第 3 章 新たな国語教育の構築に向けて
第 2 節 クィア・スタディーズにおけるアイデンテイティの問題
クィア・スタディーズは、理論と実践の間にあるくずれ〉や矛盾を受け入れながら、その両輪 で展開される知的活動である。このようなクィア・スタディーズにとってアイデンティテイ・ポ
jティクスの問題は、アイデンティティの解体が強調されながらとらえられる一方で、その解体 与に対し批判的な態度も見受けられる。それは、クィア・スタテゃイーズにおいて運動の主体とし てのアイデンティティが重視され、アイデンティティの解体がアクティヴィティを成立させうる コか、懐疑的な見方も少なくないからである。このような見解は、「臨床」として現実を語ること 乙、その語りを理論とすることの間にある困難や葛藤を抱える国語教育学の現状と非常に近い立 ろ位置を示している。
また、アイデンティティ論を拒否しながらも、アイデンティティの解体へと早急に向かわない アィア・スタディーズは、自己の一貫性を拒否しつつも、自己の連続性を重視する本研究に深い 石唆を与えると期待できる。
そこで本節では、レズビアン/ゲイ・スタディーズにおける戦略的本質主義という立場を取り 上げながら、多元的自己観を乗り越えた形で、国語教育における新たな自己観を提案するために、
アイデンテイティの構築と解体について考察を加えていく。
なお、本研究はこれまで一貫して「自己」という語で論を展開してきたが、本研究にて追究し とい「自己」は、クィア・スタディーズにおける「アイデンテイテイ」として読むことができる と判断し11、本章では、クィア・スタディーズとアイデンティティの問題を取り上げることにす
。
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第 1項 戦 略 と し て の 本 質 主 義
戦略的本質主義は、特にレズビアン/ゲイ・スタディーズの文脈において、「動くゲイとレズビ アンの会J(略称アカー)が取った立場である。アカーは、ゲイ・アイデンティティをめそる論文
「直腸は墓場か」をまとめたレオ・ベルサーニを参照しながら、次のように主張する。
アイデンティティにこだわることは「本質」を探ることとは違うはずだとベルサーニは主 張している。「押し付けられたアイデンティティを脱構築することでは欲望という習慣を消す ことはできないので、アイデンティティに対しての抵抗をその欲望の内側から試したほうが よいかもしれなl,,'Jと彼は書く。「欲望の内側からアイデンティティに対して抵抗を行う」と はどういうことかというと、アイデンティティをいったん引き受けてから脱構築しようとい
11アンソニー・エリオットは CONCEPTSOF THE SELFにおいて、これまで自己という概念がどのようにとら えられてきたのか、シンボリック相E行為論に始まりゴフマン、ギデンズ、フーコ一、パトラ一等の論者を取り 上げ、クィア理論からポストモダン的自己観にまで考察を加えている。
本書でエリオットは、クィア・スタディーズやパトラーの論における identity"という語を theself"と同 様に使用している。本研究では、クィア・スタディーズにおけるアイデンティティの問題を自己観の問題として とらえる上で、本書が自己請を扱う書でありつつも、パトラーやクィア・スタディーズにおけるアイデンティテ ィ論を自己論としてまとめていることも参考とした(アンソニー・エリオット[2001]、片桐雅隆・森真一訳[2008]
『自己請を学ぶ人のために』、世界思想社)。
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第3章 新たな国語教育の構築に向けて
うことだ。 12
アカーは、研究における同性愛者の主体構築が遅れている日本の状況をふまえ、「レズビアンや ゲイの主体のないところに、レズビアン/ゲイ・スタディーズは成立し得ないし、またその主体 の脱構築もあり得ないのであるJ(ヴィンセントほか
1 9 9 7 : 4 6 )
と指摘する。アイデンティティの 詩体や脱構築は、アイデンティティが構築されたあとに行われるものであり、アイデンティティ・ポリティクスの問題を見通しつつも、まずはアイデンティティを構築することが重要であるとし て、アカーは「戦略的本質主義」を提案する。
加えてアカーは、主体の「形成」過程として「カミングアウト」の重要性を指摘し、シェーン・
フェランの r(ビ)カミングアウト=
( b e ) c o m i n g o u t J
を引用する。アカーにとってカミングア ウトとは、自らが同性愛者であると周囲に告げることのみならず、そのことによって「同性愛者 となる」こと、すなわち同性愛者としての主体が形成されることなのである。また、「レズビアン/ゲイ・スタディーズの現在」と銘打たれた座談会では、アカーのメンバー でありクィア・スタディーズの入門書を著した河口和也や、クィア学会設立13に携わったクレア・
マリィも参加し、アイデンティティの問題についても議論が交わされている14。
