二 ー 惨
第 2 節 自己/アイデンテイファイ
パトラーは、「法」や「主体化=従属化」という考えから
agency"
という概念を示し、p e r f o r m a t i v i t y "
が私たちを構築しつつも撹乱すると主張した。また、そうしたp e r f o r m a t i v i t y "
を可能にする「パ
p
ディ実践」として、異装(ドラァグ)を例示していた。第2
節では、以上の ようなパトラーの基本的な考え方を手がかりに、本研究における自己について整理・検討を行い、自己と学びの内実を具体化する。
第 1項 自己をめそって
パトラーは自己について、「自己とは、境界づけられているということに対する永遠の課題(強 調一筆者
) J
とし、「自己を考えるときの前提条件とされているこの内部と外部の境界が、まさに わたしたちの関係的生活のなかで調停され、制定しなおされ、撤廃されていく」と述べる8。本研究では、こうした「わたしの内部と外部の境界を引きなおすこと」という、絶え間ない行 為と作用として自己をとらえ、動的な営みそのものとして自己を位置づける。本研究における「自 己」とは名詞ではなく、動詞であり、述語であり叙述である。それは自己を名調的にとらえるこ とで、意識的にも無意識的にも安定した主体として、自己の存在を確保することを避けるためで ある。
たとえば、「ごんぎつね」を読んで自己が揺さぶられ、解体したと言うとき、また自己が更新さ れたと言うとき、揺さぶられ解体し、更新される名詞としての自己は、ジョージ・ハーバード・
ミードのように経験や行為に先立つ主体として本質的に確保される。このような本質的主体観は、
「ごんぎつね」の読前と読後の自己に対して、通時的な一貫性を与える。このことを避けるため に本研究では、自己を動的な営みそのものとしてとらえ、「ごんぎつね」を読むことによって考え る行為そのものが自己であり、揺さぶられる作用そのものを自己として考える。
またこのことは、第 1章第 1節で確認した、国語教育および各領域の目標と自己との関連にも 深くかかわる。本論ページでも示したように、
1998
年度版および2008
年度版学習指導要領国 語編では、各領域において「自分の考えをもっ/まとめる/明確にする/深める/広げる」こと や、「自分のものの見方や考え方を深める/広げる」こと、「自分の立場や意図をはっきりさせる」ことが重視されていた。本項で述べたように、自己を行為や作用という動的な営みそのものとし てとらえると、「自分の考えをもっ/まとめる/明確にする/深める/広げる」ことや、「自分の ものの見方や考え方を深める/広げる」こと、「自分の立場や意図をはっきりさせる」ことは、そ れぞれの行為そのものが自己であると本研究では考える。よって学習指導要領国語編で示される
目標は、やはり自己と深くかかわっていることが改めて確認される。
ただし、これまでも主張しているように自己は複数存在し、複数の自己に一貫性を求める姿勢 には異議を唱えている。そのため、たとえば「自分の立場や意図をはっきりさせる」場合も、明 珪となった立場や意図には複数の自己を集約し、固定化させるような意味を求めてはいない。明 主となった立場や意図こそ動的なものであり、そこに自己のすべてを背負わせ、固定化させるよ
ージュディス・パトラ占(2006)、竹村和子訳(2006)rジェンダーをほとく」、!i'J思想』第989号、岩波書庖、p.4・15
100
うな自己観を本研究は持っていないことを注記しておきたい。
以上の見解から、パトラーの論を援用して自己について具体化する。
【図
4
】 本研究における自己制限
ー惨
構築・撹乱
p e r f o r m a t i v i t y
遂行性「自己」
自己とは、これまでのパトラー論の考察から、「主体性J
r
行為者性Jr
遂行性」の連関した行為 と作用のことであると考える。その際重要なのは、「自己Jが失敗や撹乱を含みながら構築されつ づけるという視点であり、「遂行性」という行為/作用である。「遂行性」という行為/作用は、「主体性」という行為/作用を構築すると同時に、固定化を打 攻していく。また、「行為者性」という行為/作用は、反復を通して「遂行性」を作用させ、その 作用によって自己を構築・撹乱していく。そのときアイデンティティとは、「行為者性」から「主 体性」へ、固定化と同時に同一化する作用のことであるが、アイデンティティは、「遂行1'生」とい う撹乱の可能性によって固定化から解放される。
