第 3 章 Bhūtaḍāmaratantra における仏教、ヒンドゥー教間の関係
3.1 Bhūtaḍāmaratantra の先行研究とインド宗教史における文献的位置付け
3.1.1 仏教版 Bhūtaḍāmaratantra の先行研究と文献的位置付け
3.1.1.1 BBT の先行研究と文献分類
BTの研究の嚆矢はBhattacharyya[1933]であると言える。B. Bhattacharyyaによって仏 教版とヒンドゥー教版のBTの存在が明らかにされ、その後この文献を中心に扱った研 究は、BT中に説かれるマンダラの考察を含む吉崎[1981]まで出ることが無かった。吉崎 [1981]は主として仏教版に関する研究であり、ヒンドゥー教版は考察の対象とはされて いない。また、近年では名取[2018a][2018b][2018c][2019]において、仏教版BTの諸写本 間の関係性が提示され、BBT の関連文献とその著者の系譜に焦点が当てられ、BBT に 関する研究が行われるようになってきている。
仏教版の成立時期に関しては、Bhattacharyya[1933]の中で、①Sādhanamālā中の4つの Bhūtaḍāmarasādhana の著者として Vairocana と Trailokyavajra が挙げられており、この Vairocana を Vairocana Rakṣita220と比定できること221、そして②本文献中に描かれる
Dīnāra 金貨が、グプタ期の中期からインドで流通していた、Denarii の模倣のコイン名
である222、という2点を主たる論拠として、このタントラが7世紀の初め、あるいは8
220 このVairocanaに関して、Bhattacharyya [1928]でもVairocanaとVairocana Rakṣitaを同一 人物として扱い、8世紀に活躍した者と見ている(pp.CXX-CXXi)。Bhattacharyya [1928]は その注にBose [2015]を挙げている。このBose [2015]中ではVairocana Rakṣitaをヴィクラマ シーラの僧だとしており、またインドの人間だと考えているようである(Bose [2015]
pp.40-46)。斉藤[2001]は「VairocanarakṣitaはBlue AnnalsおよびBu stonの仏教史のなかの 記述、またチベット大蔵経に収録されている、かれの翻訳作品に付されているコロフォン などから、Khri sroṅ lde btsan(西暦742-797年)の在世に活動したチベット人翻訳官であろう と推測される」としている(斉藤[2001] p.122)。Bu stonの仏教史においては、二つの説を 挙げる中で「パコルのベローチャナ」と「パコルのベローチャナ・ラクシタ」と述べられ ており(芳村[1951] pp.33-34およびObermiller[1932] p.190)、ここからはVairocanaと Vairocana Rakṣitaが同一人物であると考えられる。VairocanaとVairocana Rakṣitaが同一人物 であるとすれば、Bhattacharyya [1928]の言うように、Sādhanamālā中のBhūtaḍāmarasādhana
のVairocanaという人物からBBTの年代は推定されるが、これを結論付けるには更なる調
査が必要とされるであろう。これに関して名取[2018a]は11-12世紀に活動した
Vairocanavajraの存在を提示して、より慎重な考察が必要だとしている(名取[2018a]
pp.21-22)。
221 Bhattacharyya [1933] p.353
222 Bhattacharyya [1933] p.356
この金貨に関する記述は、確かに当文献中に散見される。一例を挙げれば、ヒンドゥー教 版では「[行者に]1000ディーナーラを授けるのである」(N1 6b5, N2 4a7, Bo 8b2, Ba 7b7, N3
56
世紀のものであろうと推測されている。更に、ヒンドゥー版内で説かれるマンダラにお いて下位にヒンドゥー神が置かれていることや、同版内で多数の仏教用語が言及されて いることなどを根拠として、仏教版がヒンドゥー版に先立つものであると結論付けてい る223。
現存するBBTの諸写本間の関係については、先に挙げたように名取[2018a][2018b]に 詳しい。これら論文を参照しつつ、BBTの文献的位置付けについて見ていきたい。
BBT の 文 献 分 類 と し て は 、Abhayākaragupta の Āmnāyamañjarī 中 で BBT が
Trisamayarājatantra と並んで Kriyāタントラに属するものとして挙げられていることが
報告されている224。14世紀のBu stonによっては、Kriyāタントラ中のphyag na rdo rje'i rgyud(金剛手のタントラ)に組み込まれ225、14-15世紀のMkhas grub rjeによってもKriyā タントラとみなされているようである226。一方で、Sa skya派のNgor chen kun dga' bzang poは1420年のspyod pa'i rgyud spyi'i rnam par gzhogs pa legs par bshad pa'i sngon me 227内 で BBT を Kriyā タントラではなく Caryā タントラとして分類し、「'byung po 'dul byed
(Bhūtaḍāmara)というタントラの大王は、広大な16,000のタントラから引き出された
4b3, M p.24)という記述がある。この部分は、仏教版では「[行者に]1000デーナーラを与
