再生産と恐慌 : 恐慌論研究ノート
11
0
0
全文
(2) . 第5巻. 昭和29年8月. 北 海 道 学 聾 大 学 紀 要 (第一部). ●号 第1. 再. 生. 産. と. -- 恐慌論研究ノート. 大. 野. 一. 勇. 恐. 慌. -- 郎. 北海道学蔓大学釧路分校社会科学教室. i es Yui chiro ONo : Notes on the Theor i ion and Cr si s of Reproduct. 〔1〕 周知の如く マルクス恐慌理論の解釈について は三つの. 3 )過少消費 2 )利潤率低下理論( 1 )均衡破壊理論( 流派、 即ち( 理論が数えられる。 そして此れ らの諸説は夫々独 立に‐. について学ぶことから始めよう。 吉田義三教 授 に よ れ ば、 「均衡の他に特に社会の消費力というものが持ち出 「 でない」 もの されねを ならない理由」 は . 一向に明らか とされ、 〔註2〕 岡本博之、 林直道両教授の場合は、 恐 慌の原因に関する 「生産諸部門間の均衡」 は、 単に、 生. 叉は他説との連繋、 結合に於て、 より科学的な恐慌理論′ 産財生産部門と消費財生産部門との間の関係へ倭少化さ れてはならないものであって、 「使用憤値別に細分され の完成への途を歩みつ ある。 恐慌の基本的な原因を示 すものとしての、 マルクスの有名な命題、 即ち、 「直接 的搾取の{条件と、 その実現の係件とは同一ではない。 … ………前者は社会の生産力によってのみ制限され、 後者. た無数の諸生産部門」 の間のそれであり、「消費制限」と 言う場合の消費は、 明らかに個人的消費 で あ っ て、 就 中、 大衆の消費が基盤になるものであるという立場に立. は、 相異る生産諸部門間の均衡により、 また、 社会の消 費力によって制限される」 〔註〕 に於ける 「部門間の均. って両者の連繋を間いた ゞすという運 びを し て お ら れ 〔註3〕 以上の二説を学ぶに先立って、 吾々の此の る。’. 衡」 と 「消費制限」 の連繋を如何に把握するかの問題な どは、 その途上における一つの道標を提供 しているもの. 間題に関する若干の理解を一言すれば、 「生産諸部門間. と言えよう。 だが、 総 じて、 マルクス恐慌論における諸. 値別に細分された無数の生産諸亜部門間のそれとの二種. 素の一つとしての消費の一定の状態」 「基本矛盾」「内在. の意義、 内容を持っものであり、 「部門間の均衡」 との 関連に於て考察されねばならない 「消費の歌態」 につい. 的矛盾」「生産の無政府性」「資本制生産の制限者として の資本それ自身」 等々の意義、 内容を如何に把握するか. ては、 消費力の大きさに関するものと、 此れとは一瞳区 別されるものとしての消費欲求の使用償値別の種類に関. と い う こ と 、 マルクスの手法と、 その贋意とを混同す るか鮮別するかの相違にか っているもの よ う で あ. するものとの二つの意義が存在す る。 マルクスが 「社会 の消費力」 の制限について言及する場合の 「消費力」 は. る。 小稿に於ける吾々の希いは、 諸家の此の間題に関す る実り豊かな御労作の二三を選んで、 その御研究の跡を. 全けるものと解される し、 レーニ 明らかに前者の意味に万. ・「消費制限」 「均衡の要 解釈の分岐は、「部門間の均衡」. 辿りながら、 前言巳の諸概念に関する理解の態度を学 びと り、 吾々なりの一つの恐慌論解釈を試みることにある。 〔証〕 資本論、 長谷部訳、 9分冊、 p .201 〔2〕. 贋 の均衡」 は、 第一、 第二両生産部門間の均衡と、 使用.. ンが 「消費の一定の厭態は 均衡の要素の一つである。」 〔註4〕 と言う場合の 「消費の状態」 も、 前後の文脈よ りして前者の意味に解さるべきものであろう。 また、 此 1 れと関連 して、{ )内在的矛盾を内包するものとしての不. )使用慣値別に細分された生産諸部門間の不 均等発展と侶. 吾々は先ず恐慌の基本的な原因を示すものとされてい. 均衡との双方が、 何れも 「生産の無政府性」 に基因 する ものであり、 生産の無政府性の現われである と 理 解 す. る 「生産諸部門間の均衡」 と 「社会の消費力」 との関連. る。 更にまた、 謂うところの 「内在的矛盾」 とは 「生産 58 一.
(3) . 再. 産, と. 生. 恐 慌. の無政府性と労資対立との統一現象」 であつて、 基本矛 盾の第一の現象形態としての労資の対立=消費制限のみ. だけでは恐慌の発生は必ずしも必然的で は な い。 而 か. でなく、 第二の現象形態としての無政府性をもまた内包 するものであり、 恐慌との関連に於ての再生産表式は、 此の意味の内在的矛盾を内包し、 恐慌への、 より発展 し. 社会の全生産力との比率に於ける社会の消費力 (個人的. た可能性を示すものではあるが、 それ自体、 恐慌の必然 . 性を、 ましてや現実性を示すものではな い。 それは 「生 産は個人的消費から絶対的には独立であり得ない。」と言 う説明を僕って、 而かも高々、 恐慌の抽象的必然性を語 り得るものであるに過ぎないのである。 さて、 以上の理解を前置して、 吾々は前遮の吉田教授 の疑問、 及び岡本、 林両教授の所説 を学ぶ, 仕事にとりか かろう。 吉田教授は、 T. バラノ フスキーの設問に対す るレーニンの回答を吟味された後、 「実現の僻件は生産 諸部門間の均衡と社会の消費力によって制限される」 と いうマルクスの命題に関して、 「社会の消費力」 は 「部 門間の均衡」 に吸収されるものであるから、 殊更に此れ を指摘しなければならない理由が納得来出ないとされる. も、 この二大部門間の均衡を破壊に導くものは 結局 、 、 消費) の不足である。 斯く して、 二大生産部門間の均衡 と、 それを保持するに必要な社会の消費力の大きさ の 、 二要因に、 マルクスは恐慌の基本的な原因を 探 り あ て る。 勿論、 二つの要因は個々別々な、 独立したもの では. ない。 だが、 使用 ・ 贋値別に細分された諸生産亜部門間の 均衡とは区別される、 資本制生産に特徴的な、 二大生産 部門間の均衡こそが、 恐慌に直接的に繋る部門均衡であ り、 そして、 此の場合にあっては、 その均衡の基礎をな すものが、 社会における個人的消費の大きさである点を 強弁するために、 特に 「社会の消費力」 を附言巳したもの とも解 し得るのではあるまいか。 吾々が生産諸部門間の. 均衡を二大生産部門間のそれに限定した理由が、 恐慌の 原因としての消費制限に繋る部門均衡は、 二大生産部門 間のそれであるとする見 解に基くものであることは言う までもあるまい。 レーニンが 「社会の消費力と各種生産部門間の均衡と. のである。〔謎5〕 吾々の理解を語ろう。 --それは林教授の吉田教授に 対する御批判とも、 その懐同じではない。 此処での 「消. は………個別的な、 独立的な、 互に結合されない傑 件で はない」 とい. う場合の両者の関連もまた、 吾々の理解に. 費力」 は言うまでもなく、 社会の個 人的消費のそれであ ろうが、 生産諸亜部門間に於ける均衡が保たれ、 また二. 於けると同 じものを指していると解される。 だ か ら こ そ、 それは 「却って、 生産的消費と個人的消費との間の. 