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⑹ 幽 玄

ドキュメント内 法 文 化 論 序 説 ︵ 五 ︶ (ページ 36-40)

の視 座か らみ た﹁ さび

﹂が 最後 に語 られ る︒

﹁さ び﹂ と﹁ 幽玄

﹂の かか わり を指 摘し たの は︑ 許六 であ る︒ 許六 編﹃ 本朝 文選

﹄に

﹁幽 玄の 細み

﹂と あり

余 情

の意 とい う︒

幽 深玄 遠

︵﹃ 集義 和書

﹄一 六七 六年

︶の こと であ る︒

・ 自然 のま ま とは いい なが ら︑ なん と自 我の 確か なこ とか

︒ま た﹁ わび 茶﹂ には きつ い規 範が 整え られ てい る︒ その 形相 がど うで あれ

︑茶 道の 根源 には

︑強 い自 我の 存在 が予 想さ れて いる と思 う︒ 法文 化論 から みれ ば︑ まこ と﹁ 部分 社 会あ ると ころ 法あ り﹂ とい える

幽玄 の語 が出 たと ころ で︑ 草薙 正夫

﹃幽 玄美 の美 学﹄ をみ てお こう

①と ころ で︑ その 前史 に大 西克 礼﹃ 幽玄 とあ はれ

﹄︵ 一九 三九 年︶ があ る︒

﹁大 西に よれ ば︑

﹃幽 玄﹄ とは

︑﹃ 露わ では なく

︑明 白で はな く︑ 何等 か内 に籠 った とこ ろの ある

⁝⁝ 仄暗 さ︑ 朦朧 さ︑ 薄明

﹄を 意味 する

︒さ らに

︑静 寂︑ 深遠

︑充 実相

︵無 限に 大き なも のの 集約

・凝 結︶

︑神 秘性 また は超 自然 性と いう 意味 も出 てく る︒

﹃あ はれ

﹄と

は︑ 第一 に特 殊的 心理 的な 哀れ

︑第 二に 一般 的心 理的 な感 動一 般︑ 第三 に一 般的 な美 意識 とし ての 優・ 麗・ 婉・ 艶 であ る﹂ と︒ また 同﹃ 風雅 論﹄

︵一 九四

〇年

︶で は︑

﹁﹃ さび

﹄は

﹃閑 寂﹄ とい う狭 い意 味で はな く︑ 俳諧 独自 の美 的観 念で

⁝⁝ 万古 不易 の自 然の 古さ をと らえ

︑そ れに よっ て物 の本 質が 表れ てく る﹂ 何れ も南 一八 一頁 と︶ ある

②さ て︑ 戦後 の草 薙著 には

︑こ れに 対し て大 きな 野心 が含 まれ てい る︒

﹁序

﹂に 曰く

︑こ れま で﹁ 一般 に日 本に は︑ 厳密 な意 味で 哲学 とい われ るも のが なか った

﹂︒ が︑ 兼好

︑世 阿弥

︑ 利休

︑宣 長︑ 芭蕉 の芸 術思 想を 中心 とし て︑ 実存 哲学 の立 場か らこ れを 取り あげ

︑日

・欧 両者 が根 底的 な立 場に お いて 共通 の場 にあ るこ とを 論じ たい

︑と いう

︒ まず

﹁実 存的 思想 家と して の兼 好﹂ 第一 章︶ から

︒ 兼好 の出 家は 自由 人と して の生 活へ の憧 れに あっ た︒ 清少 納言 の﹁ つれ づれ

﹂が 環境 上の それ であ った のに 対 し︑ 兼好 の場 合は

︑求 道・ 思想 とし ての それ

︑つ まり

﹁純 粋に 思索 する 思想 家の 自由 を意 味す る言 葉﹂ であ った

︵一 四頁

︶と

︒ 老荘 の虚 無主 義と 儒教 の現 実主 義︑ 仏教 の超 越的 理想 主義 を教 養的 要素 とし ても つ彼 の場 合︑ それ らが 統一 なく 矛盾 しな がら 並存 して いた こと は想 像に かた くな い︒ また 無常 の思 想が 根本 にあ った にせ よ︑ 特定 の宗 門に 属す る 説教 僧で はな く自 由な 仏徒 であ った

