の視 座か らみ た﹁ さび
﹂が 最後 に語 られ る︒
﹁さ び﹂ と﹁ 幽玄
﹂の かか わり を指 摘し たの は︑ 許六 であ る︒ 許六 編﹃ 本朝 文選
﹄に
﹁幽 玄の 細み
﹂と あり
︑
余 情 の意 とい う︒ 幽 深玄 遠︵﹃ 集義 和書
﹄一 六七 六年
︶の こと であ る︒
・ 自然 のま ま とは いい なが ら︑ なん と自 我の 確か なこ とか
︒ま た﹁ わび 茶﹂ には きつ い規 範が 整え られ てい る︒ その 形相 がど うで あれ
︑茶 道の 根源 には
︑強 い自 我の 存在 が予 想さ れて いる と思 う︒ 法文 化論 から みれ ば︑ まこ と﹁ 部分 社 会あ ると ころ 法あ り﹂ とい える
︒
⑹
幽玄 の語 が出 たと ころ で︑ 草薙 正夫﹃幽 玄美 の美 学﹄ をみ てお こう
︒
①と ころ で︑ その 前史 に大 西克 礼﹃ 幽玄 とあ はれ
﹄︵ 一九 三九 年︶ があ る︒
﹁大 西に よれ ば︑
﹃幽 玄﹄ とは
︑﹃ 露わ では なく
︑明 白で はな く︑ 何等 か内 に籠 った とこ ろの ある
⁝⁝ 仄暗 さ︑ 朦朧 さ︑ 薄明
﹄を 意味 する
︒さ らに
︑静 寂︑ 深遠
︑充 実相
︵無 限に 大き なも のの 集約
・凝 結︶
︑神 秘性 また は超 自然 性と いう 意味 も出 てく る︒
﹃あ はれ
﹄と
は︑ 第一 に特 殊的 心理 的な 哀れ
︑第 二に 一般 的心 理的 な感 動一 般︑ 第三 に一 般的 な美 意識 とし ての 優・ 麗・ 婉・ 艶 であ る﹂ と︒ また 同﹃ 風雅 論﹄
︵一 九四
〇年
︶で は︑
﹁﹃ さび
﹄は
﹃閑 寂﹄ とい う狭 い意 味で はな く︑ 俳諧 独自 の美 的観 念で
⁝⁝ 万古 不易 の自 然の 古さ をと らえ
︑そ れに よっ て物 の本 質が 表れ てく る﹂︵ 何れ も南 一八 一頁 と︶ ある
︒
②さ て︑ 戦後 の草 薙著 には
︑こ れに 対し て大 きな 野心 が含 まれ てい る︒
﹁序
﹂に 曰く
︑こ れま で﹁ 一般 に日 本に は︑ 厳密 な意 味で 哲学 とい われ るも のが なか った
﹂︒ が︑ 兼好
︑世 阿弥
︑ 利休
︑宣 長︑ 芭蕉 の芸 術思 想を 中心 とし て︑ 実存 哲学 の立 場か らこ れを 取り あげ
︑日
・欧 両者 が根 底的 な立 場に お いて 共通 の場 にあ るこ とを 論じ たい
︑と いう
︒ まず
﹁実 存的 思想 家と して の兼 好﹂︵ 第一 章︶ から
︒ 兼好 の出 家は 自由 人と して の生 活へ の憧 れに あっ た︒ 清少 納言 の﹁ つれ づれ
﹂が 環境 上の それ であ った のに 対 し︑ 兼好 の場 合は
︑求 道・ 思想 とし ての それ
︑つ まり
﹁純 粋に 思索 する 思想 家の 自由 を意 味す る言 葉﹂ であ った
︵一 四頁
︶と
︒ 老荘 の虚 無主 義と 儒教 の現 実主 義︑ 仏教 の超 越的 理想 主義 を教 養的 要素 とし ても つ彼 の場 合︑ それ らが 統一 なく 矛盾 しな がら 並存 して いた こと は想 像に かた くな い︒ また 無常 の思 想が 根本 にあ った にせ よ︑ 特定 の宗 門に 属す る 説教 僧で はな く自 由な 仏徒 であ った
︒彼 が何 れに 固執 した わけ でも なく
︑弁 証法 的統 一を 試み たわ けで もな いか ら︑ そこ に論 理的 矛盾 が存 在す るの は︵ 文化 の重 層性
︑︶ むし ろ日 本的 知性 人の 実存 的生 活態 度の 証し でも あろ う︑ と︒ 次い で︑ 兼好 の無 常観 哲学
︑即 ち︑ 有限 的無 常観 と無 限的 無常 観︑ 相対 的無 常観 と絶 対的 無常 観の 区別 の実 存的 根拠 を論 ずる
︒
生の 価値 は生 の無 常に よる
︵財
