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アメリカにおける1837年恐慌と信用制度

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アメリカにおける1837年恐慌と信用制度

著者 宮田 美智也

雑誌名 金沢大学経済学部論集 = Economic Review of Kanazawa University

巻 9

号 3

ページ 15‑52

発行年 1989‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/2297/24047

(2)

アメリカにおける1s37年恐慌と信用制度

宮田美智也

目次

序言

1830年代火のブームとイ高用のメカニズム 1837年恐慌の発生

1837年恐慌以後

一ニューヨークIilM]洲丁制度をIIJ心に-

II III

序言

K・マルクスはつぎのように述べていた。「ここ〔アメリカ合衆国〕で鐘初 に勃発しもっとも激しく猛威をふるった1836年の恐慌は,ほとんどたえま なしに1842年までつづき,その結果としてアメリカの信用制度の完全な変革 をもたらした。合衆国の商業は,このよりしっかりした避礎のうえに立ちな おった(1)。」〔1内は;I用者’と。ところで,わが国のアメリカ締高史の研究史 を繕いてみよう。つぎのような見解がほぼ共有されていることを知ることが できる。出航停止令(1807年),通商禁止法(1809年),さらに第2対イギリ ス戦争(1812-14年)を契機として産業革命が起り,その後1840年前後を境 にアメリカ経済は資本主義的生産に基礎を置くにいたったとする見解がすな わちそれで.ある(2)。

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祇ノ<大学綱斉学都議蝿第9巻第3号1989.3

マルクスの言っていた1840年代以|朧の「アメリカの信用制度の完全な変革」

とは.同時期を画期とするアメリカ経済の歴史的構造変化を信用次元で指し 示したものと解することはできないであろうか.信用制度そのものに即して 嫉桁すれば,こうである。旧来の信用制度は1837年恐慌一一マルクスはそれ を1836年恐慌と11乎んでいたわけであるが,後論からわかるように,1837年恐 慌と呼ぶほうが適切である-に先立つブームに挙げて動員され,そオLゆえ ブームの瓦解に伴って結局は自己の歴史的解体を強いられる破目に陥ったの だということ,あるいは同じことであるが,1830年代央ブームにたいする信 用制度の係り方はきわめて密で,そのブーム崩壊後には信用制度は自己をま

るごと瓦解せざるをえなくなるほどであったということ,こうしたことをマ ルクスの文言は示唆しているように思われる。本稿はそうしたことの検証を

目的とする。

すなわち,本稿はアメリカの1837年恐慌を取り上げる。しかし,すてに示 したように,当時期のアメリカ経済を恐慌史研究的視点から照射してみよう というのではない。その恐慌をいわばそれ自体として取り出し,その直前の ブームをもたらした信用のメカニズムとそのブーム崩落の過程を跡づけ(第 1,2節),マルクスの指摘していたその後の信用制度の変革について,その 一端にも触れる(第3節)ことが課題とされる(3)。

ところで,われわれがここで以上のような目標を設定するのは,19世紀第 2四半期,イギリス資本主義が押し進めたアメリカ市場創出の過程に信用論 的立場から関心をもつからにほかならない。つまり,本稿は,1830年代のイ ギリス資本主義がその再生産軌道のなかにいかにアメリカ市場(輸出入市場)

を包摂したかを信用論的に追究しようとする作業の一環として,アメリカの 1837年恐慌を論じるものである。当該期のアメリカの信用制度,そしてそれ が造成したブームがいかにイギリスの信用制度(ロンドン金融市場)に強く 依存していたか,以下の考察はこれを明らかにすることにもなるはずである。

(1)カール・マルクスr5月から10月まで」『新ライン箭MH政治畿済評議』1850年11月号,

『マルクス・エンゲルス全集』大月書店、1961年,第7巻,444ベーシ

(2)備井敏郎「アメリカ黄本主義と産黛革命』弘丈堂,1970年,329ページ。率醤の序章

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アメリカにおける1837年恐慌と|訓l制度(直H1)

は19世紀前半のアメリガロビ本主炎の微造の理解について諸学魂の批判的検討を行ってい て,その点での日米の綿済史学界の研究動向を知ることができる。

(3)アメリカの1837年恐慌を本格的に取り扱った邦諦の研究は,(?兇の限り,蜜川卓二「ア メリカロ灘革命期の金融恐慌と銀行一一1837年恐慌とニューヨークー」『統雛済』

輔133号,1972年;満繍克已「アメリカ銀行制度の展開-183()年代から50年代を中心 として-」同,第152号,1975年,を除き,ヤテ窯である。それぞれ1837年恐慌に鐺及 し,その後のアメリカの伯用制度の変轤を唇察している。また,その後肴の議点を扱っ た研究としては,片山貞堆『ドルの研究一生是より連邦ilL傭制度まで-』ミネルヴァ ilF房,1967年,蕊8章,がある。さらに,画鳥宏志郎「アメリカ蔵本市鍔史研究ノート

(1 ̄マーチヤント・バンカーー」「商学講脳(剛$大学)第31巻第4号,1963年;

