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フレネ教育(仏)からの影響とそれに関する考察

第3章  オランダにおけるイエナ・プランの受容と変容 第1節オランダにおけるイエナ・プラン

第4節  フレネ教育(仏)からの影響とそれに関する考察

1 フランスのフレネ

 フレネ(Cele.tin,Fr.inet)はフランスの教育家であり、当時のフランス公 教育に一般的に見られた権威主義などを批判し、<生活と技術>と自らが呼ぶ 新しい実践的教育論を生み出した(註1)。彼の教育は、「子供は自分が役立ち、

自分に役立ってくれる理性的共同体(学校)の内部で自己の人格を最大限に発 揮させる」(註2)という考えを基礎に、組み立て式の人間ではなく生きたダイナ

ミックな人間を育てていく、ということを目指したものである(註3)。

 フレネは、1896年に南フランスのアルプマリティム(Alpes,Maritimes)に ある村で生まれた。そこは地中海に面する二一ス(NiCe)の町から北の山岳地 に入り込んだ、農業と牧畜を営む小さな村であった。フレネの家族も農業と羊 飼いを営む農家であった。家業でもある羊飼いをしていたフレネは、やがて村 の小さな学校に通うこととなる。後に彼はその学校を、「・・新しい世界、私た ちが生きてきた世界と全く違った別の規律、別の義務、別の興味、いやもっと 重大なことには、そこは劇的とも言えるほど興味の存在しない世界。・・」(註4)

と表現している。こうした彼の体験は、彼が現存の教育体系を根本から間い直 し批判する際の基礎となっている(註5)。

 王913年にフレネは教員を目指し二一スの師範学校に入学するが、1年後の第1 次世界大戦の勃発によって、戦場へ赴くことになる。その後1920年に彼は、戦 争の影響によって、師範学校で教育理論や実習を経験することなく、故郷に近 い村で教員としての人生をスタートさせることになる。ここで彼が出会ったの は、子どもの世界とかけ離れた教科書とその説明に終始する教師、そして、そ の反復練習のためにすっかり学習意欲を無くした子ども達だった。また、彼は 戦争により喉と肺を負傷し、子ども遠の前で呼吸はしばしば困難となり、長時 間話すことができなかった。こうした状況のなかで、彼が落ち着かない子ども 遠を教えることは容易ではなかった(註6)。

 しかし、ある目彼は、何の理論的根拠も持たないまま、子ども連を陰気な教 室から外へ散歩に連れ出した。そこで彼や子ども遠の興味をひいたものは地域

の人々の生活であった。散歩の後、教室に戻り子ども達が今見てきたことを自 由に文章で表現をし、話し合いをした。そして、それを彼が黒板にまとめて書 いた。しかし、それまであった子ども連の好奇心も活力もそこでストップして しまった。なぜなら、子ども達は再び読み書きの学習のために、従来の教科書 を使用するしかなかったからである。そこでフレネは、周囲の散歩で発揮され る子どもの活力をどうしたら学習の中に持ち込むことができるかを考えた結果、

教室に印刷機を備えつけ、子ども達が綴った文を印刷したものを新たな学習教 材(教科書)として使うことを考えた。これがフレネ教育の特徴的な内容の1 つである、<自由作文(テキスト)>の始まりである。これに関し彼は、「教科 書の断片的な文章に何の興味を持てず、読みも書きもできないはずの子ども達 でも、この体験を通じ、自分たちの口から出てきたテキストなら、スラスラと 自然に読むことができるし、またこれを自分のノートに書き写すこともできる。

しかも子どもたちはこのテキストに心からの喜びを感じているのだ。」(註7)と 記している。またこの<自由作文(テキスト)>を意味あるものにするために は、学校を地域と結びつけること、言い換えれば、学校を家庭や村や地域の生 活の延長線上にあるような組織とすることが重要であるとしている。このよう な子ども連の生活のなかから生まれる興味・関心を出発点とし、それを追究す るという学習方法は、フレネ教育(註8)の基礎となった(註g)。

 やがて彼は、生活を観察し、表現し批評し合うなかで生まれる興味の探究と しての学習を実践するために、子どもの作品を集めた<自由作文(テキスト)

>(詩10)や協同学習カード(註11)、計算や読み書きのためのカードを開発し た。そして、彼は1935年に子ども達と共に共同生活をする、フレネ学校を設立 する。彼はこの学校に、教室にあった教壇を取り除き、子ども達が共同で学習 や討議ができる大きな机や、個別で課題に取り組むための学習机を設置したり、

教室の周囲に小さなアトリエ(印刷室、木工室、実験室、資料室、など)を設 置したりした。さらに、彼は屋外に畑や動物飼育場なども配置した。そして彼 は、これらの学習材や学校間通信などの教育技術の裏付けを伴って、教科書に よる一斉授業の廃止を提唱し、仕事を基礎とした個性化と協同化の2大原理に よる実践を組織するに至ったのである。

