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一論文1六四

マルサスにおける資本蓄積と恐慌

羽 島 卓

問 題 の 所 在

 いわゆる︽過渡的恐慌︾としてひろく知られているナポレオン戦争終了後の深刻な経済的不況に直面したリカアド

ウとマルサスとは︑恐慌の原因の解明と救済策の検討をめぐって互いに意見の対立を来し︑かなりの長期に及ぶ論戦

を交えた︒この両者によるいわゆる︽恐慌論争︾は︑一八一五年の穀物法改正の際のいわゆる︽穀物法論争︾の直接

の継続ともいうべきものであった︒というのは︑この︽恐慌論争︾においては恐慌の救済策として穀物法の廃棄が妥

当か否かが両人の間での最も激しい係争点の一つをなしていたからである︒

 私はすでに別の機会にリカアドウの所論のやや詳細な検討を行ったが︑ここで︑行論の便宜上︑ごく大づかみにリ

カァドウの所論の骨組だけを記しておこう︒リカァドウによれば︑資本蓄積の自然的行程においては蓄積の速度がど

れほどであっても︑ 一般的過剰生産が発生するようなことはない︒生産はそれみずからの需要をつくり出すのだか

ら︑ここでは部分的過剰以外の過剰が発生することはないというのである︒彼はかかる理論的基礎の上に戦後の不況

をつぎのように分析した︒戦後の不況は︑もともとは大規模な戦乱の突然の終了という経済外的要因の促迫によるも

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のであり︑そのために生じた︽貿易路の突然の変化︾ にもとづく部分的供給過剰としてはじまったものである︒だ

が︑部分的過剰であれば︑それは単なる一時的現象で終るはずのものである︒にもかかわらず︑現実においてはそれ

は慢性的であり︑拡大化しつつある︒こうした事情をひきおこしたものは一八一五年に改正された穀物法をはじめと

する国家的諸規制による利潤率の低下・蓄積誘因の破壊である︒これらの諸要因はイギリス国内の資本蓄積の順調な

進行を妨げるばかりでなく︑既存の資本を国外に流出せしめ︑かくて国内に労働人口に比しての︽資本の不足︾をも

たらし︑一般的な︽雇傭の不足︾にともなう︽全般的な不況︾を現出せしめたのである︒それ故に︑単なる部分的過

剰としてはじまった戦後不況を慢性化したばかりでなく︑これをついに︽資本の減少にともなう不況︾にまで転化せ

しめたものは︑穀物法その他の諸規制であって︑これらのものはイギリスの資本蓄積のコースを自然的コースの外に

逸脱せしめたのだというのである︒だが︑すでに推測しうるように︑リカァドウはこう論ずることによって︑当時の

恐慌が生み出すすべての惨苦をひきおこしたものが︑地主階級の利益のみを擁護しようとする政策にほかならないと       ハたロいおうとしているのである︒

 このようなリヵアドウの現状分析に接して︑穀物法支持の態度を一八一五年に公表したマルサスは黙しているわけ

にはゆかなかった︒だが︑右のようにリヵアドウの所論においては穀物法批判が資本蓄積および恐慌の理論的分析に

よって基礎づけられるに至ったのであるから︐これに対抗するには︑マルサスとしては︑リカァドウの理論的深部か

ら現状分析の上層建築に至る総体を全面的に︑検討・批判しきらなければならなかった︒マルサスによれば︑資本蓄

積が個々人の自由に委ねられて進行する時には︑時として過度の蓄積が行われ︑一般的過剰生産をひきおこすことが

ありうる︒そうして︑戦後の恐慌をひきおこした原因はまぎれもなく資本の過度の蓄積とそれにともなう有効需要の

  ーマルサスにおけを資本蓄積と恐慌1      六五

(3)

  1論    文−       六六

減少であった︒かかる事情はもとより一つには大規模な戦乱の突然の終了という経済外的要因に促迫されたものでは

あるが︑しかし現時の長期におよぶ不況の究局の原因は︑ 一八一五年に改正された穀物法の作用に帰すべきではな

く︑どこまでも有効需要の著しい減退をもたらすような過度の蓄積を行った資本そのものの作用に帰すべきだという

のである︒

 われわれは本稿においては︑リヵアドウとの対比を念頭におきつつマルサスの所論をその言説に即して再構成しよ

うと意図しているのであるが︑最初に検討しなければならない論点は︑もとより一般的過剰生産を理論的に否認する

リカ︑アドウの所論に対するマルサスの批判的立論の内容を明かにするところにおかれなければならないであろう︒そ

こで︑行論の順序として︑まずリカアドウの一般的過剰生産否認がどのような論拠の上に行われたかを知っておかな

ければならない︒この点も︑私は別稿で検討しておいたから︑ここでは本稿の叙述に必要な限りで要点だけを摘記し

ておこう︒

 一般的過剰生産を否認するリカァドウの論拠は︑これをつぎの二つの論点に分けて示すことができる︒

  一︑節約による収入の資本への転化は少しも有効需要を減少せしめるものではないという論点︒

  二︑蓄積が生産の増大を実現した暁には︑必ずそれに応ずる需要の増加がもたらされるといテ論点︒

 第一の論点についての彼の論証をみる場合︑まず注意すべきことは︑しばしば云われてきたところとはちがって︑

彼がこの問題を説明する際に︑けっして蓄積の際の剰余価値の追加不変資本への転形を看過したわけではなかったと

いう点である︒別稿で詳論したように︑彼は追加投資が不変および可変資本に分割されることをはっきりと承認した

上で︑つぎのように推論していた︒節約による蓄積とは︑不生産的消費を減少せしめる代りに︑それだけ生産的消費

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を増大せしめることを意味する︒すなわち︑資本家たちの従来の奢侈品購入量および不生産的労働者の雇傭量を減ら

す代りに︑生産的労働者の雇傭量および生産財の購入量を増加せしめるはずである︒だから︑いままで資本家の個人

的消費にあてられていた物資︵主として奢侈品︶および不生産的労働者が消費してきた財貨︵主として生活必需品︶

に対する需要は︑節約による蓄積によづてたしかに減少することになるが︑それだけの需要は蓄積によって新たに生

ずる原料や機械等の生産財や追加的に雇傭される生産的労働者の消費する財貨︵主として生活必需品︶に対する追加

的需要によって償われる︒すなわち︑蓄積の前と後では︑消費需要が減少しただけ投資需要が増加するから︑総有効

需要に変化がない︒したがって︑節約による蓄積がどれほど行われようと︑そのためにその時市場にある財貨が一般

的に有効需要を超過するようなことはない︒これが第﹈の論点におけるリカァドウの推論の大要である︒

 つぎに第二の論点は︑こうして行われた資本の蓄積が次年度以降において生産の増大を実現していった時︑果して

供給と需要のバランスが崩れるかどうか︑という点であるが︑彼はつぎのように推論した︒まず第一に︑生産の増加

は必ずそれに等しい国民所得の増加をもたらす︒何故かといえば︑リヵアドウの意見によれば︑社会の総生産物の価

値はつねに賃銀・利潤・地代の合計額と等しくなければならないからである︵含+ミのドグマ︾U︶︒すなわち︑社

会の総生産物の価値は残すところなく賃銀・利潤・地代に分割されてしまう以上︑蓄積の生み出した生産の増大は必

ずそれと等しいだけの国民所得の増大をともなわなければならない︒だが︑第二に︑彼の意見によれば︑国民所得の増

大は必ずそれに等しいだけの生産物に対する有効需要の増大をひきおこすはずである︒何故なら︑増大した所得がた

とえ貯蓄ざれたとしても︑リカァドウにおいては貯蓄は直ちに投資されると想定されているのだから︑それも有効需       も要の増大にはちがいないからである︒かくして︑リカアドウによれば︑蓄積が生産の増大を実現した時には︑それに

 ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌−       六七

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 一論   文一      六八

応じてそれと等しいだけの国民所得の増大と︑したがってまたそれと等しいだけの需要の増加がともなわれるはずだ      ︵2︶というのである︒

 マルサスの攻撃目標は何よりもまず︑以上の如きリカアドウの所論におかれる︒しからば︑マルサスのリカアドウ

恐慌論批判の論理はいかなるものであったか︒周知のように︑マルサスは有効需要論によってリカアドウの所論を批

判したといわれるのであるが︑この場合︑マルサス恐慌論の論理の基礎をなす︽有効需要︾とはいかなる意味におい

て把えられるべきものなのであろうか︒これこそ.はじめに検討されるべき問題点である︒何故なら︑マルサスの有

効需要論とはただ単にケインズのそれの素朴な先駆的表明とみてよいかどうかという点の検討がはじめになされるこ

となくしては資本蓄積と恐慌に関するマルサスの理論の再構成は充分にはなされえないと考えるからである︒      ノ

 ︵1︶ 拙稿﹁リヵアドウにおける資本蓄積と恐慌﹂︵﹃商学論集﹄第二八巻第三号所収︶第五節参照︒

 ︵2︶ 同上拙稿︑第二節参照︒

         ニ マルサスにおける︽有効需要︾の意味

 リカアドウの一般的過剰生産否認の論拠については︑すでに前節に記した︒だが︑そこでのりカアドウの論証の中

にはさまざまな問題点が含まれている︒この点についても私は別稿で若干の論及をしたのであるが︑いままた行論の

都合上︑要約して示しておこう︒

 一︑リカァドウが生産の増加は必ず需要の増加を伴うと主張する場合︑彼の論証を支える一つの命題はかの含+

  ミのドグマ︾であったということ︒

(6)

二︑リカアドウは所得が消費支出にむけられずに貯蓄されても︑それは消費支出の場合と同様に生産物に対する需       う 要となると推論しているが︑この推論は彼が貯蓄即投資の想定の上に立っていることを示す︒つまり︑彼は貯蓄

 された貨幣が蓄蔵貨幣の形態をとって保蔵されてしまうかもしれないという点を全く顧慮しなかったように思わ       む  ヨ れる︒彼は貯蓄されたものはつねに即刻投資されると想定していたから︑貯蓄と投資とはつねに等しく︑したが

 って節約によって消費需要が減少しても︑それは投資需要の増加によって相殺されると主張しえたのである︒し

 かし︑貯蓄と投資とがいずれも個々の資本家の意図如何に委ねられている以上︑両者が︒×曽暮︒に均衡すると

 いう保証は全くないはずだから︑リカァドウの推論はきわめて非現実的な想定に立脚したものといわなければな

 らない︒

三︑リカァドウが節約による収入の資本への転化は︑蓄積がどれほど行われようとも︑有効需要の減少をもたらさ

 ないという場合︑問題とすべきもう一つの点は︑彼が消費需要の減少は投資需要の増加によって償われるから︑       リ ヤ 総有効需要は蓄積の前と後とで少しも変化しないと考えている点である︒しかし︑われわれがただ単に総有効需

 要の大いさのみを問題にするだけでなく︑すすんで総有効需要を構成する投資需要と消費需要との関連を考えて

 みれば︑例えば蓄積率が以前よりも突然大きくなった場合︑明かに当該年度の消費財︵とりわけ奢侈品︶が市場

 において供給過剰になるであろう︒もっとも︑リカアドウが︑かりにこの論点を考慮したとしても︑彼はそれを

 も単なる一時的な部分的過剰にすぎないと考えたことだろうが︑しかし︑節約による蓄積がひきおこしたこうし

 た︽需要の型︾の変化︵消費財需要の減少と投資財需要の増大︶によって生じたかかる奢侈品の過剰は単なる部      ハエロ 分的過剰にすぎないといえるだろうか︒ここには検討すべき問題が含まれているのではないだろうか︒

 ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌−      六九

(7)

 一論    文一      七〇

 われわれはりヵアドウの所論に以上のような三つの問題点を指摘しうると考えているのであるが︑それならマルサ

スはこれらの批判ないし検討されるべき問題点を含むリカアドウの所論に接して︑どのような批判的立論を展開した

のであろうか︒だが︑このように叙述してくれば︑直ちにわれわれはケインズによって示されたマルサス解釈に導か      ヨれて︑マルサスのリカァドウ批判は︑おそらくは右述の問題点のうちの第二点︑すなわちリカアドウにおける貯蓄即

投資の想定に注がれていたことだろうというように考え易いであろう︒ ケインズがマルサスに高い評価を与えたの

は︑たしかに彼がマルサスの所論の中に﹁有効需要の原理の輝かしい直観﹂がひらめいているとみたからであった︒

ケインズはマルサスの﹁経済学原理﹂の序文の一節をひいて︑そこには﹁貯蓄と投資との間の均衡に関するすべての

問題が提起されている﹂と述べた後に︑つぎのような論評を加えていた︒﹁こうした︹マルサスの︺思考の方向に対

して全く何らの意義をも認めようとしなかったことは︑たしかにリカアドウの重大な欠陥であった︒しかし︑マルサ

スの欠点は︑利子率の果す役割を彼が全く看過したことにあった︒二〇年以前ならば︑私はマルサスに対してつぎの

ような批判をしたことだろう︒彼が思い浮べている事態︵富の増加に対する刺戟が最大であるような事態⁝−引用者︶は︑

利子率がまずゼロにまで下落しているのでなかったなら︑けっして生ずることはないであろう︑と︒マルサスは︑し

ばしばそうだったが︑何が真実であるかを直観的に認めた︒しかしながら︑何故それが真実であるのかを完全に理解

するために肝要なのは︑どうして過度の節約がそれにともなって利子率をゼロにまで下落せしめてゆかないのかを説         ︵2︶明することなのである︒﹂と︒      ち この論評の仕方によってみれば︑明かにケインズはマルサスがリカァドウにおける貯蓄即投資の想定の非現実性を

直観的に看破したものとみて高い評価を与え︑同時にそれが単なる直観に終ったとして惜しんでいるのである︒しか

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し︑果してマルサスはケインズのいうように︑リカァドウに対して﹁貯蓄と投資の間の均衡に関するすべての問題﹂

