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第 2 章 多元的自己観とその限界

第 3 節 多元的自己観の限界

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節では、多元的自己観に立つ教育論を確認した上で、多元的自己観が見られる国語教育の 先行研究を考察し、その可能性について検討した。本節では引き続き多元的自己観に着目しつつ、

持に共時的連続性の観点から多元的自己観が持つ課題を明らかにする。

また、本研究ではどのような自己観に立って論を展開するのか、本研究が提案する自己のあり かたについても言及する。

第 1項 共 時 的 連 続 性 を め そ っ て

これまで本章では、多元的自己観や多元的自己観に立つ教育の可能性を述べてきた。しかし、

多元的自己観には限界もある。それは、浅野が指摘する「複数の友人関係が相互に重なり合わな いよう隔離されているJ(浅野

1 9 9 9 : 4 5 )

多元的自己のありかたに由来するものである。浅野は、

多元的自己について次のように説明する。

複数の顔を統合するための高次の視点が「多元的自己」にはないという点を強調しておくべ きだろう。前項で見てきたように、一定のたしかさが信じられているかぎり、ある程度異な った顔を見せていても自己の最終的な統合は、そのたしかさによって担保されることになる。

多元的自己に欠けているのはそのような担保だ。それは最終的な統合の約束なしに多元的で あるような自己なのである。(浅野

2 0 0 8 : 4 0

4

1)

つまり、多元的自己観を持つ者は複数の自己のひとつひとつが切り離され、多元化した自己は 連続性に欠けているのである。学校で表出する自己と家庭で表出する自己は隔離されたままであ り、 2つの自己をつなぐような「高次の視点」がない。だからこそ「複数の友人関係が相互に重 なり合わないよう隔離されている」状態にあっても、多元的自己観を持つ者は葛藤することなく、

隔離したそれぞれの自己をそれぞれの関係の中で表出するのである。このことは、岩田が指摘す る次の調査結果の分析とも重なっている。

多元的な自己意識と、いわゆる自己拡散で指摘されるような孤独感や虚無感などネガティヴ とされるような意識との関連が限定的なものでしかないということである。多元化した自己 の中に偽りの自分を見出さず、いずれも本当の自分とする場合には、孤独感や虚無感を感じ る割合が低くなっている。 20

多元的自己観を持つ者は、状況や関係性によって異なる自己を表出し、そのひとつひとつが隔離 された状態であっても、「孤独感や虚無感を感じる割合」が低いとされているのである。つまり、

浅野や岩田ら社会学者がとらえる多元的自己は、共時的一貫性のみならず共時的連続性も欠けた

ね岩田考 (2006)r多元{じする自己のコミュニケーシヨンー動物佑とコミュニケーシヨン・サパイパル」、岩田考・

羽測一代・菊池裕生・苫米地伸編 (2006)(j'若者たちのコミュニケーション・サパイパルー親密さのゆくえ』、恒 星社厚生問、 pp.3"16

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2 多元的自己観とその限界

状態を指しているのであり、だからこそ共時的に複数存在する自己に整合性がなくても、葛藤は 生じない。こうした自己観は、第 1章の【表 1】では【F】に該当する。

このように、共時的一貫性も共時的連続性も見出さない自己観には、深刻な問題が潜んでいる と本研究では考える。それは、複数の関係性において複数の自己を葛藤することなく表出するこ とが、多元的自己観を持つ者に対して、ひとつひとつの場や状況、関係性での言動を無責任にさ せる危険性があるからである。

たとえば以前に勤めていた中学校で、当時

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年生だっためそみ(仮名)は、「私はクラスの中で は 盛り上げキャラ"だから」と言い、学校における自己をすべて 盛り上げキャラ"として表 出していた。学校での自己が 盛り上げキャラ"としてつくられているために、授業においてな される発言、記述は、すべて 盛り上げキャラ"という限定された表現でしかなかった。「空中ブ ランコ乗りのキキ」の感想を書く際にも、授業とは関係のない冗談を交えてしか書くことができ ず、彼女のことばは自動化されたものでしかなかった。

彼女は、「家では違う私だけど、クラスはクラス、塾は塾というように、その場や関係性でつく られるからいい。クラスは 盛り上げキャラ"でいく」と考えていた。彼女は、家での自己、ク ラスでの自己、そして塾での自己というように、その場で立ち上がる自己を自覚的に、戦略的に 構築していた。このようなめぐみの状況は、浅野が指摘する問題と同様のものである。

ここ(ある関係の中で期待しうるものをその関係の中にのみ局所化しようとする態度ー引用 者注)で行われているコミュニケーションは何らかの理念や利害の共有を前提にしたもので はなく、その都度のコミュニケーションの円滑な接続のみに支えられたものとなる。そこで 伝えられるメッセージは一程のネタに過ぎないものへと格下げされ、そのネタを通してコミ ュニケーションがつながっていくということの方がはるかに重要に感じられるようになる。

いわゆる「ネタ的コミュニケーションJ21 (中略ー引用者)とよばれるものがそれだ(鈴木

2 0 0 5

、北田

2 0 0 2 ) 0

(浅野

2 0 0 8 : 3 9 )

