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第2章  ドイツにおけるイエナ・プラン 第1節イエナ・プランとP.ぺ一夕ーゼン

第3節  基幹集団と子どもの学習

1 基幹集団

 イエナ・プラン学校では、1つの集団(学級)を、1つの年齢からなる子ども 達だけで構成するのではなく、異なった年齢の子どもから構成している。また

この集団(学級)には、子どもの性別・階層・才能の違いも同一集団内に混合 することが理想であるとしている。こうした集団(学級)をイエナ・プランで

は<基幹集団>と呼ぶ(註1)。

 イエナ・プラン学校では、従来の年齢別学年学級の廃止とそれに代わる<基 幹集団>の設置によって、現実の社会にも見られる様々な差異を、実際に学校

の申に持ち込むことを可能にしたのである(註2)。ぺ一夕ーゼンは、年齢別集団 と基幹集団との相違は、前節で述べた<ゲゼルシャフト>と<ゲマインシャフ

ト>の相違に等しいとしている(藩3)。

 ではぺ』タ』ゼンは、その基幹集団をどのように編成しているのだろうか。

上にも述べたとおり、基幹集団は様々な差異を持つ子どもを皆一緒にするのが 望ましいとしている。ぺ一夕ーゼンは集団において、どの年齢の者を一緒にす るのが良いか、年齢の幅はどの程度にすべきか、という実験を重ね、基幹集団 の編成を以下のように示している(註4)。

 下級集団は第1〜3学年、中級集団は第4〜6学年、上級集団は第6〜8学年、

青年集団は第8〜10学年の子どもから編成される。こうした個々の集団の人数 は、下級・中級集団では40名が、上級・青年集団では30〜35名が限度である

(註5)。そして、各集団の申で3年間の学習を終えると、1っ上の学年へ移行す る。ここで第6学年と第8学年が集団をまたいでいるのは、子どもの<人間的 な成熟(人間的な態度)>によって、その学年でも1つ上の集団へ移行するこ とが認められているからである。<人間的な成熟(人間的な態度)>の内容と は、その子どもが小さいが完全なる人格として、次の段階の集団の申で一人の 人間としてどのような自覚を持ち、確かな地位を占めるであろうか、それゆえ この点でその子どもの人格的存在のうちにどのような成長がみられるのであろ うか、ということである。またこの移行に関し、子ども達は拒絶する権利を特

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っている(註6)。

 この移行を決定する基準が子どもの<知能程度>ではなく、<人間的な成熟

(人間的な態度)〉であったところにも、<個性を人格へ>というイエナ・プ ランの思想を伺うことができる(註7)。ただしぺ一夕ーゼンによれば、第4学年 の子どもを下級集団の子どもと混合してはならない、しかし、第3学年の子ど もを10月以降であれば次の集団に移行しても良い、としている(註8)。

 毎年入れ替わる人数が全体の3分の1にした理由として、ぺ一夕』ゼンは以 下のように述べている(註9)。例えば、入れ替わるのが全体の2分の1であった とすると、入れ替わった新しい者が容易に強い部分となりえてしまうし、また つり合いが壊れ、誤った方向へ移ってしまうかもしれないからである。それに 対して、入れ替わるのが全体の3分の1であると、従来の良い習慣とその陶冶 的・教育的価値が生き続けることを残った3分の2が確実に保証するからであ

る。

 こうして、それぞれの基幹集団の3年間の間に、子ども達は<徒弟>、<職 人>、<親方>という、違った3つの役割を体験することとなる(註10)。この

ことは、子ども達が教えたり助けたりする立場、教えられたり助けられたりす る立場を、交互に体験する、ということでもある。このように、ぺ』ターゼン は基幹集団のメリットとして、自身が示した「集団の10の利点」(註11)のなか で言及している。以下では、これについて解釈したリヒテルズ(2006)と伊藤

(1991)の、<基幹集団におけるメリット>についての見解をまとめる。

 リヒテルズ(2006)によれば、子ども達のこうした基幹集団での体験は現実 の人間関係により近いものである。それは、同じ年齢集団の中で、一見優れて いるように見える子どもが他の子どもを導くよりも、同じ集団で経験を積んだ 年長の子どもが年少の子ども遠を教えたり助けたりする方が、人間関係として はより自然である、ということである。また、こうした立場をそれぞれの集団 の3年間の間に交替して体験することは、自分以外の立場の人を理解する助け