大生産部門間の均衡が、 不均等発展によって維持されて. 連繋を示すものなのであろう。」〔註6〕 生産的消費は個 人的消費から相対的にしか独立的ではあり得ないという. いても、 社会の消費力を度外脱 した蓄積の累積は、 「生 産は消費から絶対には独立的であり得な い」 た め に、. 意味に於て。 林教授は生産部門間の均衡のうち、 生産諸. やがて実現の破綻が襲って来る。 --それが生産財に関. 亜部門間のそれに力点を置かれて、 レーニンの 「消費の. して先ず発生するか、 それとも消費財について起るかの. ある状態は均衡の要素の つである」 という命題を次の. 問題は一瞳考慮のタ トに置くとして。 --ということ、BU の表現をすれば、 不均等発展という形における均衡の保 持には限度があるということ、 つまり、 社会 の 消 費 力 (個人的消費) の大きさとの一定の比率を超えての生産. 様に説き明かされる。 即ち 「生産された消費財が総 べて 消費されているような状態、 これが 『均衡の 要 素 の 一. 財生産の一方的な拡大の不可能であることを指摘するの. … 『何らか別個な、 独立的な、 互に結合されない』 もの. が、 此処で 「社会の消費力」 を特に附け加えたマルクス の鱈意ではなかろうか。 或いは反問を受けるかも知れない。 即ち、 「それは、. たゞ、 生産諸部門間の均衡を二大生産部門間のそれに限 定しただけではないか。 社会の消費力を持ち出さねばな らぬことの理由は、 依然として説き明 かされていないで はないか。」と。 吾々は醸酬したい。 恐慌の必然性を論証 するための 「部門間の不均衡」 は恒常的に存在し得る生 産諸亜部門間の不均衡ではなく して、 それを激化させ調 整し難い窮地に追い込む、 「社 会の消費力」 を無崩 した , 蓄積 に起因する 「二大生産部門間の不均衡」 である 二 。. 大部門間の均衡が破壊されざる限り、 亜部門間の不均衡. つ』 なのであり、 こういう形で 『部門間の均衡』 と 『社 会の消費力』 とは互に一定の関連に立つのであって…… ではない。 …………なお、 レーニンが 『均衡の要素の一 つ』 と但書 した理由は、 こ では問題が社会の消費にの み関しており、 従って生産的消費の問題、 生産財の実現 の問題は省かれているからである。」〔註7〕 と。 だが、 此の レーニンの命題が、 「市場論」 の中で 「マルクスは. 此処では唯、 …………資本主義の矛盾を、 即ち生産を無 制限に拡大せんとする衝動と、 制限されたる消費力 (人. 民大衆の無産階級的状態の結果) との間の矛盾を確言し ているに過 ぎない。 ………… 『社会の消費力』 と 『各種 生産部門の均 衡』 とは…………これは何か個別的な、 独 立的な、 互に結合されない隣件ではない」 と言う章句に 続くものであ・ ると言う一事から判断してみても、 教授の. - 59 「.
(4) . 大 野 勇 御説を其の傷の角度で受入れることは出来難いように思 われる。 〔註8〕 教授は以上の如く に理解される結果、 但し書に於て、 均衡の要素の 「一つ」 であることの意味. 一 郎 ことをも意味することになり、 「均衡」 の他に特に 「社 会の消費力」 を持ち出す理由は解しがたいとの疑問を提 1〕 然るに、 使用債値別の諸 出されることになる。 〔註1. は、 生産的消費の問題、 生産財の実現の問題を省いたか. 生産部門間の均衡に力点を置かれる林教授は、 「消費財. らであるとされるのであるが、 --たしかに教授の言わ れるように解釈することの方が、 消費の 「状態」 とか均 衡の要素の 「一つ」● とかいう語句に対 しては、 より相 隠 しいものであるかと も思われるのであるが--レーニン. さ れる。 同じ意味では、 生産財の全部の実現のためには C I十MC, の実現の問題 も残されている訳 である。 吉田. が、 「却って、 生産的消費と個人的消費との間の連繋を 示すものである」 と言っているのが、 「資本主義は、 一. 教授も CI十MC I の実現の問題を恐慌理論の中軸に据え られ、 その謂わゆる 「生産財の自律的発展説」 を展開さ. りと生産の無 方では、 生産的消費の無制限の拡大への櫛蹴 制限の拡大への衝動が内在し、 他方では、 個人的消費の 拡張にかなり狭い限界を設ける人民大衆の無産階級化が. れている。 だが、 使用.贋値別の生産部門間の均 衡の問題 には特に注意を払われることなく、 第1部門及び第2部. 内在する。 …………第2巻 における実現の分析は少 しも. の全部の実現のためには V2+ MK2十MV2 で代表される 部分の実現の問題がまだ残されているとして此れを批判. 門の二大生産部門間の均衡の問題に論議の中心を置かれ る吉田教授の場合、 V2+MK2+MV2 の実現の問題は別. 此の矛盾を否定するものではない。」という言葉の続き で. に考慮を払う必要のないものとなる。 吉田教授の御説に. ある限り、 この場合の生産的消費と個人的消費の間の連 繋は、 むしろ消費力の大きさに関するものと解さるべき ものではあるまいか。 「要素の一つ」 ということは 「二. ついては、 林教授によって明快にして撤密なる御批判が なされている。〔註12〕 われわれは此処では、 たゞ次の蛇 足を附け加 えることだけに止めさせて戴くことにする。. 六生産部門間の均衡」 を保って行くためには社会におけ る一定の大きさの個人的消費を基礎としているというこ. 即ち、 その謂わゆる 「均衡論的把握」 については遮かに ,り資本制的な」 賛同いたし難いの であるが、 生産の 「よ. とが、 特に資本制 生産に於ては肝要な 「要素の一つ」 で あるという意味であって、 結局においては、 生産的消費. 無政府性の意義を、 不均等発展とその限界の問題として 把えられ、 部門間均衡の問題を二大生産部門間のそれに. との関係 を指摘することにあるの ではあるが、 少くとも 直接的には生産的消費と対置させているものではないの ではあるまいか。 第一部門、 第二部門というような 「一括 した部門群全. 体に注意を奪われ」 なかった教授は、 この場合、 反対に 各部門群の内部の使用贋値別の唖部門における均衡の問 題に注意を払われ過ぎて、 二大生産部門間の均衡の問題 を軽親されたの ではあるまいか。 〔註9〕 林教授の此の. 様な御見解は、 恐慌の突破口を亜部門間の不均衡に求め られようとされる御着想と繁るものと思われるが、 果し て、 マルクスの恐慌理論は教授の指摘される突破ロに僕 たなければ説き明かされない性質のものであろうか。 そ してまた、 そのような突破口との結合による 解 き 明 し が、 マルクス恐慌論の員意を探りあてるものであるか否 ,問題が残るのではあるまいか。 かについては、 織、 吉田教授は 「生産部門間の均衡」 を 「VI十MKI十M o〕 V,=C2+ MC2 という両生産部門間の交換関係」 〔註l に要約され、「均衡が成立する場合にも」 CI十MCI の面 から 「不均衡」 が現われて来る、 という御見解をとられ ている。 したがって、 VI十MKI十MVI=. +MC 2 なる. 等式から判断すれば 「個人的消費の一定の状態が均衡の 要素の 一つである」 ということは、 同時に、 「生産的消 費の 一定の歌態 もまた均衡の要素の一つ」 であるとい う -6 0. 