• 検索結果がありません。

小単元r『ええじゃないか1にみる幕末維新』の授業闘発

8C末〜9C

第3節  小単元r『ええじゃないか1にみる幕末維新』の授業闘発

 本節では、西垣晴次編『伊勢信仰H 近世民衆宗教史叢書13』(雄山閣出版、

1984年)、萩原龍夫編r伊勢信仰1 古代中世民衆宗教史叢書1』(雄山閣出版、

1985年)に依拠して伊勢信仰の教材解釈をおこない、教材化の視点を示す。次に、

その視点を踏まえて、「rええじゃないか』にみる幕末維新」の教授計画書を提示

する。

1 教材解釈

(1)伊勢信仰の考察

 天照大御神を祭神とする伊勢神宮は、同神が皇室の祖先神とされることから 皇室の崇敬を得ており聖域として広く民衆の信仰の対象となってきた。

 古くは、「私幣禁断」の厳制が布かれて神前に幣物を捧げるのは天皇に限り、

皇太子といえども勅裁を経なければならなかった。しかし、律令体制の動揺に 従い、広く一般に解放されてくる。参宮は中世を通じて盛んになるが、初めは 僧侶・武士が中心で、一般民衆の参宮は畿内を除いては未発達であった。中世 には、各地に関銭徴収の目的から関所が乱立し、伊勢参宮街道沿いも同様であ った。このため参宮は経済的にも非常に困難であったが、豊臣秀吉の統一に従 い、関所が廃止された。このことは参宮量の増加をもたらす一因となり、江戸 時代には参宮者層は、武士から農民・商人層へと移行して、年間40〜50万人 に及ぶ参宮量があったといわれる。

 古代の参詣のようすについては、以下の史料から読み取ることができる。

・平安期の承平4(934)年の神嘗祭

  「参宮人十万、貴賎を論ぜず」  r太神宮諸雑事記(ぞうじき)』

・鎌倉期の弘安10(1287)年

  「凡そ遠方万邦の参宮人、幾千万を知らず」   『勘仲記』

 とあり、かなりの参詣者があったことが記録されている。そうした信仰基盤 を形成したのは、御師たちの活躍であったとされる。御師とは、

 伊勢神宮神官職で、年末に暦や御祓いを配り、また参詣者の案内や宿泊を業とした者。

伊勢ではオンシという(広辞苑)

とあり、今風に言えば、広報や布教師といったような存在であろう。また、

・78・

第3章 民間信仰に視点をおいた日本史教育内容開発

『吾妻鏡』には、平安末期の1181年に、

大神宮権禰宜度会倫が源頼朝の願意を神前にとりつぐ御師であった  とあり、現在も度会郡が地名として見られる。

 このように、御師達の活動により全国各地に大神宮が鎮祭され、そこを拠点 として伊勢講6の集団も結成された。講員は輸番で代参して御師邸に宿泊し、

両宮参詣を遂げるなどした。参詣では歳月をかけた百日参りや千日参りやお蔭 参りがある。およそ60年の周期でくり返される熱狂的な集団参拝で、お札降 りなどの神異が機縁となり、老若男女が道中施行を受けながら参宮の素願を果

たした。

 大神宮崇敬は皇室をはじめとして国民一般に広まり、皇室その他の代表的参 宮例がいくつかみられる。景行天皇以来いくたびか伊勢・志摩への行幸があっ たが、天皇の神宮参拝が初めて実現したのは明治2年(1869)、天皇・皇后そろ っての親拝は大正4年(1915)が初例である。また武将では源頼朝が神領寄進 など篤い崇敬心をみせ、弟義経が文治二年(1186)、武家として最初に参拝し 太刀を献上した。争乱の巷と化した室町期にも、足利将軍の義満、義持、義教、

義政といくたびも参拝をかさねた。

 伊勢参宮の発展の要因として、経済の発展・参宮に対する国民的義務観・御 師の活躍・伊勢講の出現があげられる。参宮の時期は1・2・3月の農閑期に集 中しており、参宮率をみると、経済力を背景とした商人・町人に多い。伊勢参 宮は多くの場合、抜け参りの形式をとることがある。また、お蔭参りという群 参もみられた。

 このように、伊勢信仰とは伊勢神宮に対する信仰であって、時代により信仰 者層などに変化があるが、現在にいたっても伊勢参宮者は多い。次に古代・中 世・近代おける信仰の様子を概観したい。

【古代の伊勢信仰】

 r延喜式』に次のように明記されている。

  凡そ王臣以下、軌すく太神に幣吊を供するをえず、其の三后、皇太子のもしまさに供  すべき者あらば、臨時に奏聞せよ

 古代においては天皇が公の立場から幣吊を奉る以外は、伊勢神宮への幣鳥は 禁止されていた。天皇・三后・皇太子以外の者は、どのような形であるにして

も一切不可能である。これは伊勢神宮が、皇室の祖先神を祭っているとされる ことによる。しかし、このことは天皇が自ら伊勢へ赴くことを意味するもので なく、歴代の天皇で神宮に参拝したのは1869年(明治2)の明治天皇が初め てである。律令体制の動揺期を迎えて、国家財政の破綻から、伊勢神宮の経営 も困難となるにしたがい、私幣の禁止を緩めてきた。

