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第 4 章 「イソップ寓話」の芽生え —— ローマ帝政期 58

2. テオン

1世紀の修辞学者テオンは、『修辞学初等教程』Progymnasmataにおいて、項目として

μῦθοςを取り上げている。

まず冒頭で、テオンは自身の扱う対象を説明する(72 Spengel)。

Μῦθός ἐστι λόγος ψευδὴς εἰκονίζων ἀλήθειαν. Εἰδέναι δὲ χρή, ὅτι μὴ περὶ παντὸς μύθου τὰ νῦν ἡ σκέψις ἐστίν, ἀλλ’ οἷς μετὰ τὴν ἔκθεσιν ἐπιλέγομεν τὸν λόγον, ὅτου εἰκών ἐστιν· ἔσθ’ ὅτε μέντοι τὸν λόγον εἰπόντες ἐπεισφέρομεν τοὺς μύθους.

ミュートスは、真実を映す偽りの話である。知っておくべきこととして、ここで今検討する のは、全てのミュートスに関してではなく、話の提示のあとに説明を語ることができるもの であり、その写し絵である。説明を語ったのちに、ミュートスを示す場合もある。

テオンは、「μῦθοςとは真実を映す偽りの話である(Μῦθός ἐστι λόγος ψευδὴς εἰκονίζων

ἀλήθειαν)」と語り、μῦθοςを条件付きλόγοςとして説明する。その一方で、テオンが吟味

の対象とするのはμῦθοςの全てではなく、それらの話の後あるいは前に話者による解釈・

説明(λόγος)が附されるようなもの、と表明される。また、テオンの序文に従えば、この

μῦθοςに関する説明は、テオンがはじめて明文化したものである*1

続いて、μῦθοςとイソップの関わりが説明される(73 Spengel)。

Καλοῦνται δὲ Αἰσώπειοι καὶ Λιβυστικοὶ ἢ Συβαριτικοί τε καὶ Φρύγιοι καὶ Κιλίκιοι καὶ

*1Theon,Prog. 59 Spengel.

第4章 「イソップ寓話」の芽生え——ローマ帝政期 59 Καρικοὶ Αἰγύπτιοι καὶ Κύπριοι· τούτων δὲ πάντων μία ἐστὶ πρὸς ἀλλήλους διαφορά, τὸ προσκείμενον αὐτῷ ἑκάστῷ ἴδιον γένος, «οἷον Αἴσωπος εἶπεν», ἢ «Λίβυς ἀνήρ», ἢ «Συβαρίτης», ἢ «Κυπρία γυνή», καὶ τὸν αὐτὸν τρόπον ἐπὶ τῶν ἄλλων· ἐὰν δὲ μη-δεμία ὑπάρχῃ προσθήκη σημαίνουσα τὸ γένος, κοινοτέρως τὸν τοιοῦτον Αἰσώπειον καλοῦμεν.

ミュートスは、「イソップの」「リビュア人の」「シュバリス人の」「プリュギア人の」「キリア 人の」「カリア人の」「エジプト人の」「キュプロス人の」と呼ばれるが、それらにはお互いに 一つの違いだけがある。すなわち、それぞれの話の前に、その種類を示す表現が置かれるこ とである。たとえば、「イソップが語った」「リビュアの男が」「シュバリス人が」「キュプロ スの女が語った」といったものであり、他の種類についても同様である。もし何も種類を示 す表現が附されていない場合、一般に「イソップの話」と呼んでいる。

μῦθοςは様々な呼称が附されて導入されるものであるが、そうした呼称がとくに指定さ

れないような場合でも、一般に「イソップの(Αἰσώπειος)」と呼ばれるものであると述 べられる。また、テオンによると、μῦθοςが一般にイソップのものと呼ばれる所以は、イ