集中して論議を進められたという一事に対 しては、 われ われは柳かの異論をもさしはもむものではないというこ と を。. 〔註〕 2 ( ) 吉田義三 : 景気変動論、p .129 3 ( ) 岡本博之 : 恐慌論 の基本 問題、 p .72 (経 済 評論、 昭25年10月 号) 林 直道 : 再生産=恐慌論と近代景気理論p . 48~56 (経済学雑誌、 第23巻第3号所牧) 8~9 鍵 レーニン: 市場の理論、 河野訳、 p .9 . P . .112. ◎ 吉田義三 : 同上書、p .179 6 ( ) レー ニ ン : 同 上 書、 河 野 訳、 p. 98~loo t ) 林 直道 : 同 上論文、 p 7 .49~50 { 8 } レー ニ ン :. ・訳、 p 同 上 書、 河野 .49~50. 9 ) もっとも、 林教授は、 後続の力縞において此の ( 点に関す る部分的修正 の御意向を被擢 しておられ る。. 回 吉田義 三 : 同 上書、 p .180 l q ) 吉田義三 : 同上書、 p .179 2 0 ’ 林教授は吉田教授の 「生産財の自律的発展説」 1 }本来無政 を要約 して次の様に批列されている。( 府性から説明 さるべき不均衡が、 「生産えの生産 物の直接的軸向」 という如き技術的関連、 技術的 主義 で あ 特徴に求められており、 本 質 上 技 術- る。. ( 2 )かように無政府性を見ない結果、 (林教授の場.
(5) . 再 生. 産 と. 合、 此れは使用価値別 の生産亜 部門間の不均衡を 指されるものと解さ れる-大野-) 「同等不変な 規模での再生産にも拘らず恐慌が生ずる」 ことを 理論的に説明し得ない。( 3 )それは叉必らず第一部 門から過剰が始まらねばならぬこと なり、 具体 的事実に照らして 不都合である。 姓 )叉、 それは 「消誓の増加が零に近いとすれば」 といって こ 、 れこそ吉田教授の前提からすれば正に説明さるべ きであるその肝心の点が論理外的いいまわしを以 て簡単に通り過ごされている。 ◎この理論は表式 分 析としても誤ってい る。 MC が C へ廻る時は . 同時に MV も連れてゆかねばなら ず、 そのため には素材的にも MV 部分が消費財部門から補填 されねばならない。 然るに、 吉田教授は MV を 落 しておられる 。 (同教授、 前掲論文 p.57~8) 〔3〕 恐慌を資本主義の基本矛盾から展開され、 エンゲルス 1 の謂う基本矛盾の二つの現象形態、 即ち( )労資の対立、 2 と( )生産の無政府性とその激化 〔註13〕 とがそれぞれ資. (剰余贋値の実現は)生産諸部 本論における有名な命題 「 門間の均衡により、 また社会の消費力によって制限され る」 〔註14〕 に於ける 「社会の消費力」 と 「生産諸部門 間の均衡」 という二つの要因に照願するものとして把握. される岡本、 林両教授は、 「恐慌を労資の対立(=消費 制限) と、 ならびに剰余贋値生産の基礎上での無政府性 激化 (=生産部門間の不均 衡) との結合にょって説明す ること、 これこそ科学的恐慌理論の基礎的構想だったの であり、 従って、 マルクスがその心血を注いだ資本制生. 産様式の基本矛盾の究明こそ、 とりも直さず恐慌の最輿 の秘密を解くものに他ならなかったの である。」〔註15〕. と言われる。 そして両教授が恐慌を資本主義の基本矛盾 から展開される具体的な運びは、 大凡次の如きものであ る。 即ち、 消費制限、 生産と消費の矛盾を恐慌の究極の 根拠であると言う意味で、 恐慌のための社会的な 「火薬 樽」 とされ、 部門間不均衡を此の火薬樽が爆発するに当 って火付けの役割を果すところの 「 点火者」 と命名され , る。 その結果、 生産の無政府性のために 〔商品生産の本. 質的構造としての無政府性と、 及び資本制商品生産の段 階に至って、 此の無政府性が質的、 量的に激化させられ ることのために) 一定年月 の間には、 二三の部門に於て. 救い難い不均衡=過剰生産が生じ、 此れが今までは何ら 過剰生産でもなかった他の関連産業を受動的過剰生産へ 引き込み、 再生産の連関を辿って次々と波及し、 全産業 部門における全般的過剰生産となって爆発する。 とされ るのである。 扱て、 この場合、 両教授の御訟において特徴的なこと 甲 61. 恐 慌. は 「部門間均衡」 の内容の把 握に関するものであろう。 即ち 「こ. で言う 『部門間』 とは、 単に W 十M=且C と いう如き一括された両部門間の均衡の関係へ倭少化 して. はならず、 全産業部門の均衡が問題であり、 したがって 均衡の成立とは( 1 ”)第二部門用の生産財、 回 }消費財、 傷). 第一部門用の生産財、 と言う三つの流れ の部 門群、 及 び、 それぞれの内部で使用債値別に細分された、 無数の 諸亜部門の生産物が総べて実現される欺態を意味する。 部門間の均衡傑件の分析は、 いうまでもなく、 第2巻第 2 篇に於て最も精密に述べられているが そこでは そ 、 、. もそも部門間の均衡の成立が前提されているため、 此の. 部門群の内部的細分については必要な限りで展開された に止ま り、 (これ以上の細分は表式化 し得ず叉その必要 もなかったから当然のことなのであるが) 最少限の均衡 係件しか述べられていない」 と。 〔註16〕 だが実は此の 「最少限の均衡係件」 こそが、 「消費制限」 のためにそ れが保たれ得なくなった時、 暴力的な均衡回復を求めて 恐慌を惹き起すものなのではなかろうか。両教授は「不均. 衡とは………社会的労働の配分=再配分の無政府性に他 7〕とされ、 更に、 此の生産諸部門間の不 〔註1 ならない。」 均衡は社会主義の下に於ても存在し、 而かもそこでは、 それは恐慌に導かないという事をも教えて お ら れ る。 〔註18〕 してみれば、 此の諸亜部門間の不均衡を恐慌に. まで拡大する資本制生蓬に特有な要因は、 「最少限の均 衡係件」 たろ二大生産部門間の均衡にこそ係わるものと 解されるのではなかろうか。 そしてまた、 消費の制限に も拘わらず生菱を無制限的に拡大するという意味におけ る 「生産の無政府性」 即ち、 不均等発展を、 その限界点 を超えてまで押 し進める 「生産の無政府性」 こそ恐慌と, の関連に於て主役を演ずる 「無政府性」 なのではあるま. いか。 --両教授の謂われる無政性の「激化」が、 此の意 味のものと思われるのであるが。 --吾々の理解によれ ば、 レーニンの謂う 「社会の消費力」 から独立的でもな く、 別個でもない 「部門間の均衡」 も、 二大生産部門間 のそれと解することに於て始めて 「消費制限」 との連繋 が淀みなく行われ得るもの 様に思われるのである。. 生産部門間の均衡を生産諸亜部門間のそれにまで究め られ、 その不均衡の増大、 深化から恐慌を論証される両 教授の御説に於ては、 不均等発展と二大部門間の均衡破 壊の内的必然性については、 あまり考慮を払っておられ. ず、 従って恐慌の周期的必然性の解明が充分に行われて いない憾みがあるかに見受けられるのであるが、 〔註19 〕. 此の間題の論証のためにも、 結局は、 二大生産部門の不 均等発展と其の限界と言う点に足場を求 めねばならない ことになるのではなかろぅか。〔謎20〕.
