第 3 章 新たな国語教育の構築に向けて
第 3 節 クィア・スタディーズと当事者性
クィア・スタディーズは、特に
LGBT
を中心とした性的マイノリティが焦点化される研究・実 践である。こうした学問領域を本研究の知見として援用することは、学習者の多くが「マジョリ テイ」と想定されてしまう国語教育学との差異やずれを取り上げて、学問領域の性質上適さない のではないかという疑問が生じる可能性がある。そこで本節では当事者性という観点に着目し、クィア・スタディーズを当事者性の問題から読み解くことで、国語教育において目指されるべき ことばの学びを当事者性との関連から明らかにする。
第 1項 当 事 者 性 を め そ っ て
『ゲイ・スタディーズ』では、ゲイ・スタディーズについて「当事者たるゲイによって担われ、
ゲイが自己について考え、よりよく生きることに寄与することJ(ヴィンセントほか
1 9 9 7 : 2 )
と 定義している。また堀江有里も、2 0 0 4
年の論考では、個別性を追求するという観点から「レズビ アン」にこだわることを主張し、次のように述べている。この多様化する(と言われる)社会のなかで、「等身大のレズビアン」なんて、描くことはで きないのかもしれない。いや、もしかして、そんなものは存在しないのかもしれない。それ でも、逃げずに、こだわって、自分のいる〈場〉を掘り下げていったところに、ほかの人々
と繋がることのできる 何か"がある、と信じたいのだ。(堀江
2 0 0 4 : 6
1)このようにクィア・スタディーズでは、性的マイノリティという当事者による当事者研究である と見ることもできる。
しかし一方でクィア・スタディーズにおいては、次のような発言も確認できる。
(浅田)もしかしたらみなさんに批判されるかもしれないけども、ぼくは必ずしも当事者主 義をとらないんです。つまり、ゲイでなければゲイの本は訳せないとか、レズビアンでなけ ればレズビアンの本は訳せないとか、全然思わない。だけど、訳す人が、訳しながら自分の セクシュアリティについて考えるとか、そのことを何らかの形で翻訳なり書評なりに反映す るとかしなければ、いまおっしゃったように、下手な機械翻訳と変わらないわけですからね。
(浅田ほか
1 9 9 7 : 2 5 )
ここでの浅田彰の発言は、クィア・スタディーズが当事者のためだけの閉ざされたものではない ことを示唆している。このことは、ウィリアム・ヘイヴァーがプリッツマンの論を受けて、「重要 なことは「誰でもがクィアである」ではなく、「クィアな何事かが、誰にでも起こりうる」という こと」と述べたことに共通するだろう200
また、小谷真理は先に引用したキース・ヴィンセントとの討議において、興味深い発言を行つ
10ウィリアム・へイヴァー(1997)、長原萱訳・解題(1997)rクィア・リサーチ」、『現代思想』第25巻第5号、 青土社、 pp.71・93
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第3章新たな国語教育の構築に向けて
ている。
(小谷)
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クィア」というタームは、内実としてはゲイ・レズビアン・スタディーズとして入 ってきたわけですね。ところが、ジュディス・パトラーを読んでも、イヴ・セジウィックを 読んでも、ヘテロであるらしい自分にもすごくよくわかる。私自身はゲイやレズビアンでは ないのに、なぜわかるのか。まあそれでいろいろ考えたんですが、それは私がSF
ファンだ からではないか。つまり、クロゼット21っていうのは、
SF
大会やコミケットやオカルト教団やSM
のことだ と考えられるのではないか。クィアの意味を変態ととらえると、マイナ一系のアングラ・カ ルチャーが全部構造的に入ってくるんですよね。口に出して言えない、あらゆる通常のカル チャー以外のもの全部。で、それはかなりセクシュアリティと関係のあるカルチャーだと思うんですよね。(ヴィンセントほか
1 9 9 6 : 9 1 )
小谷は、同性愛者たちにクロゼットの存在が指摘されたように、
SF
ファンなどアングラ・カルチ ャ一等にも同様の状況が存在することに言及している。同性愛者の問題と、アングラ・カルチャ ーの問題とを同一視することには賛否両論あろうが、小谷は、クィア・スタディーズを「当事者」として受けとめようとしている。伊野が言うように、「当事者性については、どういう聞いを設定 するかで、「当事者」の位置も文脈的に可変する」のである22。クィア・スタディーズは、このよ うな「当事者性」を私たちに触発させる研究領域である。
