第3章 大分県の一村一品運動
3.3 大分県での一村一品運動の事例にみるファシリテーターの役割
3.3.1 大山村 NPC 運動
大山村(現日田市大山町)113 は過疎と貧困問題114 を抱えた山間の農村であった。1954 年、大山村農協組合長となった矢幡治美115 は、農協が当時抱えていた 70万円の赤字を解 消することから取り組もうとした。現状を知るために、村長と公民館長に各部落(当時35 部落)で座談会を開き、農協に希望することを聞くことから始め116、 農業はどうしたら豊 かになれるかを繰り返し問いかけたが、賛同者は現れなかった。
1955年、急逝した村長の後を受け大山村村長を兼任することとなった矢幡は、まず「所 得」をあげ、次に「知力」をあげる方策を示すため、住民の村政や農政に対する信頼を獲得
112 筆者インタビュー、平松守彦氏(2011年8月25日)。
113 1969年に大山町となり、2005年3月に6市町村の合併により日田市大山町となった。
114 種鶏や種豚は農協で貸付け、代金は卵や豚の販売代金から返済する仕組みをつくった。養豚 は食肉銀行が開設され、出荷された豚は豚肉として貯蔵された(大山町1982: 22)。
115 矢幡は、小学校まで大山村で過ごし、それ以外はほぼ村外で過ごし、故郷のことはあまり知 らなかった(大山町1982: 16)。村長を兼任する頃から、たびたび海外視察も試みており、それ が山間の寒村には不釣り合いな国際的センスを磨くきっかけになった(足立2014: 14)。
116 矢幡は、当時の状況を、「自分の家も食うのに生育だったが、『家畜と変わらないような暮ら し』」と表現し、「おカネがない、暇もない、希望も意欲もない、ただあるとすれば他人に対する 妬みが人一倍強かったことでしょうか」と述べている(大山町1982: 17-18)。
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することから始めた。そのため、養鶏と養豚117を推進し、その後、タバコ、養蚕、茶、椎茸、
こんにゃくなど、全ての産品別に小組合を設立して生産指導と販売の強化を図った。テレビ のない時代に、農協巡回映画を始め、毎晩上映して、「教養と娯楽の場」を提供した。農家 の跡継ぎを農業高校に進学させるため、村と農協が月額3千円を支給する「農家子弟の育成 奨学制度」を実施した。さらに、「生産農家より企業農家」をスローガンに中堅青壮年を対 象に農業企業家連盟を設立した。
農民の意識を変えるために、1957年5月1日に、全国で初めて有線放送を開始し118、新 しい情報を次々と取り入れた。その有線放送を活用し、大山村に合った労働生産性や土地生 産性に基づく農業について考えるよう毎日農民に対して説いた。同時に、1ヵ月半かけて全 部落で常会を開き、村の未来について話し合った。その頃から、無気力であった村の農家の 人々から、「おい、こんどの村長は大ボラも吹くがやることもやるぞ。村長の言うとおりに ついちいきゃ、なんとかなるかもしれんぞ」といった声が聞かれるようになり、少しずつ 人々の意識が変わってきた。
矢幡は、10年後の大山村での可処分所得を40万円とするために、一戸当たりの粗収入の 目標額を 100 万円に設定した。同時に、農村における過酷な労働条件の解消を目指し、① 省力的、②軽労働、③苦痛を伴わない労働、④1日8時間、1ヵ月15日、年間180日の労 働、⑤労働報酬2千円以上、という基準を示し、山間の狭い農地で、何をすればこの数値に 近づけるのか種探しから始め、どこかにいい方法があれば真似したいと国内外の農村を視 察したが、条件に合う好事例はなかなか見つからなかった119。
117 1959年度の厚生省発表の国民生活白書によると、国民が文化的生活を営むためには、一戸当
たり年間可処分所得が40万円以上なくてはならず、24万円以下では精神的危機生活、17万円 以下では身体的危機生活と述べられている。大山町では、ほとんどが「精神的危機生活」を余儀 なくされていた(大山町1982: 26)。
118 当時の農協の貯金は3千円であったが、貯金運動をおこし、貯金高が5千万円になったら有 線事業を始めると約束し、開始された(大山町1982: 23)。
119 筆者インタビュー、三笘善八郎大山町元町長 (2011年5月30日)。
66 (2) NPC運動にみる三原則
ここからは、大山村において運動のファシリテーターがどのように住民の力を引き出し ていったのかを、三原則に沿って示す。大山村では、(ア)ローカルにしてグローバルを生 み出す自主自立・創意工夫、がなされた後に、焦点が(イ)人づくり、に移っていった。