(6) . 大. 野 勇. 生産諸亜部門間の不均衡は、 二大生産部門の不均衡発 展を、 その限界点にまで追いこむという意 味 に 於 け る. 「無政府性の激化」 を挨たなければ恐慌の必然性を導き 得ない。 だが、 消費制限と資本の無制限的な蓄積衝動に 基因する二大生産部門間の均衡の破壊は、 ただそれだけ. 郎. ける生産過程と流通過程との対立=矛盾の展開 (第3巻 第3篇第15章) ……… から論定される」 〔註21〕 と説か れたのち、 「第3巻第3篇第15章において、 一方では、. 資本制生産様式に内在的な生産の無制限的な発展への傾 向と労働者階級の狭陛なる消費限界との矛盾が、 恐慌の 『窮局の根拠』 をなすものと して指摘され、 他方では、. で恐慌の抽象的必然性を語り得るのである。 〔註〕 鰐〕 反デューリ ング論、 マル・エ ソ選集14巻 p .46 2~4. 側 圃. 一. 資本論、 長谷部訳、9分冊、 p .201 岡本博之 : 恐慌論の基本問題、 p , 81 (経済 評論、 昭和25年10月号). Q印 同 上、 p ,72 旧} 同 上、 p .72. 回 同上、 p ,74 d勃 富塚良三 : 再生産 論 と 恐 慌 論、 p .lol参照 (商学論集、20巻4号) 鋤 これらの点については、 その後の機 会に、 教授 御自身、 次のように云っておられる。 即ち 「生産 と消費の矛盾」 と 「生産部門間の均衡の破壊」 と が対等の資格で、 同 じ比重で併列させられていた 点、 これは明らかに 「生産 と消費の矛盾」 に対す る過少評価である。 ……・ ↑…・不均等発展は 「労資 階級関係」 の表現であるという点だけが、 従って また直ちに 「不均衡」 を意味するものではないと いう点だけが強調されて、 その反面、 不均等発展 と二大部門間均衡破壊の内的必然性を 考えること をしなかった。 …………その結果、 火薬樽に火を 点ずるものとしての 「生産部門間の不均衡」 を全 然、 不均等発展とは別な新 rから、 不均等発展 と何 の 関 係 も な い も の と して 持 ち 出 す こ と に な っ た0. ……………再生産 論の証示する二大部門間均衡破 壊、 この無政府性、 不均衡 の最も重要な根拠を看 過したことは欠陥だと言わねばならない」 と。 - 同教授 : 再生産論=恐慌論の根本問題、 (厳会 科学女献解説、 第10号) p .30~3卿こよる。 -- 〔4〕. 最後に書々は 「再生産過程および此の過程において一 層発展するところの、 恐慌の諸基礎の把握は、 資本論の 第2巻第3篇だけをもってなされるべき でなく、 資本の. 生産過程把握としての第1巻第7篇によって対礁的に基 礎づけられ、 且つ・ 第3巻第3篇による補完を要する」. との見地に立脚される富塚教授の御説を学んで此の稿を. 急激な資本蓄積に基く賃銀の一般的昂騰により追加資本 としての機能を失うところの、 『資本の絶対的過剰生産』 なるものが指摘された。 一見全く逆の関係を示すかに見 える此の両者の関係は如何様に理解さるべき で あ ろ う か。 ………一方に於ては 『敵対的分配関係』 によって規. 定される労働者階級の狭臨な 『消費』 限界が『実現』 の 問題として、 他方においては、 まさに、 この限界こそが それであるところの剰余 贋値 『生産』 の基礎係件の喪失 と して。 この両極は如 何よ 鋤こ理解さる べき で あ ろ う か」 〔註22〕 と自問され、 続いて 「勿論、,この両極は、. 剰余贋値生産としての資本制生産に内在的な矛盾がとる 二つの反対極 的表現 であるに過 ぎない。 だが、 この両極 が相互に制約 しあって、 利潤を自己目的とする蓄積の展 開に限界を劃する関係 が、 あるいは 『消費制限』 を基礎 像件とす る資本制再生産のメ カニズムにおいて、 蓄積:. 投資活動の果す役割と限界が、 蓄積法則そのものから説 明されなければならない であろう。 この両極の関係を明 らかにする ことによって初めて、 『資本制生産の贋の制 限は資本そのものである』 ということが、 したがってま た、 .『恐慌の必然性』 が明らかにされ得るのではなかろ うか。 」 と自ら解明への方向を示される。〔註23〕. さて、 資本の絶対的過剰生産(剰余贋値の生産の儀件) と労働者階級の消費制限 (剰余贋値の実現の係件) との 矛盾こそ資本制生産の 「内在的矛盾」 であるとの見地に. ′此の両者が 「相互の連繋と制約におい 立たれる教授は、 て、 その一方の解決が他方の解決を排除するという関係 において、 『恐慌の必然性』 を形成する関係」 〔註24〕 を 手際よく解き明かされる。. 教授は先ず 「資本の絶対的過剰生産」 は 「資本の過剰 生産コ過剰蓄積」 の極限と して設定されたも の に 過 ぎ ず、 「資本の絶対的過剰生産」 だけから、 一義的に、 あ るいは一面的に、 「恐慌の必然性」 を導き出すことは出 来ないとされる。 即ち、 追加資本が資本としての機能を 全く失うに至る点まで蓄積運動が何ら衰えることなく直. 終り度いと思う。 教授は 「資本そのものが資本制生産にとっての制限と. 進 して、 その結果、 恐慌が爆発すると考えることは現実. なるという意味での恐慌の必然性は…………資本制生産. 的にも理論的にも納得的ではないと言われる。 つまり、. の総過程を把握する第 3巻の第3篇において論 じられ、 …………蓄積の展開に伴う剰余贋値生産の簾件と、 その. 追加資本が資本として機能を全く失う点に達 す る以 前. 実現の膝件との間の矛盾、 即ち、 資本制再生蓬過程にお. に、 「一つの反作用」 が始まることになる。 だが、 「斯 く して質銀の騰貴運動が反撃を蒙る」 ことになって も、. - 62 【.
