資料編 【資料3】教授計画書で使用する資料(1)
ワークシート①童調rとおりゃんせ』から平安時代を考えよう 資料①一1
とおりゃんせ とおりゃんせここはどこの 細道じゃてんじんさまの 細道じゃちっと通してくだしゃんせご用のない者通しゃせぬ
この子の七つの お祝いにお札をおさめに まいりますいきはよいよい 帰りはこわいこわいながらもとおりゃんせ とおりゃんせ ← この歌を聴いたことがありますか?
( )
← てんじんさま を漢字にしよう。
( )
家の近くに「てんじんさま」はありますか?
( )
神社に行くのはどんな時だろう?
( )
L北野天神は菅原道真を祀る神社である・教科書p。60,61から道真を調べよう。
道真の身分
道真が上り詰めた地位 道真が左遷された先
2.資料1(r北野天神絵巻」)を見て、考えよう。
黒い服を着た人はどんな身分の人だろうか。
人々はなにを恐れているのだろうか。
3.次の歌を参考に、道真の気持ちを考えてみよう。
r東風ふかば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』(平安京)
r駅長驚くなかれ 時の変改することを 一栄一落 これ春秋』(明石の駅)
→ 道真の( )気持ちがよく分かる。
4。絵巻に描かれた鬼はだれだろうか。
北野天神絵巻に描かれている鬼は、( )の怨念が鬼と化したもの。
ワークシート① 資料①一2
5.資料①〜③,人々は天変地異や疫病流行などの現象の原因をどのように考えていたの だろうか。
6.資料③,なぜ百万塔陀羅尼は作られたのか。
7,資料④⑤から,平安時代の人々が魂を鎮める方法をどのようにしたかを考えなさい。
8,奈良時代、平安時代の人々が考えをまとめよう。
政争に敗れ非業の死を遂げた人の魂はどのようになると考えたのだろう。
それを鎮めるために、どのようなことがなされたのだろう。
(奈良時代と平安時代を比較しなさい)
9.天神社は全国に1万社以上あると言われる。膨大な数にまで広まった背景を考えてみ
よう。
雷二( )を降らせる→( )=農耕に不可欠 天神信仰を支えたのは( ) →魂のとらえ方の変遷
( ) → ( ) → ( ) 崇り、災禍をもたらす 怖い霊力を鎮めて、災厄を防ぐ 信仰することで利益を得る 10.現在に生きる信仰
夏祭りに行ったことがあるだろう。夏祭りにはどのような意味があるのだろう。
組 番 氏名
一145・
資料編 【資料3】教授計画書で使用する資料(1)
童謡「とおりゃんせ』 歌詞の諸説について
資料②一1
①八木透・政岡伸洋編著r図解雑学こんなに面白い民俗学」ナツメ社、2004年 なぜ「行きはヨイヨイ、帰りは怖い」のだろう。子どもの7歳の意味を考える 時、「七つ前は神の内」という伝承が重要なヒントとなる。これは7歳までの子ど もは神の領域にいることを表した一種の格言である。不安定であった子どもの魂 は7歳になってようやく安定し、この世に定着すると考えられていたのである。
伊豆大島の南にある利島(としま)と新島(にいじま)では、子どもの生後14 日目にハカセババアとよばれる産婆(さんば)さんがrハカセ(博士)」という 子どもの守り神を作る。ハカセは半紙を二つに折って三角形の底の部分に米を入 れた簡素なものであり、子どもが7歳になるまで神棚で祀られる。子どもは7歳 まではハカセがついているから危険な場所へ行っても難を逃れるといわれている。
やがて子どもは7歳になると晴着を着て氏神(うじがみ)に参り、ハカセを納め る。家ではr七つ子の祝い」が盛大に行われる。これは子どもがハカセの守護下 を離れて人間社会の仲間入りをしたことを披露する祝いであるといわれている。
ハカセの伝承は、7歳になった子どもはそれまでの守護神を氏神に返し、以後 は自分の力で災厄(さいやく)を振り払いながら力強く生きてゆかねばならない ことを意味している。つまりr行きはヨイヨイ、帰りは怖い」とは、7歳の宮参 りの本質を今につたえているのではないだろうか。
7歳の子どもはそれまでの守護神から離れ、以後は自分の力で力強く生きてゆ かねばならなかった。
②読売新聞文化部r唱歌・童謡ものがたり』岩波書店1999年
かつてr小江戸」と呼ばれた埼玉県川越市は、江戸時代の面影を街の随所に残 している。重厚な蔵造りの町並みは往時、物資の集散地として商業が栄えたこと をうかがわせ、堂々とした風格を漂わす川越城の本丸御殿は、江戸を守る城下町 であったことの証でもある。川越城の鎮守として、1624年、城主の酒井忠勝によ って再興されたといわれる三芳野神社は、その本丸御殿の東方に位置する。創建 は九世紀初めにさかのぼり、もともとは菅原道真を祭ったことから「お城の天神 さま」とも呼ばれてきた。境内の一角にある石碑には、「わらべ唄発祥の所」と刻 まれている。江戸のわらべ歌『通りゃんせ』は、この神社の境内から生まれたと されている。
・「発祥の所」とする根拠について、『通りゃんせ』の歌詞には、
「天神さまの 細道じゃ 御用のないもの 通しゃせぬ」とある。
三芳野神社は「天神さま」を祭っており、「細道」は社殿に至る参道を指すと考 えられる。また、神社が城内にあったため、番所に詰める見張りの侍が一般庶民 の出入りを禁止していたことも、歌詞の内容と合致する。江戸時代、庶民が城内 に入り、参詣できたのは年一度の大祭の時が、七五三の祝いの時だけだったとい う。〈この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります>との歌詞も、当時 の庶民の姿をよくとらえていると考えられる。
