第 3 章 Bhūtaḍāmaratantra における仏教、ヒンドゥー教間の関係
3.2 仏教版、ヒンドゥー教版 Bhūtaḍāmaratantra の内容比較
3.2.5 ekaliṅga の記述を通したシヴァ派との関連
3.2.5.2 他密教経軌内に見られる大自在天の住処
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以上のように、当儀軌にはシヴァリンガのある場所を指していると考えられる
ekaliṅgaでの修法をいくつか見ることができた。また、法天を主とする訳経者がこの単
語を「大自在天宮殿」「大自在天祠宮殿」「大自在天宮觀」と訳していることからも、こ れが大自在天の祠であると認識していたことは確かである。そしてこの語はそのまま HBTにも引き継がれている。
では次に、他の密教文献での類似の記述を挙げていこう。
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二つに割れるまで真言を誦すことが述べられる。この修法は3.2.5.1で挙げたBT内のリ ンガを踏みつけるものと同類の修法と言えよう。
同様に、『秘密集会タントラ』(Guhyasamājatantra)においても、修法の場としての
ekaliṅgaが挙げられていることがBühnemannによって報告されている664。それは、第十
二分におけるcatuṣpathaikavṛkṣe vā ekaliṅge śivālaye / sādhayet sādhako nityaṃ vajrākarṣaṃ viśeṣataḥ /665と い う 箇 所 お よ び 第 十 四 分 に お け る mātṛgṛhe śmaśāne śūnyaveśmani catuṣpathe / ekaliṅgaikavṛkṣe vā abhicāraṃ samārabhet /666 という箇所である。前者は鉤召 法に関するものであり、後者は調伏法に関するものである。後者はその直前で「足でリ ンガを踏みつける」作法が説かれ、先の『文殊師利根本儀軌経』及びBTの記述に類似 するものと言えよう。
また、同様に「大自在天祠に赴く」という表現を『金剛薩埵説頻那夜迦天成就儀軌經』
(以下『頻那夜迦儀軌』)667内にも見ることができる。この『頻那夜迦儀軌』は「肉や血
664 Bühnemann[1996] p.490 n.107
665 Matsunaga[1978] p.40および松長[1998] p.75参照。当該部分の修法の場をチベット訳は lam gyi bzhi mdo'am shing gcig drung // mtshan ma gcig dang zhi gnas su // (東北No.442,
110a3-110a4)となっており、また漢訳では「當往四衢道 或於獨樹下」(大正No.885, 482a19)と訳
される。チベット訳ではekaliṅgaにmtshan ma gcigが、śivālayaにzhi gnasがそれぞれ対応 するが、漢訳では双方訳されない。
666 Matsunaga[1978] p.68および松長[1998] p.126参照。チベット訳ではma mo'i gnas sam dur khrod dam // khang stong dang ni bzhi mdo dang // mtshan ma gcig dang shing gcig drung // (東北
No.442, 123b7-124a1)としてこの場を訳し、漢訳では「或於彼舍或於空室。乃至四衢道獨樹
下等」(大正No.885, 492b23-492b24)としている。チベット訳では、ekaliṅgaはmtshan ma gcigであり、漢訳は先の例と同様に訳出されていない。
667 当経の漢訳に関して、この『頻那夜迦儀軌』は法賢による訳とされ、この法賢に関し ては、「法天改名法賢」説と「天息災改名法賢」説とが存在し、前者は誤りだとされる
(柴田[1965]および塚本[1936] p.65)。この経典の翻訳年代に関しては、『大中祥符法寶錄』
巻九の中に「是年十月譯成經十四巻…金剛薩埵説頻那夜迦天成就儀軌經一部四巻大乗經藏 祕密部収」(嚴靈峯[1978] pp.23123-23127。現在残る『大中祥符法寶錄』(中華大蔵経 No.1675)の九巻は散逸して残っていない。しかしながら、四川支那内学院より出された
『書目類編』51巻中の「大中祥符法寶錄略出」にこの記述が出る。そしてこの記述の後
「上見原碌巻九」と述べられている)と出るとされ、ここでの「是年」は淳化五(994)年で ある。また、『佛祖統紀』中に「天禧元年四月。詔曰。金仙垂教實利含生。貝葉謄文當資 傳譯。苟師承之或異。必邪正以相參。既失精詳寖成訛謬。而況葷血之祀甚瀆於眞乘。厭詛 之辭尤乖於妙理。其新譯頻那夜迦經四卷不許入藏。自今後。似此經文不得翻譯」(大正
No.2035, 405c26-406a2)とあり、また「詔新譯頻那夜迦經。葷血爲祀。不許入藏」(大正
No.2035, 452b26)と出ている。これとほぼ同じ内容の記述を『宋会要』中に見ることがで
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を伴う祭祀」や「怨みや呪いの言葉」を説くため、仏教教理に背くものとして入蔵を拒 否されたということが伝えられている668。実際に当経内には、「用水牛肉」や「用水牛 血塗彼天像」等の記述が多く見られる。このような理由から、当経に似た経典は今後翻 訳しないとの勅が出されたとされる669。
以上を前提として、当経中の「大自在天祠に赴く」という記述をいくつか見ていこう。