(7) . 再. 生. 産 と. そのことだけで恐慌を意味するものとは断定しがたい。. この 「一つの反作用」 「蓄積の衰退」 が恐慌の爆溌に導 かざるを得ないということが論証されるためには、 その 他に、「実現」 の係件の困難性が、 まさに此の 「反作用」 が始まるその時に、 充分に成熟していなけれ ば な ら な い。 と教授はいわれるのである。 だが、 教授の明快なる論定にも拘 わらず、 此のような 形において 「両極の関係」 を把握することが、 果してマ ルクスの員意を博えるこ とになるであろうか。 「敵対的. 分配関係によって規定される労働者階級の狭総なる消費 限界、 これが謂わば基軸規定である。」〔註25〕 ことは教 授御自身も御指摘になっておられる。〔註26〕 また、「だ が、 蓄積-投資活動の限界は、 はじめから制限されてい る消費では決 してない。 (剰余贋値学説史、 第2巻、 第 2 部、 2 62頁) とも説いておられる。 こ で 「蓄積 =投 資活動の限界は、 はじめから制限されている消費では決 してない」 と云う命題を引用された意味は、 蓄積=投資 活動の現実の限界を劃するものは実在する需要ではない ということも御指摘になるためであったかと思われので あるが、 〔註27〕 蓄 積 投資活動の限界が信正の需要の 大きさによって規定されないということは、 資本の無制 限的な蓄積衝動によって促進された恐慌の必 ・然・ 性が、 消 「 費制限に基礎を置く 実現」 の破綻によって、 と どめを さされるということ 矛盾もしないであろうし、 またそ れを否定するものでもあるまい。 教授御自身によってゞ. の 「極限」 であり、 「極端」 なる想定である --謂わ 。 れるところの労働力商品説を提唱される宇野教授は こ 、 れを単なる 「極端. なる場合の想定とのみ解するのは 、. 蓄積の増進が、 常に資本構成の高度化を伴って行われる. と前提することに基くの だと教えておられるが 〔註29 〕 。 -- そして、 此処ではたゞ 「蓄積のために蓄積」 すると いう資本の本性を把握 しさえすれば よいので、 必 ず し も、 その 「極端」 なる想定そのものをして、 恐慌の必然 性の論証に役立たしめよ うと意図されたもの ではないよ うである。 とは言 っても、 それが想定し得る恐慌の一つ のタイ プであ ることまでも、 吾々は否定 する 心 算 は な い。 「資本制生産の贋の制限は資本そのものである」 と いうことは 「社会の消費力」 を無税 して、 蓄積衝動に駈. り立てられて行動する資本の宿命的性格が、 自らの蓄積 を阻むことになることの意味であろう。 蓄積のために消 費を節減するのも、 労働者階級の消費力を狭塩化せしめ るのも、 資本の自己増殖慾と、 資本を中心とする生産関 係に繋る。 なお、 吾々は此処でもまた、 恐慌の周期的必 然性を論証するためには、 「消費制限」 と 「二大部門間 の均衡」 との連繋に、 その拠りどころを求めねばならな いだろうことを附け加えておきたい。 さもなければ、 そ の周期性を説き明すためには、 宇野教授の御説にみられ る如き新工夫を必要とすることになるであろう。〔註30〕 〔註〕 富塚良三 : 再生産論と恐慌論、 p .59(商学論 集、20巻4多 - ) 団 同上 : p .62 及び p.78 例. すでに 「主軸規定」 として指摘されている 「消費制限」 は、 資本自らがその蓄積を停止す ると否とに 拘 わ り な く、 資本の無制限的蓄積過程のある段階において、 その 謂わゅる周期的恐慌に突 入するのではなかろうか。 「実. { 2 引 帥. あろう」 ことは、 正に教授の御高示の如く で あ ろ う。 . 〔註28〕. 資本の絶対的過剰生産だけから、 一面的に「恐慌の必 然性」 を導き出すことが出来ないからといって、 それで は、 「一つの反作用」 が始まるその時に、 何時でも 「実 現」 の困難性が充分に成熟 して待っていてくれるだろう. 高 ま る こ とを 可能 な ら しめ る も の で あ る。. 園. 同上 : P ,83. ・「資本論」 における 恐 触 り 宇野弘戯 : ‘ .慌の必然 的根拠の論議について“ (経済学研究、 3巻4号. か。 実現の係件の困難性が充分に成熟していなければ恐 慌の必然性を論証することが出来ないとすれば そして 、 得るとすれば、 「恐1涜の必然性」 の定め手は 「資本の絶. 同上 : p .79 同上 : P .83. 岡 同上 : p .83 鰯 同上 : P 4 .8 5 例 同上 : p ,8 , 〔註〕 資本制再生産過程に本来 的な弾力性は (恐慌の契機たる販賞と購買との分 離の可能性自体がまた弾力性を形成する) 商人資 本の運動の介在による 『仮空な需要』 の創出や信 用制度な どによって拡大 する。 この弾力性は資本 制生産の飛躍的発展 を可能ならしめるが、 同時に 恐慌となって爆発すべき矛盾が、 その極端にまで. 現問題の顕在化は、 資本の過剰生産を、 言い 得 べ く ん ば、 資本が絶対的に過剰生産されていない場合に於ける 資本の絶対的過剰生産を、 実現の面から成立せしめるで. また、 実現の簾件の困難だけで、 恐慌の必然性を論証し. 恐 慌. p .274). 御 } 同上論文 : p .276 〔補論〕(1 ) 岡本 林両教授説に ついて。 . 、. 対的過剰生産」 ではなくて 「実現」 の僻件の困難性だと 言わねばなるまい。 「資本の絶対的過剰生産」 は、 教授. 大生産部門間のそれに倭少化することなく、 却って使用. の教えられている如く、 「資本の過剰生産:ま 過剰蓄積」. 憤値別に細分された 「生産諸亜部門間の均衡」に力点を. 岡本、 林両教授説の特色は「生産部門間の均衡」 を二. 3一 -6.