・位 官・ 学識 を頼 むも のは 愚か
︒︶ 存在 はす べて 有限 的・ 相対 的で あり
︑そ れが 人 間存 在に つい て捉 えら れた とき は実 存的 なき びし さを もつ
︒兼 好の 場合 が︑ そう だと いう
︵三 三頁
︒︶ それ は実 存 哲学 にお ける
﹁限 界状 況﹂ と﹁ 挫折
﹂の 問題 であ る︒
﹁兼 好の 文学 は︑ かれ 自身 によ って 書か れた
︑存 在そ のも の の実 存的 な暗 号文 字で あっ て︑ まさ に﹃ 賢者 の文 学﹄ の名 に値 する
﹂︵ 四八 頁︶ と︒ こう して
︑兼 好の
﹁実 存的 無常 観の 立場 では
︑あ らゆ る存 在が 肯定 の眼 をも って みら れる こと
﹂に なり
︑﹁
﹃も の のあ はれ
﹄と いう 美意 識あ るい は美 的価 値と して 具体 的芸 術的 表現 を獲 得す る﹂
︒い いか えれ ば︑
﹁﹃ もの のあ はれ
﹄ は︑ 実存 的な 限界 状況 や﹃ 究極 的な 挫折
﹄の 意識 から 生ま れた 実存 的な 美意 識な ので ある
﹂︵ 四九
︱五
〇頁
︶︒ それ は近 代西 洋美 学に おけ る心 理学 的な 純粋 美意 識と は区 別さ れる が︑ 兼好 がし ばし ば説 く﹁ 無関 心性
﹂の 美意 識は 純 粋美 意識 の要 素で もあ る︒
﹁も のの あは れ﹂ の美 意識 は︑ 時間 的な 流動 にお ける 美の 意識 であ って
︑特 定の 対象 に固 定さ れる こと はな く︑ 四季 それ ぞれ のう ちに 美を 見出 し︑ 全体 を対 象と して 生死 の無 常相 を捉 えて いる
︒例 えば
︑雪 舟の
﹃山 水長 巻﹄
︑ 大観 の﹃ 生々 流転
﹄な ど︒ 事物 の移 り変 わり にお いて
﹁も のの あは れ﹂ の美 が捉 えら れて いる こと から
︑
幽玄 とか 余 情 など の美 的範 疇に おい て︑﹁未 完成 の美
﹂と か﹁ 抽象 性﹂ とか
﹁簡 素美
﹂な どと いう 日本 芸術 の諸 規 定が 生じ る︵ 五五 頁︶
︑と いえ る︒ 無常 観で は︑ すべ てが 生々 流転 する から 完成 とい うも のは なく
︑そ こに
﹁未 完成 の美
﹂が 生じ
﹁官 能よ り心 へ︑ 趣味 から 哲想 への うつ りで ある
﹂︵ 富倉 徳次 郎の 言︶ とい える
︒芸 術の 未完 成性 が超 越的 なも のと 考え れば
︑
余情 こそ︑日 本的 芸術 意志 によ る訴 えと いえ るの では ない か︵ 五八 頁︶ と︒
③兼 好に 関す る第 一章 に続 き︑
﹁日 本芸 術の 理念
﹂︵ 第二 章︶ に入 る︒ 世阿 弥の 能楽 論の 中心 概念
﹁幽 玄﹂ は︑ 俊成 に始 まり
︑定 家に 受け つが れて 中世 歌論 の主 題と なっ たこ とは
︑す
でに 述べ たと 思う
︒﹁ 幽玄
﹂概 念の もつ 実存 哲学 的内 容に 注目 する と︑ 非実 存的 な西 洋美 学に 対す るそ の独 自性 に 注目 する 必要 があ ろう
︵西 尾実
﹃中 世的 なも のと その 展開
﹄︶
︒幽 玄美 論を 比較 美学 の対 象に する のは
︑こ のた めで あ る︒ 西洋 の伝 統的 芸術 思想 には
︑第 一に
﹁人 生の ため の芸 術﹂
︑第 二に
﹁芸 術の ため の芸 術﹂︵ 美意 識の 普遍 妥当 的な 法則 性の 探求
=芸 術の 純粋 観照 性︶
︑第 三に
﹁理 想と して の芸 術﹂
︵理 念の 直観 的表 現と して 捉え る= 芸術 哲学
︶の 型が ある
︵芸 術の 効用 性・ 純粋 美的 性格
・精 神的 意義 が︶
︑型 には それ ぞれ に独 自の 意義 があ り︑ 一つ を絶 対化 する こと はで きな い︒ 芸術 は︑ 存在 が美 意識 を通 じて 象徴 的に 顕現 する とい う意 味で
︑﹁ 美的 実存