資料②一2
「行きはよいよい 帰りはこわい」
ようやく城内に入ったのに、見張りの侍の監視の目が鋭く、庶民がおそるおそ る帰っていった様子を表した内容と考えれば、歌詞と歴史的環境との相関は成り
立っ。
こうして川越で生まれたわらべ歌が江戸に伝わり、各地から江戸に集ってきた 人たちが、またそれぞれの地に戻ってこの歌を伝え、やがて全国に広まった。
③岡村一郎r川越歴史小話」 川越地方史研究会 1973年
川越の天神様に参拝するのに長い細道を通ったことは認めるけれども、あのわ らべ唄の発祥の地がここだという説には賛成できない、と反論している。なぜな ら前節につづく唄は、
ちょっと通して下しゃんせ 御用のない者通しゃせぬ この児の七つのお祝いに お札を納めに参ります
であるが、この唄のすこし古い形を追って江戸時代までさかのぼると、「御用の ないもの」というところが「手形の無い者通しゃせぬ」となっている。これが意 味することは、この唄が関所に関連のあることを立証しているのであって、この 童謡が徳川氏の江戸居城以後のものであることは論をまたない。徳川氏は西国の 雄藩から江戸を守るために、箱根の天険を利用して関所をかまえ、道中通行の吟 味を厳重にした。武家、商人、百姓を問わず、関所手形のない者は絶対に通行は 許されなかった。この禁令を犯す者がすなわち関所破りで、重い刑罰に処せられ た。しかしそうした裏面にも親の重病とか、主人の危篤などという火急の場合で、
どうしても手形をうけるいとまのないときは、関所役人に哀願すると、表面は拒 否するが、
rこらこら貴様は此方から参ったのに、そちらに参るとは不都合な奴じゃ」
といって、わざと来たときと反対の方向に出してくれた。いわゆるお上のご慈 悲である。けれども用事が済んで帰る時には、ふたたび寛大な扱いに預かるわけ にもゆかない。はてどうしたものだろうと、大いに苦慮せねばならなかった。
行きはよいよい帰りは怖い 怖いながらも通りゃんせ
ここではじめてこの文句が生きてくるのである。この関所説は酒井欣氏の「日 本遊戯 史」にみえている。
④帰りは気をつけないと交通事故になるかもしれないという意味。
⑤r細道」が産道で、rご用」がr生きる意志」、「行き」がr産まれる」、r帰り」が r死ぬ」という意味で、母親から生まれるときの歌。
⑥飢餓でひもじい思いで死ぬのなら、いっそ親の手で殺してしまおうとする親の子 殺しの歌。神社には天神様がおり、迷うことなく天国に導いてくれる。最後の「行 き」は「逝き」で、「帰り」は「甦り」の意味。
一147一
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資料④
「文献資料」
(1)r日本書紀』崇峻天皇即位前紀
蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした587年に、守屋の資人・緒蔦蔀雷の死骸を八段に斬 り、八国に散らし漿せん(串にさして高くかかげる)としたところ、雷鳴・大雨がおきた。
たぐいまれな勇士であった萬の崇りが怖れられ、その死骸を分断し、怨霊の復讐をあら かじめ防除せんとして、かえってその霊威が示された。
(2)『日本霊異記』
神亀6年(729)の長屋王の変に自殺した王の死骸を焼いて、その灰を河に捨てたところ、
それが土佐国に流れつき、その崇りで土佐国の百姓が多く死んだ。
(3)r続日本紀』宝亀元年4月26目條・r東大寺要録』巻図
天平宝字8年(764)の恵美押勝の乱で亡くなった者の亡霊を慰めるために、称徳天皇 は、百万塔陀羅尼を宝亀元年(770)に完成した。
(4)r日本三代実録』巻7
貞観5年(863)5月20日、神泉苑で藤原基経らが勅命で行事を担当し、御霊会が催 された。この日は、早良親王、橘逸勢など5〜6人の霊を祀り、花果を供して読経・
奏楽・舞楽を執行。またこの日、神泉苑の四門をひらいて一般民衆の出入縦覧が許さ れた。これら5〜6人の御霊は皆、政争の犠牲者で、敵対した天皇・皇太子個人の病 気をひきおこすかたちの巣りをなすが、橘逸勢に至っては、一般的な悪疫流行という 崇りが発現し、本格的な御霊信仰が確認されはじめ、r春以未、暖彊(風邪の一種)の ために多数の死者が出た。」とあり、これに対して朝廷はついに、御霊会を催して疫病 の原因たる御霊を慰撫しようとしたのである。
(5)r日本紀略』
延喜23年(923)、保明親王(時平の甥)が21歳で死去したとき、世をあげて菅原道真 の怨霊の崇りと噂した。延長8年(930)6月26日、清涼殿に落雷して、雨乞いの相談 に参集していた公卿のうち、大納言藤原清貫(きょっら)が衣服を焦がして胸を裂かれ て死亡、醍醐天皇はその時のショックから咳病をわずらい9月末に死去。この落雷事 件も、道真の怨霊のしわざと世問は信じた。天慶5年(942)、天暦元年(947)に道真の 霊の託宣があり、平安初め京都北野に祀ってきた雷神=天神の社に、道真の霊を合わ せて祭った。これが北野神社(天満宮)である。雷神は天の神が怒って現われるという 信仰があったから、北野の天神といえば道真だといわれるようになった。
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