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第3章 ラオスの経済成長と産業構造についての考察

第 1 節 ラオス経済の変遷

第 1 項 社会主義計画経済下の経済停滞

多くの先行研究は、ラオス経済の停滞要因として二つを挙げている。ひとつは、第二 次世界大戦後長く続いた国内の混乱とインドシナ地域において起こった戦争がラオスの 人的、物的資源を疲弊させたことである。1950年代から1980年代に国際社会において 南北問題が提起され、開発途上国に対する開発に関する取り組みが行われたなかで、近 代化のための輸入代替工業化政策、または、その後の輸出志向型工業化政策へと工業化 政策が採用され、例えば東アジアや東南アジアでもその取り組みが行われた間、ラオス においてはそのような具体的な経済政策を実施する余裕はなかったのである。もうひと つの要因は、そのような疲弊した状況のなかで、ラオスの社会主義計画経済制度が機能 せず、ラオス経済の発展を阻害したというものである。

1975年に始まった新体制下の経済政策は、産業の集団化による生産性の向上を目標と していた。そのために導入された協同組合方式による農業の集団化は、ラオスの伝統的 な家長制度と連帯を無視するものであり「正義に反する」、あるいは「不公平」であると

の感情を農民に抱かせ、生産量は増大しなかった。当時行われた農産品への課税は累進 性が強く、生産者の労働意欲を削ぐこととなった。1979年の産業別就業人口において農 業はその約80%を占め、産業別GNPにおいても約85%を占めていたとされており、農 業は基幹産業であった(ヴォーラペット 2010)。農業生産の停滞はラオスのGNP額の停 滞であった。一方、他の産業部門においても国有化政策と集団化が進められた結果、1975 年~77 年の間に約 10 万人のラオス人が国外へ亡命し、それらには多くの知識人や技術 者が含まれていた55

ヴォーラペットが示した1975年から 1979年の GNPの推移(表3-1-1)を見ると、

その5年間ほとんど変化がないか、むしろ減少しており、米の生産量と耕作地面積も減 少していたことが示されている(表3-1-2)56。ヴォーラペットは、当時のラオス経済の停 滞が、ラオスの集団化による富の集積を図る経済政策が国民の大部分を占める農民に受 け入れられず、また多くの人材が流出したことが要因でうまくいかなかったと述べた(ヴ ォーラペット 2010)。

表 3-1-1 ラオスのGNP推移 1975年~1979年(単位:100万ドル)

出所:国連、Trends in International distribution of Gross World Product, New York, 1993 ヴォーラペット・カム、2010、『現代ラオスの政治と経済1975-2006』、「第2章マルクス主義

の勝利と初期の幻想」、73頁より抜粋。

表3-1-2 米の生産量と耕作面積の推移1975年~1979年

出所:国立統計センター、10 years of social-economic development in the Lao PDR, 1985、

ヴォーラペット・カム、2010、『現代ラオスの政治と経済1975-2006』、「第2章マルクス 主義の協議の勝利と初期の幻想」、73頁より抜粋。

1981年に農業生産の向上、戦略的企業の創設、経済部門における人材育成、外国から の援助の獲得と活用、教育の向上を柱とするラオス初の国家社会経済開発5カ年計画

(1981年-1986年:Five-Year National Socio-Economic Development Plan: NSEDP Ⅰ)

55 スチュアート-フォックス(2010)によると、ラオス人の公務員や技術者のみではなく、多くの中国 人(2万人)やベトナム人(15千人)も資産を金に換え出国したと述べている。

56 ヴォーラペット・カム、2010、『現代ラオスの政治と経済1975-2006』、「第2章マルクス主義 の協議の勝利と初期の幻想」、p73

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が策定された57。しかし、製造業、鉱工業部門は GNP のわずか 5.0%にすぎず、1984 年の1人当たりGNPは 98ドルであった。財政、経常収支ともに慢性的な赤字が続き、

対外債務も膨らむこととなり、1975年~86年の外国援助額は予算の 60.0%に達してい た。このような経済状況は国民生活にも大きな影響を及ぼし、都市住民の購買力を低下 させた。公務員の給与は1か月20~50ドルであり、不足分は購買券が配布されていたが、

その家族は野菜を作り、家禽を養い生活の糧を得なければならない状況であった。さら に、都市住民と地方住民との間での生活水準にも格差がみられるようになった。

加えて、農民の生活と労働条件は悪化し、僻地では土地を放棄し都市部へ逃げ出す農 民も少なくなかったという (ヴォーラペット 2010)。スチュアート-フォックスは、新政 府の粛正と再教育を含む性急な改革が国民和解ではなく、むしろ不信感と、国家機能の 麻痺、経済崩壊を招き、ラオス王国体制で働いていた人が本質的にもっていた愛国主義 的な感情を新生ラオス建設という大義の下に利用する機会を失ってしまったことも当時 のラオスの国家建設に影響を与えたと述べた。(スチュアート-フォックス 2010 260-261 頁)。

1975年以降のラオスの経済政策は、マルクス=レーニン主義を土台とする計画経済と 産業の集団化による生産拡大に基づくものであった。しかし、ラオス農村の伝統的慣習 制度と相容れなかったこと、また、長く続いた内戦によって国土は疲弊し、人的資源の 不足がラオスの生産拡大には結びつかなかった。