をつきつけていたのだろうか︒ケインズによって引用され︑右のような論評を加えられたマルサス﹃原理﹄の序文の

中の一節とはつぎのようなものであった︒長文ではあるが︑煩を厭わず︑ここではケインズの引用したままに掲げて

みよう︒

﹁アダム●スミスは資本蹄替よぞ増大され︑すべての倹約家は社会の恩人であって︑富の増森消費を超過

する生産物の差額によると述べている︒ これらの命題が大体において真実であることは疑う余地のないところであ

る︒⁝⁝しかし︑それは無限に真実なのではない︒貯蓄の原理が過度に推しすすめられると︑生産に対する動機を破

壊するものだということは明かである︒もしもすべての人が最も質素な食物や最も粗末な衣服や最もみすぼらしい家

屋で満足したならば︑その他の種類の食物も衣服も住宅も存在しないだろうことはたしかである︒:⁝との両極端の

場合は明瞭である︒そこで︑生産力と溝費意志の双方を考慮にいれて︑富の増大に対する刺戟が最大であるようなあ

る中間点があるにちがいないということになる︒たとえ︑経済学という手段ではこの中間点を確定することができな

    ハ ロいとしても︒﹂

 ケインズによれば︑右の引用文の中には﹁貯蓄と投資との間の均衡に関するすべての問題が提起されている﹂とい

うのであるが︑ケインズのこうした評言に対して読者は果して共感しうるであろうか︒ここに引かれたマルサスの言       ち  ヤ説の含意を素直にうけとれば︑それに対するケインズの評言との間にあるずれを感じないわけにはゆかない︒おそら

くマルサスはここではつぎのような意味のことをいっているのであろう︑と思われる︒

 スミスのいうとおり︑一国の富の増大は節約による収入の資本への転化なくしてはなされえない︒収入がすべて不

 ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌i      七一

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 一論   文t       七二

生産的に浪費されれば︑一国の資本の増加は不可能であり︑したがって富の生産の増大も生じえない︒これは疑う余

        パ ロ地のない真実である︒だが︑だからといって︑節約による蓄積は︑それが行われれば行われるほどそれだけ富の増大

をひきおこすということにはならない︒その証拠には︑節約が極限にまで行われる場合を考えれば︑ここでは人々が

すべて最も質素な生活を行うことになるのだから︑たとえ貯蓄によってどれほど多くの資本が増加せしめられても︑

これらの資本の使用は限定されざるをえない︒すなわち︑仮定によって︑この国では最も質素な食物・衣服等の生活

必需品に対する需要しか存在しないのだから︑増大した資本も生活必需品の生産以外に使用することはできない︒か

くして︑貯蓄が過度に行われた場合は︑折角多額の資本が蓄積されても︑需要の不足という面から︑富の増大に対す

る刺戟が失われてしまうのである︒だから︑収入がすべて浪費される場合と節約が極限にまで行われる場合と︑この

両者の間のある中間点において富の増大に対する刺戟が最大になるだろうということになる︒

 マルサスの章句の含意はほぼこのようなものであろうが︑そうだとすると︑彼はここで貯蓄と投資とのバランスに

関する問題を提起しているわけではない︒たしかに︑彼はここで︽過度の貯蓄︾が有効需要に及ぼす影響を暗示して

いる︒しかし︑それは彼が貯蓄と投資のバランスを問題にしているからではない︒彼がここで問題にしているのは

︽過度の貯蓄︾が直接にひきおこす消費財需要の減少とりわけ奢侈品に対する需要の減少という点であるにすぎな

い︒だから︑マルサスが有効需要の問題を前面におし出してリカアドウ批判を行ったという︑ただそれだけの事実か

ら︑マルサスの議論の中にケインズ的思考の萌芽をそれこそ直観的に指摘するのはあまりにも早計であるといわねば

ならない︒

 ︵1︶ 前掲拙稿﹁リカアドウにおける資本蓄積と恐慌﹂第二節多照︒

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︵2二註奪暴国墨書切一◎怒号も唱N−暴熊谷尚夫.大野忠男訳︑二?責.なお︑ケインズのマルサ

  ス評価を知るには・あほ芝二九三五年ヶンブー・ヂ大学で行われたマルサス死後墓餐有るケインズの彊の内

  容を参照すべきである︵Oい↓70国8ロ︒日ぎピロ旨巴冒F這瑠こロマ§−聾■︶︒

︵3︶β劉憂蓼㌔身一℃奮覧︒詳言§旨網曹§㌔喜8も二︐﹃底光轟訳︑上巻︑几上︒頁.以

       ヤ  ヤ  ヤ  下本稿では断りない限り︑ ﹃原理﹄第二版をテクストとして用いる︒

︵4︶あようにマルサスがス三の議論をひとまず承認すると毫から出発していることに留意すべきである.マルサスがリ

  カアドウの所論を否定したからといって︑彼はけっして富の増進が資本の蓄積なくして行れうるものだという考え方をした

  わけではない︒彼はローダゲイルを批判していっている︒﹁資本を継続的に増大させることなくしては富の永続的な増大が起

  りえないということはもか果実である・竺で︑富の増進は直接的消費にあてられるはずであっ隻ト.クから馨し

  てご琴利潤を生葉隻㌧ク這加すること髪ってで肇く︑すなわち︑収入の資本への転化によってではなく︑

  何かそれ以外の方替よって馨れうるのだと考える・−ダディル智私は同意できないのである.﹂︵頃日一口︒旦︒ωも.︒︒匡.

  邦訳・暮・⁝ハ頁︶と・慕︑嚢︑マルサスのあ言累らしで︑彼の不生産的消費ないし嚢纂する紮黎必

  ずしも絶対的杢面禦礼讃馨蕊していないとりつ点が明かに奪う.後述するように︑彼が主張するのは収入のうち

  の↓感応恥の不生産的消費についてなのである︒

 もっとも︑右のマルサスの章句における︽過度の貯蓄︾が有効需要に及ぼす影響についての暗示から︑ケインズが

直ちに貯蓄と投資のバランスの問題思いをはせたのは︑ただ単にマルサスをあまりに皇の理論に警つけてみよ

うとする︑いってみれば︑ひいきのひきたおしに類する過剰解釈によるばかりではないようである︒さきの論評の中

には記されてはいなかったけれども︑この論評篠してケインズは奪らくマルサスの著作の中モばしばあらわれ

      七三  ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌−

(11)

 一論   文一      七四

ている貨幣的契機の重視についての提言を思い合わせていたのであろうと思われる︒実際︑ マルサスの著作の中に

は︑随所につぎのような発言を見出すことができる︒日く︑ ﹁経済学における理論家たちは貨幣にあまりに大きすぎ

る重要性を与えるようにみえることを恐れて︑彼らの推論において︑貨幣をあまりにも彼らの考察の外に追い出しす

       ハ ロぎたきらいがある︒﹂また曰く︑ ﹁流通手段は富の分配および産業の奨励においてすこぶる重要な役割を担うもので      パ ロあるから︑それをわれわれの推論から追い出して差支えないというようなことはめつたにない︒﹂と︒