(河口)アイデンティティというものがまずあって、それを通して自分がどうやって何かを していくかということに結びつけるものとしてアイデンティティを考えることも必要だと思 う。ただ私はゲイであるためにアイデンティティをもっというよりも、自分を変えていくた めにもまずアイデンティティがないとそれを変えていけないと思うんです。レズビアンやゲ イのアイデンティティを脱構築していくのはやはりゲイやレズビアンの主体なわけです。(浅 田ほか
1 9 9 7 : 3 8 )
戦略的本質主義の特徴は、アイデンティティを解体する議論の前に、まずアイデンティティの 構築を目指すということである。構築と解体(脱構築)に段階設定がなされているのである。こ うした戦略的本質主義は、クィア学会設立に携わった堀江有里もかつては採用していた。
私は、性の多様性を、ただ強調するような方法を、いまは採用していない。(中略ー引用者) アイデンティティとは、つねに固定イじされるべきものではない(強調一筆者)と思うが、そ れをもって集合行動が培われてきた欧米(特に北米)と、この日本では、状況はあまりにも 異なるからだ。であればこそ、差別行動を追求する手法を、この日本では、ひとまずは採用 すべきなのではないだろうか。 15
同性愛者のアイデンティティを形成することが、特に日本においては喫緊の課題であり、レズビ アンやゲイ自身、すなわちマジョリティの客体としてしか存在することのできなかったマイノリ
:2キース・ヴインセント・風間孝・河口和也(1997)(j'ゲイ・スタディーズ』、青土社、 p.160
:3クィア学会設立メンバーは、アカーのメンバーであった風間孝、河口和也らも含まれている。
:~浅田彰・鄭瑛恵・クレア・マリィ・河口和也(1997) rレズピアン/ゲイ・スタディーズの現在」、『現代思想』
第25巻第6号、青土社、 pp.18‑57
:5堀江有里 (2004)rクィアー包括的な視点?J、『福音と世界』第59巻第12号、新教出版社、 pp.58・61
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ティ自身によって、アイデンティティを構築し解体することが重要であるというのが、戦略的本 貫主義の考え方である。
第2項 戦 略 的 本 質 主 義 へ の 批 判
アカーを中心とした戦略的本質主義について、異議を唱えているのが伊野真ーである。伊野は、
ジユディス・パトラーの論に依拠しながらアイデンティティ・ポリティクスの問題を取り上げ、
アイデンティティ脱構築の必要性を説いている16。
河口和也は「日本では本質主義的なものを戦略としてとったほうが運動として展開しやすい」
(ヴインセント他[
1 9 9 5 : 3 5 ] )
と主張するが、戦略的本質主義とは、構築主義と本質主義の単 純な対立図式を持ち込んだ上で、両者の安易な妥協を図る奇妙な呼称である。(伊野2 0 0 5 : 5 5 )
パトラーのパフォーマティヴィティの理論は、カテゴリーイじと脱カテゴリー化が同時に生起 する、そのどちらの方向性も必然的なものとして生起する、まさにその契機を精織に読み解 くことの必要性を主張していると解釈できる。これは、「アイデンティティは必要である/不 要である」という決着のつかない信念レベルの不毛な論争を脱構築してみせてくれる。また、脱構築という作業の意味も、構築がまず行われて、そのあとで脱構築が行われるように必ず しも段階論的に解釈される必要はない。脱構築は、すでに構築されたものの単なる否定を意 味するのではない。構築という作用それ自体のなかに、それを揺るがす契機が必然的に苧ま れていることを暗示することが脱構築であるし、逆に言えば、脱構築には常に構築が伴って いる。(伊野
2 0 0 5 : 6 9 )
伊野の論は、アイデンティティの構築と脱構築は同時に行われるべきものであるということ、つ まりアイデンティティの構築をめそって、まず構築されてそれから解体するなどといった、段階 を設定することは無意味であることが主張されている。
伊野の指摘をふまえ本研究では、自己の一貫性を拒否し自己の連続性を重視する新たな国語教 育に対して、アカーらが打ち立てた戦略的本質主義を採用しない。それは、伊野が指摘する通り、
アイデンティティをまず構築してから解体するという段階設定に違和感があるからである。自己 の複数性や流動性を重視し、その本質性や一貫性、整合性を疑いつつも、多元化された自己のひ とつひとつを考えようとすることは、まず自己を認識し、それからその自己を解体するというよ うな段階性を想定していない。伊野は脱構築に伴う構築の観点を強調しているが、本研究では構 築に伴う脱構築の側面を特に強調したい。多元化された自己のひとつひとつときちんと向き合い、
考えようとすることは、必然的にその本質性や一貫性、整合性を疑い、複数の自己を流動的にと らえることとなると考えるからである。
ただし伊野は、ゲイのカミングアウトをめぐり、「自己を語るという行為に付随するのは、まさ しくカテゴリーの引用という言説実践であり、そのカテゴリーの引用とアイデンティティの内容
16伊野真一(2005)r脱アイデンティティの政治」、上野千鶴子編(2005)li'脱アイデンティテイ』、勤草書房、pp.43・76