はじめに
本章では、リューベックとダンツィヒに視点を置き、15世紀後半から
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世紀にかけて のバルト海商業を取り上げる。中世後期から近世にかけてのヨーロッパは、二つの大きな危機を経験している。すなわ ち、ペスト(黒死病)の蔓延により大幅な人口の減少を招いてしまった
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世紀後半から15
世紀にかけての危機と、三十年戦争やイギリス革命などの大きな出来事が続く、いわゆ る「十七世紀の危機」である。一方、この二つの危機の時代に挟まれた16
世紀のヨーロ ッパは経済の拡大期に当たる。すなわち15
世紀末から17
世紀初頭までを含めて「長い16
世紀」と呼ばれるこの繁栄期は、ヨーロッパ北西部を中心とする資本主義世界経済の成 立期に相当する。この経済の拡大期に、ヨーロッパの西部や南部では、人口の増大に食糧 の生産が追いつかず、しばしば飢饉が発生するようになっていた。そのため増えつつある 人口の食糧を賄うために穀物をいかに確保するかということが大きな課題となった。とり わけ低地地方は都市が密集しており、都市部の人口を養うには食糧を近郊から調達するだ けでは不十分であり、遠方から穀物を調達する必要が生じていた。このような穀物不足を解消していく上で、経済史上きわめて大きな意味を持つことにな ったのが、プロイセンやポーランドなど、以前から余剰穀物を輸出していたバルト海南岸 に広がる穀倉地帯である。これら穀倉地帯を後背地に持つダンツィヒやケーニヒスベルク
(現カリーニングラード)といった港湾都市は、穀物の積出港として位置づけられ、貿易 を通じて西欧側との商業関係を強めていった。
一方、穀物輸送の中心を担ったのが、
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世紀以降バルト海へと盛んに進出し、やがて「最 初の近代経済」を打ち立てていくオランダである。オランダの繁栄に最も寄与したといわ れる商業・海運業のなかでも、とりわけ重要な部門が、このバルト海貿易であったことは よく知られる。それゆえバルト海貿易はオランダの「母なる貿易」といわれ、多くの研究 者の注目を集めてきた(1)。しかし、いうまでもなくバルト海商業は、元来ドイツ・ハン ザの掌握下にあった。オランダ商業資本のバルト海進出は、まずは前章で検討したような ハンザ商人との摩擦を伴いつつ、やがては従来のバルト海商業の構造を大きく変えていく。それゆえ、ハンザ史においてハンザ後期とされるこの時代は、グローバルな視野の中で 見れば、「ヨーロッパ世界経済」として誕生・進化していく資本主義世界経済の形成期にも 相当する。ハンザの商業も、オランダ商業を介してこのグローバルな経済の動向とは無縁 ではないのである。「ヨーロッパ世界経済」の形成は、ハンザの商業に具体的にどのような 影響を与え、またハンザ、リューベックの衰退とどのように関わっているのであろうか。
以下では、主に港湾税台帳の分析結果に依拠しながら、ハンザ・北欧商業圏が、「ヨーロッ パ世界経済」の商業圏に包摂されつつあった時代のバルト海貿易を検討していくことにす る。ハンザの盟主と謳われたリューベックとバルト海最大の穀物輸出港へと急成長を遂げ るダンツィヒを考察の対象とすることにより(2)、世界経済の構造的な再編成が、ハンザ商 業圏内の貿易関係にいかなる影響を与えたか、両市の取引相手地域やバルト海・北海間の 通商動脈の移動という問題と関連させながら、その一端を探っていくことにしたい。
1.ダンツィヒの海上商業
前章で検討したようなオランダのバルト海進出は、統計的史料にどのように反映されて いるであろうか。この節では、ダンツィヒで徴収されたプファール税の記録に依拠しなが ら、オランダのバルト海進出がこの海域の海上商業にもたらした影響を、まず取引相手地 域の面から探ってみることにしたい(3)。プファール税(Pfahlgeld)は、ダンツィヒとエルビ ング(現エルブロンク)において、港湾施設整備のために輸出入商品に課せられた税であ り、後にポンド税と一体化(1454年)してからは、商品と船舶双方が課税の対象となった
(4)。
表5―1 は、プファール税台帳に基づいて、ダンツィヒに寄港した船舶を船籍地ごとに 分類したものである。寄港船舶の総数を見ると、
1460
年が282
隻であるのに対し1583
年 が2,230
隻となっており、15
世紀後半以降、ダンツィヒにおける取引規模が拡大していっ たことが窺える。また、ダンツィヒに出入りした船舶の船籍地の数は、同じ時期に39
地 点から152
地点へと増加しており、取引規模の拡大が取引相手地域の拡大をも伴っていた ことがわかる(5)。船籍地の内訳を見ると、低地地方からの入港の著しい増加が明らかである。
1460
年にお ける低地地方全域からの入港記録は11
隻であるが、これは後述する十三年戦争の影響を 受け、平年を下回っているものと考えられる(6)。しかし、1476(1475)年、1530 年、1583 年にかけてそれぞれ160
隻、235隻、1,015隻と増加を続け、ダンツィヒ寄港船舶全体に 占める割合も、24%、36%、46%と上昇傾向を示している。低地地方各地域の内訳を見る と、ホラント地方からの寄港数が一番多く、次いでフリースラント、フロニンヘンとなり、オランダ(北ネーデルラント)諸邦の船舶が大多数を占めていたことがわかる。ちなみに ホラント地方に関して都市ごとの内訳を示しておくと、