きる(永井[2015]pp.90-92)。天禧元年は1017年であり、実際にその後の天聖五年(1027 年)の惟淨による『天聖釋教録』(『佛祖統紀』に「五年。三藏惟淨進大藏經目録二袠。賜 名天聖釋教録。凡六千一百九十七卷」(No. 2035, 409a21-409a22)と出るものであり、中華 大蔵経中に『天聖釋教總録』の中冊と下冊が見られる(中華大蔵経No.1670))には『頻那 夜迦儀軌』を見ることができない。また、現在大正蔵中に見ることのできる『金剛薩埵説 頻那夜迦天成就儀軌經』と入蔵を許されなかった「新譯頻那夜迦經」の巻数が同じであ り、描かれる内容も合致する。そのため、『宋会要』や『佛祖統紀』中に述べられる「頻 那夜迦經」は『金剛薩埵説頻那夜迦天成就儀軌經』を指すと言える。
668 大正No.2035, 452b26
669 武内[1976]は「淳化三・四年(九九二・三)の訳出経典ゼロは、訳すべき原典の欠乏に
よるものであった。淳化二年(九九一)太宗皇帝は、西辺四州に詔して西天からの来朝 僧、および帰還僧があれば、将来の梵経を逐次上進せしめた。右より、淳化二年までの訳 出経典の原典は、宋室所有の梵経か淳化二年までに将来された梵経であり、淳化五年(九 五五)以降の訳出経典の原典は、淳化二年以降新たに将来された梵経であったと考える」
としている(武内[1976] pp.37-38。文中の「淳化五年(九五五)」部分は原文ママ。正しく は九九四年であろう)。BTの漢訳の『佛説金剛手菩薩降伏一切部多大教王經』および現在 の考察対象である『金剛薩埵説頻那夜迦天成就儀軌經』は双方、淳化五(994)年の翻訳であ る。前者は「[淳化]五年正月…金剛手菩薩降伏一切部多大教王等經三部…」(『大中祥符法 寶錄』巻八(中華大蔵経No.1675))とあり、これによれば当タントラは淳化五年(994 年)正月の翻訳であり、また後者は既に述べたように淳化五年(994年)十月の翻訳であ る。であるならば、両経典の将来は、梵経が欠乏した後の淳化三(992年)、淳化四年
(993年)および淳化五年(994年)の翻訳された月までと考えることができる。ここで 再び武内[1976]の論文を参考に、梵経の将来状況を見てみよう。武内[1976]の表によれば、
淳化四年(993年)の十一月に、南天竺僧恵吉祥が梵経一夾を将来し、獅子国僧覚喜が梵 経六十二夾を将来したとされる(武内[1976] p.30)。また、淳化五年(994年)には于闐国 沙門吉祥が大乗秘蔵経を将来したが法賢等が焚棄したとされる(武内[1976] p.33。大正
No.2035, 401a22-401a27「五年。于闐國沙門吉祥進大乘祕藏經。詔三藏法賢等詳定。賢奏此
經是于闐書體非是梵文。其中無請問人及聽法衆。前後六十五處文義不正。帝召賢諭之曰。
使邪僞得行。非所以崇佛教也。宜焚棄此本以絶後惑」)。現存する資料からでは、これら将 来された経の中に『頻那夜迦儀軌』があったかは明らかではない。
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持明者往尸陀林。或空舍内或大自在天祠内。用左足 彼天像。670
ここで説かれる「彼天像」とは頻那夜迦天の像である。この一文は、この像を作成する 方法が説かれた後の記述であり、それを「大自在天祠」に行きて踏む、というものであ る。また、
持明者先擇作法成就之地。或尸陀林中鬪戰之地。或努摩671舍旃陀羅舍。或四衢道三衢 道。或大自在天神祠内。如是等處當須寂靜。672
と説かれるものは、成就法を行う場所の選定基準である。ここにも「大自在天祠」が挙 げられている。同様に、
復用前法持明者入大自在天祠中。以左足 於天像。673
という記述も見ることができる。ここで説かれる「天像」は先の記述と同様に、頻那夜 伽天像を指していると考えられる。さて、これを既述の BT と『文殊師利根本儀軌経』
の記述と見比べてみれば、踏みつける対象は異なるものの、修法者が大自在天廟におい て或る対象を踏むという点でこれらは共通している。『頻那夜迦儀軌』の梵本および蔵 訳は確認できないが、ここから推測すれば、当儀軌で散見される「大自在天祠」がekaliṅga の訳語である可能性は高いと言えよう。
また、Yamanoによって提出されているKakṣaputa-tantra中でも、エーカリンガでマハ
ーデーヴァに供養をなすという記述を見ることができる674。このタントラは「その信仰 基盤はシヴァ教に認められるが、伝統的に著者はナーガールジュナに帰せられている675」 とされている。これらの他に、ekaliṅga以外の語で表現される或いは還梵され得る「大 自在天祠」の記述もいくつか見ることができる676が、ここではヒンドゥー文献内に見ら
670 大正No.1272, 309b14-309b16
671 ḍomaか
672 大正No.1272, 319b7-319b10
673 大正No.1272, 313c17-313c18
674 Yamano[2013] p.86, 106-107
675 山野[2014] p.205
676 『金剛頂経瑜伽十八会指帰』内の第十六会に置かれる『佛説無二平等最上瑜伽大教王 経』で説かれる「大自在天祠」(大正No.887, 532c05)は蔵訳ではlha chen po yi 'ogであ り、サンスクリットはmahādevāyatanaである(范[2011] p.276)。『頻那夜迦儀軌』の訳者で ある法賢による訳である『佛説妙吉祥最勝根本大教経』及び『佛説最上根本大樂金剛不空 三昧大教王經』にも見ることができる。前者の「大自在天祠」(大正No.1217, 81c19)は蔵 訳ではlha chen gyi ni gnas(東北No.604, 270a6, 大谷No.291, 5b3)であり、後者の「大自在
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れるekaliṅgaの記述に関する定義を見ていこう。