伊野真ーは「遂行性
( p e r f o r m a t i v i t y )
Jについて、「行為者よりも先に存在し、行為者の意志 や選択に還元できない。しかし反転させて、パフォーマティヴィティを政治的抵抗の行為として 自覚することはできるJ(伊野2 0 0 0 : 2 5 0 )
と主張する。「遂行1'生」は、私たちが自由に選択、行為 することはできない概念である。しかしその「遂行性」、すなわち言説実践をどのように反復した かについては認識することができる。この点が、ことばの学びの成立を目指す国語教育において は重要となるであろう(後に詳述)。一方パトラーは、近年の著書において自己の不確かさや、自己と他者とのかかわりについて論 を展開している9。パトラーは、自己が「主体化=従属化」として存在することや、歴史的・文化 均な引用としてしか言語を用いることができないこと、行為の前に行為者は存在しないとする見 方をふまえて、「自己に基礎を持たない主体J
r
主体が自分自身にとって不透明であり、自分自身;ことって完全に判明でも理解可能でもないJ(パトラ
‑ 2 0 0 5 = 2 0 0 8 : 3 6 )
という主体観を示す。そ の上でパトラーは、次のように主張する。3ジュディス・パトラー(2005)、佐蕗嘉幸・清水知子訳(2008)[j'自分自身を説明することー愉理的暴力の批判』、
弓曜社
1 0 1
第4章 クィア・スタデイーズとしての国語教育
私はあたかも、つねに自分自身に対して他者であるかのようであり、私が自分自身へと回帰 する最後の瞬間は存在しない。(中略ー引用者)私は自分が経験する出会いによって確実に変 容されるのである。承認、はかつての私とは異なったものになる過程となり、かつての私に戻 ることはもはやできなくなる。(中略ー引用者)ある他者との出会いは自己の変容をもたらし、
そこから後民りすることはできなくなる。このやりとりのなかで自己について認められるこ とは、自己とはその内部にとどまることが不可能であると証明されるような存在である、と いうことだ。人は自分自身の外へと(強調一筆者)向かうよう強いられ、そう導かれる。人 が自分自身を知るのは、自分自身の外側に、自分自身の外部に、自分が作ったのではない慣 習や規範によって生じた媒介によってのみであり、そのとき人は、自分自身を作り上げる作 者あるいは主体として自らを認めることができない。(パトラー2005=2008:50・
5 1 )
パトラーにとって自己とはつねに他者であり、不確かでまた一貫性のないもの、還元不可能な ものであることがわかる。パトラーは、「私はあなたに対する関係であり、両義的に呼びかけられ、
平びかけており、「あなた」に託されているのであって、私は「あなた」なしでは存在しえず、生 き残るために「あなた」に依存しているJ(パトラー2005=2008:1
4 6 )
と言い、自己とは他者に呼 びかけられることで自己となり、また、その自己は他者を呼びかける存在であるという両義性を 指摘している。こうした自己と他者の両義性を、パトラーは「責任=応答可能性 (responsibility)J で説明する。私は自分のなかに他者を含むかたちで構成されているのであり、私自身に対する自分の疎遠 さとは、逆説的にも他者たちと私との倫理的つながりの源泉なのである。(パトラー
2005=2008: 1 5 7 )
つまりパトラーは、自己と他者の両義性や自己の不確かさこそが、他者への責任を引き受ける根 犯であることを示している。さらには自己と他者の両義性こそが、自他の受動的「官官官J(=
傷つきやすさ)10を相
E
承認によって成り立たせているという。このことについて新田啓子は、「自 己の悲しみに向き合い続けることで、他者の苦しみと連帯し、それを経て、暴力よりも平和と協 調を志向するエイジェンシーを立ち上げる」と解説する11。自己について考えることは他者について考えることであり、自己を引き受けるということは他 者を引き受けるということである。そして自己が傷を負うということは、他者にその「可傷性」