 さきには︽過度の貯蓄︾の有効需要に及ぼす影響についての暗示がある︒ここには貨幣的契機の重視についての提

言がある︒両者を結びつければ︑たしかに︑ マルサスは貯蓄と投資のバランスについて問題提起を行ったようにも

みえる︒しかしながら︑マルサスのこうした貨幣的契機の重視がマルサス自身の理論体系の中でどのような意味で提

言されていたかを検討することなしに︑ケインズのマルサス解釈を盲目的に信奉するのは怠慢のそしりを免れない︒

何故なら︑マルサスが貨幣的契機の重要性を強調するのは︑彼が諸財貨の貨幣価値の変動はつねにそれらの財貨の供

給に比しての需要の変動を指示するものにほかならないと考えるからであり︑また・基わ静ゆ伽その理由0勘にもと

づいているのである︒マルサスが経済学の考察の外に貨幣を追い出してはならないというのはこうした意味あいにお

いてなのである︒例えばマルサスはつぎのようにいっている︒

 ﹁全生産物の価値の増大を評価する際には︑一般的に︑かつまた婚期に輸いでゆ︑かかかかゆか伽bか善通分価価

︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑  ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑  ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑尺度である地金に助けを求めても差支えないであろう︒抽象的に考えると︑富は貨幣と殆ど無関係であるけれども︑

       ロ  ヨ  ち   モ  も  う  ヨ  セ   ヨ  モしかも世界のさまざまな国の相互の関係の現実の状態においては︑財貨の供給に比しての財貨の需要の増減をひきお

こすことなしに一国のすべての財貨の地金価値の大きな増減が生ずるというようなことはめつたに起らないのであ

(12)

蘂﹂ マルサスが貨幣を考察の中に引きいれようとするのは︑このような意味においてなのである︒彼は︽抽象的に︾

は︑リヵアドウの貨幣把握に何ら反対しない︒ただ彼は短期的考察を重んじ︑現実的問題への直接的接近を強く志向

するが故に︑貨幣的契機の重視を提言するまでのことなのである︒そうして︑それは彼が財貨の貨幣価値の変動が有

効需要の変動を知るための指標になると考えたからであって︑貯蓄された貨幣が時としては投資されずに蓄蔵貨幣の       ハマロ形態をとって有効需要に影響を及ぼすことがありうるという点を顧慮したからではなかったのである︒       ヤ このようにみてくれば︑マルサスがリカアドウの貯蓄即投資の想定の非現実性を直観的に看破したのだとするマル

サス解釈が依然として誤りであることが明らかになろう︒実際︑最近の研究成果はケインズもしくはそれと揆を一に

するマルサス解釈に対して批判的であり︑なかでもそれに対する有力な批判がミークによって提出されている︒ミー      アキュムレイション パーシモニ セイビングクの所論の一節にはつぎのような言葉がある︒ ﹁強調しておくべきことは︑ ︽蓄  積︾ ︽節約︾ ︽貯蓄︾について

      セ  ち  ヤ  ヤ  む  うマルサスが語った場合︑つねに彼は投資をも含む貯蓄のことを意味していた︑ということである︒:⁝々ルサスは

︽貯蓄︾をもって︑すべてのイギリスの古典派経済学者たちがそれによって意味したところをそのまま︑つまり︑純

収入から︽不生産的︾労働者を雇傭する代りに︽生産的︾労働者を雇傭することを意味したのである︒:::これをマ

ルサスはいたるところで完壁に明確に示しているのであって︑もしも近代の注釈者たちの間に何ほどかの誤解がある       ハ ロのでなければ︑ここでこの論点を強調する必要はないであろう︒﹂と︒       じ ミークの所論によれば︑マルサスはリヵアドウの貯蓄即投資の想定の非現実性に気づいたどころではなく︑マルサ

スもまたこの想定をリヵアドウとともにしているというのである︒このミークの所論が︑ケインズによって示された

  ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌−      七五

(13)

  i論    文i      七六

解釈に慣れてきたわれわれにどれほど意外な感を与えるとしても︑わが国の経済学史の学界でも次第にミークの所論      ︵9︶を確認する方向に向いはじめている︒私自身もおくればせながら︑マルサスの言説を検討した結果︑ミークの右の指

摘は妥当であったと報告しなければならない︒その次第は以下の行論を通じて示されることになろうが︑ここではマ

ルサス自身が︽貯蓄︾について定義した言葉を引用しておこう︒ ﹃原理﹄においてマルサスはいう︒﹁現代の経済学

      セイビング      ホーディング       ︵田︶者は誰でも^ 貯蓄をもって単なる退蔵を意味することができない︒﹂と︒また﹃経済学における諸定義﹄では

 セイビング﹁貯蓄とは現代では資本の蓄積を意味する︒なぜなら︑今日では自分の貨幣を金庫に蓄えておく人は殆どいないか

   ︵U︶らである︒﹂と記されている︒

 ︵5︶ ℃ユロ9覧︒即すoobo吟 邦訳︑下巻︑一四九頁︒

 ︵6︶ ℃二9首一8﹃︾ω8齢邦訳︑下巻︑二〇〇頁︒

 ︵7︶ もっとも︑私はここでマルサスが貨幣の機能として価値の蓄蔵手段としての機能を全く看過したといおうとしているので

   はない︒そうではなくて︑その点についての彼の認識があったにしても︑それがマルサス自身の資本蓄積と恐慌についての

       ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ   理論体系においてけっして論理の基本線をなしているのではなかったといいたいのである︒

 ︵8︶ 犀炉言8F閲﹃欄㎝δo富昌国昌α爵︒国畦ぞ弓ぴooユ雷︒賄ごロユR−Oo器¢ヨ℃焦oP国8昌︒ヨ一8一>ロ嘩一8鮮唱℃﹄認・㎝・

   吉田洋一訳︑一四四一五頁︒なお︑また︑ミークとは異なった視角からするものではあるが︑ケインズないしそれに追随する

   マルサス解釈に対して最近ではブラウグからも批判が呈出されている︒Oい鼠串匹碧oq︑霞8&母口固oo口◎目凹8﹃一300一づP

   8⇔一bo器軋O・

 ︵9︶ 例えば︑溝川喜一﹁マルサスの恐慌論について︹口﹂ ︵甲南論集︑第五巻第四号︶二一六頁参照︒

 ︵10︶ 頃財ぎ9巳︒望P器︐邦訳︑上巻︑五二頁︒

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 ︵11︶ Uo臨監寓︒器﹃℃o一義8一国oo昌︒ヨざマboωoo・玉野井芳郎訳︑一七七頁︒

 このようにマルサスがリヵアドウと同様に貯蓄恥投資の想定の上に立ってみずからの所論を展開したのだとする

と︑彼が有効需要の問題を提起することによってリヵアドウ批判を行ったというのはどういうことを意味するのだろ

うか︒この点について︑まずリカァドウのマルサス理解の程度をみよう︒彼は明らかにマルサス批判を念頭におきつ

つ︑つぎのように言明した︒ ﹁収入が節約されて資本に加えられたという場合︑われわれの意味するところは︑資本

に加えられたといわれる収入の部分が不生産的労働者の代りに生産的労働者によって消費されるということである︒       ハぬロ資本は不消費によって増加すると思うほどはなはだしい誤りはない.﹂と︒ここでリカァドウは︑ マルサスが貯蓄と