ソップがμῦθοςの創始者だからではなく、イソップが最も広く巧みにμῦθοςを用いたか

らだという(73 Spengel)。

Αἰσώπειοι δὲ ὀνομάζονται ὡς ἐπίπαν, οὐχ ὅτι Αἴσωπος πρῶτος εὑρετὴς τῶν μύθων ἐ-γένετο, (Ὅμηρος γὰρ καὶ Ἡσίοδος καὶ Ἀρχίλοχος καὶ ἄλλοι τινὲς πρεσβύτεροι γεγονό-τες αὐτοῦ φαίνονται ἐπιστάμενοι, καὶ δὴ καὶ Κόννις ὁ Κίλιξ, καὶ Θοῦρος ὁ Συβαρίτης, καὶ Κυβισσὸς ἐκ Λιβύης, μνημονεύονται ὑπό τινων ὡς μυθοποιοί) ἀλλ’ ὅτι Αἴσωπος αὐτοῖς μᾶλλον κατακόρως καὶ δεξιῶς ἐχρήσατο·

全体として「イソップの話」と名付けられているのは、イソップがミュートスの創始者であ るからではなく(というのは、ホメロスやヘシオドス、アルキロコスやその他古い作家たち もミュートスを知っていたように思われるためであり、さらには、キリキアのコンニスや シュバリスのトゥーロス、リビュアのキュビッソスが、ミュートス作家として言及されてい る)、イソップがそれらの話を数多く巧みに利用したからである。

テオンはさらに、ホメロスやヘシオドス、アルキロコスなどのイソップに先行する者た

ちもμῦθοςを知っていたと述べている。つまり、μῦθοςとイソップの関係に関する点の認

識は、イソップがμῦθος使用者たちの中における代表的人物である、というものであっ た。この一連の説明に従えば、テオンが提示するμῦθοςに関して、「イソップの話」と呼 んで差し支えないと考えられる。

テオンは、「イソップの話」に用いられる語彙についても言及する(73-74 Spengel)。 Προσαγορεύουσι δὲ αὐτοὺς τῶν μὲν παλαιῶν οἱ ποιηταὶ μᾶλλον αἴνους, οἱ δὲ μύθους·

πλεονάζουσι δὲ μάλιστα οἱ καταλογάδην συγγεγραφότες τὸ λόγους ἀλλὰ μὴ μύθους

第4章 「イソップ寓話」の芽生え——ローマ帝政期 60 καλεῖν, ὅθεν λέγουσι καὶ τὸν Αἴσωπον λογοποιόν. Πλάτων δὲ ἐν διαλόγῳ τῷ περὶ ψυχῆς πῆ μὲν μῦθον, πῆ δὲ λόγον ὀνομάζει·

昔の詩人たちには、それらの話をアイノスと呼ぶ者たちやミュートスと呼ぶ者たちがいた。

一方、とくに散文作家たちでは、ミュートスではなくロゴスと呼ぶ者たちが優勢であり、そ のため、イソップをロゴス作家と呼んでいる。また、プラトンは、魂に関する対話の中で、

ミュートスと呼んだり、ロゴスと呼んだりしている。

テオンは、それまでにも「イソップの話」がαἶνος/λόγος/μῦθοςとして呼称されて きたという。また、同じ作家(ここではプラトン)でも語彙が異なる例にも触れている*2。 テオン自身にもΑἰσώπειοι λόγοιとして言及している例もあり*3、語彙の相違はあくまで も呼び方の問題である。テオンにとって、「イソップの話」とは、話そのものが先立つもの であり、それが一定の基準を満たしていれば、どのような呼称で呼ばれていたとしても、

「イソップの話」の枠組みに組み入れて扱ったということであろう。

この点に関連して、「イソップの話」の内部に何が登場するかということについても、テ オンは独自の考えを示している(73 Spengel)。

Οἱ δὲ λέγοντες τοὺς μὲν ἐπὶ τοῖς ἀλόγοις ζώοις συγκειμένους τοιούσδε εἶναι, τοὺς δὲ ἐπ’ ἀνθρώποις τοιούσδε, τοὺς μὲν ἀδυνάτους τοιούσδε, τοὺς δὲ δυνατῶν ἐχομένους τοιούσδε, εὐήθως μοι ὑπολαμβάνειν δοκοῦσιν· ἐν πᾶσι γὰρ τοῖς προειρημένοις εἰσὶν ἅπασαι αἱ ἰδέαι.