︒彼 が何 れに 固執 した わけ でも なく

︑弁 証法 的統 一を 試み たわ けで もな いか ら︑ そこ に論 理的 矛盾 が存 在す るの は︵ 文化 の重 層性

︑︶ むし ろ日 本的 知性 人の 実存 的生 活態 度の 証し でも あろ う︑ と︒ 次い で︑ 兼好 の無 常観 哲学

︑即 ち︑ 有限 的無 常観 と無 限的 無常 観︑ 相対 的無 常観 と絶 対的 無常 観の 区別 の実 存的 根拠 を論 ずる

生の 価値 は生 の無 常に よる

︵財

・位 官・ 学識 を頼 むも のは 愚か

︒︶ 存在 はす べて 有限 的・ 相対 的で あり

︑そ れが 人 間存 在に つい て捉 えら れた とき は実 存的 なき びし さを もつ

︒兼 好の 場合 が︑ そう だと いう

︵三 三頁

︒︶ それ は実 存 哲学 にお ける

﹁限 界状 況﹂ と﹁ 挫折

﹂の 問題 であ る︒

﹁兼 好の 文学 は︑ かれ 自身 によ って 書か れた

︑存 在そ のも の の実 存的 な暗 号文 字で あっ て︑ まさ に﹃ 賢者 の文 学﹄ の名 に値 する

四八 頁︶ と︒ こう して

︑兼 好の

﹁実 存的 無常 観の 立場 では

︑あ らゆ る存 在が 肯定 の眼 をも って みら れる こと

﹂に なり

︑﹁

﹃も の のあ はれ

﹄と いう 美意 識あ るい は美 的価 値と して 具体 的芸 術的 表現 を獲 得す る﹂

︒い いか えれ ば︑

﹁﹃ もの のあ はれ

﹄ は︑ 実存 的な 限界 状況 や﹃ 究極 的な 挫折

﹄の 意識 から 生ま れた 実存 的な 美意 識な ので ある

﹂︵ 四九

︱五

〇頁

︶︒ それ は近 代西 洋美 学に おけ る心 理学 的な 純粋 美意 識と は区 別さ れる が︑ 兼好 がし ばし ば説 く﹁ 無関 心性

﹂の 美意 識は 純 粋美 意識 の要 素で もあ る︒

﹁も のの あは れ﹂ の美 意識 は︑ 時間 的な 流動 にお ける 美の 意識 であ って

︑特 定の 対象 に固 定さ れる こと はな く︑ 四季 それ ぞれ のう ちに 美を 見出 し︑ 全体 を対 象と して 生死 の無 常相 を捉 えて いる

︒例 えば

︑雪 舟の

﹃山 水長 巻﹄

︑ 大観 の﹃ 生々 流転

﹄な ど︒ 事物 の移 り変 わり にお いて

﹁も のの あは れ﹂ の美 が捉 えら れて いる こと から

幽玄

とか

余 情

など の美 的範 疇に おい て︑

﹁未 完成 の美

﹂と か﹁ 抽象 性﹂ とか

﹁簡 素美

﹂な どと いう 日本 芸術 の諸 規 定が 生じ る︵ 五五 頁︶

︑と いえ る︒ 無常 観で は︑ すべ てが 生々 流転 する から 完成 とい うも のは なく

︑そ こに

﹁未 完成 の美

﹂が 生じ

﹁官 能よ り心 へ︑ 趣味 から 哲想 への うつ りで ある

富倉 徳次 郎の 言︶ とい える

︒芸 術の 未完 成性 が超 越的 なも のと 考え れば

余情

こそ

︑日 本的 芸術 意志 によ る訴 えと いえ るの では ない か︵ 五八 頁︶ と︒

③兼 好に 関す る第 一章 に続 き︑

﹁日 本芸 術の 理念

第二 章︶ に入 る︒ 世阿 弥の 能楽 論の 中心 概念

﹁幽 玄﹂ は︑ 俊成 に始 まり

︑定 家に 受け つが れて 中世 歌論 の主 題と なっ たこ とは

︑す

でに 述べ たと 思う

︒﹁ 幽玄

﹂概 念の もつ 実存 哲学 的内 容に 注目 する と︑ 非実 存的 な西 洋美 学に 対す るそ の独 自性 に 注目 する 必要 があ ろう

︵西 尾実

﹃中 世的 なも のと その 展開

﹄︶

︒幽 玄美 論を 比較 美学 の対 象に する のは

︑こ のた めで あ る︒ 西洋 の伝 統的 芸術 思想 には

︑第 一に

﹁人 生の ため の芸 術﹂

︑第 二に

﹁芸 術の ため の芸 術﹂ 美意 識の 普遍 妥当 的な 法則 性の 探求

=芸 術の 純粋 観照 性︶

︑第 三に

﹁理 想と して の芸 術﹂

︵理 念の 直観 的表 現と して 捉え る= 芸術 哲学

︶の 型が ある

︵芸 術の 効用 性・ 純粋 美的 性格

・精 神的 意義 が︶

︑型 には それ ぞれ に独 自の 意義 があ り︑ 一つ を絶 対化 する こと はで きな い︒ 芸術 は︑ 存在 が美 意識 を通 じて 象徴 的に 顕現 する とい う意 味で