えるのである」あるいは「[行者に]ディーナーナ(ディナーラであろう)金貨を与えるの である」(A 10b1, T1 8a1, T2 7a2-7a3, G 3b6, D 241a3, P 35b4, Ph 197b4, sT 50b5, 大正1129 551c25-552a3)である。
このディーナーラに関しては『十王子物語』(7C頃)中にも「そして私は一万六千ディー ナーラ(金貨)を勝ち取り」(田中[1966] p.83)と出ている。また『ターラナータ仏教史』
中にも「黄金デイナラ(Dinara)を施與し」(寺本[1974] pp.300-301。英訳は
Chattopadhyaya[2010]のp.280。蔵文はSchiefner[1963]のp.169)と出る。同様に、「各黄金デ イーナーラ(Dīnāra)を施し」(寺本[1974] p.358。英訳はChattopadhyaya[2010]のp.334。蔵 文はSchiefner[1963]のp.202)とも記されている。前者はRāhulabhadra (Saraha)に関する記 述の中で述べられているものであり、後者はBhogasubāla王、Candrasena王そして
Kṣemaṅkarasiṃha (Śaṃkarasiṃha?)王の三王が施しを行ったという記述である。これら
Dīnāraという記述から当タントラの成立年代を推定するには、これら記述を含めた他文献
に現れるDīnāraの記述を更に調べる必要があろう。
223 Bhattacharyya [1933], pp.365-366
224 名取[2018a] p.13, pp23-24 n.1. および横山[2016] p.87
225 西岡[1983] p.59のNo.1167および名取[2018b] p.51, p.60 n.2
226 「金剛部の主に属するタントラ」に分類される。また、「これらが[金剛]部の主に属す るタントラのうち、主なるもので、なお多くの雑多な[タントラ]がいっしょに翻訳されて いる」(高田[1978] pp.220-222)。
227 Davidson[1981] p.86
57
と説かれる」228と述べている。これは BBT のチベット訳の末尾の記述229に対応する記 述である。またNgor chenはBBTの一節230を引用して、Caryātantraに分類されることを 述べている。
3.1.1.2 BBT を引用する諸文献
次に、BBT を引用する文献を見ていきたい。BBT を引用する早い段階の文献として は 、8 世 紀 後 半 か ら 9 世 紀 前 半 の 人 と 推 定 さ れ て い る Vilāsavajra231に よ る Nāmamantrārthāvalokinī中にBhūtaḍāmaratantraからの引用があることがTribe[2016]232に 提示され、名取[2018a]においてこの引用の記述が現行のBhūtaḍāmaratantra中には見ら れないことが報告され233、当時この記述を含んだ別のヴァージョンのBhūtaḍāmaratantra と呼ばれる文献が存在した可能性が挙げられる。
また、時代は下るがGuhyasamājatantra (以下GST)への注釈であるPradīpoddyotana (以 下PU)に対するBhavyakīrti234による注釈Pradīpoddyotanābhisaṃdhiprakāśikā (以下PUAP) 内にBBTへの言及を見ることができる。一つ目の言及は、GST中の「スリー、ナーギ ー(竜女)、マハーヤクシー(大夜叉女)、アスリー、マヌシーを、手に入れて、〔これら の女と〕明妃の禁戒を行ずるならば、三金剛智に依止する者となるであろう」235という 記述に対するPUの「アスリーを、ということなどは理解し易い」236という部分に対す るPUAPの注釈である。以下にその記述部分を挙げよう。
228 'byung po 'dul byed ces bya ba'i rgyud kyi rgyal po chen po ni / rgyud rgyas stong phrag bcu drug pa las phyung bar bshad do // (Ngor chen 76b6)
229 'byung po 'dul ba zhes bya ba'i rgyud stong phrag bcu drug pa las ji snyed pa(P ji snyed pa rnams) rdzogs so(P sho) // // (D 263a7, P 59a5-59a6)
230 'byung po 'dul byed kyi rgyud las / de nas lha'i skur bsam mo // de nas khro bo'i bdag po'i phyag rgyas yan lag drug tu dgod par bya ste / zhes pa nas / de nas dkyil 'khor gyi lha'i snying pos spyan drangs te / zhes sogs kyis bdag lhar bskyed pa dang / (Ngor chen 78b3-78b4)。これはBBTのD 247a1-247a3, P 41b4-41b6に対応する。
231 Tribe[2016] p.25
232 Tribe[2016] p.376のNāmamantrārthāvalokinīに引用される文献一覧の中にBTが提示され ている。
233 名取[2018a] p.26 n.22
234 Bhavyakīrtiの活動年代は10世紀頃であると考えられている(静[2015] pp.141-142)。
Bhavyakīrtiの年代に関する論及に関してはTomabechi[2016]にも詳しい。
235 訳文は松長[1998] p.174。テキストはMatsunaga[1978] p.95 surīṃ nāgīṃ mahāyakṣīm asurīṃ manuṣīm api /