これらミュートスについて、口を利かない動物によって構成されるものであるとか、人間に 関わるものであるとか、あるいは、あり得ないものであるとか、あり得ることを含むもので あるとか主張する者たちがいるが、私には彼らが単純に理解しているように思われる。とい うのは、それら全ての型が、既に語られた各話の中に見られるためである。

テオンの観点においては、話の内部に何が登場するか、あるいは何が語られるか、とい う点も、「イソップの話」を決定付けるものではなかったようである。この場合、動物が 登場する話であろうが、人間が登場する話であろうが、同じ枠組みの中で扱われることに なる。

テオンの説明は、「イソップの話」に関して一定の基準を示すものであるが、曖昧な部 分も残る。「真実を映す」という点である。この点についての判断は、はたして客観的か つ明確に可能といえるのか。この判断は、話の使用者やその受け手側の解釈と関わる問題 であるため、各人の主観に影響を受けてしまうのである。そうしてみると、テオンが吟味

対象をλόγοςが附されたものと限定していることは、ひとつの外形的な判断基準を導入し

ているようにみえる。とはいえ、この場合でも、話の前後に解釈に類するものが附されて

*22章のプラトンの箇所でも論じている。

*3Theon,Prog. 65 Spengel.本文では“τῶν Αἰσωπείων λόγων”と記される。

第4章 「イソップ寓話」の芽生え——ローマ帝政期 61 いるという形式的な理由のみで「イソップの話」として判断されるのか、という問題が生 じてしまう。

著作の性質上、テオンの「イソップの話」は作文教育における実践を意識したものであ り、実際の練習方法が複数提示されている。まず練習の概要が示される(74 Spengel)。

Καὶ πολλαπλοῦν ἐστι καὶ τοῦτο τὸ γύμνασμα· καὶ γὰρ ἀπαγγέλλομεν τὸν μῦθον καὶ κλίνομεν καὶ συμπλέκομεν αὐτὸν διηγήματι, καὶ ἐπεκτείνομεν καὶ συστέλλομεν, ἔστι δὲ καὶ ἐπιλέγειν αὐτῷ τινὰ λόγον, καὶ αὖ λόγου τινὸς προτεθέντος, μῦθον ἐοικότα αὐτῷ συμπλάσασθαι· ἔτι δὲ πρὸς τούτοις ἀνασκευάζομεν καὶ κατασκευάζομεν.

練習は以下の通り多様である。ミュートスを語る、ミュートスの語形を変える、ミュートス を逸話の中に編みこむ、ミュートスを拡張する、ミュートスを縮める。また、ミュートスに 何か説明を語ることもでき、その一方で、何らかの説明を語ってから、それにふさわしい ミュートスを作り出すこともできる。さらに、ミュートスについて、否定的に論じたり、肯 定的に論じたりする。

練習の概要では、話そのものを語ること、話の形式の変更といった話本体に関わる練習 の他、「真実」を意識した種々の練習も含まれる。概要の後、テオンは複数の具体例を挙げ つつ説明を続けている。たとえば、本論第1章でも取り上げたヘシオドスの例を用いて、

以下のように論じている(74 Spengel)。

Χρήσιμον δὲ καὶ τὸ ὁλοκλήρου τινὸς εἰρημένου μύθου ἐθισθῆναι τὸν μανθάνοντα χα-ριέντως ἐκ τῶν μέσων ἄρξασθαι, ὥσπερ Ἡσίοδος·

Ὧδ’ ἵρηξ προσέειπεν ἀηδόνα ποικιλόδειρον·

ἐκ μὲν γὰρ τῶν ἐπενεχθέντων,

ἄφρων δ’ ὅς κ’ ἐθέλῃ πρὸς κρείσσονας ἀντιφερίζειν,

δηλοῦται, ὅτι ἄρα ἤριζεν ἀηδὼν πρὸς ἱέρακα· κἄπειτα ἀγανακτήσας ὁ ἱέραξ καὶ συ-ναρπάσας αὐτὴν οὕτω τάδε εἶπε.