玉縦紀夫「1830年代初期の英米f洲とマーチヤント・バンカーーマーチャント・バン カー研究(3)--」「金融経済」堀137号,1972年;徳永正二部「為涛と信用一国際決済 制度の史的展開一』済評i篝,1976年,堀41$f第3節,もそjしぞれ1830年代アメリカの 賓本市蝿,貿易金融制度に有益な分析をなしている。

11830年代央のブームと信用のメカニズム

1810-30年,公有地(所有権したがってまた処分権が連邦政府に帰属する 土地)売却代り金は土地投機ブームを呈した1818年と翌19年の両年を除いて,

年間l~2百万ドルであったが,1830年代とくに33年から増加し始め、34年 約500万ドル,35年1,475.7万ドル,36年2,487.7万ドル,37年677.6万ドル,

38年373万ドルとなっている。36年のそれはとくに巨額て・あり,関税収入をは じめて上回るものて、あったい)が,37年恐慌の直前いかに土地ブームに沸いたか,

これを窺うことができる。

事実,政府は公有地売却を進めるにつき,(1819年恐慌後の)1820年にそれ までの4年間の分割払方式を廃止し(5),それ以来低価格政策(1エーカー当り 1.25ドル)をとっていたために,1830年代央,銀行信用の拡大供与に促され て土地投機が誘発されたのて.ある(6),すなわち、不完全な記録によることだが,

1834-37年の間に東部に102行,南部に72行,西部に18行,計194行の銀行が 新設され.その間の発券高増加率も東部で50%,南部で130%,西部で100%

にのぼっているのである(7)。銀行準備金の額あるいは構成に法的規制が課され るようになるのは1837年以降のことであり、それ以前ならばどの州て・も他行

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iri/<大学命鮒学部篇リミ難9塗輔3号1989.3

の銀行券を支払準備金として扱うことができ,それゆえ1行が発券=貸付を ふやせばふやすだけ他行では準備金がふえ,その発券=貸付拡大が刺戟され ることになったのである(8)。

いうまでもなく,土地投機のためにそのようなメカニズムが実働したこと を証明するには,州法銀行の与える信用(州法銀行券)が公有地売却代り金 として政府(代理人)に受け取られ,しかもその預託先も同じく州法銀行で あったことが確認される必要がある。実際,前出の別稿で論じたように,A ジャクソン(AndrewJackson)連邦政府はその1829年3月の成立以降合衆 国銀行との対立を深め,その結果1833年末までに政府公金は同行から引き掲 げられ,「御用銀行」(petbank)と呼ばれるようになる州法銀行に預け替え られたのである。それらジャクソンの「御用銀行」は1835年1月で29行,1836 年11月で89行にすぎない(9)が,しかし他行もそれらの発行する銀行券を支払準

備金として利用することができるわけて、,政府預金が銀行預金の大宗を占め る,換言すると,銀行預金量の多寒を左右する最大の要因は政府預金の有無 であった('0)という状況のもと,政府預金の州法銀行への預替政策は一般に州 法銀行信用の拡大を刺戟することになるのてある。しかも,その刺戟性たる や,1835年と36年,特段のものがあったといわねばならない('1)。連邦政府財 政は1822年以来24年を除いて36年まで-11[して黒字を続け,ついにその間35 年1月には長短いずれの債務からも解放されている('2)からである。他方には 投機者による借入需要が喚起されているのである。土地投機のための州法銀 行信用はその代り金としての政府預金となって還流し,それがさらにつぎの 発券信用供与を可能にしたのである('3)。

しかし,そのような銀行信用にはその供給量に地域差があった。前段で確 かめたように,1834-37年,東部,西部および゛南部の銀行はそオしぞれ50%,

100%.および130%の増加率で発券高を増加させていたからである。東部も 土地投橇ブームに浮かさ】lした('4)ことがわかるが,西部と南部て.それはとくに 著しかったことが窺える。事実,そのとおりなのて.あった('5)。それでは,と くに西部と南部はなぜ土地投機ブームに沸いたのか,つぎにその考察に歩を 進めねばならない。

周知のとおり,前段で西部,南部といわオしてきた地域は,アメリカ合衆国

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アメリカにおける1837年恐慌と|占用制度(富田)

束海岸を走るアレゲーニー山脈の西方という点ではいずれも西部地域に属し,

_方は北西部,他方は南西部にほかならない。西漸運動(WestwardMove‐

ment)の展開舞台であった。西漸運動は前者においては「ニュー・イングラ ンド型のダウン・システムを慨避とした小農社会」の拡大という方向性をもっ ていたのにたいし,後者の場合には「ニグロ奴隷制による綿作プランテーショ ン社会」を拡大しつつ進んだといわれている('6)が,1830年代央,それらがそ れぞオし急進展したことに|半って,両地方て、は土地投機ブームが生起したので ある。しかし,当面のわれわれにとって重要なのは,南部におけるそれで、あ る。その理由は後論からおのずとわかるはずである。西部における土地投機 ブームについては,つぎの3点を指摘しておけばここでは十分であろう。(1817 年→)1825年のエリー運河の完成,フィラデルフィアとピッツバーグ間の鉄 道および運河の建設,さらには北西部諸州での運河の開削など,東部と西部 を結ぶ交通路の開発事業の目党しい発達がその背景にあったということ('7),

