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第 7 章 「犬とその影」に見るイソップ受容の一端 128

2. 明治初期の「犬とその影」

渡部温『通俗伊蘇普物語』は、全6巻からなる日本近代最初のイソップ集である。第1 巻から第5巻までは、ジェームズJames, T.の英語イソップ集を翻訳した203話を含み、

第6巻はタウンゼントTownsend, F.の英語イソップ集および『伊曾保物語』から34話を 含む(前者26話、後者8話)*2。全体で237話を含む大規模なイソップ集であり、原書の 模写を含む多数の挿絵も含んでいた。また、渡部版は刊行後すぐに小学校教育の国語や修 身の教材として採用され、普及の下地が作られた。なお、渡部は、タウンゼント版と『伊 曾保物語』の話をさらに加え、挿絵も追加した『改正増補 通俗伊蘇普物語』(全280話)

を1888年(明治21年)に刊行している。

本書の訳者である渡部温は1837年(天保8年)に江戸で生まれ、少年期まで長崎・下 田・神奈川で過ごした。そして1862年(文久2年)より幕府設置の蕃書調所(翌年開成 所となる)で英語教育にあたった。幕府崩壊後、沼津兵学校の英学担当教官として静岡に 移ったが、1872年(明治4年)の改組により東京に戻る。その後、1874年(明治7年)

に長崎英語学校、翌1875年(明治8年)から東京外国語学校の校長を歴任した。また、

1877年(明治10年)に校長を辞職した後は、実業家としても活躍した。

渡部は、沼津兵学校で英語教育に携わった際、英語教材としてジェームズ版の英語イ ソップ集を採り上げ、沼津で翻刻印刷している。『通俗伊蘇普物語』は、東京に戻った渡 部が(ジェームズ版以外も含めて)編集翻訳を行い、1873年(明治6年)に6巻本とし て刊行したものである*3

この渡部版「犬とその影」(『犬と牛肉の話』)は、以下のジェームズ版を翻訳したもの とされる。

FABLE 24.―THE DOG AND THE SHADOW

A Dog had stolen a piece of meat out of a butcher’s shop, and was crossing a river on his way home, when he saw his own shadow reflected in the stream below. Think-ing that it was another dog with another piece of meat, he resolved to make himself master of that also; but in snapping at the supposed treasure, he dropped the bit he was

*2谷川(2001), pp.282-283.

*3渡部温については、小堀(2001, pp.260-261)及び谷川(2001, pp.291-293)の解説に拠る。

第7章 「犬とその影」に見るイソップ受容の一端 130 carrying, and so lost all.

Grasp at the shadow and lose the substance―the common fate of those who hazard a real blessing for some visionary good.

ジェームズ版の犬も肉屋から肉を盗み出す。つまり、渡部版で犬が肉を盗む直接的な要 因はジェームズ版にあるといえる。その一方で、両者をさらに比較してみると、渡部版 は、大筋ではジェームズ版と同一であるが、「橋の中ほどに至る」「大きなる肉」「水底に沈 み」など、渡部版独自の記述も見受けられる。また、渡部版では犬が家に戻る途中ともさ れず、ジェームズ版と状況設定が異なっている。これらの点については、渡部自身が「訳 書は原文の面目を改ざるを以て尊しとする事は論を待ず。されど予が此訳述は。意味徹底 を旨とすなれば。前後の文気と斡旋転換の勢とに因て。文を辞に代え辞を文に換え。大小 段落を前後にする等の事ありて。原文に離合して書取たり。」「又井と訳すべき字を大溝と 訳し。亡牛と訳すべき処を家牛と訳したる類少からず。是等は話頭の都合により。敢て原 字に拘泥せず。看官一を執て論ずる事なくして可なり」などと例言で記しており、ある程 度の改変は意図的なものでもあったと考えられる。

ジェームズ版イソップ集は1848年刊行の英語によるイソップ集である。全部で203話 を含み、そのうち98話にはテニエルTenniel, J.による挿絵が付されている。また、“A New Version, Chiefly from original sources”という副題が附されており、ギリシア語やラ テン語の「イソップの話」まで参照した上で、ジェームズが英語で再構成したものである。

ただし、できるだけ古い原典を参照するとしつつも、それを厳密に翻訳するものではない こと、あるいは新旧の話を組み合わせたりすることを、ジェームズは序文で述べている*4。 1848年の刊行後、ジェームズ本は版を重ねており、筆者が確認できた範囲では、1850年 代のものは初版と変わらず、1866年に刊行されたもの以降は一部挿絵の入れ替えが見ら れ、1872年以降に刊行されたものでは、テニエルに加えてウォルフWolf, J.の名が挿絵画 家として記載されている。

1 ジェームズ版挿絵, 1848. 2 ジェームズ版挿絵, 1866.

*4James(1848), pp. xvii-xviii.