全体としてミュートスが語られたあと、ヘシオドスのように途中から優雅にミュートスを始 めることに学習者が馴染むことも有益である。

 鷹が斑な喉頸をしたナイチンゲールにこう言った。

そして、その後に提示された

 自分よりも強い者と張り合おうとする者は愚か者である

という部分から、ナイチンゲールが鷹と言い争い、そして鷹が腹を立ててナイチンゲールを 捕えて、このように発言したことが明らかとなる。

テオンは、この箇所の直前でまず先人たちの語った「イソップの話」を覚えるよう勧め

第4章 「イソップ寓話」の芽生え——ローマ帝政期 62 ているが*4、話の構成上の工夫を学ぶことも学習者にとって有益だとする。そして、その 優れた例としてヘシオドスの「鷹とナイチンゲール」の話が挙げられるのである。ただし、

テオンの説明は、本論で検討したようなヘシオドスの文脈に即した解釈ではなく、テオン の考える「イソップの話」の枠組みに基づき、「鷹とナイチンゲール」の話を独立した話 として解釈した場合のものとなっている。つまり、ヘシオドスの意図は考慮されないので ある。

テオンの練習例の中でも、「肉を運ぶ犬」の話を例に挙げて説明する練習方法が興味深い

(75 Spengel)。

Ἐπιλέγειν δὲ ἔστιν ὧδε, ὅταν μύθου ῥηθέντος ἐοικότα τινὰ γνωμικὸν αὐτῷ λόγον ἐπι-χειρῶμεν κομίζειν, οἷον κύων παρὰ ποταμόν τινα φέρων κρέας, καὶ κατὰ τοῦ ὕδατος τὴν αὐτοῦ σκιὰν θεασάμενος, οἰηθεὶς ἕτερον εἶναι κύνα μεῖζον κρέας ἔχοντα, ὃ μὲν εἶχεν ἀπέβαλεν, ἁλόμενος δὲ εἰς τὸν ποταμὸν ὡς ἁρπάσων, ὑποβρύχιος ἐγένετο. τὸν λόγον δὲ οὕτως ἐποίσομεν· ὅτι ἄρα πολλάκις οἱ τῶν μειζόνων ὀρεγόμενοι καὶ ἑαυτοὺς πρὸς αὐτοῖς τοῖς ὑπάρχουσιν ἀπολλύουσιν. γένοιντο δ’ ἂν καὶ ἑνὸς μύθου πλείονες ἐπίλογοι, ἐξ ἑκάστου τῶν ἐν τῷ μύθῳ πραγμάτων τὰς ἀφορμὰς ἡμῶν λαμβανόντων, καὶ ἀνάπαλιν ἑνὸς ἐπιλόγου πάμπολλοι μῦθοι ἀπεικασμένοι αὐτῷ.

以下のように、説明を後付けすることができる。すなわち、ミュートスが語られたあと、そ れにふさわしい何か格言的な説明を附そうと試みる。犬が川のそばを通って肉を運んでいた とき、水面に映る自分の影を見ると、別の犬が自分のものより大きな肉を持っていると考え た。そこで、自分の持っている肉を投げ捨て、もう一匹のものを奪ってやろうと川へと飛び 込んだところ、水底へ沈んでしまった。次のように説明を付してみよう。より大きなものを 欲する者は、しばしば、自身が手にしていたものに加えて、自分自身をも滅ぼしてしまう。

内容に起点をとれば、ひとつのミュートスに複数の説明が附されうるし、また、その一方で、

一つの説明に対して多数のミュートスが示されうる。

「イソップの話」に対して何らかの「説明」を附す練習である。ここでの「説明」は、一 種の格言的な、一般化された文言が考えられる。また、「イソップの話」は具体的な文脈 に対応する話ではなく、それ自体独立した話として読まれる。たとえば「肉を運ぶ犬」の 話については、「より大きなものを望む者たちは、手にしているものばかりか、自分自身 をも失うものだ」といった文言の付加が考えられている。つまり、「説明」に望まれるの は、人間にとって一般的な事象である。テオンの「イソップの話」に附される「説明」は、

話に対応する「真実」を説明するものとされていたから、この練習を加味して考えると、

「真実」とは人間一般に関わる事柄ということになる。このような性質を前提に示される テオンの「肉を運ぶ犬」の話は、現代的な観点においても、まさに「イソップ寓話」と呼

*4Theon,Prog. 74 Spengel.