第 4 章 リスクマネジメントの困難性の理論的考察
4.4. プロスペクト理論による考察
いう個別効率性と全体効率性が⼀致しないような現象が現れて、組織は「合理的に“失 敗”するという不条理」(菊澤 2016)に陥る可能性がある。Kutsch and Hall(2010)の 分類のうち、“⾮決定性”(undecidability)および“タブー”(taboo)には、この取引コス トが強く影響している可能性がある。
取引コスト理論に基づく分析・考察は、リスクマネジメントの実践上の難しさへの 効果的な対応⽅法について有益な⽰唆を与えてくれる。取引コスト理論によると、取 引コストの⼤⼩には、資産特殊性、不確実性、取引頻度といった取引状況の特徴が関 係している。このことから、リスクに関する個⼈の経験や知識の共有、不確実性の客 観的な評価、柔軟な意思決定が取引コストの削減につながることが導かれる。さらに、
すべての利害関係者は限定合理的であるという前提に⽴ち、組織の⾮効率性や不合理 性を持続的に排除できるような「批判的合理的構造」(菊澤 2009)が備えられている ことも重要である。
4.4. プロスペクト理論による考察
続いて、⼈間がもつ認知バイアスの影響について考察する。たとえ限定合理性が緩 和されたとしても、不確実性が残る状況では必ずしも合理的な判断がなされるとは限 ら な い 。 不 確 実 性 下 に お け る 意 思 決 定 モ デ ル の 1 つ と し て 、 プ ロ ス ペ ク ト 理 論
(Kahneman 2011=2014; 友野 2006)がある。プロスペクト理論では、⼈間が確率や頻 度についての判断を下すときに⽤いる⼀般的なヒューリスティクスを前提として、確 率に対する⼈間の反応が線形でないこと、すなわち合理的判断からのバイアスが⽣じ ることを説明している。
プロスペクト理論から導かれる⼈間の価値評価の重要な特性として、“参照点依存性”
および“損失回避性”がある。“参照点依存性”とは「価値は、参照点からの変化または それとの⽐較で測られ、絶対的な⽔準が価値を決定するのではない」(友野 2006)と いう性質である。また、“損失回避性”とは「損失は、同額の利得よりも強く評価され る、つまり、同じ額の損失と利得があったならば、その損失がもたらす『不満⾜』は、
同じ額の利得がもたらす『満⾜』よりも⼤きく感じられる」(友野 2006)という性質 である。図 4.2は、プロスペクト理論における価値関数のグラフを表している。“参照 点依存性”によると、グラフの原点が参照点となり、価値(=満⾜度)は参照点からの
相対的な利得または損失によって決まる。“損失回避性”によると、たとえ参照点から の利得と損失が同じであっても、価値に変換すると、プラスの価値よりマイナスの価 値の⽅が⼤きいという⾮対称性を⽰す。
図 4.2:プロスペクト理論の価値関数
これらを再び図 4.1の意思決定モデルに当てはめてみると、リスク対応策を含んで いない当初計画(ベースライン)が参照点となり、リスクRへの対応策を実⾏すべき 条件である 𝑃 𝐿 𝑃 𝐿 𝐶 𝑇 の左辺は「利得」、右辺は「損失」とみなすことができ る。損失は同額の利得よりも 𝑘 倍(𝑘 1)⼤きく評価されると仮定すると、同条件 は 𝑃 𝐿 𝑃 𝐿 𝑘 𝐶 𝑇 となり、リスク対応策の実⾏を回避する(元々の計画をなる べく変更しない)⽅向にさらにバイアス(偏り)がかかる。Kutsch and Hall(2010)の 分類のうち、“⾮話題性”(untopicality)および“態度の保留”(suspension of belief)は、
⼈間の認知バイアスの影響を強く受けている可能性がある。
プロスペクト理論によると、認知バイアスの元となるヒューリスティクスによる判 断は“⼆重プロセス理論”(Kahneman 2011=2014; McAfee and Brynjolfsson 2017=2018; 友 野 2006)におけるシステムⅠによって直感的に⾏なわれていると想定される。ここで、
