はじめに
ユトランド半島の付け根の西側に位置するハンブルクは、その東側に位置するリューベ ックとともに、バルト海と北海を結びつける役割を担っていた。リューベックとハンブル クの間には、両海域を連絡する通商動脈が延びており、この動脈における東西それぞれの 結節点をなしていたという点で、双方の都市は、共通する利害のもとにあったといえる。
とはいえ、ハンザ時代のハンブルクは、盟主リューベックに対しては従属的な立場にあ り、その商業的な役割は、あたかもリューベックにとっての北海側の外港とでもいえるも のであった(1)。両者の立場が逆転するのは、ハンザの衰退が明白となり、大西洋経済が 誕生した
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世紀以降のことである。オランダのバルト海進出に伴う新たな通商動脈の形 成がリューベックの商業的重要性を低下させた一方(第5
章参照)、大西洋貿易の開始は ヨーロッパ内部でも北海に近い地域の経済的比重を増加させ、その一翼を担ったハンブル クは、ヨーロッパの主要港としてこれまでにも増して貿易規模を拡大させていった。今日 でもハンブルクは「自由ハンザ都市(Freie und Hansestadt)」を名乗るとはいえ、同市 が本格的な繁栄を迎えたのは、実はハンザ衰退期以降であった。本章では、ハンブルクが 中世後期から近世初頭にかけて、ハンザの港湾都市という枠を超えてヨーロッパの主要港 へと発展を開始した時期を取り上げ、リューベックとは異なるハンブルクの商業基盤に着 目することにしたい。研究動向に触れておけば、最近の我が国の西洋経済史学界では、国際商業やハンザ史に 関する研究が盛んとなったものの、ハンブルクの商業に光が当てられることは、これまで さほど多くはなかった。近世以降のハンブルクが貿易港として発展していくことは、多く の概説書において指摘されているとはいえ、その商業に焦点が当てられた研究は、ハンザ の時代並びに環大西洋経済拡大の時代ともに十分な量に達していない。近年でこそ、ハン ザ期のハンブルク都市経済に関する斯波照雄(2)や、ハンブルクと世界経済との関係を考 察した菊池雄太(3)、それに
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世紀の大西洋貿易との関連から同市商業を論じた玉木俊明(4)の一連の成果があるが、未だにハンブルクの商業に関しては多くの点が明らかにされ ないまま残されている。その一つにヨーロッパ大陸内部の諸地域との商業関係が挙げられ よう。この課題については、高橋清四郎と馬場哲の研究成果があるとはいえ、前者はエル ベ川における水運の担い手や水路に、また後者はシュレージェンの繊維工業にそれぞれ考 察の中心があり、ハンブルクの内陸商業の展開自体に焦点が当てられているわけではない
(5)。このような我が国の研究状況をかんがみ、その欠落点を補うべく、本章では既存の ドイツの研究成果を整理しながら、これまで具体的に解明されることのなかったハンブル クの大陸内部との商業関係に触れてみたい。以下では、およそ
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世紀から17
世紀までと 考察対象期間をやや長めに設定し、ハンザの港湾都市からヨーロッパの主要港へと高い次 元に向けた転進を実現しつつあった時期のハンブルクの商業に関して、内陸商業に考察の 比重を置きつつ素描を試みることにする。1.ハンブルクの商業発展 ― ハンザ時代からの概観 −
ハンブルクの商業発展を支えた要因の一つに、その極めて恵まれた立地条件があったこ とは論を俟たないであろう。同市の主要な交易軸は、エルベ川河口奥地に開けた河口内港 を基点として(6)、リューベックを経てバルト海方面に伸びていただけでなく、エルベ川 を辿ってヨーロッパ大陸内部に達していたほか、海路北海・大西洋諸港へと向かう軸も存在 していた。この点、同じくバルト海・北海間の内陸路・海路の積換え港として発展したリュ ーベックと比べてハンブルクのヒンターラントは遥かに広大であり、多様な地域がそこに は含まれていた(7)。
こうした立地条件を背景として、ハンブルクはハンザの主要な商業拠点として発展して いく。同市は、かねてより存在していた旧市街とホルシュタイン伯であるシャウエンブル ク家のアドルフ三世により建設された新市街とが融合して成り立っていくが、遅くともそ の新市街が生まれつつあった
1186/87
年以降、ハンブルクには複数の港が存在するように なった(8)。こうした港湾施設の存在は、海上商業のみならずエルベ川を利用する交易の 展開に繋がったものと考えられる。それは、この頃領邦君主より付与された各種特権の存 在からも確認することができる。トイアーカオホに従ってそれらを引用すれば、まず1189
年に皇帝フリードリヒ・バルバロッサが付与したとされる特権では、ハンブルク・ノイシ ュッタットの商人にハンブルク・北海間のエルベ川における通行自由・非課税権が与えられ た(9)。1190-1191
年には、ザクセン公ハインリヒ獅子公が、同じくノイシュタットに対 してハンブルクより上流の彼の支配領域内のエルベ川における非課税権を付与した。さら に1216