不消費とを混同し︑貯蓄口投資が消費需要を減ずるという一面のみをみて︑それが投資需要を増大するという︑もう

一つの面を看過しているといっているのである︒だが︑貯蓄恥投資の想定をリカァドウと共有したマルサスならば︑

それほど素朴な見落しをするわけがない︒実際︑マルサスはつぎのように考︑乳ていた︒ ﹁ある国の生産物のうちの通

常よりもはるかに大きな部分を直ちに生産的労働の維持にあてることは︑たしかに節約によってできる︒そうして︑      ち も も ち ち う セ モ ヨ モ ち ヤ セ ち む セ ち む ち む ち う セ む う モ む ね ヨ む ち む へ う ヤヤこのことがなされるとすれば︑↑0おうに使用される労働者たちが個人的奉仕に従事するものと同様に消費者であり       ハおロまた労働者に関する限りでは︑消費ないし需要の減少はないだろうということは全く真実である︒﹂

      ら   ち   う   セ   ち   ヤ   ち   む   ヤ   ヤ みられるとおり︑マルサスは貯蓄と不消費とを素朴に混同したわけではなく︑ここまでのところで憶︑リヵアドウ

と全く同じ考え方をしているのである︒だが︑そうだとすると︑これほどまでにリカァドウと同じ考えをもちなが

ら︑しかもマルサスが貯蓄の有効需要に及ぼすマイナスの効果を力説もたり︑不生産的消費の必要性を強調したのは

どういう理由によるのであろうか︒しかし︑ここまでくれば︑われわれはマルサスが貯蓄一般を攻撃したのでもなけ

  ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌一      七七

(15)

  i論   文−       七八

       ヨ  ちれば︑不生産的消費一般を礼讃したのでもなかったという点を確認すべきである︒マルサスがいましめるのは︽過度

ち      セ  む  ち  セ  セ  ち  ち  やの貯蓄︾であり︑必要性を強調するのは︽収入のうちのある一定の割合の不生産的消費︾についてなのである︒マル

      ち   ヤ   ヤ   ら   ヤ   コ   ち   む   ち   ちサスは一八一二年七月一六日づけのりヵアドウあての手紙でつぎのようにいっていた︒ ﹁私がある一定の割合の不生

む  セ  ヤ  ち産的消費をすすめるのは︑明らかに最大の生産の継続にとって必要な動機を与えるのを唯一の目的としてでありま

す︒さらに︑この不生産的消費の一定の割合がどれほどの割合であるかは︑土地の肥沃度等々によって変化するので

      ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ 事 ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︸ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑︵14︶すが︑しかもこれは一国の資源を活動せしめるに絶対に必要欠くべからざるものだと思います︒﹂

 マルサスによれば︑収入の一定の割合の不生産的消費が行われない時︑それは︽過度の貯蓄投資︾が行われるこ      う  モ  セとを意味する︒そうして︑こうした一定率を超える蓄積率をもって蓄積が年々行われてゆけば︑その過程において供

給と需要の均衡が破壊されて一般的供給過剰が発生するとマルサスはいうのである︒マルサスの所論が示そうとする

のはこうした論点なのであり︑マルサス自身随所にこのことを繰返えし説いているのである︒例えば︑彼はつぎのよ

うこ︑¥つ︒ 亭 し

 ﹁節約もしくは消費の一時的減少でさえも︑富の増進にとって最高度に有用であることは殆どなく︑時としては絶

対に必要でない︑などと私はいおうとしているのではない︒国家は浪費によってたしかに衰退させられるであろう︒

そうして︑現実の支出の減少はただ単にこのために必要であるばかりでなく︑さらに一国の資本がその生産物に対す

る需要に比べて不足している時には︑消費の一時的節約が資本の供給を準備するために必要である︒というのは︑そ

れのみが将来における消費手段の増大を与えうるからであを︒議論加平かぎかかか痴で愉︑匝かかか邸跡翻瀞賢0加

︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︸ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑︵蛎︶続的減少から生み出される資本の蓄積によっては到底富裕にはなりえないということである︒﹂

(16)

 だから︑リカアドウとマルサスの論争における中心的な係争点はつぎの点にあったということになる︒リカァドウ

は資本がどれほどの速度をもって増加してゆこうと︑生産の増加はそれに応ずる需要の増加をもたらすが故に一般的

過剰をひきおこすことはないと主張したのであって︑ リヵアドウの場合︑蓄積率の如何は問題とされなかった︒ こ

れに反して︑マルサスは需給の均衡を維持したまま蓄積が進行するためには蓄積率がある一定率を保っていなければ

ならず︑この率を超える︽過度の蓄積︾が進行すれば︑一般的供給過剰が不可避だというのである︒そうして︑その

場合︑マルザスは蓄積が投資需要を増加する側面を認めた上で︑しかも︽過度の蓄積︾が有効需要の減退をもたらす

ものだと論じているのである︒だが︑こうみてくると︑マルサスが追及しようとしているのが︑本節のはじめにわれ      パぼロわれが指摘したリカアドウの所論に含まれた三つの問題点のうちの第三の論点だということが分るであろう︒しから

ば︑マルサスはこの論点をどのように追及したのであろうか︒われわれはこれを以下の第三・四両節において考察す

ることにしたい︒

 ともあれ︑以上のところがら明らかなように︑マルサスが提出している問題は︑生産と消費の均衡が破壊されない

ためには資本蓄積がある一定の蓄積率をもって行われなければならず︑したがって︑そのためには収入のうちのある

一定の割合が不生産的消費にあてられるべきだということなのである︒それ故︑マルサスが不生産的消費の必要を説

くのも︑それはけっして彼が軽卒にも貯蓄を不消費と同じことだと考えたためでもなかったし︑またただ単に不生産

的階級の浪費の弁護を企てようとしたためでもなかった︒したがって︑マルサスの提起した問題は︑不生産的消費者      ︵17︶の群は﹁製造業者の倉庫で財貨を消費する火事とまさに同じだけ将来の生産のため必要かつ有用である︒﹂といった︑

リカアドウの揶揄によって片づけられてはならないものを含んでいるのである︒マルサスが終始問題にするのはどこ

 ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌一       七九

(17)

  i論   文一      ﹃      八○

までも収入のうちの一定の割合の不生産的消費であり︑逆にいえば︑蓄積率の如何なのである︒だから︑マルサスは       ︸ ︑         ︵18︶繰返し︑ ﹁富に関する経済学上のすべての重大な結果は比率に依存している﹂と指摘したのである︒すなわち︑マル

サスは均衡を維持しうる資本蓄積はある一定の蓄積率の下においてのみ可能であるとし︑これを基準として恐慌発生       ︵胸︶の可能性を論証しようとしていたのである︒

︵12︶(   (   (   (

16 15  14  13

)   )   )   )

︵17︶  家8民ρ勺二gぢ一g9℃o目蔭$一国8口︒ヨ鴫壁α↓節鍔該oP類9訂9困8昆Poξ国︑即飲量ンマ嶺H 小泉信三訳︑上巻︑ 一五二頁︒ ℃婦ぎ︒昼δ9ロPoo一合μ 邦訳︑下巻︑二一一六頁︒ただし︑傍点引用者︒ ■o詳霞良家巴浮島8幻ざ巽αPミ︒詩ω9霞8巳PH界層・ち︑ただし︑傍点引用者︒ 勺ユロ9筥8︑戸器9 邦訳︑下巻︑ 一五二一三頁︒ただし傍点引用者︒ ミークのつぎのような発言は︑この点に関連せしめてみれば︑すこぶる示唆的である︒ ﹁マルサスの理論と今日のケイン