ラ オ ス が こ の よ う な 経 済 状 況 に あ る 中 で 同 じ 社 会 主 義 経 済 同 盟 国 で あ っ た 中 国 は 1978年に「改革開放」政策、また最も政治的に緊密な関係にあったベトナムも1986年 に「ドイ・モイ」政策へと方向転換した。そのような同盟諸国の経済政策の変化ととも に、ラオスにおいても経済政策の転換が行われることとなった。

第 2 項 経済政策の転換

人民革命党は1986年の第4回党大会において「新思考(チンタナカーン・マイ)58」 というスローガンを提示し、市場経済導入を宣言、国家管理の市場経済による経済立て 直しを始めた。それは生産の停滞、高インフレ、消費財の不足、恒常的財政赤字といっ た問題を解決するために「新経済メカニズム=市場経済」を導入し、経済改革と経済開 放を行うというものであった。この方針の下、1986年に第 2次 5カ年経済計画(1986

年~1990年:NSEDP Ⅱ)が策定され、民間企業の活用、1次産品加工業の発展、国際

57 1981年に農業生産の向上、戦略的企業の創設、経済部門における人材育成、外国からの援助の獲 得と活用、教育の向上を柱とするラオス初の国家社会経済開発5カ年計画(Five-Year National

Socio-Economic Development Plan 1981-1986: NSEDPⅠ)が策定された。2016年現在第8次計画 が進行中である。

58 社会主義への過渡期における市場経済原理の導入であり、マルクス=レーニン主義に基づく新しい 経済思考をもち改革を進めるという意味である。山田は、「チンタナカーン・マイ」という言葉は、

新経済メカニズム導入を実施するため、これまでとは変わろうというメッセージであり、スローガ ンであると述べている(山田 2011 22頁)。

収支の改善、運輸・通信制度の改善、経済運営制度の設立とその管理能力の強化に重点 が置かれた。

新経済メカニズムの導入後、経済成長率は1986年から2年間のマイナス期を経た後、

1989年以降上昇傾向であった。この時期ラオスは、国内外の取引価格を自由化し、需要 と供給のメカニズムによる価格設定を採用した農地改革と農家の余剰生産物の販売自由 化による農家の生産意欲の向上、国営企業の自律的な経営促進、金融制度の法制化によ る外資導入奨励などを実施し、同時に市場開放による経済の国際商業取引への統合も進 めた(ヴォーラペット 2010)。ラオスの人口は 1986 年当時約 378 万人、一人当たり GNIは560ドルと国内市場は狭小であり消費需要を国外に求める必要があった59。一方 で生産量の少なさから国内の食糧自給はおろか輸出する余裕もなく、むしろ狭小な需要 を満たすために食糧、消費財を輸入に依存しなければならなかった。生産性を向上させ るための投資や技術者が不足しており、そのため、慢性的な財政赤字、経常収支の赤字 を余儀なくされていたと考えられる。ラオスは、インドシナ半島の中央部に位置し5か 国と国境を接する内陸国である。その地理的条件から近隣諸国からの政治的、経済的、

社会的な影響を受けやすい環境にあり、それらの国々との密接な関係を保つことがラオ スの発展を左右することになる。そのため、ラオスの市場開放、国際商業取引への参加 は、インドシナ地域または、アジア経済との結びつきという意味で重要な課題であり、

その後のASEAN加盟へとつながっていった。

ラオス政府は私的所有権と企業活動の自由への回帰、契約権および相続権の確立、企 業の設立、税金の導入および外国人投資家への市場開放などが行われたこと、さらには 地域経済、ASEAN 諸国の活力を基に後進性からの脱却を図ろうとした(ヴォーラペッ

ト 2010)。1994 年には、首都ヴィエンチャン近郊とタイのノンカイの間に第 1 友好橋

が架橋され、両国の往来が容易となったことも域内経済への連結を加速した。

1985年以降、ラオスのGDPにおける農業生産の割合は徐々に低下し、工業およびサ ービス業の割合が高まっていく傾向にあった60。そのような産業構造の変化が起きる中 で、依然としてラオス経済の脆弱性は解消されていなかった。例えば1987年、1988年 には、旱魃による農業生産の縮小、政府の経済政策の突然の変更による木材(原木)の 輸出規制、また、電力の輸出価格の低下など、国内外に課題を抱えていた(Worner 1997) とされるように、干ばつや洪水などの天災に対する脆弱性、また、政府のその時々の政 策によって変更される法規制や制度など、ラオスの経済を左右するような不透明性が存 在していた。

ラオスは、1950年代から続く混乱により人的にも物的にも疲弊していた。1975年に

59 World Bank, 2015, World Development Indicators, GNI per capita, Atlas method (current US$), and Population.

60 1989年の産業別のGDPの割合は農業60.6%、工業14.5%(うち10.0%が製造業)、サービス業24.3%

であった(World Bank Database, World Development Indicators)。なお、1987年以前の産業別GDP のデータは世界銀行のデータ上公表されていない。