はじめに
中世ドイツ最大といわれる人口規模を誇ったケルンは(1)、ドイツ西部ニーダーライン・
ヴェストファーレン諸都市の中心都市に位置づけられる。ケルンは、織物、金属をはじめ とする各種輸出向け手工業を発展させ、商業と工業相互の有機的な発展関係を実現すると ともに、その取引網はライン川水系を中心にヨーロッパ各地に及んでいた。ケルンはまた、
ハンザ都市でもあった。しかし、組織としてのハンザに対するケルンの関与の度合いは、
それほど高くはなかった。例えば、ハンザ・イングランド関係の展開からは、ハンザ内部 におけるケルンの微妙な立場をうかがうことができる。ことに
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世紀中頃の両者の関係 悪化・戦争に際してケルンがハンザを一時的に離れ除名されたということは、ハンザ内部 における利害の対立を対外関係を通じて顕在化させてしまい、組織としてのハンザの弱体 化を内外に露呈させてしまったという点で重要である。(以下の補論参照。)ケルンは1474
年のユトレヒト条約締結からしばらくしてハンザに復帰したのであるが、このような経緯 からは、同じくハンザ都市であるとはいえ、ケルンがリューベックを中心とするハンザ都 市(ヴェンド都市)とは異なった地域経済圏に属し、異なった経済的利害の下にあったと いうことが推測される(2)。本章では、各地に延びるケルンの取引網のなかからリューベ ック・バルト海方面との取引に焦点を当てるとともに、リューベックとは異なる内陸のハ ンザ都市ケルンの商業基盤の存在を浮き彫りとしてみたい。ドイツ中世都市の中でもケルンは最も研究の充実した都市の一つであり、商業史に限って も、その研究の蓄積は相当な量に達する。この分野での主な研究者としては、『中世ケルン 商業・交通史史料』(3)の編纂その他多くの業績を残したクスケをはじめ、ランケ、ケレ ンベンツ、グラムラ、イルジーグラー、ヒルシュフェルダーなどが挙げられよう(4)。ま た、ケルンないしライン地域と北ドイツ・ハンザ地域との商業を扱った研究としては、デ ッセラー、グラムラ、ケレンベンツの業績がある(5)。
このように、ドイツの歴史学界には商業・貿易史の面からケルンとドイツ、ヨーロッパ 各地との経済関係を解明していこうとする研究が豊富に存在する。しかし、我が国では他 地域、とりわけ遠方との商業関係という側面からケルンを取り上げることはあまりなされ ていないようである。ケルンは手工業や手工業者組合、法制史の面からは、ほかの都市に もまして注目されてきたにもかかわらず、その商業・貿易の実態については、我が国では どちらかというと既知の事柄として扱われ、ドイツ本国における研究の紹介さえ十分には 行なわれていないように思われる(6)。こうした状況にあって中世後期から近世初頭にか けてのケルンの北ドイツ・バルト海方面の商業を検討することは、当時のヨーロッパにお ける地域間商品流通構造に一条の光を当てるとともに、我が国のケルン経済史研究の欠落 点をわずかでも補うことになると考えられる。以下ではまず、第
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節でヨーロッパにおけ るケルンの広範な取引網を概観する。続いて第2
節でヒルシュフェルダーなどのドイツに おける研究成果に依拠しながら、ケルン商人の北ドイツ・バルト海沿岸地域における商業 活動を見ていくとともに、交易路に注目しながらリューベックなどの沿岸地域のハンザ都 市とは異なるケルンの経済基盤の検出を試みることにしたい。1.ケルンの取引網
ケルンをドイツのみならずヨーロッパの一大経済都市へと導いた要因の一つは、繰り返 すまでもなく、商業と手工業双方の平行した発展を実現した点に見出されよう。ケルンで は、有力商人の主導の下で周辺中小都市、農村との間に原料や中間製品の供給とその仕上 げ、再輸出を軸とする有機的な分業圏、すなわちケルン「経済統一体」が形成されていた と考えられている(7)。ケルンは、周辺農村を含む近隣諸地域にとっての経済的中心であ った。のみならず、原材料の供給や手工業の発展を通じてヨーロッパ的規模の国際的な通 商拠点へと成長を遂げた。輸出向け手工業と遠隔地商業とが相互に刺激しあうというケル ンの発展の形は、ハンザの大都市の中ではあまり例がなく、この点でもっぱら遠隔地商業 を発展の基盤としたリューベックなどのバルト海沿岸ハンザ諸都市の発展形態とは異なる。
これらのハンザ諸都市で発展した工業としてはせいぜいビール醸造と造船が挙げられるだ けなのに対して、ケルンは毛織物、絹、亜麻糸、金属、兵器、皮・毛皮などの手工業部門 を発展させ、それがまた原材料の輸入並びに製品の輸出を通じて商業を一層活発にしたの である。
こうした商業と工業双方の有機的な発展を交通面で支えたのが、ケルンから各地へ伸び る交易路の存在である。ケルンが地理的に恵まれた立地条件の下にあることは、これまで も頻繁に指摘されてきたが(8)、なかでも重要だったのは、低地地方の主要な商業都市で あるアントウェルペンやブリュージュ、デフェンター、カンペンなどからケルンを経てフ ランクフルト(・アム・マイン:以下マイン川のフランクフルトを指す)を結ぶ動脈とも いえる交易軸の存在である。この交易軸において、南東からまずフランクフルトとケルン の間はライン川によって連絡され、ケルンからアントウェルペン、ブリュージュまでは主 に陸路が用いられたほか(9)、ケルンからデフェンター、カンペンまではライン川、エイ セル川を経由して連絡された。以下では、この南東から北西方面に伸びる交易軸に視点を 据えながら、ケルンがこの動脈に接続する各地とどのような商品を取引していたかを見て いくことにしたい。
