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第2章 ラオスの概要

第 1 節 ラオス人民民主共和国の成立と政治体制

メコン川中流域では、紀元 1000 年頃から政治的、経済的、軍事的権力集団が形成さ れ、「マンダラ」と呼ばれる小王国が多数存在する地域であったという(スチュワート -フォックス 2010)。1353 年にそれらの小王国をファーグム王が統一して成立したのが ラーンサーン王国であった。王国は約 400年間維持されたが、18 世紀中頃までに 3つ の小王国に分裂し、シャム(タイ)やベトナム、中国、ビルマ(ミャンマー)との従属 関係を繰り返しながら存在した30。1883年に中部・北部ベトナムがフランスの保護領と なった。フランスはベトナムの属国であったラオス地域についてもその権利を主張し、

ラオスもフランスの保護領となり、約70年に渡りフランス支配下に置かれた。

1945年のホー・チ・ミンを中心としたベトナム民主共和国の樹立は、ラオスにおいて も独立運動のきっかけとなり、フランス支配の下で王国政府を維持しようとするグルー プ、完全な独立を目指すグループとが対立することとなった。結果として、ラオスは1953 年にフランス連合下でのラオス王国政府樹立により独立を果たすこととなったが、内部 対立はインドシナ共産党の影響を受けたグループも加わり、その後も続くこととなった。

さらに旧ソヴィエト連邦を中心とする東側諸国と米国を中心とする西側諸国との対立で あった冷戦構造の影響を受け、第 2次インドシナ戦争に巻き込まれ国内の混乱は激しく

30 スチュアート-フォックスの『ラオス史』によると、ラーンサーン王国成立以後もビルマの侵攻や シャム、ベトナム、中国との従属関係が続いたとされている(スチュアート-フォックス 2010)。

なった。そして、ラオス王国政府の弱体化と、ベトナム戦争における米国の撤退によっ て、ネーオ・ラオ・ハックサート31がラオス全土を開放し、1975年 12月 2日にヴィエ ンチャンにおいてラオス人民民主共和国の樹立が宣言された。

ラオス建国により、第2次世界大戦以後混乱の続いたラオスで、国内の平和と安定の 実現、人々の経済水準の向上を目指した政策が行われることとなった。1970年代後半の ラオスの課題は、社会主義体制の基礎を作り経済を立て直すことにあった。そのために、

民間企業を国有化し、国家目標に従って生産する計画経済の担い手とした。一方農民の 国家管理も始められ、農民には供出義務が課せられ、都市部における供出米の配給制度 が実施された。また、価格の国家管理も行われた。しかし、長い間続いた戦争が、国土、

人民を疲弊させていたこと、社会主義体制への転換による経済産業のリーダーたちの国 外脱出を招いたことが、経済活動を低迷させた。

1979年の中国の「改革開放」政策32、1986年のベトナムの「ドイ・モイ」政策33、さ らにソ連のペレストロイカ34といった社会主義経済体制国家が市場経済メカニズムを導 入しはじめたことは、ラオスにも大きな影響を与えることとなった。ラオス人民革命党 は 1986年の第 4回党大会において政治、経済、社会のあらゆる分野において思考を転 換しなければならないという「新思考(チンタナカーン・マイ)」を提示し、市場経済メ カニズムの導入を宣言し、国家管理の市場経済による経済立て直しを始めた。以後、そ れまでの社会主義同盟国に偏った閉鎖的な国際関係は、元々関係の深かったタイ、ベト ナム、中国を含む東南アジアや欧米諸国との関係を再構築が行われ、市場経済の導入と 開放政策は、停滞していたラオス経済の開発と発展を促すこととなった。

建国以来、国家建設の中心であったのがラオス人民革命党である。ラオス人民革命党 の党員数は、2016年 1月の第 9回党大会の時点で、25万 2,879人であった35。入党の 条件は、①大衆(団体)の運動で訓練を受けた 18歳から55歳までのラオス国民であり、

②党の理想に従う政治的自覚を持ち、③経歴が明確で、革命道徳を有し、④自発的に入 党の意思があり、規約を遵守し、党費を支払う者である。35歳以下は、ラオス人民革命 青年団に所属していたことが要件となる(瀬戸 2015b )。

31 1945年に王国政府の首相であったペッサラートらによって成立された「パテート・ラオ(ラオス 人の国)」を前身とし、1953年にラオス人民党によって後に人民解放軍となった「ネーオ・ラオ・

ハックサート(ラオス愛国戦線)のことをさす。ラオス人民党は1972年に人民革命党に名称変更した。

32 1970年代末期から改革・開放政策で、経済システムを計画経済から市場経済体制に移行するプロ セスで、閉鎖的体制を改め、海外との取引を逐次自由化する政策である(渡辺利夫、佐々木郷里編、