以上の考察より、本項で取り上げた論者たちは次のようにまとめられる。
‑ヴィンセントや堀江のクィア…ゲイやレズビアンという当事者として、当事者研究を行うこと。
・浅田やへイヴァ一、伊野のクィア…性的マイノリティを中心とした問題を、自分のこととして 引き受けること。すなわち当事者性を引き受けること。
‑小谷のクィア…当事者性を引き受けて、当事者研究として自分の問題を見つめること。
大まかに 3つに分けているが、いずれも主張していることは同じであると見ることができる。共 乏しているのは、「当事者性を引き受けること」である。
浅田やへイヴァ一、伊野は、クィア・スタディーズを性的マイノリティだけのものと限定せず、
そこに当事者性を立ち上げることの重要性を指摘している。また、小谷はアングラ・カルチャー を通して当事者性を引き受け、当事者研究として自分の問題を見つめることを体現している。そ
二:クロゼットについては、大橋洋ーが次のような明快な説明を行っている。
友情のなかに同性愛をみるだけでなく、異性愛のなかにも同性愛をみてゆくセジウィックの、また彼女に 触発されたクィア理論の横断的思考は、一九世紀以後の西欧文佑をクローゼット(隠れゲイの世界)とみる ことになる。同性愛のもうひとつの隠語「クローゼット」は、英語で「カミング・アウト・クローゼットJ(ク ローゼットから出ること、秘密を告白すること)に由来する。同性愛解放運動における「カミングアウト」
は、同性愛者がみずからの性的指向を告白し、主体確立を実現し、自己責任を引き受けるものであり、また それはヘテロ社会に対して、同性愛の存在を公然と主張する意義を有したし、いまも有している。
丈橋洋一 (2003)rクィア理論/ホモソーシャリティ/ホモセクシュアル・パニック/クローゼツト/レズピアン
5
究・ゲイ研究」、竹村和子編 (2003)Ii'思想読本10知の攻略 ポスト"フェミニズム』、作品社、 pp.198・199 ニ伊野真一 (2001)構築されるセクシユアリティークィア理論と構築主義」、上野千鶴子編 (2001)Ii'構築主義と よ何か』、勤草書房、 pp.189‑21185
してヴィンセントや堀江は、ゲイあるいはレズビアンを通して当事者性を引き受け、当事者研究 として自分の問題を見つめることを実践しているのである。続いて次の項では、クィア・スタデ イーズにおいて、明確に当事者性を打ち出している伏見憲明の論を中心に検討を行う。
第2項 当 事 者 と な る こ と
砂川秀樹は、これまでのレズビアン/ゲイ・スタディーズが、レズビアンあるいはゲイとして 語り、研究してきた意味を次のようにとらえている。
これまで、ゲイ/レズピアンに対し「当事者性(強調一筆者
) Jを見いだすことのなかった多
くの研究者が、自らを「中立」で無色透明な存在として位置づけられながら、あまりにも一 面的なゲイ/レズビアンの姿を描いてきたことに対し、ゲイ/レズビアンは「当事者」とし て語ることで、その研究者が「中立」な存在でも無色透明な存在でもないことを告発してき たのである。その告発の意義は十分に評価すべきであろう。(砂1 1 1 1 9 9 9 : 1 3 6 )
こうした立場から、砂川は、「当事者」かどうかがレズビアン/ゲイ・スタディーズにおいて重要 な観点であるとしながらも、「当事者」が行うものこそがレズビアン/ゲイ・スタディーズではな いという主張も展開している。
砂川は、村上隆則の「問題はもはや「非ー当事者」と「当事者」の間ではなく、私たちのセク シユアリティを支える諸構造に対する「無自覚」と「自覚」との間にある」という論23を引きな がら、レズビアン/ゲイ・スタディーズにおいては、
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セクシュアリティを支える諸構造に対す る『無自覚』と『自覚JJ(の間に問題がある) Jと指摘する。こうした砂川の指摘は、「セクシュア
リティを支える諸構造に対する当事者性を引き受けること」と換言できるように思われる。当事 者性を引き受けることとは、当該の問題に対して自覚を持つということである。さらに、砂川は伏見憲明について、「クィア」という語をいち早く日本で紹介した人物であると 評価する。
日本では、伏見憲明が、執筆者としてだけでなく編集者として「クィア」という語をしてい ち早く導入している。その試みは、多様なセクシュアリティのあり方を広く社会に提示し、