︑﹁ 美的 実存

﹂と 捉え ねば なら ない

︒ いい かえ ると

︑一 方で

︑芸 術は 感覚 や日 常的 効用 に仕 える もの では なく

︑存 在の 真理 にか かわ るも ので あり

︑他 方 で︑ 芸術 家は 自由 な自 己存 在と して の実 存で ある

︵芸 術作 品と 芸術 家の 実存 との 不可 分離 性︶

︒ これ に対 し︑ 幽玄 とい う言 葉は

︑世 阿弥 の﹁ 絶言 語︑ 不二 妙体

﹂と いう 超越 的存 在を 表現 して おり

︑そ のた め︑ 客観 主義 的合 理主 義的 な

哲学

が 生ま れず

︑実 が発 展し たと いう わけ であ る︒ そし て︑ 現 在︑ 奥深 い︑ 奥ゆ かし いと いう 日常 的用 語と して 使用 され てい るの は︑ 中村 元の いう 日本 人の 現実 主義 的国 民性 か らで ある

︵七 一頁 と︶

︒ とも かく

︑日 本の 現実 主義 は超 越的 存在 を抽 象的 形象 では なく

︑具 象的 な﹁ 自然

﹂の 形象 にお いて

︑し かも 内在 的に 捉え よう とす るか ら︑

﹁自 然﹂ が超 越的 存在 を示 す象 徴と なり

︑無 意識 的な 幽玄 的な 存在 とな る︒ つま りは

︑ 日本 人の 自然 愛は 形而 上学 的性 格を もっ てい る︵ 七二 頁︶

④話 は﹁ 自然

﹂に とん で︑ 日本 人固 有の 美意 識は

﹁優 美﹂ であ る︒ 気候

・風 土が 温和 で︑ 四季 の移 り変 わり が規 則正 しく

︑景 観が おだ やか なこ とは

︑自 然に 対す る親 和感 から 愛情 を育 み︑ 生活 との 結び つき を不 可分 とし

︑あ ら ゆる 文化 形態 を特 徴づ けて

︑そ こに

﹁優 美﹂

︵﹁ きび しさ

﹂に 対す る︶ とい う美 的観 念を 見出 した

︒ま さし く自 然美

は美 の原 型で ある

︒ こう して

︑早 くか ら風 景画 が生 まれ

︵筆 者・ 日本 美術 の主 流が 心情 的風 景画 にあ るこ とに 留意

︑︶ 幽玄 体を 本質 とす る歌 の多 くが 自然 を詠 じ︑ 神は 自然 のな かに 内在 する と感 じた

︒﹁ 従っ て自 然美 を歌 うこ とは

︑自 然の 模倣 作用 で はな くて

︑﹃ 幽玄 の境 に入 る﹄ こと

︑換 言す ると 存在 の根 源へ 帰る こと

︑神 を称 える こと

︑を 意味 する

七四 頁︶

︒ それ は自 然︑ 即ち 自我 の根 源へ 帰る

﹁感 情帰 入作 用﹂

︵感 情移 入作 用で はな く︶ とい うべ きで あり

︑﹁ 日本 人に とっ て自 然は

︑幽 玄と して の形 而上 学的 知と 優美 とし ての 美的 感情 の根 源で ある とい うこ とが

︑芸 術思 想に おい て統 一 され てい ると いっ てよ いだ ろう

﹂︵ 七五 頁︑ 繊細 で余 情あ る融 通の 自我 によ る 自然 と自 我の 一体 性 とい って よい の か?

︶︒ しか し︑ 優美 は幽 玄の 美的 内容 では なく

︑幽 玄は 美の 深さ

・高 さを 示す 語で 美的 内容 を示 す言 葉で はな い︒ 仏教 思想 が背 景に ある 幽玄 は優 美に 対す る制 約を 意味 して おり

︑そ の過 程の 歴史 が︑ わが 国中 世の 歌論 史で もあ る︒ つ まり

︑優 美と 幽玄 が史 的過 程で 総合 統一 され たと ころ に生 まれ たの が﹁ 幽玄 美﹂ とい う美 的理 なの であ る︵ 七七 頁︶ で ︒ は︑ 幽玄 が優 美と 結び つい たの は何 故か

︵?

︒︶ 答え は日 本風 景の

﹁奥 深さ

﹂︑ 即ち 幽玄 感が 固有 の優 美に 結び つい て︑

﹁奥 深い 優美

﹂・ 幽玄 美が 生ま れた と︑ 著者 はい う︒ そし て三 つの 美的 類型

︑即 ち︑

ドキュメント内 法 文 化 論 序 説 ︵ 五 ︶ (ページ 36-40)

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