― リューベック・ハンブルク間商業の記録から ―
はじめに
前章で検討したように、リューベックとハンブルクの間の内陸路は、ハンザ・北欧商業 圏を東西に貫く通商動脈の一区間をなした。この区間の内陸路は、リューベックをバルト 海・北海間の商品流通上の一大結節点へと浮上させた、いわば喉首にも相当する部分であ った。本章で検討するのは、盛期を経過した後のハンザ後期(15世紀後半―16世紀前半)
におけるリューベック・ハンブルク間の取引状況である。
さて、バルト海、北海の各地に及ぶ商品の流通を束ねていたリューベック・ハンブルク 間の商業は、すでに指摘した経済的な重要性を担ってきたといえるが、この区間の取引状 況に関するまとまった史料となると、その数は限られてくる。その数少ない史料の一つに 前章で扱った
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年リューベックのポンド税台帳があり、もう一つのものとして、ここ で扱う1436
年から1527
年にかけてのものが残るリューベック商人の申告証書(LübeckerZertifikat)がある。後者の史料に関しては、商品取引に関する記載箇所がフォークトヘア
により、1993年に『リューベック歴史・考古学会誌』に掲載されている(1)。以下では、こ のフォークトヘア編纂の申告証書に基づいて筆者が試みに行なった集計の成果に依拠しな がら、ハンザ後期におけるリューベック・ハンブルク間の取引状況の一端を明らかにして みたい(2)。まずはここで用いる史料について、基本的な事柄を一瞥しておくことにしよ う。1.本章で依拠する史料について
中世後期以降のハンブルクは、西ヨーロッパをリューベックを経由してバルト海沿岸地 域に、さらにエルベ川水系を通じてその流域の中部ドイツ・中欧に結びつける商業・交通 の要衝であった。そのため、ハンブルクに集まる商人や商品からは、様々な名目で関税が 徴収されていた。すなわち、
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世紀初頭からは、エルベ川を通航する際にヴェルク島の灯 台を目印に航行する船舶からヴェルク税(Werkzoll)が(3)、さらに15
世紀初頭になると 各商人から浮標・標柱税(Tonnen-Bakengeld)が徴収されていたが、リューベックの商人は、「かねてからの慣習」に基づきこれらの課税は免除されていた(4)。リューベックの商人 が優遇された背景に、バルト海の窓口である同市とハンブルクとの密接な経済関係があっ たことは想像に難くない。とはいえ、リューベック商人の原則非課税扱いは、しばしば両 市の間で問題とされたという(5)。
課税免除のためにリューベックの商人が行なうべき手続きは、
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年のハンブルクとの 折衝の場で取り上げられている(6)。それによるとリューベック商人は、年に一度、ハン ブルクを経由してどのような商品を取引したかを公表せねばならず、その際、商品を自ら の名義のものとリューベック市民権を持たない商人から委託を受けたものとに分類し、後 者が課税の対象となった。その具体的な手続きをフォークトヘアに従って見ておこう。年 度が替わるとリューベック商人は、大抵1月にリューベックのラートに出頭し、前年にハ ンブルクを経由して搬送・搬入したすべての商品を申告し、合わせて彼に代わって業務を 遂行するハンブルク側の代理商もしくは店主の名前と、さらにリューベックの市民権を持たない彼の取引先もしくは共同経営者から委託を受けた商品を提示して、最後に宣誓する。
するとラートは、出頭した商人本人がリューベック市民であることを確認したうえで、売 り上げに関する当商人の申告を記録した証書(Zertifikat)をハンブルクのラートに送る。こ れを受けてハンブルクでは、送付された証書の記載内容がハンブルク側の代理人が申告し た記録と照らし合わされ、照合を経た上でどの商品が非課税扱いとなるかが決定された(7)。
こうして申告証書が作成され、リューベック商人のハンブルクを経由した商品の記録が証 書として残されることになった。
リューベック商人の申告証書は、このような手続きの過程で作成されていった。リュー ベック商人がハンブルクで非課税特権を享受していたからこそ、両都市間の取引に関する 貴重な記録が生まれたと見ることもできよう。現在この一連の証書はハンブルク市文書館 に保管されており、その数は
244
記録、記録が残されている年代の幅は、1436
年から1527
年の100
年近くに及ぶ。しかし、比較的長期間の記録が残されているとはいえ、表2―1
に示されるように、記録が存在する年度は断続的に分布しているに過ぎず、しかも各年度 の証書(記録)の数を見ると、多い年(1480 年)で31
記録に過ぎない。残されている記録 の数を見る限り、リューベック・ハンブルク間の取引がすべて網羅されているとは到底思 えないわずかな数でしかない。たとえ、そこから各年度のデータを合計して数値が得られ たとしても、それは残された記録から得られた限りでの集計値に過ぎず、取引のおおよそ の特徴なり傾向なりを把握するための素材に過ぎない。こうした史料的な欠陥、限界を、以下の集計、考察に際しては十分踏まえておく必要がある。