﹂と 捉え ねば なら ない
︒ いい かえ ると
︑一 方で
︑芸 術は 感覚 や日 常的 効用 に仕 える もの では なく
︑存 在の 真理 にか かわ るも ので あり
︑他 方 で︑ 芸術 家は 自由 な自 己存 在と して の実 存で ある
︵芸 術作 品と 芸術 家の 実存 との 不可 分離 性︶
︒ これ に対 し︑ 幽玄 とい う言 葉は
︑世 阿弥 の﹁ 絶言 語︑ 不二 妙体
﹂と いう 超越 的存 在を 表現 して おり
︑そ のた め︑ 客観 主義 的合 理主 義的 な
哲学 が 生ま れず︑実ヽ 存ヽ 的ヽ なヽ 弁ヽ 証ヽ 法ヽ 的ヽ 思ヽ 惟ヽ が発 展し たと いう わけ であ る︒ そし て︑ 現 在︑ 奥深 い︑ 奥ゆ かし いと いう 日常 的用 語と して 使用 され てい るの は︑ 中村 元の いう 日本 人の 現実 主義 的国 民性 か らで ある
︵七 一頁 と︶
︒ とも かく
︑日 本の 現実 主義 は超 越的 存在 を抽 象的 形象 では なく
︑具 象的 な﹁ 自然
﹂の 形象 にお いて
︑し かも 内在 的に 捉え よう とす るか ら︑
﹁自 然﹂ が超 越的 存在 を示 す象 徴と なり
︑無 意識 的な 幽玄 的な 存在 とな る︒ つま りは
︑ 日本 人の 自然 愛は 形而 上学 的性 格を もっ てい る︵ 七二 頁︶
︒
④話 は﹁ 自然
﹂に とん で︑ 日本 人固 有の 美意 識は
﹁優 美﹂ であ る︒ 気候
・風 土が 温和 で︑ 四季 の移 り変 わり が規 則正 しく
︑景 観が おだ やか なこ とは
︑自 然に 対す る親 和感 から 愛情 を育 み︑ 生活 との 結び つき を不 可分 とし
︑あ ら ゆる 文化 形態 を特 徴づ けて
︑そ こに
﹁優 美﹂
︵﹁ きび しさ
﹂に 対す る︶ とい う美 的観 念を 見出 した
︒ま さし く自 然美
は美 の原 型で ある
︒ こう して
︑早 くか ら風 景画 が生 まれ
︵筆 者・ 日本 美術 の主 流が 心情 的風 景画 にあ るこ とに 留意
︑︶ 幽玄 体を 本質 とす る歌 の多 くが 自然 を詠 じ︑ 神は 自然 のな かに 内在 する と感 じた
︒﹁ 従っ て自 然美 を歌 うこ とは
︑自 然の 模倣 作用 で はな くて
︑﹃ 幽玄 の境 に入 る﹄ こと
︑換 言す ると 存在 の根 源へ 帰る こと
︑神 を称 える こと
︑を 意味 する
﹂︵ 七四 頁︶
︒ それ は自 然︑ 即ち 自我 の根 源へ 帰る
﹁感 情帰 入作 用﹂
︵感 情移 入作 用で はな く︶ とい うべ きで あり
︑﹁ 日本 人に とっ て自 然は
︑幽 玄と して の形 而上 学的 知と 優美 とし ての 美的 感情 の根 源で ある とい うこ とが
︑芸 術思 想に おい て統 一 され てい ると いっ てよ いだ ろう
﹂︵ 七五 頁︑ 繊細 で余 情あ る融 通の 自我 によ る 自然 と自 我の 一体 性 とい って よい の か?
︶︒ しか し︑ 優美 は幽 玄の 美的 内容 では なく
︑幽 玄は 美の 深さ
・高 さを 示す 語で 美的 内容 を示 す言 葉で はな い︒ 仏教 思想 が背 景に ある 幽玄 は優 美に 対す る制 約を 意味 して おり
︑そ の過 程の 歴史 が︑ わが 国中 世の 歌論 史で もあ る︒ つ まり
︑優 美と 幽玄 が史 的過 程で 総合 統一 され たと ころ に生 まれ たの が﹁ 幽玄 美﹂ とい う美 的理ヽ 念ヽ なの であ る︵ 七七 頁︶ で ︒ は︑ 幽玄 が優 美と 結び つい たの は何 故か
︵?
︒︶ 答え は日 本風 景の
﹁奥 深さ
﹂︑ 即ち 幽玄 感が 固有 の優 美に 結び つい て︑
﹁奥 深い 優美
﹂・ 幽玄 美が 生ま れた と︑ 著者 はい う︒ そし て三 つの 美的 類型
︑即 ち︑