1583
年の上位五都市は、エンクハ イゼン117
隻、ヴリーラント116
隻、メデムブリヒ85
隻、アムステルダム62
隻、ホール ン55
隻となる(7)。かくして、
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世紀後半以降のダンツィヒの貿易規模の拡大、並びに海上貿易におけるオ ランダ船舶の比重の増大が明らかになった。次にヴェンド・ハンザ地域の船舶を見ていこう。この項目には、リューベックを中心と したロストック、シュトラールズント、ヴィスマルなどのバルト海南西海域一帯の都市が 含まれる。この地域の船舶は、1460年に
109
隻、1583
年に288
隻が記録されており、こ の期間に二倍強の増加を確認することができる。その中からリューベック船舶のみを取り 出すと、1460年は59
隻、1476(1475)年は168
隻、1530年は24
隻、1583年は66
隻と なる。ところが、ダンツィヒ寄港船舶全体に占めるヴェンド・ハンザの比重を見ると、そ れは著しい低下傾向を示す。1460年の109
隻は、総数282
隻の約39%を占め、ダンツィ
ヒの取引相手地域の中で最大のシェアを誇っていた。ところが、1583 年の288
隻は、総 数2,230
隻の約13%を占めるに過ぎない。さらにリューベック船舶のみを取り出して見れ
ば、もっと著しい比率の減少が見られる。すなわち、1460年の59
隻は、ダンツィヒ寄港 船舶全体の約21%を占めるのに対して、1583
年の66
隻は、全体の僅か3%を占めるに過
ぎないのである(8)。ダンツィヒにおけるオランダ船舶の大量入港は、リューベック船舶の比重を著しく低下
させていった。これは、ダンツィヒ以西の東西間商業が、リューベックを経由するルート からエーアソン海峡を経由する海路へと、流れを移していったことを意味する。
ハンザ最盛期におけるバルト海・北海間商業の基幹線は、東からノヴゴロド・ダンツィ ヒ・リューベック・ハンブルク・ブリュージュ・ロンドンを結ぶルートであった。このう ちリューベックとハンブルクとの間は、オルデスローを経由する場合であれば、まずリュ ーベックからオルデスローまでが水路(トラーフェ川)で、さらにオルデスローからハン ブルクまでが陸路で連絡されていたため、商品を川船や荷車に積換える必要があった(9)。
この東西間の動脈は、リューベックにおいて、ベルゲンやニュルンベルクに至る南北のル ートと交差しており、リューベックは、商品の積換えを通じて、北欧・ハンザ商業圏にお ける一大商品集散地として繁栄してきたのである。しかしながら、早くも
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世紀中頃に は迂回航路を経由したオランダ船のバルト海進出が記録され(10) 、15
世紀にその頻度が増 してくると、前章でも指摘したように、オランダ商人の受け入れを巡ってハンザ都市の間 には考え方の違いが生じていたのだった。リューベックは、自らの意向をハンザの商業政策に反映させて、リューベックやブリュ ージュといったハンザの通商拠点における一連のシュターペル改革(規制強化、詳しくは 第
6
章注(8)を参照)を通じてバルト海・北海間を流通する高価な商品のこれら都市への集 荷と通過とを義務付けていった。しかし、こうした保守的ともいうべきリューベック主導 の政策は、ダンツィヒやリーガ、レーヴァルといった、オランダとの経済関係構築に積極 的だったバルト海東部のハンザ都市の反発を招くばかりであった(11)。15
世紀も後半にな れば、低地地方の北部(オランダ)が海路バルト海商業を営む際の通商拠点として、さら に低地地方南部では、ブリュージュに代わってアントウェルペンがいよいよ世界商業の中 心として発展していく兆しが窺えるはずであった。にもかかわらず、リューベックを中心 とするハンザ主導部は、ブリュージュ重視の方向を変えず、しかもシュターペルの維持・強化という伝統的な独占政策に依拠していくのだった。エーアソン海峡を経由する東西間 の通商の大動脈がダンツィヒとオランダの間に形成されつつあった頃、ハンザ内部にはオ ランダの受け入れのみならず、こうした政策をめぐっても亀裂が生じていたのである(12)。
ところで、上で確認されたようなダンツィヒにおけるオランダ船舶の増大が穀物輸出の 増大と関連していたことは繰り返すまでもないことだが、ダンツィヒの穀物集散地として の発展を決定づけた政治的な契機としては、十三年戦争(1454−1466 年)の和平条約、
第二トルンの和議を挙げることができるだろう(13)。ドイツ騎士修道会の支配下にあった ダンツィヒをはじめとする諸都市が、ポーランドと共に騎士修道会に立ち向かうことにな った背景の一つには、穀物取引拡大という方向での両者の経済的利害の一致があった(14)。
第二トルンの和議により騎士修道会は、ポーランド王を宗主(Oberherr)として仰ぐこと になり、西プロイセン、エルムラントなどがポーランド領となった。ここにダンツィヒと ポーランドとの間の活発な取引を妨げていた政治的障壁は取り除かれ、ダンツィヒは、ヴ ィスワ川流域に広大なヒンターラントを持つことになった。