ジァンの分析にほぼつらなるものとの間にはそれほど多く共通点があるわけではない︒マルサスは慎重に貯蓄は自働的に投

      ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ    ヤ  ヤ  ヤ資されると仮定しているばかりではない︒同時に︑投資の増加が有効需要と供給との間のギャップを拡大こそすれ︑縮少す

や  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  やることはないだろうとほのめかすのである︒﹂︵蜜8ぎ層プ誘一8量2四目αd5号70030ヨ三δン︒マ︒一fマト︒詔︒邦訳︑

一四六頁︒ただし︑傍点引用者︒

 しかし︑ミークはマルサスがこの論点を単に﹁ほのめかす﹂に止まったと考え︑この論点をこれ以上追及しなかった︒だ

が︑私見によれば︑マルサスはこの論点を﹁ほのめかす﹂だけでなく︑マルサスなりに徹底的に追及し︑これを資本蓄積と

恐慌に関するリヵアドウの体系に対抗する理論体系の枢軸としているのである︒

覆9巳ρZ989客巴浮β即名︒芽草戸P鵠一・吉田秀夫訳﹃マルサス経済学原理﹄下巻﹁三五〇頁︒

(18)

︵18︶ ℃ユ昌O着目〇9マω﹃9

   さきに引用した﹃原理﹄の序文でマルサスが﹁生産力と消費意志之の双方を考慮にいれて︑富の増進に対する刺戟が最大

  であるようなある中間点﹂の存在することを強調するのも︑やはりマルサスが均衡を維持しうる蓄積率の定立が考察の中心

  におかれるべきだと考えていることを示すものである︒したがって︑平瀬巳之吉氏のように︑マルサスのこうした議論をも

  って直ちに﹁真理はつねに中庸にあるとするマルサスの常識的な経験主義の態度﹂を示すものだときめつけてし←一惑うことに

  は私は賛成できない︒

   また︑平瀬氏は﹁ケインズの共感をよびおこしてゆくところの︑その反節約理論から有効需要の理論にかけて恐慌論へと

  流れるマルサスの基本構想も︑結局はこのように︽過度︾や︽極端︾をいみきらうモそのいみでまさに常識的な!マル

  サスの経験主義の態度の表明にほかならなかった︒﹂ ︵﹃経済学の古典と近代﹄ 一〇頁︶と述べでおられるが︑これにも私は

  賛同しえない・何馨ら・す芝知建ように︑ケインズがマルサスに︽共感︾しおは︑実際にはマルサスが響語慕      ヤ  かっ三貯董投資のバランス﹂を聖る問題提起の隻爵してなのであって︑︽貯萬投資︾を難し至での盆度﹀︶

  や︽極端︾をいみきらうマルサスの基本構想に対してはケインズは何らの反応をも示してはいなかったからである︒

︵四︶︽薯︾がど殺ど大であうつと︑それを埋合わすべき︽新投資︾奪えられる弩ば︑需要と供給あ不均衡星じえ

  ない・︽投資︾を︽投資舞︾として2側面墾いて盆把えるケインズ的な思考からすれば︑おそらくあように考え

  られるであろう︒しかしながら︑こうした考え方に対して︑富塚良三氏は最近極めて注目すべき批判的見解を示占︒れてい

  る・昏・﹁磐黎要の二つの震要因たる︽生産財垂︾と︽消欝嚢︾とが︑所与の生産力水準の下では︑あ至

  定の構造連関をもつべ差と﹂皇要れ︑ここから価値・素材の寄からする護縄の均衡が保持されうるためには︑

  ある憂の落率︵均薯積率︶が讐されなければ弩ないと裳︑これをもって資本制的蓄積がそれから絶えず乖離し

  ようとする内的傾向をもつことを析出するための一基準として設定されている︒ ︵富塚﹁恐慌論の基本構成﹂ ﹃恐慌論講

 ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌一       .      八一

(19)

1論   文一      八二

 座﹄所収︑九〇頁以下参照︶そうして︑私見によれば︑マルサスの所論は︑すこぶる素朴なものではあったが︑ こうした

 ︽均衡蓄積率︾の定立を基準として恐慌の可能性を析出しようとする思考の先駆を示すものと思われるのであって︑私は本

 稿において︑このような視角からマルサスの所論を再構成したいと思っている︒だが︑そのために︑マルサス研究の視角に

 おいては︑私は富塚氏と見解を異にしている︒富塚氏はマルサスの蓄積論・恐慌論の分析視角をつぎのように設定されてい

 る︒ ﹁マルサスはスミスの蓄積論を⁝:二応その理論の前提としながらも︑スミスが想定した蓄積過程⁝⁝が順当に進行す

 るための条件こそが解明さるべき問題であるとして事実上G⁝αフォ⁝ミュラァの観点から︽有効需要︾論を展開する︒﹂

  ︵富塚﹁ス・くス蓄積論の基本構成﹂ ︵内田義彦編﹃古典経済学研究﹄上巻所収︑二一九頁︒︶と︒しかし︑私はG⁝αフォ

 ーミュラァの観点からする有効需要論は重商主義に固有のものであって︑マルサスのものではないと思う︒後述に示される      ヤ ように︑マルサスは貯蓄即投資の想定および 含+ミ︾ のドグマをリカアドウと全く同様に受容した上で有効需要を問題に

 しているのである︒

三 ︽過度の蓄積︾と︽需要の型︾の変化

 リカアドウの主張は︑資本がどれほどの速度をもって蓄積されようと︑その自然的行程において一般的供給過剰が

ひきおこされることはない︑というのである︒リガアドウが蓄積率の如何について考慮を全く払わなかったのに対し

て︑マルサスは生産と消費の均衡が維持されるためには蓄積がある一定の率をもって行われなければならず︑もしこ

の率を超える蓄積が進行すれば︑そこには必ず一般的供給過剰がひきおこされると主張した︒それならマルサスはど

のようにしてリカアドウの主張を論破し︑自説の論拠を固めようとしたか︒

 マルサスはつぎのような事例を設けて問題に迫ろうとする︒すなわち︑一つの社会を想定し︑この社会は一群の農

(20)

業者ともう一群の製造業者とで構成されており︑双方ともに生活必需品および奢侈品を生産し︑双方の間には恒常的

に生産物の交換が行われているというのである︒ところが︑マルサスの意見によれば︑この場合でも﹁怠惰よりもむ︑       ヤ  セ  む  ロ  ちしろ奢侈品がつねに選ばれるということ︑および各々の当事者の利潤のうちの適当な割合が収入として消費されると

いうこδ︑﹂が前提されておれば︑生産力の増大とともに双方の当事者たちのすべてが一層大きな富を獲得しうるよう

      む  ち  セ  う  ち  ヤ  う  ヨ  む  ヤ  ヤ  む  セ  カ  う  セになるだろう︑しかし︑ひとたび当事者たちの双方もしくは一方が利潤のうちの一定の割合以上を蓄積しようとすれ