第7章 「犬とその影」に見るイソップ受容の一端 131 上記のジェームズ版「犬とその影」は挿絵付きの話である。1860年代に挿絵の差し替え が行われているものの、本文に変更はない。また、渡部版ではもともと挿絵は付されてい なかったが、『改正増補』版で追加された。

1848年版では水面に波紋が広がり、犬が肉片を水の中に落とした後の姿が描かれてい る(図1)。心なしか、犬が哀しそうである。一方の1866年版では、水面に犬の咥えた肉 片が映っており、犬はこれから肉片を失うことになる(図2)。いずれにも共通するのは、

犬が板の上を渡っていることであるが、この点は渡部版では記述されるものの、ジェーム ズ版の本文では明記されない要素である。(ただ、in the stream belowという表現で犬が流 れの上にいることは示されており、何らかの方法で川の上にいることは分かる。)

3 『改訂増補』版挿絵, 1888.

『改正増補』版「犬とその影」の挿絵を見る と、差し替え後のジェームズ版の挿絵を模倣 したものであることが明白である(図3)。渡 部が参照したジェームズ本は1863年刊行の ものであったとされるが*5、ここからも改訂 後のものであったことを確認できる。また、

1863年にはジェームズ版の挿絵の差し替え が行われていたということでもあろう。

なお、渡部版と同時代の日本に、犬が橋を

渡ると明記されているバージョンが存在しないわけではない。渡部版と同年(明治6年)

に刊行された福沢英之助『

くんもうはなしぐさ

訓 蒙 話 草』に含まれる「慾張タル犬ノ話」である。

一匹ノ犬一切レノ肉ヲ啣ヘテ小川ノ橋ヲ通リタルニ巳ノ影ノ水中ニ映ルヲ見テ他ノ 犬ガ巳ノ肉ヨリ大ナル肉ヲ啣ヘタルト思ヒコレヲ得ント巳ノ肉ヲバ打棄テ其影ヲ追 ヒ行キケレバ怜ムベシ此犬ハ其目指セシ肉ヲ取リ能ハザルノミナラズ巳ノ肉モ水ニ 流サレテ終ニコレヲ失ヒタリ

慾ヲスレバ實ガナイト云フ諺ノ如ク此犬ハ餘リ慾張シユヘ終ニ巳ノ物ヲモ失ヒタ リ人々貪リテ飽クヿヲ知ラズ他人ノ物ヲノミ羨ミ思フ時ハ必ズ此犬ノ如ク終ニハ 巳ノ物ヲモ失フニ至ラン慎マズンバアルベカラズ

渡部版との相違は、犬がはじめから肉片を咥えて登場している点、肉が水底に沈むので はなく流されていく点である。また、話の後ろに付される説明も、渡部版と福沢版では異 なる。

『訓蒙話草』は、1867年刊行のタウンゼント版イソップ集を翻訳したものである*6。タ

*5谷川(2001, pp.179-180).なお、小堀(2001, p.263)では異版の存在が推測されるのみである。小堀は改訂 前のジェームズ本を参照し、改訂後の挿絵の差し替えを把握していなかったと思われる。

*6福沢は英国留学時に原書を得たと序文に記すが、標題を含めてイソップとの関連は示されていない。ま た、原書に関する情報も記されない。本書の読者は、本書に含まれる話が西洋由来の話であることを把握 できても、「イソップの話」であると認識したかどうかは不明である。なお、『訓蒙話草』はタウンゼント

第7章 「犬とその影」に見るイソップ受容の一端 132 ウンゼント本は313話を含み、そのうち105話にウィアーWeir, H.による挿絵が付され ている。また、タウンゼント本は、“literally translated from the Greek”と副題が付けられ ており、主にギリシア語版イソップ集に基づきその意味を忠実に翻訳することを目指した ものという*7。訳者のタウンゼント自身が、前書きでその点をジェームズ版との違いとし て述べている。ただし、タウンゼントが挙げる原典にはラテン語のファエドルス集も含ま れており、ギリシア語の話だけを参照したというわけでもなさそうである。

タウンゼント版の「犬とその影」は次の通りである。

THE DOG AND THE SHADOW.

A Dog, crossing a bridge over a stream with a piece of flesh in his mouth, saw his own shadow in the water, and took it for that of another Dog, with a piece of meat double his own in size. He therefore let go his own, and fiercely attacked the other Dog, to get his larger piece from him. He thus lost both: that which he grasped at in the water, because it was a shadow; and his own, because the stream swept it away.

福沢版「犬とその影」は、タウンゼント版をそのまま翻訳しているではない。とはいえ、

渡部版の「橋」のような新規の要素が話に加えられるわけではなく、「二倍の大きさの肉」

を「大ナル肉」とするなど、簡略化や要素の書き換えが主であり、基本的にはタウンゼン ト版に沿った翻訳である。題名が「慾張タル犬ノ話」とされ、話の解説が後ろに加えられ ている点などを考えると、福沢版では話の意図に比重が置かれているようにも見える。

また、両者の話にはいずれも挿絵が付けられている(図4・図5)。

4 タウンゼント版挿絵, 1867. 5 福沢版挿絵, 1873.

挿絵に描かれているのは、木の橋の上で犬が水面に映る影に気付く場面である。ジェー ムズ版の差し替え後の挿絵も同じ場面を描くものであった。また、渡部版でも同様である が、福沢版も原書の挿絵をほぼ模写したものとなっている。タウンゼント版では、本文の 記述通り、水面に映る肉が犬の咥えているものより大きく描かれているよう見える。

本全体を翻訳するものではない。

*7Townsend(1867), pp. xx-xxiii.