「改革・開放政策」、『開発経済学事典』、弘文堂、42頁)。

33 1986年のベトナムにおける改革・開放政策で、資源配分方法を指令計画から市場調節へ、価格を 政府固定価格から市場価格へと転換することを決定した。「ドイモイ」とはベトナム語で「刷新」を 意味する(渡辺利夫、佐々木郷里編、「改革・開放政策」、『開発経済学事典』、弘文堂、366) 34 ソ連経済停滞打破のために1985年にゴルバチョフ書記長が採用した経済「立て直し」政策を指す。

計画重視、財政重視の社会主義的な政策から市場経済を意識した政策に変更した(渡辺利夫、佐々木 郷里編、「改革・開放政策」、『開発経済学事典』、弘文堂、471頁)。

35 Souksakhone Vaonkeo, Vientiane Times, January 23, 2016.

ラオス人民革命党の最高機関は全国代表者大会(党大会)で、5 年に一度開催され、

党書記長による政治報告、国家経済社会開発5カ年計画の提示、党規約の改正などにつ いての採択、及び党中央執行委員の選出が行われる。党中央執行委員会は、党大会で選 出され党の全ての業務を指導、決定する36。党中央執行委員会を代表するのが党政治局 であり、政治局員は国家主席、首相、副首相、外務大臣など国家機関の要職を兼務する37。 党最高位は、党書記長であり、2016 年 1 月の党大会において、前書記長のチュームマ リー・サイニャーソンに代わりブンニャン・ヴォーラチットが就任し、以下政治局員も 一新された。政治局の下には当書記局が設置されており、さらに党中央事務局、党中央 組織委員会、党中央宣伝訓練委員会、党中央検査委員会、党中央外交委員会国家政治行 政学院等の機関が設置されている。

ラオスでは、党指導部と国家機関の要職の多くが重複しており、1986 年の第 4 回党 大会の決議に従い、各党組織の長と国家・行政機関の長を同一人物が兼務する体制が採 られている。つまり、各省庁党委員会、県レベル党委員会、郡レベル党委員会の書記が、

各省大臣、県知事、郡長を兼任しており、党と国家の関係は一元的で、党機関に意思決 定権が集中しているということである(瀬戸 2015b)。

国家の基本法である憲法は、ラオス人民民主共和国の建国から16年を経た1991年に 初めて制定され(以下 1991年憲法)、その後2003年に改正された(以下、憲法)。1991 年憲法では、前文で、ラオス人民革命党がインドシナ共産党に起源を有すること、並び に党が祖国解放を行った業績が記され、ラオスが人民民主共和国であると定めている。

「第1章 政治制度」では、ラオス人民革命党が政治制度の指導的中核であると定め、

党の指導的役割が憲法に明記され、国会とすべての国家機関が民主集中原則に従って組 織され、活動することが定められており、社会主義型政治制度の基本原則が規定されて いる。

「第2章 経済・社会体制」では、ラオスの経済体制が多様な部門から構成されると 定められ、所有形態として、国家的所有、集団的所有、個人的所有の他に、国内の資本 家の私的所有、ラオスに投資する外国人の所有、の 5つが認められている。土地に関し ては、国民全体の所有に属する国家的所有が定められており、また、経済管理について は、国家による調整を伴う市場経済メカニズムに従って実施すること、外国との経済関 係を促進することなどが定められている(瀬戸 2015b)。

2003年に改正された憲法では、経済体制について、工業化・近代化の促進、地域経済 と世界経済との結合の強化が新たに規定されるとともに、外国投資誘致を奨励し、投資 家の財産と資本を国有化しない点、知的財産権の保護についての規定が明記された。

1997年のASEAN加盟以降、ASEAN自由貿易地域(ASEAN Free Trade Area: AFTA)

36 20161月に開催された第10回党大会において69名の委員が選出された。

37 20161月に開催された第10回党大会において11名の局員が選出された。

や世界貿易機関(World Trade Organization: WTO)加盟を見据えた経済発展の加速と外 国からの投資の奨励・保護を重視していることがわかる。また、1991年憲法では明記さ れていなかった、「社会主義」というイデオロギーが明記された。前文では、現在の改革 事業の実施が社会主義体制へと移行する基本条件を建設するためであることが明記され、

経済体制に関する条文においても市場経済メカニズムが社会主義の方向に従った調整の 下に行われることが規定された。さらに、新たに国防=治安の章を設け、国民の国防義 務、軍・警察の強化、軍・警察の生活保障が新たに規定された。

ラオスは人民革命党を中心とする中央集権による国家体制の一方で、地方、つまり県 の統治に関しては県知事が大きな決定権を持っているということは半ば常識のように周 知されているが、これは県知事制の下でのラオス人民革命党による地方を支配するメカ ニズムでもある(瀬戸 2015b)。

第 2 節 地理的概要と民族