とはいえ、断片的な記録であるにもかかわらず、ハンザ後期におけるバルト海・北海間 の内陸路の利用状況を示す数少ない史料の一つとして、この申告証書が明らかにする取引 の実態は、ハンザや北方ヨーロッパ各地の結びつきや商業に関心のある者にとって、少な からず興味深いものであろうと思われる。以下での検討は、リューベック・ハンブルク間 における取引の正確な量を確定することではなく、そのおおよその構造と特徴を探ること を目的とする。そのためのささやかな試みであることを、ここで確認しておきたい。
さて、本史料の部分的刊行に際してフォークトヘアは、各証書に通し番号を付し(以下
〔Nr.〕で表わす)、各史料番号の最上段にリューベック側の商人の名前とハンブルク側の 彼の代理商(Partner)の名前、それに証書の日付の欄を設けた上で、その下に商品取引に関 する本文を引用・掲載している。このような人物本位の編纂方法からは、フォークトヘア がこの史料を
1492−96
年のポンド税台帳と同様(8)、まずは人物誌研究のための素材とし て位置づけていたということを垣間見ることができる。実際フォークトヘアの史料解題と 分析の事例からも、彼のこの方面への関心を窺うことができるのであるが、ここではリュ ーベック・ハンブルク間の商品流通状況への関心から、あえて商品面からの分析に絞って 考察を行なっており、商人の側面からの検討にまでは踏み込んでいない。ちなみにフォー クトヘアの集計によれば、証書に登場するリューベック商人の数は合計130
名、彼らに対 応するハンブルク側の代理商の数は67
名に及ぶという(9)。ここで扱う申告証書は、これ だけの数の商人と代理商との間の商品取引の記録であるということを踏まえて、以下経路 の確認の後、第3
節で集計と分析を試みていくことにしたい。
2.リューベック・ハンブルク間の経路
史料から得られた集計値の検討に先立ち、ハンザ後期にリューベック・ハンブルク間の 取引で利用された経路について述べておこう。
第
1
章で述べたように、ハンザの時代とりわけその盛期においてリューベック・ハンブ ルク間の経路として一般的に利用されていたのは、オルデスローを経由するルートであっ た。これに対して、以下で扱う申告証書を編纂したフォークトヘアがこの両ハンザ都市を 結ぶ経由地として挙げているのは、オルデスローとは方角のずれるカストルフ(Castorf)とグローセンゼー(Großensee)である(10)。ブルンスとヴェチェルカのハンザの内陸交 易路に関する詳細な研究からは、カストルフとグローセンゼーともにオルデスローの南方 トリッタウを経由してリューベックとハンブルクを結ぶ経路に沿って存在することが確認
できる(11)。フォークトヘアがどのような点を根拠としてこの経路を指摘しているのかは不
明であるが、オルデスロー経路に代わってその南方トリッタウ経路が利用されるようにな った背景には、当時のデンマークの南に向けた勢力拡大があったと考えることができる。
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年、デンマークはホルシュタインへの攻撃を開始した。その目的は、かつてデンマ ーク領であったシュレスヴィヒをホルシュタインから奪回することにあった。戦争に際し てデンマークは、ハンザの支援を要請したが、ハンザはホルシュタイン側に立ち、一方の デンマーク側もハンザの経済的影響下からの脱却とオランダとの関係強化を図るなか、対 立の火種はハンザ・デンマーク間にまで及ぶことになってしまった。かくして両者の関係 は、1360
年代の戦争以来の悪化を見せ、第二次ハンザ・デンマーク戦争が戦われることに なった(1426−1435年。第4
章を参照)。さらに1460
年になると、デンマークはシュレス ヴィヒ・ホルシュタインがデンマークの領有であることを宣言することとなり、ホルシュ タイン領に囲繞されるオルデスローは、デンマーク配下の都市となった(12)。かくして、バ ルト海・北海間の連絡はオルデスロー経路を回避して、その南側に位置するトリッタウ経 路が、また水路であればエルベ川を経由してハンブルクと結ばれるシュテクニッツ運河が 利用されるようになったと考えられる。リューベック・ハンブルク間の交易の主流が、この頃オルデスロー経路ではなくトリッ タウ経路にあったことを裏付ける事例としては、例えば、前者のルートを経由する輸送の 減少がオルデスローにおけるデンマークの関税徴収額にも影響を与えているとして、
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年にデンマークがリューベックを批判したことを挙げることができる。このような批判に 対してリューベックは、まずは反論を行なったものの、結局はデンマーク側の意向を受け 入れ、商人たちに対して新たな経路(トリッタウ経路)の利用を控え、かねてより一般的 だった経路(オルデスロー経路)を選択するように通達を発した(13)。だが、その10
年後 に再度同様の批判がデンマーク側から提出されていることからすれば、トリッタウを経由 するルートは、オルデスロー経路の迂回路として少なからぬ意味を持っていたと考えてよ いであろう(14)。3.リューベック・ハンブルク間の商品流通
(1)概要
まずは各商品がどれだけ取引されていたか確認してみよう。証書では各商品の取引量は 述べられているものの、価格に関する記述がないので、金額面から個々の商品の重要性を