第 2 章 数値計算手法
2.5 擬似温暖化実験
2.5.1 擬似温暖化実験とは
一般的な地球温暖化予測の力学的ダウンスケーリングにおいては,全球気候モデ ルGCM の6 時間間隔ないし 12 時間間隔程度の 3次元(x,y,z)データを境界値 として与えた地域気候モデルによる実験を行う(以降,このような方法を「直接ダウ ンスケーリング」と呼ぶ).したがって現在気候および将来気候についてそれぞれ実 験を行い,両者について相互比較を行うことで地域スケールでの気候変化を議論す ることになる.
本研究では,このようなGCMからの直接ダウンスケーリングに代わって,Sato et al.(2007)およびKimura and Kitoh(2007)によって提案された擬似温暖化ダウンス ケーリング(擬似温暖化実験)により将来気候における台風強度に対する温暖化影 響量を評価する.その手順は次のようなものである.(1)現在気候のダウンスケー ルについては,6 時間間隔程度の再解析データを境界値として地域気候モデルによ る過去再現実験を行う.(2)将来気候のダウンスケーリングについては,(1)の再 解析データに地球温暖化による大規模場の変化を加算したデータセットを境界値と した実験を行う.ただし,大規模場の変化(温暖化気候差分)には,GCMによって 予測された諸物理量(気温,気圧,風速など)の現在気候と将来気候の差分の 3 次
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元分布を使用する.(3)現在気候実験(1)と温暖化実験(2)の結果について相互 比較を行うことで,国や地域スケールでの気候の変化を予測する.GCMから得られ る大規模場の変化(温暖化気候差分)として,月毎の10年から30年程度の平均値 が用いられることが多い.この擬似温暖化実験は,地球温暖化に伴う各物理量の 3 次元的変化を考慮する事ができるので,ある程度広い領域での地域気候についても 扱うことができる.この手法を採用し,2004年の全台風に対して擬似温暖化実験を 実施した研究も行われており(吉野ら,2015),高精度な再現計算に基づいた温暖化 影響が定量評価されている.本研究も同様の手法を用いて,台風強度と高潮に対す る温暖化影響量を定量化する.
擬似温暖化実験を行う大きな利点は二つある.一つ目の利点は,データハンドリ ングが容易なことである.GCMからの直接ダウンスケールでは,モデル中のある特 定の1年と実際の年は一対一で対応していないため,少なくとも10年程度の実験を 行ってからでないと,観測データとモデル結果との相互比較を行うことができない.
このことから,地域気候モデルの再現性を評価する段階においても,多くの計算が 必要になるだけでなく,高頻度のGCMの3次元出力値が必要となる.しかし,GCM の長期間データは容量が大きいため CMIP などのモデル相互比較プロジェクトにお いてもほとんど提供されていない.したがって,それぞれの研究機関から大容量の データを直接入手する必要があり,現実的な手法であるとは言えない.近年,複数 の GCM からそれぞれ直接ダウンスケールを行い,予測の不確実性の幅についての 情報を示すことが求められているが,十分な数の GCM について直接ダウンスケー ルを実施するためには,複数の機関から膨大なデータを収集しなければならず,国 際的な大型プロジェクト以外ではほとんど不可能である.それに比べて,擬似温暖 化実験で使用するGCMデータは低時間分解能の月平均場のみがあれば十分であり,
必要なデータ量は直接ダウンスケールに比べてはるかに小さくなる.また,(2)で 与える大規模場の変化成分として,複数の GCM から得られたもののアンサンブル 平均を使用すれば,複数の GCM による予測を反映した形で,将来の地域気候予測 を行うことが可能になる.
擬似温暖化実験の二つ目の利点は,地域スケールの現在気候の再現性の向上であ る.領域気候モデルは側面境界を持つため,側面における物理量を GCM や再解析 データから受け取ることになる.GCMからの直接ダウンスケールの場合,現在気候 の再現性は GCM による現在気候の再現性に強く依存する.しかし,地域気候予測 のように対象領域が狭くなればなるほど,GCMと観測値との誤差は無視できなくな ることが多く,ダウンスケーリングの結果もこのような誤差を含んでいることにな る.それに比べて,擬似温暖化実験では,様々な観測データを同化した客観解析デ ータを境界値として使用するため,現在気候の再現性は必然的に向上する.また将 来気候については,GCM によって得られる現在と将来の差の成分 (すなわち,温
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暖化気候差分)のみを使用するため,GCMが持つバイアス誤差を除去していること にもなる.
擬似温暖化実験を行うためには,現在から将来までの気候状態変化を表す全球気 候モデルGCMのデータも用意する必要がある.本研究では,CMIP3(Coupled Model Intercomparison Project Phase 3;第 3 期結合モデル相互比較計画)および CMIP5
(Coupled Model Intercomparison Project Phase 5;第5期結合モデル相互比較計画)が 提供する全球気候モデルによる気候データを使用する.4章で述べる台風1330号と 台風 0918 号の擬似温暖化実験には,CMIP3 が提供する全球気候モデルおよび 3 種 類のCO2排出シナリオ(A2,A1BおよびB1)の将来気候データを使用し,5章で述 べる日本に襲来する台風の統計的な温暖化影響評価には CMIP5 が提供する全球気 候モデルおよびRCP8.5シナリオを使用する.
