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第2章  ドイツにおけるイエナ・プラン 第1節イエナ・プランとP.ぺ一夕ーゼン

第2節  イエナ・プランの理念と外的組織

1 基本理念とその考察

 第1節でも示したように、ぺ一夕ーゼンにとって従来の学校は、国家によっ て生命が与えられた、非自立的で活気のない施設である。そこでは<利益社会

(ゲゼルシャフト)>が要求する人間の育成が第一とされ、子どもの持つ内的 欲求や権利に合致した教育は無いに等しいものであった。こうした状況を打破 しようと、ハンブルクでの経験やこれまでの理論と実践の成果を生かし誕生し たのが、ぺ一夕ーゼンが提唱するイエナ・プランである(註1)。

 ぺ一夕ーゼンがイエナ・プラン学校に求めたものは、<自由で一般的な民衆 学校>の建設である。彼の言う<自由>とは、いかなる外的権力によっても支 配されないという意味である。それは教会学校や国家学校に見られる教会や国 家による教育支配、言い換えれば、特定の宗教や国家権力、政治権力による学 校の占有、からの自由である。次に<一般的な>とは、子どもの階層、性別だ けでなく、あらゆる個性(普通児・知能遅滞児・優秀児)をも包摂した学校の 組織化、という意味である(詩2)。

 ぺ一夕ーゼンは、<自由で一般的な民衆学校>の中心的な理念として、第1 節で示した<ゲマインシャフト>を据えた。<ゲマインシャフト>とは、対馬

(エ987)によれば、「倫理的精神的価値を賦与された共同体ないし共同社会であ る、ここでは人間は目的の為の手段ではなく、目的そのものである。またそれ は、精神的なるものの育成と保護なかんずく新たな精神的なるもの山切の創造 に奉仕する人間の実質的な結合体」(註3)、である。一方、<ゲマインシャフト

>と対比的に用いられる<ゲゼルシャフト>とは、「利益社会として、種の労働 形態・財産・性別それに家庭を基盤にして成立する依存関係の総体である。ま た実際的な要求の充足を目標にした生活上の必要が生み出し、自己擁護の闘い に合致しているかぎり助けあう争いの為ための結合体」(註4)、である。これら をまとめれば、<ゲマインシャフト>では人間の間に有機的で実在的な繋がり があるが、<ゲゼルシャフト>においては、その繋がりが観念的で機械的なも のでしかない、とも言える。

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 ぺ一夕ーゼンは、利益社会の上に成り立っていた従来までの学校は、<ゲゼ ルシャフト>であったとした。そして、それを克服するため、イェナ・プラン 学校に求めた<自由で一般的な民衆学校〉の中心的理念に<ゲマインシャフト

>を据えた。

 そこで、イエナ・プランに突き付けられた課題は<偶々のあらゆる差異(個 性)が肯定された共同体の申で、子どもの持つ内的欲求や権利を尊重し、子ど

も達にどのような<働きかけ>をすればその共同体の為に子ども達が、積極的 役割を担える成員(個性から人格)へと成長することができるのだろうか>、

ということである。これを別の言い方にすれば、<人間がそこでさらにそれを 通じて、個性を人格にまで完成し得る教育共同体・態(ゲマインシャフト)は いかに形づくられなければならないか>ということである(註5)。

 上記の<働きかけ>とは、ぺ一夕ーゼンの示す<教育的状況>を包摂するも のである。ぺ一夕ーゼンは、すべての人間関係の場は、<状況からの呼びかけ

>が生じる場であると考え、教育におけるそのような状況を<教育的状況>と

呼んでいる(註6)。

 つまりこの<働きかけ〉とは、教員らによる直接的な指導だけを指すのでは なく、学校側が創り出す外的組織や基幹集団に支えられた、<ゲマインシャフ

ト(学校共同体)>という<教育的状況>が自然と引き起こす刺激をも意味す る。また、これまで述べてきたぺ一夕』ゼンの思想やイエナ・プランの中心的 理念から、イエナ・プランは次のようにも言えるのではないだろうか。<イエ ナ・プランは、意図的な刺激(直接指導)よりも、学校側が創り出した学習環 境(共同生活)によって子ども達に生じる、無意図的な刺激に多くの期待をし、