セクシュアル・マイノリティという言葉さえも越え、この言葉に対して「当事者性」を持つ 者たちの対話を成功させており、このような形での「クィア」概念の導入は、セクシュアリ ティに関する議論に新しい場を提供するという役割を果たしている(伏見
1 9 9 6
、クィア・ス タディーズ編集委員会1 9 9 6
、1 9 9 7 ) 0
(砂川1 9 9 9 : 1 3 9 )
伏見憲明は、「クィア」概念を日本において早くから用いた人物である。伏見は
1 9 9 1
年の『プ ライベート・ゲイ・ライフ』でカミングアウトし、以降、ゲイ・ムープメントのパイオニアとし て執筆・編集活動を中心に運動を展開している。伏見のクイア理論は、砂川が指摘する通り、性23村上陸則(1999)r日本のセクシユアリティ・スタディーズ」、関修・木谷麦子編(1999)(j'セクシユアリティ 入
F
旬、夏白書房、 pp.231・23686
第3章新たな国語教育の構築に向けて
的マイノリティにとどまらない当事者性の思想に支えられており、自らが考える「クィア」につ いて、以下のような主張を繰り返している。
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QUEER
Jl主PAN
.Jjは、2 1
世紀の新しい性愛とライフスタイルの文化を創っていくための ムープメント@その意志に賛同する人は誰でもクイア(変態)であり、誰だってクイア=r
私」主主主ゑ(下線一引用者)
0
24実は僕が九六年頃から「クィア」を言い出したのは、他の少数者やストレートにムーブメン トを聞いていこうという戦略と、ゲイ・アイデンティティを誰より引き受けている僕が、「ク イア」の看板をとることによって、脱アイデンティティ派の言説によって「ゲイ」が相対化 され、やっと成立し始めたゲイ・アイデンティティが骨抜きにされることを悶むためでもあ った。 25
僕は別にアイデンティティが解体しなければいけないとか、そういうことを言っているので はなくて、さまざまなアイデンテイティを持った人がいていいんだけれど、それを結ぶ緩い 記号として「クイア」というのがあったほうが、いろいろな人と付き合えるし、『クィア・ジ ャパン』のようにヘテロの人とさえいっしょになにかをやれる場面も作れる。そしてマイノ
リティの側も共同性に閉じられることなく外に聞かれていくだろうということ。 26
伏見の主張は、性的マイノリティという当事者としてなされるものでありながらも、「ストレー ト」・「ヘテロの人」や、「さまざまなアイデンティティを持った人」にとっての「クィア」をも打 ち出したものである。このような論は、当事者性を強調する他の論者たちと立場を同じくする。
伏見もまた、「当事者性を引き受けること」が論の根底にあるように思われる。
さらに、上の引用にある下線部に注目したい。伏見が考える「クィア」とは、「私」になること なのである。伏見は別の論考においても、クィアについて「自分らしく生きょう、そういう社会 を実現しようとする人たちはクィアであり、「ふつう」であることが絶対で、つねに「ふつう」で ないものを見つけ出し差別していこうとする人たちはストレート、と今度はこちらが勝手に線引 きしてしまったところに生じたカテゴリーJ27と記しており、伏見がとらえるクィアは非常に幅 広いものであることがわかる。
小谷真理がアングラ・カルチャーの実態から、クィア理論やクロゼットを自身の問題として発 言したとき、討議相手であったキース・ヴィンセントは、アングラ・カルチャーの問題はゲイの 状況と質が違うことを指摘し、何でもクロゼットやクィアを援用して論じることの危険性を指摘 していた(ヴィンセントほか
1 9 9 6 )
。ヴィンセントの口調は、ゲイの問題こそが過酷な現実にさ24伏見憲明(1999)rはじめに」、伏見憲明編 (19凶)Ii'QUEER JAPAN.!]第1号、勤草書房、 p.10
25小倉東・志木令子・関根信一・溝口彰子・伏見憲明(1999)r私たちの90年代ー「へンタイ」は時代を創る」、
伏見憲明偏(1999)Ii'QUEER JAPAN.!]第1号、勤草書房、 pp.71・100
26砂川秀樹・野口勝三・伏見患明 (2001)r対談クィアが問題か、クレゾールが問題か!?ーアイデンティティを めぐるゲイ・リベレーシヨンの争点および展望」、伏見憲明編 (2001)Ii'QUEER JAP必.J.!]第4号、勤草書房、
pp.237・255
27伏見憲明(1998)rクィア」、伏見憲明監修・杉浦直行編(1998)Ii'Hの革命‑‑‑QUEERなSEX事典』、太田出
版、 pp.59・60
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