− ハンザ・オランダ・デンマーク −
はじめに
第
2
部では、まず第4
章でオランダのバルト海進出に伴うハンザ・北欧商業圏における 国際情勢の変化について考察する。周知のように、17世紀に「黄金時代」を迎え、世界経済の「ヘゲモニー」を掌握するま でに急成長を遂げたオランダの繁栄基盤は商業・海運であった(1)。なかでも、西欧向け の穀物を中心に繰り広げられたバルト海商業が極めて大きな意味を持ったことは、近年の 我が国におけるエーアソン海峡の通行税台帳をはじめとする史料の分析結果からかなりの 程度明らかになったといえよう(2)。しかしその一方で、オランダが実際に東の海に進出 し、バルト海における制海権を掌握していたハンザと接触し、次第に摩擦を重ねて勢力を 拡大していく具体的な過程についてはなおも不明な点が多いと思われる。本章では、長期 にわたるオランダのバルト海商業展開の過程の中から初期の
14
世紀末−15世紀前半を取 り上げ、ハンザ・オランダ間の摩擦が顕在化し断続的な対立関係が形成されるに至る時期 の両勢力と、それにデンマークを加えたバルト海情勢に注目してみたい(3)。ところで、ここで取り扱う
14
世紀末から15
世紀前半にかけての時期は、ハンザの歴史 においてその成長にかげりが見られ、転換期へと差し掛かっていく時期に当たる。周知の ように、ハンザ史の画期を成す出来事としては、1370
年のシュトラールズント条約の締結 を挙げることができる。デンマークとの戦争(第一次ハンザ・デンマーク戦争:1361〜1370
年)に勝利することにより、ハンザの成長・権益は頂点に達した。しかし、序論でも述べた ように、その後まもない14
世紀末から15
世紀前半にかけてのハンザは、既得権益の保守、停滞の時代へと移っていったと一般的には考えられている。ハンザが困難を乗り越えてそ の後も成長を続けていくのか、それともこの時期が決定的な転換期となり、衰退の過程へ と突入していくのかといった長期的な見通しは本研究全体で提示されるとして(4)、この 時期のハンザ、とりわけその中心に位置したリューベックが、さまざまな困難に直面して 何らかの対応を迫られるようになったことは確かであろう。例えば、個々のハンザ都市の 貿易活動は、長期的にはさておき、以前と比べればこの頃は不振となり、その組織化や統 制が進んだ。一方、都市内部では経済格差の拡大や有力商人による寡頭体制に対する批判 が高じ、多くの都市で市民闘争が勃発するなど、当時ハンザを取り巻く状況は決して明る いとはいえなかったということが、第
2
次大戦後の諸研究により指摘されてきた(5)。しかし、さらにこの時期をハンザの存立基盤をなす商業並びに外部勢力との関係といっ た面から検討していくとすれば、やはり西欧勢力とりわけオランダとの関係を取り上げる 必要があろう。ドイツ・ハンザの衰退を促した要因の一つとして、オランダのバルト海進 出と同国によるバルト海・北海貿易の主導権の掌握は、見逃すことのできない大きな意味 をもつ。オランダのバルト海進出は、ハンザからオランダへのバルト海・北海貿易の主導 権の移行というハンザ商業の基本構造の転換に関わるのみならず、本章冒頭でも指摘した
ようなオランダの世界経済におけるヘゲモニーの掌握、さらにはそれに伴う東西ヨーロッ パ間の分業体制と東欧地域におけるいわゆる「再販農奴制」の成立にも関連する(6)。す なわち、バルト商業をめぐるハンザとオランダとの関係を見ていくことは、ハンザ史の枠 を超えて「ヨーロッパ世界経済」の形成過程の一側面の解明にも通じると考えられる(7)。 無論、本章は、ハンザ史の側からオランダとの関係を素描していこうとする試みに過ぎ ないが、以下では組織としてのハンザの盛衰について、また、北方ヨーロッパにおける「ヨ ーロッパ世界経済」形成前史について今一歩多面的に理解するために、ハンザ・デンマー ク関係をも含めたバルト海情勢をこれまでのハンザ史研究の成果に依拠しつつ整理してみ ることにしたい(8)。バルト海を含むハンザ・北欧貿易圏はさまざまな国の思惑や利害が 交錯しあう場であり、そこで繰り広げられる国際関係はきわめて複雑である。ことにバル ト海・北海の接点に君臨するデンマークの存在は、同国の情勢が海路による両海連絡商業 の動向を左右するだけにバルト海商業を営む勢力にとっては無視できない意味を持った
(9)。それゆえ、以下ではデンマークとの関係を含めてバルト海情勢を検討していく。さ らにその検討内容を踏まえ、本章の最後でハンザの一体性という側面からハンザの衰退期 に関する筆者の見解を示す。
1.ハンザ・オランダ関係の変化
第一次ハンザ・デンマーク戦争は、ハンザがその発展史のなかで頂点を築いた大きな意 義を持つ戦いであった。当初デンマーク側優位で推移したこの戦争は、最終的には
1370
