的な教授を行う 教育施設で、通称は「女学校」と呼ばれていた。その教育内容は多様であったが、キリス ト教を背景とした宗教教育など、主催者の意図する教育内容が実施されるなど、ある種の 自由さがあったと言える。同書は、東京の女子教育が、もつとも活発になったのは、1899 年の高等女学校令の公布以後であったとも述べている。同時に高等女学校令以降の各府県 公立高等女学校の設立など、女子教育が活発な動向を示した時期は、1880 年代から進めら れてきた国の教育政策の変更により、高等女学校令では家事・裁縫の必修と英語・欧米文 化理解の時数限定という形で女子教育の内容を狭め、文部省訓令 12 号(1899 年)では宗 教教育の禁止により宗教的儀式、聖書に関する授業の禁止など、キリスト教による欧米的 な教育への抵抗を示し始めた時でもあった。
以上をまとめると、明治政府設立時の近代的教育制度の導入は、教育勅語に象徴される 国家主義的な教育制度へと変遷を遂げ、女性への教育は封建的な男尊女卑の思想を根本に 持つものであった。その一方、庶民の中の教育熱は高く、市井には各種の教育機関がつく られ、宣教師らによっても多くの学校が設立されていた。自由闊達に展開されていた教育 活動ではあったが、20 世紀に入り欧米的なキリスト教的人間観を持つ教育への抵抗が政府 によって少しずつ示され始めていた。そうした時代に日本の YWCA は設立されたのである。
2.明治期キリスト教と婦人宣教師
日本におけるキリスト教宣教は、1549 年フランシスコ・ザビエルによって開始されたと 言われている。以後、織豊政権から徳川政権へと続く約一世紀の間、日本での宣教活動は 展開されたが、鎖国の完成のなかで発せられた禁教令によりその動きは終わった。近代に おける日本宣教の契機といわれる 1837 年モリソン号事件後、1858 年日米修好通商条約の 締結による居留地での外国人の信教の自由が認められた頃より、キリスト教各派の日本再 布教が展開され始めた13。アメリカのプロテスタント教会は、1859 年宣教師たちの派遣に 当り、①長崎と江戸に常駐させ日本青年に英語教育を実施、②宣教医を派遣し施療を行う、
③宣教師は忍耐・温和・親切そして学問的傾向にある人々という特質を持つ人材をとの提 案を在中国の宣教師から受けていた。来日した初代プロテスタント宣教師たちは、東洋伝 道経験者の医師ヘボン(James Curtis Hepburn:1815-1911)、中国伝道経験者の教育者ブラ
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ウン(Samuel Robbins Brown:1810-1880)、公用外国語のオランダ語が出来るフルベッキ (Guido Herman Fridolin Verbeck:1830-1898)などであった。「居留地内での外国人の信教 の自由」という枠の中での再布教の対象地域は、英語を学びたい青年が集まり、医療奉仕 が評価される都市部であり、知識階層がそのターゲットであった14。
明治政府は不平等条約改正交渉を進める中で、1873 年切支丹禁制の高札撤去を断行した。
これを契機に欧米の諸教会からの宣教師の派遣が急増し、盛んな伝道が開始された。各地 に伝道所が開かれ、日本における各教派の教会組織化が進んだこの時代、キリスト教の伝 道者養成を目的とした学校や家塾的な小さな学校などのキリスト教主義学校が創立された。
キリスト教伝道の目的は、神の言葉を伝え、現地の人々による教会をつくることであり、
聖書の翻訳、現地人聖職者の養成(男子普通一般教育および神学教育)などが主たる宣教 事業としてあった。それらは聖職者としての男性宣教師の仕事であった。そうした中で現 地の人々との接点を作る補助的事業を担ったのが婦人宣教師である。女性は神学教育から 排除され、按手礼を受けた牧師となることは認められておらず、既婚の婦人宣教師は異国 の地でのクリスチャンホームの維持、独身の婦人宣教師の場合は伝道の機会をつくる慈 善・社会事業・教育事業・医療事業・家庭訪問など、「文明伝播的」事業に関わる「アシス タント・ミッショナリ―」としての存在であった15。明治初期に来日したプロテスタント 婦人宣教師の大半を占めたのはアメリカ系の婦人宣教師であった。先にも述べたように、
伝道の成功には女性への布教が重要であり、特にアジアでは女性に向けての伝道に力を注 げる独身の女性が求められた。こうした状況に沿って来日した独身婦人宣教師たちは、「文 明伝播的」事業を展開した。特に彼女たちが実施した近代的女子教育への着手が日本にお いては広く認知されている。
戸田徹子は明治期日本におけるプロテスタント系高等女学校の設立がアメリカの女性セ ミナリー拡張運動の一環を為すことは、比較教育研究や各個ミッション・スクールの百年 史において既に指摘され16、そこでの教育は、男女性別役割分業を前提とした、女性教師 と教養ある良妻賢母の養成であった17と述べている。アメリカでは建国期に現れた「共和 国の母」という発想が、女子教育への社会的関心を呼び起こし、適切な教育の場として多 くのセミナリーが各地に設立されたと言われている。19 世紀におけるアメリカプロテスタ ント・キリスト教の主たる担い手は中流以上の白人女性で、彼女たちの宗教体験の中核と なっていたのは女子セミナリーにおける教育だったと小檜山は述べている。
一般にセミナリーとは中等教育機関を示し、女子を対象とした教育は、音楽、フランス