 このようなフレネの試みは、次第に公立学校に受け入れられていき、第2次

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世界大戦後、現代学校運動として普及し、今日にも受け継がれている(註12)。

このフレネ教育を受け継いだ現代学校運動の指針となっているのが、学校運動 憲章である。その内容は、「①教育とは(子どもの人格や能力を)開花させるこ とであり、高めることであり、知識の伝達、調教、あるいは条件づけではない。

②われわれはあらゆる教化的教育に反対する。③われわれは教育を条件づけて いる社会的、政治的大潮流の外で教育そのものに自足しているような教育の幻 想を放棄する。④明目の学校は仕事の学校となるであろう。⑤学校は子どもに 中心をおかねばならない。⑥子どもはわれわれの援助によって自身で自分の人 格を築くのである。⑦実験的提案を基礎とすることは協同的作業によって学校 の現代化を図るわれわれの努力の第一の条件である。」(註/3)である。

 これまで述べてきたような、理想的共同体内での子どもの人格の発展などに 見られるフレネの思想やその行いは、ぺ一夕ーゼンのそれと共通する点がいく つか見られる。

2 フレネ教育の影響とそれによる変容に関する検討

 ここでは、フランスのフレネ教育は、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プラ ンがオランダヘと受容される際に、どのような影響を与えたのか、またその影 響はオランダのイエナ・プランのどのような点に見られるのか(変容の内容)

について考察する。

 リヒテルズ(2006)によれば、オランダのイエナ・プランが提唱したワール ドオリエンテーションは、フレネによる影響を受けている。ワールドオリエン テーションは、第3章の第1節に記したように、ぺ一夕』ゼンのイエナ・プラ ンでは見られなかったものの1つである。

 ワールドオリエンテーションとは、オランダのイエナ・プラン協会向P(P.117)

が示しているように、オランダのイエナ・プラン学校の中心的なカリキュラム であり、理科、社会、環境、国語、数学、技術の分野を混合して構成したもの である。このカリキュラムの目標、テーマ、教材、方法は各基幹集団(学級)

の子どもに合わせて、多様な例が考案されている。またこのカリキュラムは、7 つの経験領域(①作ることと使うこと②技術③コミュニケーション④共に生き

る⑤環境と地形⑥巡る1年⑦私の人生)に分けられている。この経験領域は、

子どもにとって日常の生活の中にきっかけを見つけることのできる、子ども白 身の経験につながる領域という意味である(誌14)。従ってワ』ルドオリエンテ ーションは子ども達が実際に経験できる身の回りの事象のすべてを対象とした

ものであると言える。

 リヒテルズ(2006)は、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランでは、文化 に関する子ども達のグループ学習、自然に関する子ども達のグループ学習とい

う考え方はあったが、上に述べたワールドオリエンテーションという概念は確 立してはいなかった、とも指摘している(註15)。ここで、ぺ一夕ーゼンが提唱 したイエナ・プランにおける活動別の項目を挙げると、基礎学習過程・文科系 集団活動・自然科系集団活動・造形学習・体育・共同体形式(行事など)など

に分けられる(註16)。ここにはリヒテルズ(2006)が指摘したような文化、自 然に大別された集団活動は見られるが、ワールドオリエンテ]ションに該当す

るような、子ども遠の生活全体(理科、社会、環境、国語、数学、技術の分野)

を混合したカリキュラムは見られない。ただ、ぺ一夕ーゼンの考え方、イエナ・

プランの教育理念には、子どもの学習や観察を尊重すること、また、子ども達 が共同で仕事をすることによって、お互いの相互作用の中から学び合ったり共 に協力して何かを作り上げたりすることが、学校教育において中心的な位置を 占めるとされてきた(註17)。

 つまり、オランダのイエナ・プランが提唱したワールドオリエンテーション は、ぺ一夕ーゼンが掲げた子ども自身の発見や観察の尊重といった理念を、彼 のイエナ・プランに比べ、カリキュラムとしてより具体化したものになってい ると言えるのではないか。またこれは、イエナ・プランで文科系、自然科系と 分けられていたカリキュラムを包摂し、7つの経験領域として子ども遠の実際の 生活に関わる事柄すべてを対象としたより広範囲の分野に及ぶカリキュラムに なっていると言える。ここに1つ、子ども遠の生活のなかから生まれる興味・

関心を出発点とし、それを追究するという学習を教育の中心として据えたフレ ネの影響があるのではないか。

 またリヒテルズ(2006)は自身が訪問したいくつかのオランダのイエナ・プ ラン校の実践例のなかで「作文サークル」(註ユ8)というものを紹介している。

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