【中世の伊勢信仰】

 武家社会における伊勢信仰は、東国武士のあいだに広まり、源頼朝のころに 集大成する。武士による御厨の寄進は増大し、この御厨には伊勢神宮の分霊を 勧請した神明社が鎮座され、ここが伊勢信仰の地方拠点となった。ここに東国 武士のあいだに神宮崇敬の気運が広まる契機となる。鎌倉中期の文永の役

(1274)、弘安の役(1281)は、信仰の地方進出に画期的な事件といえる。伊 勢神宮に異国降伏祈願があげられ、蒙古撃退の一因ともいえる大風雨は、大神 宮風社の助力によるという説が大神宮側から宣伝され、それが社会に受け入れ られるようになった。このことは、以後の伊勢信仰に大きな影響を与えた。伊 勢参宮は鎌倉時代からみられるが、室町時代になって足利義満ら将軍の頻繁な 参宮が刺激となって急増した。西国では神宮御厨の設立が少なく、伊勢信仰の 武士への普及は比較的少なかった。伊勢信仰の民衆への普及は室町時代以降と いえる。神役人層が戦国大名と結びつき、その領国内の百姓層までを檀那とす るようになってからである。伊勢御師と呼ばれる一群の人々が、神宮の存在す ら知らなかった山間僻地をめぐり、御祓を配り、神宮の霊験を説いて回りなが ら伊勢信仰を広く民間に植えつけていった。一方、民衆のあいだにも伊勢神宮 は日本の惣氏神であるから、氏子である日本人は必ず参詣しなければならない という観念が現れ、男女ともに一生に1回は年齢にかかわらず参宮をせねばな らないといわれるようになった。このようなことが相まって伊勢講なども各地 に形成されるようになり、広範囲にわたり伊勢信仰は浸透していった。

【近世の伊勢信仰】

 江戸時代に入って、伊勢信仰は神祇信仰のなかで最も大規模なものになった。

国民大衆の大多数を占める農民・商人が参宮界の主流となり、全国的に中下層 の者にまで及んだ。しかし、国民のすべてが参宮を可能にしたのではなく、参 宮者の中心は家長層であって家族や雇傭人にとっては不可能なものであった。

・80一

第3章 民間信仰に視点をおいた日本史教育内容開発

伊勢参宮が困難な者が、その参宮の実現を一切の事柄を無視して果たしたのが 抜参りの一面といえる。家長・主人からの許可を得ることなく、無断で家出同 然にして参宮を果たす風潮が江戸時代には広く存在していた。この抜参りは、

家族道徳の破壊であることからして禁止の対象となるものである。しかし、伊 勢参宮の国民的義務観が普及するにつれ、抜参りは容易には禁止し得ず、むし ろ奨励せねばならないものとなる。ここに抜参りについていえば、不法行為で あるにもかかわらず社会では大目にみられ、罪悪視されることが少なくなる。

そのため、地域によっては、抜参りによる伊勢参宮を人生儀礼(成年式)の一 つとすることもある。抜参りが周期的かつ大規模に行われたものとして、数回 のお蔭参りをあげることができる。江戸時代には、伊勢信仰は敬塵な信仰とい うよりは、物見遊山の要素を色濃くしたものとして普及していたといえる。そ の代表的なものとして、rええじゃないか」があげられる。

(2)民間信仰にみる世直し思想

 民衆の宗教意識を焦点化し、その表出形態である民間信仰を中心にして支え られた世直し思想のあり方について、宮田氏は次のように述べている7。

 ひとくちに社会不安といっても、契機となる要因はさまざまある。しかしそれが社会 的な思潮として人々の生活を覆うとき、しばしば停滞的な性向を持つ民問信仰がいちじ るしい刺激を受け、社会的な影響をもたらす主動力となることがしられる

 キリスト教をその精神的支柱とする西欧的世界とは一線を画するとしながら も、宮田氏は、次のように述べている8。

 社会不安に民間信仰のリアクションとしてとらえられる宗教現象は普遍的な実態を 示している

 つまり、「何か」の刺激を受けることによって民衆の凝集力は高まり、時代を 動かす民衆の「力」が、歴史の表層に現れると考えることができる。その一つ の具体例としてあげられるのが、幕末に民衆が狂気乱舞したrええじゃないか」

である。

 次に、先述した民間信仰のリアクションはそこではどのように表出されてい るのかを、整理したい。

 宮田氏はこの表出について、次のように述べている9。