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アフリカ系アメリカ音楽の上演―自由の物語の再演

1.「アラブの春」とメディア

  アフリカ系アメリカ音楽はアメリカにおいて公民権運動のような特異な場、つまり自ら 歴史の構築へと踏み込んでいく場へ接続し、アイデンティティを生産する上演の舞台とし ての場をつくりながら発展してきた。ジャズやヒップホップによるアフリカ系アメリカ人 の物語は、ネットワークによってつながれた世界中の人々の参加を可能にし、多様な差異 を横断しながらグローバルとローカルの両方の場を変容させていく。確かにジャズやヒッ プホップはつねにアフリカ系アメリカ人との関わりのなかで語られてきた。エスペラン ザ・スポルディングは、アメリカの民主主義的な物語をアフリカ系アメリカ人としての自 己を接続し、上演しながら生産する。しかしながらそういったアフリカ系アメリカ音楽の 生産と消費のプロセスは人種や階級、地域、ジャンルをまたいで行われており、ますます 複雑化してきている。2000年以降、ヒップホップをはじめとするアフリカ系アメリカ音楽 が、アメリカや黒人といったものと直接関連のなかった地域で革命の音楽として歌われ、

その場の日常を変容させつつある。グローバルに展開しているアフリカ系アメリカ音楽の 実践を理解するためには、あらゆる差異を越えてつながるネットワークのなかで、いかに アフリカ系アメリカ音楽が生産、消費され、意味を生み出しているのかに注目しなくては ならない。なぜならアフリカ系アメリカ人がグローバルなネットワークのなかでアメリカ における自らのアイデンティティを変容させてきたように、アイデンティティはもはやグ ローバルな問題になっているからだ。

ここでは「アラブの春」にみるヒップホップの上演を中心に、国や人種を越えて生産、

消費されるアフリカ系アメリカ音楽の実践について考えてみたい。

「アラブの春」は様々な要素が複雑に交錯しながら展開していった 2011 年の最も大き なニュースのひとつであったが、同時に権力に抵抗し、政府の抑圧からすり抜ける形で多 くの文化的実践を生んだ場でもあった。そこでヒップホップの実践をみていく前に、「アラ

ブの春」という出来事が一体何だったのかという考察からはじめることにする。

「アラブの春」という名称は、欧米を中心にしたメディアによって拡散された。2011 年1月、チュニジアで始まったジャスミン革命と呼ばれる民主化運動が「アラブの春」の 発端だと言われている。その民主化運動は、エジプトからヨルダン、イエメン、バーレー ン、リビア、シリアなどに広がっていき、瞬く間に世界中のニュースへと流れていった。

特にエジプトでの大規模なデモは、30年間にわたって政権を握ってきたムバラク大統領を わずか18日間で退陣へと追い込んだ。カイロで起こった125日の革命は、タハリール 広場を特異な場へと構築し、「アラブの春」を印象付ける。

『現代アラブ社会―「アラブの春」とエジプト革命』で加藤博と岩崎えり菜は「アラブ の春」の発生理由を、世代交代のうねりという内圧と世界のグローバル化という外圧の並 行した時代の流れに対して、既存の政治体制が対応しきれない状況にあったからだと分析 する(23)。世代交代のうねりは若者層の高い失業率が社会問題となっていることにも関連 があった。アラブ諸国は世界で最も失業率の高い地域であり、なかでも 24 歳以下の女性 に至っては60%以上にものぼる。革命の先頭に若者が立っているイメージは、社会問題と 重なり合いながら「アラブの春」が立ち起こっているからである。

政治、経済、文化など様々な領域でグローバル化が進むなか、アラブ諸国での文化のグ ローバル化の侵入を決定づけたのは、アラビア語で衛星放送するアルジャジーラの開局、

情報のデジタル化というテクノロジーの導入と普及である。1996年に開局したアルジャジ ーラは、ニュースを 24 時間流し続ける専門チャンネルとして特に戦争の報道に関して大 きく世界中から注目されるようになり、2003年のイラク戦争において、アメリカのCNN やイギリスのBBC、さらにはドバイのアルアラビーヤとの報道合戦を繰り広げたことでア ラブ諸国に大きな影響を与える放送局となった。

  しかし「アラブの春」においての重要性を多方面から指摘されているのは、やはりソー シャルメディアである。革命の方向性を決定づけ、情報の伝達として最重要の手段であっ たとまで言われるインターネット、フェイスブックやツイッターのアラブ諸国での利用は