(8) . 大. 野 勇. 置いて 立論されている処にある。 そして、 生産と消費の. 矛盾=内在的矛盾=恐慌の窮局の根拠は此れを 「不均等 発展」の中に措定しておいて、 恐慌の原因は此 れを「生産 の無政府性とその激化」 に求めるという立場をとられて いる。 恐慌の原因を 「生産 の無政府性」 に求めるという 立場は正しいのであるが、 両教授の場合、 その 「生産の 無政府性」 の対象として取り上げられるのは使用 債値別. に細分された 「生産諸亜部門」 間の均衡の破壊だけなの であって、 二大部門間の均衡を破壊に導くまで無制限的 な生産拡大をするという意味に繋る資本制再生産に必然 的な不均等発展とその限界という問題は 「生蓬の無政府 性」 ということからは無縁なものとして閑却 し去られて. いる。 商品生産に本質的な無政府性が資本制商品生産の 段階に於て、 質的、 量的に激化させられるこ と の 篇 め に、 一定年月の間には、 二三の部門に救い難い不均衡=. 過剰生産が生じ、 それが受動的過剰生産の作 用 を 通 し て、 全般的過剰生産に波及する。 という運 びで恐慌を説 明するのであるが、 その場合、 そのことと二大部門 間の. 一. 郎. の均衡が破壊されるに至れば実現は破綻 を 来 た す。 ※ (もっとも、 二大部門間の均衡が破れ ば、 唖部門間 の均衡も当然破壊されるのであるが。 実現のための理. 想的な簾件は、 頭部門間の均衡が保たれており、 更に 一一その唖部門間の均衡を保持し続けるためにも-- 二大部門間の不均等発展が 「社会の消費力」 の大きさ が許容する限度内において行われ、 二大部門間の均衡 が保たれて行くことである。 だが 「社会の消費力」 と の関係に於ては不均等発展が限界を超えないものであ. る場合でも、 商品生産に本来的な亜部門間の不均衡は 存在 し得る。 だが、 それはそれだけでは恐慌えの必然 性を語り得るものではない。 その亜部門間の不均衡の 「激化」 とい う表現だけで二大部門間の不均衡とは関 係なしに恐慌の周期的必然性を論定しょうとすること は如何にしても 納得的ではないようである。 林 教 授. は、 その恐慌論解釈が単純再生産に於ける恐慌を説き 明 かし得ることを誇示されているかに見受けられるの. 均衡破壊とが如何なる関連を持つかということは一向に 明らかにされてはいない。 二大部門間の均衡破壊の問題. であるが、 資本制生産に特徴的な周期的恐慌の必然性 は、 資本制商品生産の常態たる拡大再生産に於て、 資 本の本性に基く過剰蓄積に主導権を持たせて論証され. を不問に附したことの結果は、 恐慌の周期的必然性を論 証し難いという欠 陥を伴うことになる。. るものであることを忘れてはなるまい。) ※その二大部門間の均衡が保たれる鴬めには、 不均等. 此のことと関連して吾々が両教授に、 より直接的には 林教授に訊ねたいことは、 いったい 「社会の消費力」 と 繁る 「部門間均衡」 というのは、 生産諸亜部門間のそれ ではなく して、 二大部門間のそれではなかろうかという ことである。 なるほど、 マルクスが実現の係件と しての 「部門間の均衡」 と 「社会の消費力」 と言っている場合 の 「部門間の均 衡」 については、 確かに第一義的に或い は直接 的には (吾々はそう解釈するのであるが) 教授の 言われる如く 「生産諸亜部門間の均衡」 と解することが. 発展は 「社会の消費力」 による制約 の範囲内に於ける不 均等発展でなければならない、 ということを特に指摘す るためだったの ではなかろうか。 つまり、 実現の憐件と しては、 先ず 「亜部門間の均衡」 が保持されていなけれ ばならない。 その 「亜部門間均衡」 が保持されて行くた めには、 少くとも 「二大部門間の均衡」 が保たれて行か ねばならぬこと、 そのためには 「不均等発展」 が 「社会 の消費力」 の制約の限度を超えないものでなければなら. けられるべきものではないのではあるまいか。 「部門間. ないこと。 両教授の見解による 「部門間均衡」 の把 握を 土台として、 それと 「社会の消費力」 との連繋 をはかる ためには、 大凡、 以上の様な思考過程を経なけ ればなら ないのではあるまいか。 吾々の理解によれば、 斯くして. 均衡」 を 「亜部門間均衡」 に限定する場合には--亜部 門間均衡が実現の必要係件であることは間違いない。 そ の意味では両教授が此の場合の 「部門間均衡」 を「亜部. 「社会の消費力」 と、 少くとも直接に繋 ぎ合 わ さ れ る 「部門間均衡」 は二大部門間のそれでなければならない 様に思われるの である。 実現の{条件として 「亜部門間の. 門間均衡」 と解されることそれ自体は決 して誤りだとは 吾々も思わないのだが--此れと 「社会の消費力」 とを. 均衡」 が必要なことは確かであり--だが、 生産と消費 の矛盾の成熟が、 二大門間の均衡破壊とい う処まで至ら. 結びつけ るためには、 中間項として 二大部門間の「均衡」 を置かなければな らないのではあるまいか。 一体、 「部 門間均衡」 の他に 「社会の消費力」 なるものを特に持ち 出さねばならなかった理由 は、 「藤部門間の均衡」 が仮. ない間は、 亜部門間の不均衡は慣格調整作用等により是 正されるのが常態で、 再生産は多少の動揺を梓いっ も. に前提されたとしても (周知の如く再生産表式に於ては. 均衡」 の意味を、 第一義的には 「亜部門間均衡」 として 理 解し、 更に第二義的に、 或いは間接的に、 「社会の消. 正しいようであるが、 その意味に於ける 「部門間均 衡」. は教授の御理解の様に 「社会の消費力」 と直接に結びつ. それが前提されている) 過度の蓄積の結果、 二大部門間. 表式に示す如き法則に従 って行われてゆくものと解され. る--その意味では両教授の御指摘は正しい。 「部門間. 一 64 -.