その刺激に教育の活路を見出している。そこでイエナ・プラン教育とは、その 刺激が子ども達に何らかの効果(学習・成長のきっかけ)を与え、その反応と

しての学習・成長を導くことを重視した教育である。>

 以下からは、こうした課題を持ったイエナ・プランにおける理想の共同体(ゲ マインシャフト)は、どのようなものなのかについて、ぺ一夕ーゼンが示した

ものを説明していく。

2 外的組織とその考察

 ぺ一夕ーゼン(1984)は、イエナ・プランにおける<外的組織>について、

その理想をいくつか言及している。ここでは、それらについていくつか説明し

ていく。

 まず、学校の<校舎>についてである。建物は、平屋建てかなるべく2階建 てで、周りには遊び場、運動場、児童用の学校花壇があり、全集団がそれぞれ 固有の部屋も持つことが望ましいとしている。また、製作技術の為の総合的な 大部屋、自然科学的な作業の為の部屋、体育館、及び音楽・学校行事・演劇の 為の集会場などが必要である。加えて、可能ならば、有機的准関連を持った幼 稚園が併設されていればなお良い、としている(註7)。

 2つ目に<設備>についてである。部屋には、子ども自身の手によって容易に 移動させることのできる机と椅子が必要である。それは、常に部屋での活動の 状況に応じて自由に配置できるようなもの、野外で頻繁に行われる授業の為に 15分程度の道のりであれば容易に運ぶことができるもの、牧草地や採石場など あらゆる場所に持っていくことができるもの、が良い。そして机は、時にユ人 で、時に集団でというように、子ども達が自由に活動できるよう、1つの部屋(40 人学級を仮定)に4人掛け用のものが8つと、正人掛け用のものが8つ、が望ま

しい。また、十分なスペースを持った作業用棚が用意され、窓際の物置台は、

水槽や花、そして子どもが自分達の部屋に置きたいと願う物のために自由に使 えるようにしなければならない。なぜなら共同生活(ゲマインシャフト)をす る部屋に対し、すべての子ども遠を内的に強く結び付けなくてはならないから

である(詩8)。

 3つ目に、<活動の場>についてである。授業などでも、絶対的に固定された 場は存在しない。場は、その時々の個々による活動や集団作業の活動性の中か ら、子ども達が自ら考え自由に選択することができる。こうして子ども達に真 の活動の自由が認められると、子ども達に典型的な本性(強情、がんこ、親し みやすいetC)が現れる。子ども達が本性をありのままに現わすことができるよ

うにすることは、集団生活及び外的組織の課題であり、大切なことである。従 って、学校でも部屋でも、あらゆる場面で子ども達が自由に活動することがで

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きなくてはならない。ぺ一夕ーゼンは、「活動は成長しつつある児童の身体の栄 養であり、それを束縛することは児童の健康に対する犯罪である。」(註g)とま で言っている。しかし、子どもが自由を乱用することを許すわけではない。イ エナ・プラン学校では、子どもが部屋のどこで誰と活動しようと、部屋を出て トイレに行こうと自由だが、静かに話す・歩くなど、他者と交際する上での望 ましい習慣を身に着けることを、子どもに要求する。自由を乱用した子どもは、

静かに観察している教員や集団によって制限される(註10)。

 最後に〈休憩>についてである。子どもも教員も同様に、彼らは活動を始め てから105分後に初めて疲れを感じる。従って、午前申の活動は100〜105分ず つの活動が2つとなり、その間に40分程度の休憩をとる。この休憩もまた1つ の活動であり、体操をしたり、軽い朝食をとったり、自由に遊んだりと、何を するかは各集団に割り当てられている(註11)。

 ここまで、外的組織について4項目に分け説明してきた。以下には、ぺ一夕 ーゼンの示した外的組織から読み取れるものを述べていく。

 ぺ一夕ーゼンは、<校舎>や<設備>において、野外施設と子ども達が作業 をする施設の充実や、それらを子ども達が利用しやすいよう机や椅子の大きさ についても言及している。ここには第2章の第ユ節で触れた、教育と自然との 結合、教育と手作業で働く人々の生活との結合、というぺ一夕ーゼンの思想が 反映していると思われる。また、上に述べた机と椅子の大きさの規定や、<休 憩>においては、活動時間と休憩時間の具体的な規定もしている。これらには、

理論を実践に応用しただけではなく、実践そのものを対象化し、そのことから 教育科学の体系を吟味しなおすという研究方法論の開拓をし、「幻想なき教育科 学の発展」(註/2)を目指したぺ一夕ーゼンの思想が見られる。

 加えて<活動の場>において、ぺ一夕ーゼンは、学校で真の活動の自由を提 供することにより、子ども達はその本性を現すことができる、としている。子

ども達が本性を現すことができるとは、子ども達が自身の持っ内的欲求を開放 し自身(権利)の主張を素直にすることができる、ということであろう。また それは、その共同体の申では多子どもの差異(個性)が肯定されている、とい うことでもある。本性を現し、自分の自由に生活できるこうした活動の場は、

子ども達にとって非常に心地よいものであるはずである。しかし共同生活をす