prāpya vidyāvrataṃ kāryaṃ trivajrajñānasevitam /
236 Chakravarti[1984] p.202。蔵訳は東北No.1785 174b2.
Skt. asurīm ityādi sugamam //
Tib. lha mo zhes bya ba la sogs pa ni go sla'o //
58
lha mo zhes bya ba la sogs pa smos te / lha dang gnod sbyin dang dri za la sogs pa'i bu mo rdo rje 'jigs byed dang 'byung po 'dul ba'i rgyud las gsungs pa'i rim pas bsgrub par bya ba dang / …237
「lha mo (asurī)ということなどを言って、天と夜叉とガンダルヴァの女は、
VajrabhairavaとBhūtaḍāmaraのタントラに説かれた次第によって修されるべき
ことと…」
BBT中にはyakṣiṇīの修法が説かれているため、それを指していると考えられる。また、
GST中のyakṣa、yakṣiṇīあるいはbhujagendrarājñīの三昧耶の記述238に対するPUの注釈
239に対応する部分でPUAPは、
de ltar zhes bya ba nas bya ba'i bar du zhes pa'i bar du ni240 dpal 'byung po 'dul ba'i rgyud kyi rim pas241 rdo rje hūṃ mdzad242 la sogs pa'i gzugs blangs te klu243 mtsho la sogs pa'i 'gram du 'dug nas…244
「de ltar と い う こ と か ら 、bya ba'i bar du と い う こ と ま で は 、 吉 祥 な る
Bhūtaḍāmaraのタントラの次第によって金剛吽迦羅などの姿を得て、龍の湖な
どの近くに座って…」
として BBT を挙げている。この記述はBBT 中の nāginīsādhana の章に類似の記述を見 ることができる。次いで、GSTがrākṣasastrī、bhūtaの三昧耶を説く場面245に関してPUAP は、sha za mo (piśācinī)、gnod sbyin mo (yakṣiṇī)、mi'am ci mo (kinnarī)、'byung po mo (bhūtinī) などの儀軌について言及し、
de yang rdo rje 'og dang rdo rje mkha' 'gro dang 'byung po 'dul ba'i rgyud las gsungs te / …246
「それもまた、VajrapāṭālaとVajraḍākinīとBhūtaḍāmaraのタントラに説かれて
237 東北No. 1793 khi 122a2. 大谷No.2658 ki 204b6-204b7
238 Matsunaga[1978] p.98、松長[1998] p.182
239 Chakravarti[1984] p.205。蔵訳は東北No.1785 177a3-177a6.
240 Dではde ltar zhes bya ba'i bar du ni…
241 D pas /
242 D mdzad pa
243 D klu'i
244 東北No. 1793 khi 126b3-126b4. 大谷No.2658 ki 209b1-209b2
245 Matsunaga[1978] pp.98-99、松長[1998] p.183
PUはChakravarti[1984] p.205。蔵訳は東北No.1785 177b2
246 東北No. 1793 khi 127a5. 大谷No.2658 ki 210a5
59 おり…」
と説く。ここからPUAPにおいてBBTはbhūtinīやnāginī、yakṣiṇīの修法の典拠として 用いられていたと言い得るであろう。
漢訳はインドの僧である法天によって「北天竺梵本」よりなされたとされ、大中祥符 8年(1015年)に完成したと考えられる『大中祥符法寶錄』巻八の中に「[淳化]五年正 月…金剛手菩薩降伏一切部多大教王等經三部…」(中華大蔵経No.1675)とあり、これに よれば当タントラは淳化五年(994年)の翻訳である247。この記述に従えば、当タント ラの下限は994年と言えるであろう。
Bhattacharyyの推測する7世紀成立と言うのは現在残る資料から判断するのは難しい
であろうが、先に挙げたように、8世紀後半から9世紀頃にかけてBhūtaḍāmaraの名称 を備える文献の可能性が指摘され、10世紀には現行のBBTが存在していたと言えるで あろう。また、当文献はKriyāあるいはCaryāタントラとして見なされ、bhūtinīやyakṣiṇī の修法の典拠として利用されていたと考えられる。