4.4プロスペクト理論による考察 73
⼆重プロセスとは⼈間が持っている2つの情報処理システムのことであり、1つは、
直感的、連想的、迅速、⾃動的、感情的、並列処理、労⼒がかからない等の特徴をも つシステムで、システムⅠと呼ばれ、もう1つは、分析的、統制的、直列処理、規則
⽀配的、労⼒を要するといった特徴で表わされるシステムであり、システムⅡと呼ば れる。システムⅠとシステムⅡは相補的な関係にあり、システムⅠが問題に対して素 早く答えを⾒付ける⼀⽅、システムⅡはシステムⅠが素早く決定したことを監視して、
必要に応じてそれを承認したり、修正や変更を加える役割をもつ。しかしながら、シ ステムⅡがシステムⅠを必ずしも修正できない場⾯が数多く存在し、その代表的なも のの1つがリスクマネジメントにおける意思決定であると考えられる。認知バイアス に起因するリスクマネジメントの難しさに対応するには、システムⅠとシステムⅡを いかに効果的に連携させるかが重要となる。
図 4.3:⼆重プロセス理論に基づく意思決定モデル
(出典:Croskerry 2009を参照し筆者修正)
図 4.3は、Croskerry(2009)が⽰した⼆重プロセス理論に基づく意思決定のモデル である。元々は医療分野における診断推論のモデルだが、リスクマネジメントの意思 決定にも当てはまると考えられる。⼈間がある事象を観察すると、まずパターン認識
が⾏われ、過去の記憶と⼀致した場合にはシステムⅠが優勢になり、⼀致しない場合 にはシステムⅡが優勢になる。システムⅠは、本能、感情、過去の学習結果などを並 列処理して直観的な判断結果を⽣成する⼀⽅、システムⅡは、理性に基づいて合理的 な判断結果を出⼒し、相互のインタラクションによる補正を経て最終的な意思決定が
⾏われる。ただし、過剰学習や慣れの影響でシステムⅡからシステムⅠに制御が移⾏
したり、システムⅠの判断をシステムⅡが取り消したり、逆にシステムⅡの判断をシ ステムⅠが上書きするなど、2つのシステムは頻繁に切り換わる。Croskerry(2009)
は、最適な意思決定を⾏うためには、2つのシステムを適切なバランスで“混合”する ことが重要であると述べている。
⼆重プロセスに対する別のアプローチとして、上記のようにシステムⅡを意図的に 起動してシステムⅠをモニタリングするのではなく、システムⅠがもつさまざまな特 性をむしろ積極的に活⽤するという⽅法も考えられる。このアプローチは、“ナッジ”
(nudge)と呼ばれる。ナッジには「軽く肘でつつく」という意味があるが、ここでは
「選択を禁じることも経済的なインセンティブを⼤きく変えることもなく、⼈々の⾏
動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素」(Thaler and Sunstein 2008=2009)と定義される。良い選択アーキテクチャーを設計するための原則として、
Thaler and Sunstein(2008=2009)は以下の6項⽬を挙げている。
1. デフォルト
デフォルト・オプションをうまく活⽤する。与えられた選択にデフォルト・
オプションがあると、⼈間はそれが⾃分にとって良いかどうかに関係なく現 状維持バイアスからその選択肢を無意識的に選ぶ傾向がある。
2. エラーを予測する
⼈間は必ずミスをするという前提のもと、エラーをあらかじめ予測してその 予防⼿段をシステムの設計に埋め込む。(同様の仕組みは、⼯場などの製造ラ インの改善においてはポカヨケと呼ばれている。)
3. フィードバックを与える
⼈間のパフォーマンスを向上させる最善の⽅法はフィードバックを与えるこ と。操作がうまくできているかミスをしているかの適切なフィードバックを 与える。