ば︑すなわち節約による避慶⑪静積を行えば︑事態はけっして円滑にはすすまないというのである︒すなわち︑マル

サスはつぎのようにいう︒

 ﹁農業者が製造業者によって生産された奢侈品を消費しようとし︑また製造業者が農業者によって生産された奢侈

品を消費したい気持になっている間は︑すべては円滑にすすむであろう︒しかし︑もし当事者の一方もしくは双方が

彼らの境遇を改善したり︑将来における彼らの家族のために準備したりしようとして.大いに貯蓄しようとしたなら

ば︑事態はすこぶる異なることであろう︒農業者はリボンやレースやビロードを貧ってもとめる代りに一層質素な衣

服で満足するようになるだろう︒しかし︑この節約によって彼らは製造業者が農産物の同一量を購入しえないように

してしまうであろう︒すなわち︑土地に使用され︑生産力の著しく増大したすこぶる多くの労働の成果に対して︑そこ

には明らかに市場が存在しないことになろう︒製造業者は︑同様に砂糖や葡萄や煙草を貪りもとめる代りに将来のた

めに貯蓄しようとするかもしれないが︑彼等は農業者の節約と製造品に対する需要の欠如のために全くそうすること      ロができないであろう︒﹂

 マルサスによれば︑農業者が過度に蓄積しようとした場合には︑その結果彼等の消費の不足によって製造業者のつ

  ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌一       八三

(21)

 1論    文一       八四

くる奢侈品の供給過剰が生じ︑ついで︑いままでこの奢侈品と引換えに製造業者によって購入されていた農産物が市

場を失う︒したがって農業者の行った蓄積が生産の増大をもたらした時︑農産物の市場は明らかに狭すぎることにな

らざるをえないというのである︒そうして︑マルサスによれば︑こうした事情の下でなおかつ人々が蓄積を行ってゆ

こうとすれば︑蓄積は現物をもって行われざるをえなくなるが︑現物による蓄積であれば︑それは早晩ゆきづまらざ

るをえなくなるというのである︒

 ﹁普通の食物や普通の衣服をある程度まで蓄積することは双方︵農業者および製造業者⁝・.引用者︶の側で行われうる

であろう︒しかし︑その額は必ずや著しく制限されているにちがいない︒ただ単に彼の労働者たちに食物および衣服

を与えるためにのみ︑彼の土地を耕作しつづけることは農業者にとっては全く無益であろう︒もし︑彼が農業労働者

たちの生産したものの剰余を彼自身で消費することもなく︑またそれを彼の子孫に譲れる形で換金することもしえな

ければ︑彼は彼自身のためにも家族のためにも︑何もしていないことになるだろう︒⁝⁝製造業者たちにとっては︑

農業者および彼等自身が欲する以上に引続いて衣服を生産することはさらに一層無益であろう︒彼等の数は実際のと

ころ全く農業者の需要に依存するであろう︒というのは︑彼等は製造品に対する互恵的な欲求に比例するよりほかに

は生活資料を購入する手段をもたないからである︒⁝⁝そこで︑生産力がどうであろうと︑消費に対する適度な情

熱が供給と需要との間の適当な比例を十分に維持しうるものだということは全くたしかであるし︑また蓄積に対する

コ   ほ   ち過度の情熱が不可避的に︑そのような社会の構造と習慣とが有益に消費されることを許す以上に財貨を供給せしめる       ︵3︶にちがいないということは全く同様にたしかであるように思われる︒﹂

      コ   ヨ   ヤ   ち   ヨ かくして︑マルサスの意見によれば︑過度の蓄積は︑さしあたっては消費の減少による奢侈品の供給過剰をひきお

(22)

こすだろうがどれは髪る雰魁剰とはりえない.何故なら︑ここであくまでも蓄積をつづけようとすれば︑奢

鷺に対す嘉要は減少しているのだ奮資本の投下は必爺の生産の拡杏向9れなければ馨ず︑必需品の生

産の拡大は所与の人︒の聾する圭詮比し置ち撰給の過剰をひ墓場からだというのである.むろん︑こ

うしたマルサスの主張は︑ここに引用したマルサスの言葉からだけでは充分に説得力あるものとはいえないのであっ       ヤ  ち  ち  ヨ  ちて・次節重層立入った検討を加えなければ弩ない.しかし︑ここで注目してよいことは︑マルサスが過度の落

が従来の︽需要の型︾を変化させるという点を重視していることである.リヵアドウの見解によれば︑蓄積がどれほ

ど行われようと・それは需蓼少しも減少するあではない.すなわち︑いままで奢管翠歪産霧働者の消費す

る財貨に対する需要とな・ていた収入の部分は︑節約農馨れ塗彪よ.て生産財や生産的労働者の消費する財

貨に対する需要となるはずだからである.かくして︑リカアドウの論琴もぞすれば︑墓率がどれほどであろう

と・蓄積それ自体熱有効需要を変化せしめ詮とはないのである.しかし︑マルサスが注目するのは︑節約という

行為自体が生み出すはずの毒煙対する霧の馨という套のである.たとえ︑追加投資が行われ︑それが霧

の増加をもたらすとしても︑それは生産財その他の購歪む9れるものであ・て︑現在過剰にな.ている穆品の

購入にむけられるものではない.したがって︑現在市場に存在している奢侈品は︑問題の︽過度の蓄積︾が行われる      セや否や供給過剰にならざるをえない.マルサスの注目葱のはあ点なのである.つまり︑マルサスは総有効需要の

大いさのみを問題とするだけでなく︑蓄積のひきおこす︽需要の型︾の変化に注目しているのである︒

しかしながら・マルサス碧のよう華例を設定して奢箆の供輪剰覧出し︑これが全産業に波及して全般的

過剰を生み出すきっかけを意摩倉推論しを彪ついては︑リカアドゥから直ちに反論覆蜜れた.﹃マルサ

       八五  ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌1−

(23)

 一論    文一       八六

ス評註﹄において︑リカァドウはマルサスの掲げたこの事例においても︽過度の蓄積︾が奢侈品の供給過剰をひきお

こすことはないと主張したのである︒この点について︑マルサスはこういつていた︒ ︽過度の蓄積︾とは農業者ない

し製造業者の節約によるものであり︑したがって︑それは彼等の奢侈品購買量の減少を意味する︑と︒ところが︑リ

カァドウはこのマルサスの言葉に註釈を加えて︑つぎのようにいう︒﹁それはそのとおりだ︒だが︑⁝⁝労働者たち

がそれを ︵奢侈品⁝・.引用者︶︑もしくはそれの代りにつくられる何か別のものを購買することにはならないだろう

ハイロか︒﹂と︒

 このリカァドウの言葉の意味はこうである︒資本の︽過度の蓄積︾と呼ばれるほどの巨額の蓄積が行われた場合を

想定すれば︑資本蓄積の結果やがては必然的に労働に対する需要の著しい増大が生ずるはずである︒そうなれば︑賃

銀の市場率はその自然率よりも著しく騰貴するであろうから︑労働者の支出は生活必需品のみならず奢侈品にもむけ

られるようになるだろう︒この場合︑労働者の支出が︑いま行われた︽過度の節約︾のために過剰になっている奢侈

品にむけられないとしても︑何か別の奢侈品にむけられるであろうから︑ここでの供給過剰は単なる一時的な部分的

過剰にすぎない︒すなわち︑ある種類の奢侈品が供給過剰になっているのは︑人肉の嗜好にあう別の奢侈品が供給不.