を承認されることであり、自己の傷つきやすさは他者が傷を負うことに依存している。このこと は、前章で示したことばの学びと通底している。つまり、自己の被害者性(=可傷性)は、他者の 技害者性に支えられているのであり、自己の傷について当事者となることは、他者の傷を背負う ということである。こうした見方から考えると、ことばを通して当事者性を立ち上げるというこ とは、自己の傷を傷として痛みを引き受けることであり、他者の傷を傷として責任を引き受ける ことである。つまり、ことばを通して当事者性を立ち上げるということばの学びには、被害者性
:0ジユディス・パトラー (2004)、本橋哲也訳 (2007)[j'生のあやうさ』、以文社、 p.86
11ジュディス・パトラー/ジル・ストウファー(聞き手)(2003)、西亮太訳/新田啓子解題 (2006)r平和とは 誌争への恐ろしいまでの満足感に対する抵抗である」、『現代思想臨時増刊』第34巻第12号、青土社、 pp.8・22
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と加害者性を引き受けることが含まれているのである。
こうした点からパトラーは、自己の一貫性と加害者性をつなげて次のようにまとめる。
自己同一性への、あるいはより正確には、完全な一貫性への要求を宙吊りにすることは、あ る種の倫理的暴力を阻止することだと思われる。倫理的暴力は、私たちが自己同一性を絶え ず明示し、維持するよう要求するのであり、また他者にも同じことを要求する。これは、避 けがたく時間の地平内で生きる主体にとって満たすことが一不可能ではないにせよー困難な 規範である。(中略ー引用者)
私たちが他者を知ろうと努める際に、あるいは他者に自分が最終的、決定的には誰であるの かを述べるよう求める際に重要なのは、絶えず満足を与え続けるような答えを期待しないこ とだ。満足を追求せず、闘いを聞かれたままに、さらには持続したものにしておくことで、
私たちは他者を自由に生かすのである。(パトラー2005=2008:79・
8 1 )
上記のパトラーの主張は、自己に一貫性を見出そうとすることが、他者への「倫理的暴力」とな ることを指摘するものである。このことから教師や研究者は、一貫性や整合性を重視する自己観 を持つことが、学習者に対して「倫理的暴力」を加えることを自覚する必要がある。自身が持つ 自己観は、他者(学習者)の自己観を立ち上げ、規定するのである。国語教育の文脈において学 習者に対し「満足を追求せず、問いを聞かれたままに、さらには持続したものにしておくこと」
が、教師や研究者にとって「倫理的暴力を阻止する」ことになる。
第 2項学びとしてのアイデンティファイ
第
2
章では、一元的自己観や多元的自己観の問題点を検討することで、国語教育においては自 己の一貫性を拒否することと自己の連続性を重視することを導いた。また第3
章では、クィア・スタディーズでの知見をもとに、その都度「変動する主体」として、「結節点」としての自己に向 き合うことが自己の連続性を見出させること、自己の「矛盾に耐える」ことが「一貫性の病J(難 波
2 0 0 8 : 1 9 6 )から解放されることとした。
しかし一方で、自己の連続性を見出させること、すなわち「結節点」としての自己に向き合う ことは、結果自己を固定化し、自己に対して一貫性を付与することにつながらないだろうか。ま た、自己の「矛盾に耐える」という一貫性への拒否は、まずどのようにしてその矛盾を自覚させ るのか。「結節点」としての自己に向き合うことが、結果として自己に一貫性を持たせることにな らないか。また自己の「矛盾に耐える」上で、自己の連続性はどのように見出させるのか。自己 の一貫性を拒否することと自己の連続性を重視することは、相反するものなのではないだろうか。
こうした問題に対し、「法」という規則の内部から言説実践を反復することが、規則につくられ ながらもその支配を「失敗」させることができるというパトラーの論が手がかりとなる。社会的 なカテゴリーから自己を認識するプロセスは、社会的カテゴリーに支配されながらもその支配を
「失敗」させる。この「失敗」に、自己の連続性を見出す過程と、自己の一貫性を打ち破る過程 を同時にみることができる。パトラーの理論は、自己の一貫性を拒否することと、自己の連続性 を重視することを両立させ、つなそことを実現する両義的な可能性を持っているのである。パト