(9) . 再. 生. 産. 費.力」 と繋る 「二大部門間均衡」 の意味をも此れに持 た せて理解するか否かということは一顧別問題と しても 、 「社会の消費力」 を殊更に持ち出 した理由は 二大部門 、. 間の均衡を保持するために資本制再生産=不均等発展が 守らねばならない係件、 従って叉、 少くとも二大部門間 均衡の保証な しには保たれ得ないところの 「亜部門間の 均衡」 を保つための 「要素の」っ」 を指摘するためのも のであったろうと吾々は解するのである。. 商品生産に本来的な 「頭部門間の不均衡」 は確かに恐 慌を発生せ しめ得るものでは ある。 だが 資本制生産の 、 段階に於けるその 「激化」 が、 二大部門間の均衡破壊と. は無関係に周期的恐慌を必然化するとの論定は軽々にな され得るものではあるま い。 不均等発展 が (それに単な. る不均等発展それ自体ではなくて、 資本制再生産に必然 的なものとしての特殊的な性格を帯びた不均等発展の意 味であろうが)「火薬樽」 だとされる両教授は 「樽」 に 、 何時、 如何にして火薬が詰められるかを吟味することを 怠って--と云うよりは、 火薬樽には常に火薬が入って いる、 即ち不均等発展そのものが最初から火薬の入って いる火薬樽 だと解釈されたものであるかも知れないが- -- 「火薬樽」 に点火する 「点火者」 のみを探し求め 、. その点火者を亜部門間不均衡の質、 量的激化に突き止め た訳 である。 だが、 不均等発展が火薬 「樽」 であるとし. と. 恐 慌. を批判される場合、 「消費の一定の状態は均衡の要素の 一つである」 と云う意味を次の様に説明されていること も害々には あまり納得的ではない。 即ち 「消費の一定の 状態とは消費財が全部 売れるという状態である それが 。 均衡の要素の一つであると云うことは 此の場合 個 人 、 、 的消費に ついてのみ云っており、 生産的消費については 云っていないからである。」 と。 だが、 個人的消費の一 定の状態が均衡の要素の一つであると云うことは、 個人 的消費と生産的消費とを唯この様に並 べて、 その二つの 中の一つだと説明するだけで充分なものであろうか 個 。. 人的消費と生産的消費との関連こそ此処で指適されねば ならない事なのではあるまいか。 即ち 社会の個人的消 、 費の或る大きさが、 二大部門の不均等発展に対 して そ 、 の部門間の均衡を保持させ得ろ紙態にあることが 二大 、 部門間の均衡を、 従って、 少くとも、 それな しには均衡 を保持し得ないところの「生産諸亜部門間の均 衡」を維持 させるた めの要素の一つである、 と云う様に理解すべき ものではあるまいか。 -- 「二大部門間の均衡」 が 「社 会の消費力」 との関係に万 全ける限りでは保た れ て い て. も、 商品生産に本来的な 「諸亜部門間の不均衡」 はそれ とは一懸別個に存在し得ることは前遮の如くであるが 、 少くとも 「二大部門間の均衡」 が破れて 「諸亜部門間の. ても、 火薬が詰められない限り、 点火者の点火は数を奏. 均衡」 のみが独自に保たれるということはあり得ない。 〔補論〕(= ) 富塚教授説について。 .. しないものではあるまいか。 「諸亜部門間の不均衡」 が 贋格変動等による調整を許さないものになるのは 「社 、. 5章において始 めて明らかになるものとされ 堪第3篇第1. 会の消費力」 が許容する限界を超えた不均等発展、 それ. 富塚教授の場合、 「恐慌の必然性」 は「資本論」 第 3 ている。 即ち、 資本制生産の 「内在的矛盾」 の二つの反. がもたらす 「二大部門間の不均衡」 なのでは あ る ま い. 対極的表現としての 「資本の絶対的過剰生産」 と 「狭隠. 力も. なる消費限界」 とが相互に制約 し合って蓄積の展開に限. (商品生産に本質的な亜部門間の不均衡が常に存在し - 界を劃するという関係から此処ではじめて 「恐慌の必然 ながらも、 兎も角、 多少の動揺を伴いながらも再生産 が行われていく法則を示すのが再生産表式だとする立. 場からすれば、 最早や慣格の変動などでは恢復出来な. 性」 が論定されることになる。 また、 多数の論者とは異. なって、 生産と消費の矛盾=内在的矛盾=恐慌の窮局の. して起る現象が恐慌であると云う理解の仕方になるで. 根拠、 と しての 「窮局の根拠」 も、 資本論第3巻に於て 始めて 「窮局の根拠」 として確認されるものであると し ておられることも富塚 教授誠に特徴的な点であろう。 激. あろうし、 表式は再生産が順調に行われ得るための係. 擾の御見解によれば、 二大生産部門間の不均等発展は、. い程度にまで深化した不均衡を暴力的に恢復 しよ うと. 件だと解すれば、 恐慌は此の憐件が充たされなくなっ 蓄積に伴う資本の有機的構成の高度化の部門構成的表現 たため、 均衡が破れたために発生するものだと理解す , に過ぎないのであり、 従って、 不均等発展そのものに恐 ることになるであろう。) 慌の 「窮局の根拠」 を探りあてることは許され得ないの 「生産の無政府性」 に恐慌の原因を求めると云う両教 である。 授の立場は正 しいのであるが、 それを 「諸亜部門間の均 (不均等発展そのものは、 資本構成の高度化の部門構 衡破壊」 に限定 して二大部門間のそれを閑却されたこと 成に於ける反映に過ぎないとされる富塚教授の御指摘. は両教授の断らしい御提案をして恐慌の週期的必然性を. それ自体は決 して誤りであるとは吾々も考えないので. 論証し難 いものたらしめているようである。. あるが、 問題は表式に於ける不均等発展を、 資本主義. 同じ意味で林教授が吉田義三教授の御説(景気変動論) - 65. 的再生産に必然的な不均等発展として把握しようとす.