足であるからにすぎないというのである︒リカアドウはきわめて急速に資本蓄積が行われる場合︑利潤が著しく低下

して蓄積の動機を破壊するような事態が生じうることを認める︒だが︑その場合蓄積の動機が失われるのは一般的供

給過剰が生じたからなのではない︒この点について︑リカァドウは一八二一年七月二一日づけのマルサスあての手紙

の一節でつぎのように説明している︒

 ﹁貯蓄がきわめてひろく行われるために︑資本の使用から何らの利潤も生じないような場合がありうることは︑私

(24)

もたしかに認めます︒しかし︑この場合︑特別な理由は︑利潤を構成すべきファンド︑しかも通常利潤を構成してい

るファンドがすべて賃銀に赴いて︑労働の維持にあてられるファンドを過度に膨脹させるからだと私は考えます︒労       ハピロ働者たちは︑その労働に対して過度に支払われており︑必然的にその国の不生産的消費者になります︒﹂

 かくして︑リカアドウによれば︑ ︽過度の節約︾による奢侈品に対する需要の減少は︑同じ蓄積がやがて労働維持

の基金の︽過度の膨脹︾をひきおこすことによって賃銀を高め︑奢侈品に対する需要を回復する︒だから︑結局は全

体としてみれは︑供給と需要は均衡しており︑蓄積された資本の使用が必要品の生産に限定されなければならないと

いう制約が与えられるはずはないというのである︒そこで︑彼はマルサスを批判してつぎのようにいう︒ ﹁私の目的

が蓄積にあるのなら︑何故私は特に穀物を生産しなければならないのか︒また︑何故︑需要されている何か別の財貨       ハ りを生産してはならないのか︒﹂と︒

 ︵1︶ ℃ユ8ぢ一〇ω︸Pω8■邦訳︑下巻︑一四四頁︒引用文中の傍点は引用者の附したものであるが︑この傍点部分の﹁適当な

   割合﹂という字句は﹃原理﹄初版にはなく︑第二版において加筆されたものであることに注意する必要がある︒

 ︵2︶ 勺ユ目︒なぎ9℃Poo旨ム・・邦訳︑下巻︑一四八−九頁︒

 ︵3︶ ︸ユ9首ざ幹℃マ9令9 邦訳︑下巻︑一四九1五一頁︒引用文中の傍点は引用者によるものであるが︑この傍点の附さ

   れている言葉︑﹃o民﹃90の語もまた﹃原理﹄初版にはなく︑第二版ではじめて見出される︒さきの註︵1︶の箇所とい

   い︑ここでの加筆といい︑いずれも生産と消費のバランスと蓄積率との関係を論じた文章であることに注意すべきである︒

    マルサスは﹃原理﹄初版の表現では自己の真意を充分には読者に伝ええないと考え︑このように加筆したのであろう︒した

   がって︑われわれのマルサス解釈もこの点を充分に顧慮して行われるべきであろう︒

  ︵4︶ 蜜8aρ乞︒器ωOロ=巴些器ン<o詩算冒マ舘oo︑邦訳︑下巻︑二〇三頁︒

  ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌−       八七

(25)

 一論   文一       八八

 ︵5︶ 卜︒菖霞9盈8ao8竃巴島島借名︒算ρH〆ワbo吟 中野正訳︑下巻︑一二六−七頁︒

■︵6︶ 裂8鼠PZo富ωoロ国里9岳︑類︒蒔草戸り認ド 邦訳︑下巻︑二〇七・頁︒

 ︽過度の蓄積︾がひきおこす︽需要の型︾の変化による奢侈品の過剰について︑リカアドウがこれを部分的過剰に

すぎないとみなした論拠は︑彼が︽過度の蓄積︾によって結局は賃銀率が騰貴せしめられると考えたところにあっ

た︒すなわち︑リカアドウにおいては︑資本家の節約によって生ずる奢侈品に対する需要の減少は高賃銀を支払われ

る労働者の支出によって償われるということになるのである︒しかしながら︑マルサスはこの見解を認めない︒マル       ち  も  セサスによれば︑ ︽過度の蓄積︾はけっして賃銀率を直ちに高めるものではない︒したがって︑ ︽過度の蓄積︾が行わ

      む  ち  ちれても労働者の支出は直ちに増大するわけではない︒労働者の消費はさしあたり以前と同一水準にあるというのであ

る︒すなわち︑マルサスはいう︒

       も  ヤ  ヤ  ヤ  む  ヨ  ね  も  ヤ  ち  ち  ち  セ  む ﹁ある国の生産物のうちの通常よりもはるかに大きな部分を直ちに生産的労働を維持するためにあてるということ

はたしかに節約によってできる︒そうして︑このことがなされると仮定すれば︑そのように使用される労働者たちは

個人的奉仕に従事するものと同様に消費者であり︑また労働者に関する限りでは︑消費ないし需要の減少はないだろ       パマロうということは全く真実である︒﹂この言葉によってみれば︑ マルサスがつぎのように考えていることは明らかであ

る︒ ︽過度の蓄積︾は従来不生産的労働者によって消費された収入の部分が生産的労働者によって消費されるという        りことを意味する︒したがって︑全体としての労働者階級の消費は蓄積の前と後とで変りがない︒というわけである︒

マルサスはここで﹁労働者に関する限り︑消費ないし需要の減少はない﹂という漠然とした表現を用いているが︑そ

の真意は蓄積の前後において不生産的労働者を含めての労働者全体の生産物に対する需要が同一水準にあるというこ

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とである・そうだ与れば百額の資本の蓄馨行われても︑さしあたっては︑労働者︵歪産窮働蓼怠︶の

支払われる賃銀総額は変化がないというのがマルサスの主零ある.マルサスはこの主撃どのように論拠づけたの

だろ・つか︒

賃銀率を決定するものは労働合を一定与れば︑労働需要の大いさである.しからば︑マルサスは労働需要が何

に依存すると考えおか・彼はいう.﹁労働に対する需要は︑菌の塁資歪対してではなく︑流動資歪対して

のみ比例するのだと一盛考えられて客.しかし︑実際には労働に対する襲警のような形の葉の増査詫

例しないし・また述って私が考えたように︑年あ全生産物の交換腰の増杢対してさえも比例するものではな

い・それは上述したように︹資本か星ずるものであろうと︑収入から生ずるものであろうと︺議の維持のために

現実に使用されるファンドの︹物的︺数量預び︹交換︺価値の撫率に対しての髭例するのである.これ錦フ

ァンドは主として生活必轡胃裏わち社会の蕩階級の衣食住禁び燃料隻配葛手窪もとづいている.﹂

との

つまり・蕩需要が流動資本髭例すると考えれば︑人・の増袈を上廻る流動資本の媚竃たらすよう蕪本

の落は必ず嵩需署増加葛こ彪よぞ賃銀率巻な高め畠向竃つといわなけれ珪畠.しかるに︑

マルサスによれば・嵩重の大いさはた輩篶動資本壊存していおではなく︑流動資本プラス収入中の歪

産甥働者の雇健あてられるファン芝依壱ているというの誇る.したがって︑マルサスによれば︑収入の節

約による資本の蓄積とは従来歪産留讐の麟にあてられていたファンドを減少せしめて流動資本を増加せしめ

ることを意味するのだ弩・労働の維撞あてられるフ・ンドの総額は蓄積によ.置ち病加するわ堪はないと      八九  ーマルサスにおける資本蓄積と恐慌ー

参照

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