21世紀以降に急激に増加しており、アラブのそれぞれの文化にすでに浸透していた。新聞 や衛星テレビ局、インターネット、携帯電話は政権の権力統制からある程度逃れることの できる文化創造の場となっていて、そこにムバラク政権の打倒をめぐる運動が内包されて いたのだ。

ネットの文化に生きる若者の意識変容は、革命の発端とも言われている事件に鮮明にみ ることができる。2010年6月、アリクサンドリアにあるインターネットカフェにいた28 歳の青年ハーリド・サイードは警察官に激しい暴行の末に殺害された。サイードは事件の 前、警察と麻薬取引の現場を撮影し、ネット上に公開していた。しかし警察はサイードを 麻薬中毒者として拘束し、バンゴーという麻薬を大量に飲ませたことで窒息死させた。サ イードの無罪が確定したのはそれから約1年たってからである。

  遺族は死後のサイードの顔を携帯電話で撮影し、インターネット上で公開すると、同世 代の若者たちの間に衝撃が広がった。山本薫の「若者文化と125日革命」によれば、

グーグル社のワーイル・ゴネイムは「われわれは皆ハーリド・サイード」というフェイス ブックのページを立ち上げ、数万人のフォロワーを集める一方で、アレクサンドリアやカ イロの街角で、若者たちを中心とした警察の不正や拷問に対する抗議運動が行われた(330)。

  この抗議運動はアラブ諸国だけでなく、グローバルなネットワークによって創られた原 動力として125日革命へと突き進めた。ハーリド・サイード事件に伴って、チュニジ アのベン・アリー政権の崩壊は、ムバラク政権の打倒を目指すネット世代の人々に革命の 中心的な役割を担う活力を与えた。2008年の46日に端を発するソーシャル・メディ アを駆使したストライキ、「四月六日運動」や前述した「われわれは皆ハーリド・サイード」

に共感した民主化運動の中心はそうしたネット世代の人々だった。

『エジプト革命』の鈴木恵美によれば、パソコンを所有し、インターネットの基本的な 技術を有する革命の中心的なメンバーは「イスラエルとの戦争の脅威がない平和な時代に 育ち、自由を当たり前と考える、ある意味グローバル化した価値観を持っていた」(22)。

つまり彼らはある程度グローバルな場を生きており、その身体はアラブ諸国を越えて拡張

されていて、世界中で語られている自由という認識を知っていたのである。だからこそ警 察権力に立ち向かうことができ、社会とはどうあるべきかという理想の物語を、地域を横 断して構築、共有することができたのだ。鈴木はさらにこう続ける。

自ら社会を変えなくては、このままでは確実に不公正な社会を歩まされること になる、そのような若者たちが恐怖の壁を打ち破った。そして、ここに自由と 社会の公正を求めて、予想を上回る数の組織化されない人々が加わった。その なかには、カイロの人気サッカーチーム、アハリーの熱狂的な応援クラブ、ウ ルトラスのメンバーも大勢いた。(22)

タハリール広場におけるデモは、失業した貧困層のようなひとつのグループに集約される ものではない。自由と公正というキーワードのなかでネット世代の人々や、全く関連のな い団体や個人が結びつき、最終的には軍が革命に加担するという複雑怪奇な場であるタハ リールは、グローバルなネットワークによって構成された物語の舞台である。

  長沢栄治は『エジプト革命―アラブ世界変動の行方』のなかで、125日の革命の背景 に3 つの出来事があったと述べる。一番大きな背景として、革命の 2 か月前(2010 年 11 月〜12 月)に警察関係者によって実施された議会選挙の不正、第二にハーレド・サイード の虐殺事件、そして第三に革命の直前にアレクサンドリアで起きた教会自爆テロとそれに 対する警察捜査があげられる(105-106)。これらの出来事すべてに共通しているのが警察権 力の暴走と抑圧である。

2011 年の11日に起きた教会爆弾テロでは、モスクの説教壇を占拠したり、爆破行 為を行ったりするなど過激な行動をとっていたスンナ派のサダフィー主義者が逮捕された。

そのうちのひとり、サイード・バラールは、警察による激しい拷問の末死亡した。サイー ド・バラールの死亡に対するデモは、警察権力に激怒した多くの市民が参加し、タハリー ル広場での運動へとつながっていく。実は当時中東諸国では同じような市民によるデモが