となり、人間関係の築き方の訓練にもなる(註12)。

 また伊藤(1991)によれば、このような集団において学習することの意義と して重要なのは、相互評価に基づく正しい自己の位置付け及び真のリーダーシ ップの形成である。彼によれば、指導的な役割を担う子どもと他の子どもとの

間で自然な扶け合いが起こる時、真のリ』ダ』シップが可能になる。なぜなら、

一種の恩恵として他者に接したり、相手の自尊心を損なうような形で指導に当 たったりする時、そのような援助や指導は相手に受け入れられないので、彼ら は不遜な態度を捨て、全く人間的な態度で人と接することを、身をもって学ぶ ことになるからである(註13)。

 こうした<基幹集団におけるメリット>は、前節の<活動の場>で述べたよ うに、子ども達に活動の自由が認められていることが前提となる。子ども達が 活動の自由を認められることにより、お互い親しいとか、人間的に気が合うと

かを根拠にして、自由に集まってくる机の集団が形成される。あるいは、共通 の関心ごとに基づいて形成されたり、集団の指導的な子どもによってまとまっ たりなど、子ども達が自分の作業の共通的性格に気づかされて集まってくる。

それは、子ども達が共通に作業することの利点を認識することによって、机の 集団が形成されるということである。こうした集団は、作業の内容によって、

子どものあらゆる組み合わせが表れる。例えば、Aという作業の集団では指導的 な役割を担っていた子どもが、Bという作業の集団ではでは単に積極的な1メン バーでしかなかったり、Cという作業の集団では消極的な1メンバーであったり するのである。こうした机の集団は年度中に繰り返し変化する(註14)。

 このように子ども達は、それぞれの基幹集団内だけでなく、その集団の中に できる、さらに小さな机の集団内においても、その作業内容・所属した机の集 団によって、様々な立場・状況を経験する。こうしたことによって、ぺ』タ』

ゼンあるいはリヒテルズ(2006)、伊藤(1991)らによる<基幹集団におけるメ リット>が言えるのである。

2 授業と学習形式

 ぺ一夕ーゼンによれば、「授業は、それ自体が1つの教育的な共同体である学 校共同体の申に組み入れられるべきものであり、常にその申では第2義的なも

のとみなされなければならないものである。それゆえ、生命への畏敬を伴い、

教育理念の下で技能や知識や意識性へと導くような計画的にかつ有意義に行わ れるものの総体が、教育学的な意味において授業と呼ばれるのである。」(註15)

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としている。こうしたことは、授業における活動の出発点が、共同体の申で自 然に行われる学習、または自由に行われる陶冶に求められるということを示し、

あらゆる技術的な=学習、課題の学習は、できる限り共同体の申で自然に行われ る学習と結び付けられ、そこでの形式や状況が取り入れられなければならない ことを示している。よって各教科領域での学習において、すべての子ども遠の 進度を無理に同一にしようとすることは許されず、各個人または小集団で学習 が行われるべきである(詩16)。

 これはっまり、前節で示したような、学校側が創り出すゲマインシャフト・

外的組織・基幹集団といった<教育的状況>が子ども達に対して自然と引き起 こす刺激を考慮せずに、授業は成り立たないということを意味する。

 以下には、イエナ・プラン学校の授業において考慮すべきこととして、ぺ一 夕ーゼンが指摘したものをいくつかまとめる(註17)。

一、子ども達にはまず、あらゆる教科、技術の「基本」が与えられなければな   らない。(それは各授業において、新たなテーマ・鎮域が始まる最初の段階、

  ともいえる)それを与えられることによって、当該の教材領域への接近を   果たしうるし、子ども達が独力で学んでいけるようになる。

二、工作作業について。下級集団では、子どもの想像力に重点が置かれる。従   ってテーマを定めたりはしない。中級集団では、子どもの自主性は一定の   制約を受け、技術の習得の為の訓練が主となる。そこでは、何らかの対象   を造ることから離れ、各々異なった材料の残り物とそれに見合う道具を用   いて、技術的知識及び基礎的能力を身につける。上級集団では、中級集団   で身に付けた知識・技術の範囲内であらゆるものの使用が許され、それら   を応用し自由にモノを造ることが許される。

三、集団授業上の手法について。子ども達によって最良の学習方法が運用され、

  自由に形成される机の集団内で偶人的な進展及び共通の進展がみられるよ   う、教師は知識上・方法上の基本的な事柄を子ども達に伝えなくてはなら   ない。(一と同意義)そのために、授業の始めに「円座形式(サークル)」

  で集まり教師は子ども達にそれらを伝える。学校において共同で行われな   ければならないことはすべて旧座形式(サ』クル)」で集まり行う。