年のシュトラールズント条約の締結によりハンザ側の勝利に終わるが、後者の側へと戦局 の転換を導くうえで無視することのできないハンザ側の動きとしては、「ケルン同盟」の結 成を挙げることができよう。ケルン同盟は、結成の地となったケルンがそれに参加していないという点で異色の同盟 であるが、加えて、ハンザ都市ではないアムステルダムなどオランダの諸都市が参加した という点でも、
1367
年に成立したこの同盟はユニークであるといえる。後にハンザとオラ ンダは、ブリュージュ商館の商業政策そしてバルト海商業における覇権を巡って対立関係 を深めていくとはいえ、当時デンマークに対する応戦を巡って双方の都市が結束したとい うことは、既にオランダはバルト海商業に乗り出していたものの、なおもハンザと対立す るには至らず、むしろ同海域における商業上の治安確保という点で両者は利害を共通させ ていたということを推測させる。一方、ハンザ都市の間には、ケルン同盟の受け止め方に対する温度差が存在した。同盟 結成地のケルンの不参加はさておくとしても、例えば、ヴェストファーレンのように海戦 とは直接の関係の無い地域の都市は資金援助の要請に応じることはなく、また、港湾都市 ではあっても北海側のハンブルクやブレーメンは、軍事参加を拒否して資金援助を申し出 ただけであった(10)。すなわち、ケルン同盟はハンザが一丸となって結成された同盟では なく、かならずしも「ハンザ的(hansisch)」といえるものではない(11)。軍事面からハ ンザの動向を左右する重要性を持ち、しかも拘束力のある同盟であったにもかかわらず、
それは全ハンザの勢力を結集したとはいえず、しかも非ハンザをも含むものであった。ハ ンザの組織としての危うさは、なにも停滞・衰退期になって生じてきたのではなく、すで に発展期においてそれは胚胎されていたと見ることもできよう。
さて、ケルン同盟は第一次デンマーク戦争終結後も更新され、結局はハンザ側によるエ ーアソン海峡周辺の4要塞(ヘルシングボリ、マルメ、スカンイェール、ファールステル ボー)の領有が終了する
1385
年まで効力を有した(12)。その間及びその後もしばらくの あいだ、ハンザとオランダの関係はおおむね良好であったと見なすことができる。例えば アムステルダム、ドルトレヒト、ツィーリクゼーといった都市は、1372−1384 年に開催 された12のハンザ都市会議のうち6
回に代表を送っていた(13)。またオランダ都市には、ハンザの同盟者としてバルト海商業の拠点とすべく、漁場としても名高いスカンディナヴ ィア半島南端のスコーネ(ショーネン)で占有地(フィッテ:Fitte)を獲得することが認 められた(14)。
1394
年3
月に当時激化しつつあった海賊行為に対応するためリューベッ クで都市会議が招集された際にも、ツィーリクゼー、カンペンそしてアムステルダムが「ゾ イデルゼー都市」を代表して出席者を派遣した(15)。なお、当時「ゾイデルゼー都市」は 旧ゾイデル(ザイデル)海を取り囲む広範な地域を含む広義の都市概念であったことに注 意しておく必要がある。この都市群に含まれる都市の範囲はやがて変化していくが、あえ て単純化すれば、それは広義のゾイデルゼー都市内部で親ハンザ、反ハンザの二つの都市 群が形成されていくことと関連する。やがてはゾイデルゼーという呼称は前者の都市に対 して用いられていくようになる。この
1394
年のリューベック会議では、ケルン同盟を前例としてバルト海から海賊を一 掃するための艦隊の導入が決定され、ドルトレヒトやアムステルダムなどの広義のゾイデ ルゼー都市にも乗組員と合わせて艦船(コッゲ船)の提供が要請された。ところが同年5
月末にプロイセン都市が全ハンザ的行動への不参加を表明していることを聞き及ぶに従い、ゾイデルゼー都市はユトレヒトで会議を招集し、ハンザへの協力について討議を行なった。
その際、アムステルダムとツィーリクゼーが、ハンザ船隊への参加はプロイセンの意向次 第である旨を表明したのに対して、カンペンは参加を表明、そのほかの都市はこれらアム ステルダムなど
3
都市の出方次第で態度を決めたいというものであった。結局、プロイセ ンが「独自の決定」を行なったがゆえに、ゾイデルゼー都市からもバルト海に向けて艦船 が送られることはなかった。翌1395
年9月には、同じ問題を巡って再びリューベックで ハンザ都市会議が開催されたが、この時はホラント、ゼーラントの各都市は参加していな い。しかもその時になると、ホラント、ゼーラントの都市は、ゾイデルゼー都市とは区別 して扱われるようになったのである(16)。その経緯は、ヴェストストラーテに従い次のよ うな事情と関連させて理解することができるであろう。オランダ(ホラント、ゼーラント)では、かねてよりアルブレヒト・フォン・バイエル ンが兄のウィレム
5
世に代わり摂政として君臨していたが、1389 年の後者の死去に伴い ホラント伯となり、名実ともにオランダの君主となった。これによりオランダ諸都市は、商業的利害の共通する他のゾイデルゼー都市との協調、もしくは領邦君主への忠誠のいず れを優先させるかという問題を抱えることになった。そうしたなか、