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仏教諸文献に見られる「殺」の思想

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第 2 章 密教経軌にみられる仏教とヒンドゥー教の関係

2.3 殺と降伏を伴った異宗教の取り込み

2.3.2 仏教諸文献に見られる「殺」の思想

殺害を伴った降伏を描く「降三世品」以前の仏教文献の中で「殺」という行為はどの ように捉えられていたであろうか。律蔵中の「殺」に関する着目すべき記述を見ていこ う。

法蔵部の律である『四分律』調部には、

爾の時、偸羅難陀比丘尼は晨朝に衣を著し鉢を持ちて白衣家に往く。一小兒有りて 碓屋に在し中にて睡る。偸羅難陀往きて彼の歩碓杵に觸れる。杵小兒の上に墮ちる。

即ち命過す。疑う。佛問いて言はく。汝何の心を以てす、と。答えて言はく。殺の 心を以てせず、と。佛言はく。無犯なり。應に他の碓杵に觸れざれ、と173

とあり、ここにおいて「殺心」を持たずに結果として殺に至ったものは破戒に当たらな いことが分かる。説一切有部系の律の注釈書とされる174『薩婆多部毘尼摩得勒伽』には

168 [samāviṣṭaḥ]は、堀内氏によって補われている。

169 [nigrahītavyā]は、堀内氏によって補われている。

170 Dではtshar gcad pa'i rigs pa rnams ni tshar gcad do

171 Dではsems can thams cad tshar gcad pa dang phan gdags par byed nus par gyur

172 Dではsems can thams cad rlag par byed //

173 大正No.1428 982a23-982a27

174 平川[1999]

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若し比丘、樹を斫らんと欲いて母を斫りて死ぬは不犯なり。母の如く、父、阿羅漢 も亦是の如し175

と説かれ、ここで「不犯」となるのは同様に「殺心」が無いことが理由となっていよう

176

また、大乗経典中において特に目を引く「殺」に関する記述を、大乗涅槃経すなわち 曇無讖訳『大般涅槃経』に見ることができる。この経典中で、

善男子よ。佛及び菩薩は殺に三有るを知る。謂はく下中上なり として三種の殺177が挙げられた後に、

善男子よ。若し能く一闡提178を殺す者有りとも、則ち此の三種の殺中に墮せず。善 男子よ。彼の諸の婆羅門等は一切皆是れ一闡提なり。譬えば地を掘り、草を刈り、

樹を斫り、死屍を斬截して罵詈鞭撻するも罪報有ること無きが如し。一闡提を殺す も亦復是の如く罪報有ること無し。何を以ての故に。諸の婆羅門、乃至信等の五根 有ること無し。是の故に殺すと雖も地獄に墮せず179

175 大正No.1441 613c22-613c23

176 律内の、誤って殺を行ってしまった際の記述に関する考察は、李[2014](p.358-361)参 照。

177 三種の殺は以下のものである。

①下殺は蟻子乃至一切畜生を殺すことである。この因縁によって地獄畜生餓鬼に墮ちて 下苦を受ける。諸の畜生にわずかな善根があるためであるとされる。②中殺は凡夫人から 阿那含に至るまでの者を殺すことである。この業因によって地獄畜生餓鬼に墮ちて中苦を 受ける。➂上殺は、父母乃至阿羅漢、辟支佛、畢定の菩薩を殺すことである。この業因に よって阿鼻大地獄中に墮ち、上苦を受ける。(大正蔵No.374 460b5-460b15)

178 この一闡提(icchantika)が具体的にどういった者を指しているかは『大般涅槃経』内 でも一定しておらず、確定し難い。石川[1959]は「一闡提は始めの程は教団内の者、就 中、比丘及比丘尼を対象としたものであるが、不信放逸の在俗者も包含するに至ったもの である。更に教団外の者に対しても、若し誹謗正法悪逆非道の不信の徒輩ならば、すべて 一闡提と呼ばれるのである…婆羅門教徒乃至六師外道等あらゆる外教の徒輩を一闡提と称 したのである…icchantikaの意味合からすれば、順世外道即ち路伽耶陀(Lokāyata)の如き はその最たるものと云わねばならない」(石川[1959] p.6)と述べ、望月[1969]は「すなわ ち、一闡提とは、單的にここで、「利養貧著者」であると規定出来ると考えられるのであ る」(望月[1969] p.558)としている。

179 大正No.374 460b15-460b21。慧嚴譯では、大正No.375 702c20-702c25

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とあり、「一闡提」の殺害に罪が無いことが述べられる。また、

善男子よ。若し惡心に因りて地獄に墮さば、菩薩爾の時實に惡心無し。何を以ての 故に。菩薩摩訶薩は一切衆生乃至虫蟻に悉く憐愍利益の心を生ずるが故に。所以は 何ん。善く因縁、諸方便を知るが故に。方便力を以て衆生をして諸善根を種えしめ んと欲す。善男子よ。是の義を以ての故に、我爾の時に善方便を以て其の命を奪う と雖も惡心にあらず180

とも説かれ、憐愍の心を背景として悪心を持たずに行われる「殺」は肯定されているの である。また、

譬えば父母の唯一子有りて之を愛すこと甚重にして官の憲制を犯し、是の時父母怖 畏を以ての故に若しくは擯け若しくは殺す。復擯け殺すと雖も惡心有ること無きが 如し。菩薩摩訶薩の正法を護るが爲なるも亦復是の如し181

とも説かれる。加えて、諸の婆羅門が死して後阿鼻地獄に生まれ、大乗経典に信敬の心 を生じて死して甘露鼓如来の世界に生まれ壽命が十劫備わる時、これがどうして殺と言 えるのか、という内容も説かれる182。『大般涅槃経』においてこのようなことが説かれ る原因は、この経の中で繰り返し挙げられ悪の代名詞とも捉えられる「一闡提」という 存在の台頭であると考えられる。

「殺心」や「悪心」によらない殺害の肯定の論理を見てきた。これらの例は、殺とい う結果には重きが置かれず、その行為を行った際の心の様相を判断基準としていること を示しており、その様な行為の要因や背景とも言い得る存在を示唆しているのである。

以下より金剛頂経以前に漢訳された密教経典における「殺」に対する思想を見ることに より、それまでの密教経軌において「殺」の思想がいかに捉えられていたかを考察して いこう。

180 大正No.374 460a20-460a26。慧嚴譯では、大正No.375 702b24-702c1

181 大正No.374 459c28-460a2。慧嚴譯では、大正No.375 702b2-702b4

182 大正No.374 460a5-460a14。これらの記述は全て「梵行品」にあたる部分である。大乗

涅槃経の成立自体は、「四世紀頃の成立は確かであろう」(望月[1988] p.17)とされる。こ の品は六巻本には存在せず、インド原典より訳されたとされる蔵訳(大谷No.788)にも該 当するものは欠落している。漢訳の重訳とされる蔵文(大谷No.787)には該当の章が存在 する。(佐藤[2012] pp.197-212参照)

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