めそみにとっては家でのやり取りも、塾での友人関係、も、そして授業中のできごともすべて「ネ タ的コミュニケーション」でしかなかったのである。これは、第

1

章第

2

節で取り上げた幸太や、

原田が実践報告で描いた学習者菜摘の様子とも重なる実態であり、学習者のことばの学びを深め ようとする国語教育にとって、看過することのできない状態である。

土井はこうした実態を「断片化した自己は、「いま」にしか強いリアリティを感じることができ なくなるJ(土井

2 0 0 8 : 1 6 9 )

と懸念し、多元的自己観を持つ若者について次のようにも述べる。

現代人のアイデンティティは多元化してきた。しかしそれは、個々の場面で呈示される自己 像が互いに相対化されていくということでもある。人間関係が錯綜し、そこに葛藤がある場 合には、相手に応じて切り替えられるおのおのの自己が、互いに矛盾を苧んでしまうことも 多い。あの集団にいたときの自分とこの集団にいるときの自分は、それぞれ違った自分と感 じられ、そこに一貫性を見出しにくくなる。ある人物の前で演じられるキャラと別の人物の

21鈴木謙介 (2005)(j'カーニヴァル{じする社会』、講談社現代新書 北田暁大 (2002)(j'広告都市・東京ーその誕生と死』、民済堂出版

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前で演じられるキャラが、まったく正反対の性格のものである場合も少なくない。こうして、

自己の統一的なイメージはだんだんと揺らいでいく。今日の生のリアリティの希薄化は、具 体的にはこのような様相をともなって進行してきた。(土井

2 0 0 8 : 1 9 6 )

土井は多元的自己観を持つ者について、「そこに葛藤がある場合Jを想定し、「自己の統一的なイ メージはだんだんと揺らいでいく」という状況を指摘した。しかし浅野や岩田は先に触れた通り、

そのひとつひとつが隔離され連続することのない多元的自己観には、孤独感や虚無感がなく、そ のため葛藤もないとしている。

土井も浅野も岩田も同様に自己の多元性を論じておきながら、主張のずれが見られるのはなぜ だろうか。ここで、辻大介が行った調査とその分析22を確認する。

辻の調査は、首都圏

30km

内に在住し、親と同居する

16‑17

歳を対象に、アンケート形式で行 われた。アンケート項目は、浅野らの調査結果との関連性をはかるため、

1

つを除いて23青少年研 究会の調査項目と同一である。辻の結果分析からは、浅野らの調査と同様に、「自分らしさをつら ぬくことを大切にしている一貫主義者」のアイデンティティ「一元型」、そして「自己が多元的に 感じられるからといって、必ずしもアイデンティティの動揺や拡散につながるわけではない」と いうアイデンティティ「多元型」のタイプが抽出されているが、この 2つのタイプに加え、辻は アイデンティティ「不定型」を提示し、 3つの分類から調査結果を考察している。

辻の示す「不定型」は、「自分らしさの感覚をもちにくく、自分らしさの一貫性も之ししリ者た ちのことで、「 仮の自分"感覚が高く、本当/偽の自分を使い分ける」ことが多いとされている (辻

2 0 0 4 : 1 5 3 )

。辻は、こうした「不定型」は女性に多く、「どこかに今の自分とは違う本当の自 分がある」という感覚がつよく、アイデンティティの拡散や動揺が見られるとも論じている。

このような「不定型」が、先の土井の論と一致するのではないだろうか。土井が指摘した、自 己の多元化に共時的連続性を見出すからこそ葛藤を抱く者たちは、辻の言う「不定型」に当たる と思われる。そして浅野や岩田の言う、自己の多元化に共時的連続性を見出さないからこそ葛藤 が生じない者たちが、辻の「多元型」に当たるのではないだろうか。このように仮定すると「不 定型」の者たちは、「願望としてはかつて以上に「素の自分の表出をしたいと思、ってJ(土井

2 0 0 4 : 6 8 )おり、「純粋な自分に強い憧れを覚え(中略ー引用者)かえって自分を見失い、自己肯

定感を損なうという事態におちいっているJ(土井

2 0 0 8 : 1 2 3 )

可能性がある。そうであるならば、

「空気が読めない」などと見なされる一元的自己観を持つ者は、「素の自分を表出したい」と思つ でもなかなかできずにいる「不定型」の者たちにとっては、疎ましい存在であると同時に実は羨 宝する存在でもあるだろう。

ここで、浅野らおよび岩田の「自己一元型」と「多元的自己」、土井の「断片化した自己」、辻 の「不定型」を援用して、本研究における一元的自己観と多元的自己観について整理しておく。

ニ辻大介 (200‑1)r若者の親子・友人関係とアイデンティティー16‑17歳を対象としたアンケート調査の結果か ら」、『関西大学社会学部紀要』第35巻第2号、関西大学社会学部、 pp.147・180

二新たに加えられたのは7の設問で、「はい/いいえ」で回答するものではなく、対立する選択肢 (rどんな友だ ろと話しても、自分のキャラ(性格)はほとんど変わらないJ)との2択式の設問である。辻 (2004:151)を参照 .つこと。

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