(10) . 大. 野 勇. るか否かにある。 資本主義の下に於ける競争の必然性. は、 従ってまた資本構成高度化の必然性が、 二大生産 部門間の不均等発展を必然的なものにする。 その不均 等発展による均衡の限界を劃するものは、 その時、 そ. の社会に於ける技術的水準が資本構成の高度化を可能 ならしめ得る限度である。 即ち、 表式に於けるIC: IV, nC: =V の関係は奥えられた社会の技術的水準 によって制約され、 而かも二大生産部門は V・十 Mk・ 十 Mv・=C2十 Mc 2 で結ばれなければならな い と す れ. 一. 郡. ているとされる御見解には遮かに賛同し難いように思わ れる。 という訳は、 利潤率が低下しても利潤 量 が 増 加 し得る限りは、 過剰 蓄積の極限とは云い難いだろうから である。) ※という事だけ では 恐慌の爆発は論理的に断 定し難いから、 此の他に、 丁度、 この 「反作用」 の起る その時に、 一方で 「実現の係件の困難性」 が充分に成熟 していなければならない。 これ等の 二つが一緒になって 始めて恐慌の必然性 が断定出来る、 という様に表現され ていることに、 実は書々は柳か不満を覚えるのである。. ば、 窮局に,おいて、IC は =V によって制約されるこ とになる。 生産が消費から独立的であり得る限度は此 のようにしてその社会の技術的水準によって 制約され. 若し此の場. 合 「実現の係件の困難性」 が未だ充分に成熟. ている訳であるが、 利潤獲得を動機と し目的とする資 本制生産は、 その限度を超えて蓄積を押 し進めようと. 実現の問題とは関係なしに独自に成立したが 「実現の係. 件の困難性」 が充分に成熟していなかったために恐慌に. し、 また、 進めねばならないために、 やがて、.不均等 発展は不均衡に麹化せざるを得ないこ と に な る。 だ. はならない場合 もある、 という様に理解して 良いのか否 か。 激授の表現からすれば吾々にはその様に受けとられ. が、 富塚教授は表式に於ける不均等発展を此のような 特殊の性格を帯びた不均等発展として把握することを. るのである。 だが此 処では既に資本構成高 度化の問題も 考慮の中に入っており、 資本過剰は 「過剰 労働人口のも. 許されない。 教授の場合、 それは単に蓄積に伴う資本 構成高度化の部門構成に於ける反映にほかならないと. .実現の問題だけである。 蓄積の急激な 増 大 は 威 実に、. していなく とも 「資 本の過剰生産」 だけは独自に成立す るとされるのか否か。 即ち、 「資本の過剰生産」 だけは. とにおける」 資本過剰なのである。 捨象さ れているのは. 程、 賃銀の高騰を生ぜ しめるであろう。 だが、 産業予備 だけで 「資本 此処では吾々は教授が 「資本の絶対的過剰生産→資本 .軍は枯渇 している のではない。 賃銀の高騰 の過剰生産」 を決定づけることは果して妥当 であり得る の過剰 生産」 と 「狭陛なる消費限界」 との結合によって だろうか。 教授が此の場合、 特に心を配られている 「資 「恐院の必然性」 の論定を試みられている、 その結論の べ 本がその全力能を発揮する時代は、 きまって過剰生産の 部分について の吾々なりの理解の態度を述 させて戴く ・とい 時代であるという事が (恐慌に於て) 実証される」 ことにする。 教授の謂わゆる 「内在的矛盾の二つの反対 う事の意味は、 資本が急激な蓄積増加をする時が、 丁度 極的表現」 たる此れらの両極を結合するにあたって、 教 言われるのである。). 授が最も力を注がれた点は 「資本制生産の贋の制限は資 本それ自身である。」二という命題の趣旨に 添うとい うこ とであっ た。 その鴬めに教授は 「消費制限」 を基礎像件. 「実現の係件の困難性」 の充分に成熟する時と何時でも 一致するようになって いるという意味ではなくて、 蓄積 の急激な増大が行われる時、 そのことの篇めに 「実現の. とする資本制再生産のメカニ ズムに於て、 蓄積の限界を 蓄積の法則から説明 しなければならないという正 しい見. 係件の困難性」 が充分に成熟せしめられるという意味で あろう。 だとすれば 「資本の過剰 生産」 を決定づけるも. 地に立たれて論を進められる訳であるが、 そのために、 蓄積の側からという事にこだわって両極の結 び合わせ. のは賃銀の高 騰による利潤率の低下ではなくて、 資本自 らがその蓄積の急激な増加、 促進によって招来 した 「実. から恐慌の必然性を論定される場合の表現が、 いささか 不鮮明なものを残 しているかのように吾々は印象づけら. 現の係件の困難性」 の充分なる成熟そのものであると解 する方 が、 より納得的なのではあるま いか。 「資 本の過 剰生産それ自体、 商品の過剰 生産を含む」 と云う事も、 「資本制生産の員の制限は資本それ自身である」 と云う ことも、 そして叉、 教授御自身の 「ミ資本の絶対的過剰 生産 は ミ狭降なる消費限界ミ の云わば裏返しの表現に. れるのである。 或いは吾々の側の理解の仕方こそが却っ て不鮮明 であり、 不徹底なのであるかも知 れないが。 即. ‐一 ち、 蓄積の急激な増大÷→賃銀高騰÷→利潤率低下‐ 「一つの反作用」 「蓄積の衰退」 ※ (此の 「一つの反作 用のおこる 点が、 「資本論」 第1巻第7篇の 「極端な前. 提」 による 「資本の絶対的過剰生産」 の点よりも以前の 点であるとされる教授の御指摘は正 しいものと考え られ るが、 第3巻においては、 資本の過剰生産 の 極 限 は、. 審 峯 ≦ ¥-という関係の成立に於て既に興えられ. 過 ぎない」 とされる御指摘も、 以上の様に理解すること によって総 べて淀みなく説き明かされるのではあるまい. か。 教授は 「逆に、 実現問題の顕在化は、 資本の過剰蓄 積を、 謂い得べくんば、 資本の絶対的に過剰生産されて いない場合に於ける ミ資本の絶対的過剰生産ミ を、 実現. - 66 一.
(11) . 再. 生. 産r と. の側から成立せしめるであろう。」 とも云っておられる。 それならば 「商品の過剰生産と しての資本の過剰生産」 即ち 「資本としての資 本の過剰生産」 であると明白に云 い切って戴きたかった様に吾々には思われるのである。 尤も此の場合 「狭聡なる消費限界」 の問題と 「資本の絶. 恐 慌. 当な比率の限界を超えて無制限的に蓄積を増進しようと する資本の本性が、 積極的に、 主導的に、 自らの蓄積を 制限する結果に立ち至る、 と云うことの指摘だけで一底 こと足りるかと思われるが、 更に進んで蓄積の過程に即. 対的過剰生産」 の問題とを夫々 「はっきり、 それとして. して此れを説明する場合にしても、 「資本制生産の員の 制限は資 本それ自身である」 という事と、 その制限が直. 提起する」 ことが教授の当面の課題でもあったようでは. 接的には実現の側から生ずるという事 とは柳かも矛盾し. あるが。 「消費の制限」 と 「資本の絶対的過剰生産」 との結合. ない筈である。 と云う訳は、 その実現の破綻を惹き起 し. に於て恐慌を論定する場合「資本制生産の員の制限は資 本それ自身である」 ことを説明する鴬には 「消費制限」 が恐慌の原因ではなくて、 「制限された消費力」 との適. たそもそもの原因は、 資本それ自身の無制限的な蓄積行 動だからである。 依然として蓄積の制限者は資本それ自 28 2 身である。 ( .7稿) .1. 【 67 一.
(12)
関連したドキュメント
わからない その他 がん検診を受けても見落としがあると思っているから がん検診そのものを知らないから
このようなパヤタスゴミ処分場の歴史について説明を受けた後,パヤタスに 住む人の家庭を訪問した。そこでは 3 畳あるかないかほどの部屋に
それで、最後、これはちょっと希望的観念というか、私の意見なんですけども、女性
巣造りから雛が生まれるころの大事な時 期は、深い雪に被われて人が入っていけ
設備がある場合︑商品販売からの総収益は生産に関わる固定費用と共通費用もカバーできないかも知れない︒この場
者は買受人の所有権取得を争えるのではなかろうか︒執行停止の手続をとらなければ︑競売手続が進行して完結し︑
けることには問題はないであろう︒
今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