本論文の第 1 章でも述べたように,IPCC第5次評価報告書(2013)では,CMIP3 まで用いられてきたSRESシナリオに代わりRCPシナリオが示された.このRCPと は,政策的な緩和策を前提として,将来,温室効果ガスをどのような濃度に安定化 させるかという考え方から,その代表濃度経路(Representative Concentration Pathways) を示している(気象庁,2014).予測結果の相互比較のための統一的なシナリオであ ることは同様であるが,従来の SRES シナリオが社会的・経済的な将来像毎に排出 量,放射強制力,気候予測が1つずつ対応することに対して,RCPシナリオでは将 来予測される多種多様な放射強制力の経路から,代表的なものを選定し,これに基 づいた気候予測を行う.したがって,具体的な社会的・経済的な将来像を限定して いない点が異なる.この手法を採用することで,各経路について緩和策を包括した 多様な社会的・経済的シナリオ(Shared Socio-economic Pathway;SSP シナリオ)を 作成することが可能である.以下に,本研究で使用するSRESシナリオとRCPシナ リオの詳細を記載する.
(a)SRES シナリオについて(Nakicenovic and swart, 2000)
SRESシナリオは,今後の社会・経済動向に関する想定から算出した温室効果ガス の排出シナリオを,IPCCが排出シナリオに関する特別報告書(SRES: Special Report
on Emissions Scenarios)として2000年に発表したものであり,IPCC第三次評価報告
書から使用されてきた.シナリオは大きく分けて,B1 シナリオ・B2シナリオ・A1 シナリオ・A2シナリオの4つの種類が存在するが,計算機資源の制約により,本研 究ではA2シナリオ,A1Bシナリオ,およびB1シナリオの3つのシナリオを利用す る.以下にそれぞれの概要を記述する(気象庁, 2014).
① A2 シナリオは,国際競争のために従来の社会や経済の枠組みを急激に変化させ ることを好まず,従来の延長線上での経済発展を目指すシナリオである.した がって,経済は低位で推移するものの,社会の構造変革がなく,内向きの安定し
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た社会となる.ライフスタイルとしては,現在と同じ水準での消費活動が継続 する.また,都市構造としては人口や資本は複数の中核都市圏に分散しており,
地方への公共投資が活発に行われることもあわせて,これらを結ぶ道路交通ネ ットワークが整備され,人流,物流ともに自動車が中心の社会となる.エネルギ ーについては,従来のエネルギーセキュリティ政策の延長から,電源構成は引 き続き原子力発電に依存することになる。
② A1Bシナリオは,A1シナリオの中でも技術革新がバランスとして生じるシナリ オのことであり,通常 A1 シナリオとよばれる場合は,A1B シナリオを示して いる.このシナリオは,世界市場主義シナリオであり,グローバル経済におかれ 競争に勝ち抜くために,経済的合理性を重視した発展を目指す場合には,4つの 発展パターンの中で最も二酸化炭素排出量が多くなる.また世界的なエネルギ ー事情の安定化に伴い,石油や石炭を中心としたエネルギーシステムが維持さ れるため,エネルギー消費あたりの二酸化炭素排出量は A1シナリオが最も大き くなっている.
③ B1 シナリオは,環境技術牽引シナリオであり,環境技術の開発と普及により,
経済発展と低炭素社会の両立がある程度達成されており,その結果,二酸化炭 素排出量は抑えられている.GDP あたりのエネルギー消費量や二酸化炭素排出 量の双方が 4 つのシナリオの中で最も小さく,経済の規模が比較的に大きいに も関わらず,二酸化炭素排出量ではA1シナリオやA2シナリオを大きく下回っ ている.
人為起源のCO2放出量に関して見ると,標準シナリオの中では,B1は「少ない」,
A1Bは「中間」,A2は「多い」に相当しており,A2は多次元化社会,A1Bはバラン ス社会,B1は持続的発展型社会という違いがあり,それぞれ,2100年における人間 活動由来の大気中の二酸化炭素濃度は,1250 ppm,850 ppm,および,600 ppmにな ると見積もられている.この 3 つのシナリオの選択は,単に計算機資源の制約によ ってなされたものであり,これらのシナリオが,ほかのシナリオに比べて現実的で あるというわけではないという点に注意が必要である.複数の GCM による平均的 な予測結果(アンサンブル平均)を見ると,A2・A1B・B1のいずれのシナリオであ っても,今後 20 年間は 10 年あたり約 0.2℃の割合で気温が上昇すると予測してお り,シナリオ間の差はそれほど明瞭ではない.しかし,21世紀末になると,シナリ オ間の差が顕著になってくる.2100 年頃と1990 年頃の平均気温の差を見ると,A2 シナリオでは平均+3.4 ℃(予測幅+2.0 ℃から+5.4 ℃),A1Bシナリオでは平均+2.8℃
(予測幅+1.7 ℃から+4.4 ℃),B1 シナリオでは平均+1.8 ℃(予測幅+1.1 ℃から +2.9 ℃)となり,温室効果ガスの排出が現在以上の割合で増加し続けた場合,気候 システムの変化の規模は今後 20 年間の変化に比べて大きくなる可能性が非常に高 いと考えられていた(IPCC,2007).