(ア) ローカルにしてグローバルをうみだす自主自立・創意工夫
大山村において、貧困脱却を目指した「ローカルにしてグローバル」の見極めは、1961 年、大山村役場に農業改良普及所長として池永千年120 が赴任し、矢幡と二人で、熊本県、
佐賀県、長崎県、福岡県といった果物の産地を視察したことから始まる。専門知識を持つ池 永との視察を経て、当時収益性が高かった「梅」と、収益性は低いが省力的に栽培できる「栗」
に焦点を置き、バランスのとれた農業を地域全体で取り組もうとした。当時、一般の梅酒の 製造が法的に許可され、梅酒ブームが起こり、梅は高値で売れることも理由の一つであった。
1961年12月、果樹栽培を通じ「総ての住民が、地域連帯の中で健康で明るく豊かな生活 を営むために必要な所得の確保を図ること」121 を目的として、第一次NPC運動が開始さ れた。梅と栗の他に、収入の安定のため、梨、杏子といったその他の果樹類、生椎茸などの 多品目の特産物を、生産、集荷、加工、販売など一連の協働組織の下に農家の収入増加を図 ろうとした。3年に限って、第一次NPC運動に村の予算を傾倒し、基盤整備から苗の世話、
販売、技術指導に集中投資した122。運動を普及させようとリーダーシップを発揮するのは村 長であったが、生産者を結び、具体的な活動に落とし込むのは、専門知識を持つ池永農業改 良普及員であった。池永は梅栗指導員という制度を創設し、31 人の役場職員や農協職員を
120 矢幡は、「彼(池永)は農業の技術的な専門家であるだけでなく、人物的に農民の信頼を得る、
そういう徳のある人でした。単なる改良普及員じゃなかったですよ」と、池永の人となりを語っ ている(大山町1982: 32)。
121 「第一次NPC推進要綱」の第一条(目的)(伊東2009: 36)。
122 梅、栗を植える農家には苗木代の三分の二を補助(総額2千余万円の助成金)し、既耕地 に植える場合は、残りの三分の一を奨励金として交付した。大型トラクター1台、小型ブルド ーザー2台を購入、植栽地にする原野開墾などを進め(山神2007:154)、さらに、農薬代は3 年間間無料配布した。バックホー(特注のブルドーザーを改造した植穴堀機)の利用は、燃料 代のみが個人負担であった。
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指導員に専属させ、活動がうまくいくように舵取りをした。指導補助要員の養成も池永が担 い、根付から栽培管理まで事細かく指導できるような体制を整えた(大山町1982: 37)。
収穫ができるまでの3年間、農民は低所得を甘受しなければならなかったが、村は、従来 の生活の糧であった水田に新しく梅、栗を植えた場合は、その減収対策として中期低利の生 活資金を融資するなど、農家の不安要素を取り除く施策を次々と実行した(大山町 1982:
43)。その結果、栗は生産者465人、耕作面積220ヘクタールで、1966年は100トンの収
穫で 1,500 万円の収入となった。1967 年には、梅は 500 人の生産者で栽培面積は目標の
100ヘクタールに達し、50トンを出荷し、約1,000万円の収入を得た(山神2007:154)。 希望を与えて、やる気を喚起するために、「梅栗植えてハワイに行こう」というキャッチフレ ーズも掲げ、1967年には農家の16人がキャッチフレーズ通りハワイ観光旅行に出かけた。
(イ) 人づくり
1963年には、農業後継者育成事業によって農業高校で学んだ人々を中心とした、「大山青 年農業研究会」123という組織の発足が池永によって促され、自ら問題を見つけ、考え、行動 する人々を育成しようとした。矢幡村長も、「やるかやらないかはあなた方が決めること」
として、議会、職員、婦人会、青年団らを次々に先進地の視察に送り出した。そして、視察 などが行われて気分が高揚してきたところで村長が方針を示して、それを達成する方法を 運動のファシリテーターが示したのである。そのうち村民の間に、自分だけがやらないと取 り残されそうな雰囲気が生まれ、やる気が高まっていった(大山町1982: 40)。一人の地域 リーダーだけなく、運動のファシリテーターも機運を盛り上げ、住民の力を引き出しながら、
その力を発揮できる場を次々に創造することで、NPC運動を発展させていった。
1965年からは、所得追求に加え、「総ての住民が、運命共同体の構成員を自覚し、健康で
123 当時全国的に4Hクラブという農業後継者グループがあったが、活動が活発ではなかったた め、機能する組織をめざして再編成された(大山町1982: 63)。