年には、ハンブルク全市(Gesamtstadt)がホルシュタイン伯アルブレヒトから、同市より上流域での租税・関税特権を与えられた(10)。エルベ川を利用したドイツ内陸部 との交易関係が恒常的に繰り広げられていたことが、これらの記録からは窺うことができ る。やがて、バルト海ハンザ都市の建設とともにハンザ商業がユトランド半島の根本を連 絡路として東西間で繰り広げられるようになると、バルト海方面への窓口としてのハンブ ルクの商業的な役割がいよいよ鮮明化していく。
ハンブルクとバルト海側のリューベックとは陸路もしくは水路(トラーフェ川)で結ば れ、ハンザ発展期・盛期のバルト海・北海間商業はここに集中した。それゆえ、この経路の 安全確保は早くから問題とされ、例えば
1241
年にリューベック・ハンブルク間で締結され た条約では、両都市が共同でこの区間の安全確保を図ることが取り決められたほか、同年、ザクセン公アルブレヒトは、この区間を往来する商人から代金の徴収と引き換えにこの区 間で護衛を提供する旨を申し出た。さらに
1304
年には、ハンブルクとリューベックが、この区間の安全確保のために護衛団を組織することを決定しており、その構成員としてリ ューベックが
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名、ハンブルクが8
名の人員を提供することとされた(11)。このような 点から、西欧とバルト海・ハンザ諸都市、さらにその先のノヴゴロドとを結ぶハンブルク・リューベック間内陸路の重要性が窺えるが、この護衛団形成のための提供人員の比にも示 されるように、当時実際にここを多く利用していたのはリューベックの商人であったと推 測される。ブラントによれば、遅くとも
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世紀中頃までハンブルク商人が直接バルト海 に向かうことは少なかったという(12)。一方、リューベックの対西欧商業を輸送面で支え ていたのはハンブルク船舶であった。この頃のハンブルクの取引の重心は、低地地方・フラ ンドル方面にあったと考えられる(13)。とはいえ、ハンブルク以西の貿易もリューベック・ハンブルク間経路の延長軸上にあり、これはハンザのバルト海・北海間商業の西半分に該当 する。
14、 15
世紀のハンブルクの商業をある程度包括的かつ詳細に記録した史料としては、ポ ンド税台帳など関税台帳の存在が知られる。ここでは、1368
年、1369
年のポンド税台帳、1418
年の関税台帳の記録に基づき、ハンザ盛期におけるハンブルクの商業のおおよその規 模と性格を見ておくことにしたい。まず
1368
年のリューベック・ポンド税台帳の記録から。これはリューベックの商業の記 録であるが、上記内陸路に位置するオルデスロー(ハンブルク・リューベック間の都市)と の取引記録を含むので、バルト海・北海間の動脈のハンブルク・リューベック間の取引の記 録として用いることも可能である。第
1
章で取り上げた記録を再度確認しておこう。この年、ハンブルク方面オルデスロー からリューベックに向かった商品は、金額にして136,280
リューベック・マルク(以下マ ルクと略)に達し、その内訳は毛織物が105,870
マルクと全体の78%もの高比率を見せ、
以下主要商品を取り上げれば小間物、樽、イングランド産毛織物、油、米穀、ワインなど の商品が、北海方面からリューベックに送られた。逆方向に流れた商品は、全体で
37,318
マルクに達し、その内訳はバター4,816 マルクを筆頭に、以下蜜蠟、鰊、銅、小間物、亜 麻、毛皮、オスムント鉄などを主な商品として挙げることができる。これら主要商品の一 覧からは、ハンブルク・オルデスロー・リューベックのルートを用いてハンザの代表的な商 品が北海・バルト海で流通していたことがわかる。なかでも毛織物はハンブルクのリュー ベック・バルト海向け商品の中で圧倒的ともいえる比重を見せ、この年はリューベックに 輸入された約三分の一がダンツィヒやリーガなどのバルト海諸都市に向けて再輸出された(14)。
1369
年のハンブルクのポンド税台帳からは、輸出向け商品を確認することができる。こ の年ハンブルクから輸出された商品は、主なものを取り上げれば、ビール、麻・亜麻織物、毛織物、蜜蠟、毛皮製品(Werk)、鰊、鉄、ライ麦、銅、豚・豚肉、木材、オスムント鉄、
深鉢(Becken)、蜂蜜、バター、燕麦、小麦、亜麻(Frachs)、ホップ、コルドバ革など となる(15)。このうちビールはハンブルクを代表する手工業製品であり、輸出品であった が、ここから輸出される商品の多くは、一般にハンブルクの外部、すなわちバルト海沿岸 各地ないしドイツ内陸部から同市にもたらされ、海路北海沿岸各地に送られる商品であっ たと考えられる。これら商品の輸入元と目的地は、台帳の各取引記録から見て取ることは できない。中世後期ハンブルクの取引規模を推し量る数値として、シュプランデルが同台 帳をもとに取り上げた出港船舶数を見ると、1369年(正確には
15
ヶ月間)にハンブルク を出港した船舶は合計598
隻であった。但しこれら船舶のうち、いわゆるコッゲ船とみな しうるのは46
隻のみで、ハンブルク港を出入りする船舶の十分の九は規模の小さな船で あり、船舶所有者の名前から判断して、ホラント・フリースラントの沿岸航海者が運航して いた船舶であると考えられる(16)。一方、1418年の関税の記録によると、シュプランデルは同年(15 ヶ月間)ハンブルク を出港した船舶数として