まずケルン以南のライン川水域との関係では、ライン川上流・中流、モーゼル川流域の 葡萄栽培地帯が、ケルンの商業にとって大きな意味を持った。シュトラースブルク(スト ラスブール)からはアルザス産のワインがケルンに船積みされたほか、バーデン、プファ ルツ、ラインガウ、モーゼル川流域から大量のワインがケルンに発送された。ケルンに送 られたワインは、ここで消費される以外にも多くが遠方に輸出され、特に低地地方とバル ト海地域が重要な輸出先であった。それゆえ、ケルンはハンザの「ワイン蔵
Weinhaus」
と呼ばれる(10)。
ライン川水域からケルンへは、ワインのほかに様々な食料、原材料が供給された。クスケ はラインガウ、マイン川流域を「ニーダーライン地域の穀倉地帯」と呼び、ミリッツァー もまた、ラインガウをケルンの「穀倉」と呼んでいるが、これらの地域及びモーゼル川流 域からは穀物、野菜、果実が、シュパイアーやヴォルムスからはアカネ、紅花といった染 料用植物、辛子、玉葱が、ケルンに送られた(11)。木材は、主に樅の木がライン川本流の ほかネッカー川やマイン川、モーゼル川流域から切り出された。マインツの木材集散地で は、上流から流されてきた木材が筏に組まれ、下流のケルン方面に送り出された。シュヴ
ァルツバルトの森林地帯からは、木材のほか樹脂や蜜蠟が発送された。モーゼル川流域で は、鉄がロレーヌから、ライ麦がルクセンブルクから、大麻と油(おそらくオリーブ油)が フランス方面からケルンへ送られた(12)。またライン川上流域は、高地ドイツやスイス、
イタリア方面と取引を行なうケルン商人の中継地としても重要であった(13)。
マイン川流域では、フランクフルトが中部ドイツにおける商業の拠点として、ケルン商 人にとって欠くことのできない位置を占めていた。ケルン商人は、
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世紀後半以降早春と 秋にこの地で開催される大市を定期的に訪れるようになり、毛織物(ケルン産、低地地方 産、15 世紀以降はイングランド産)、絹・亜麻織物、金属製品、皮革製品など、主に加工 品をもたらした。反対にケルン商人がフランクフルトで仕入れた商品は、原材料が多く、アルプス経由でイタリアからもたらされた香辛料、薬種、生糸、火薬、南方産果実などの 商品をはじめ、皮・毛皮、亜麻、大青、紅花、アカネなどに及んだ(14)。ここで挙げられ た原材料の仕入れのために、ケルンからは手工業者も頻繁にこの大市都市を訪れた。一方、
フランクフルトからケルンに送られた手工業製品のなかでは、高地ドイツ産のバルヘント 織(麻と綿の交織)が重要であった。こうしてフランクフルトはケルンにとって、高地ド イツやイタリア、さらには東欧南部との取引の拠点として位置づけられ、両都市の間を行 きかう川舟は、大市の開催期に合わせてその数を増した。低地地方からも、多くの商人が 大動脈(die große Straße)に位置するケルンを経由して、ライン川をさかのぼってフラ ンクフルトまでやってきた(15)。
その一方で、ケルンのフランクフルトとの関係が強まるにつれ、ケルンにとってニュル ンベルクは重要性を失っていき、ここを経由したプラハやハンガリーとの取引も、
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年以降はそれほど重要ではなくなった。しかし、レーゲンスブルクやドナウ川を経由した ウィーン方面とケルンとの取引関係はその後も続き、主に織物がヴァラキアやウクライナ まで送られたという(16)。
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世紀になるとライプツィヒの大市を訪れるケルン商人が増えた。ケルンからライプツ ィヒへは、大抵フランクフルトを経由して結ばれたが、内陸部ドイツにおける大市の繁栄 がフランクフルトからライプツィヒへと移るにつれ、ケルン商人は直接ここに赴くように なり、主に銅や銀を調達した。ライプツィヒは、ケルンにとって中部ドイツやボヘミア、シュレージェン方面との取引の拠点であった(17)。
次に、ケルンと低地地方との関係に目を転じてみよう。まずオランダ北東部(ゾイデル ゼー都市)では、ライン川から分岐してゾイデル海に注ぐエイセル川流域のカンペン、デ フェンターなどの都市が、13 世紀以降ケルン商人のバルト海方面との取引拠点となった。
とりわけカンペンは重要で、ケルン商人はここで船舶をチャーターしてイングランド産の 商品をバルト海方面に輸送することもあった(18)。こうしたバルト海への中継地としての 役割以外に、ケルンにとってネーデルラント北東部は、
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世紀以降は毛織物と家畜の供給 地として、15世紀以降は漁業の発展に支えられて魚の供給地としての役割も担った(19)。ネーデルラント南部では、ベルゲン・オプ・ツォームとブリュージュ、アントウェルペ ンがケルンの商業の拠点となったが、特にアントウェルペンとケルンとの関係が強かった。
他のハンザ都市がブリュージュの衰退が明白となった後もここを低地地方、西欧貿易の拠 点としていたのに対して、ケルンは早くからアントウェルペンをブリュージュに代わる世 界市場として重視し、こちらのほうを拠点として対イングランド、南欧商業を展開したの