これが1つ。これは西部農業にたいし東部(および海外)市場が大きく開か れ始めたことを含意しているが,のちに触J1しるように,当時の西部産品にた いする-大消潤先は南部なのであった。南部の発展による食料需要の増加は

"西部への植民の刺戟剤として働く。これが第2点である。西部の土地投機ブー ムと南部のそれはここで連繋し合う。第3には,西部にはまず自営農民があっ たのではなく,むしろまず土地投機業者とその経済的支配力か先行したと一 般に言われている('8)ということである。

さて,南部の場合,1830年代央にいたって綿花にたいする需要が増加した ことが,そこで綿作地域・面穂の拡張を刺戟し('9),土地役儀を促したもっと も重要な要因であったと考えられる。まず,当時期,南部原綿にたいする需 要の増加が粉オしのない事実であったことを確かめておこう。そのニューオー リンズ価格の動向から知ることができる。すなわち,1830-39年,それぞれ 9月30日までの1年間(各年度)における(重量)ポンド当りのそれ(単位 はセント)は順次8.9,8.4,9.0,10.0,11.2,15.5,15.2,13.3,9.0,12.4 と推移している(20)。つぎに,その場合,国内綿工業の成長(211もその背後にあ るものの,それよりもイギリス綿工業―その最大の原綿市場はリヴァプー ル市場であった-による輸入需要が注目されなければならない。というの

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金沢大学経済学部論リミ第9巻輔3号1989.3

'よ,第1に,たとえば1833年度から38年度までをとってみると,綿花生産量

(重量)は375百万ポンドから683百万ポンドに45.1%増加しているが,同期 間のその輸出量(同)も304百万ポンドから597百万ポンドヘと49.0%の増加 を示しており,しかもそのうちイギリス向け輸出は各年度とも70%程度を占 めていたからである(22)。第2に,イギリスの南部原綿にたいする需要の鳩加 という要素を取り出すと,西部の土地ブームと南部のそれとの間に存在した 差異性を認知することが可能となるからである。すなわち,南部の土地ブー ムは-面で輸出ブームであったという,西部のそれにたいするその特徴をこ こに浮き上らせることができる。

解明のライトはそこに当てられねばならない。南部の土地投機は輸出ブー ムという側面をもっていたとして,それを演出した信用のメカニズムを探究 すること,これがその場合の課題である。

まず,当時の輸出制度について知っておく必、要がある。1820年代以来,南 部原綿の輸出制度は委託販売人=ファクター(factor)に依存する委託販売 制度をとっていた(23)。生産者たるプランター(Planter)はニューオーリン ズなど南部の港にいるファクターに原綿の販売を委託し,そのファクターは さらに委託荷の輸出をリヴァプールやニューヨークの販売代理商の南部代理 人に託すというものである。つまり,原綿はプランター→ファクター→販売 代理商(南部代理人)という経路でリヴァプールに直接,またはニューヨー クを経由してリヴァプールに送られ,その地での販売が委託されたわけであ る。

そのような輸出委託制度のもと,まずプランターとファクターの間におい て,後者が販売にかかる轡用一切を立て替えることをはじめとして,信用は つぎのように利用されていた。すなわち,プランターはファクターから現金 の前貸を受けることもあったが,通常は4ヵ月の約束手形を振り出し,ファ クターに袈書を受けることができた。プランター手形とよばれる,本来委託 荷を見返りとすべきこの手形は,地元の銀行で簡単に割り引かれたのである。

委託出荷されたif物が実際に売れたのち,プランターはその手形を落すわけ である(24)が,当面する1830年代央のブーム期には,このプランター手形が盛 んに利用される。出荷される前の,つま')生育中の,さらにはまだ栽培され

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アメリカにおける1837年恐慌と信用制!】Z(宮田)

てもいない綿花を担保とする「前貸」が,このプランター手形によってなさ れたのである。プランター手形の融通手形としての利用にほかならない(25)。

ii)l:初の手形を決済するために第2,第3の手形が継続して振り出され,それ ぞれ裏書が受けられるということになっていったのである(26)。

プランター段階での以上のような受信の拡張機構は,ついでファクター段 階でもかれら相互間において同様に展開した。プランター手形の期日が来る

-それがたとえ真正手形である場合でも,受託した綿花が売れてしまわな いうちに満期日が到来することは避けられなかった-と,ファクターはそ の支払をするために他のファクター宛に同じく4ヵ月の手形を振り出し,そ の割引を受けることができたのである(27)。プランター手形の融通手形として の利用拡大は綿花の生産増加(輸出ブーム)を促し,他方輸入品(イギリス エ業製品)にたいする南部での購買力増加に役立ったのであるが,それはファ クター段階での融通手形の盛大な利用なしではありえなかったわけである。

しかも,そうしたファクター相互間段階での信用授受の膨張は,その負担 をさらに他に転嫁しうること,つまりニューヨークやリヴァプーノレ(ロンド ン)から南部に向けての与信を前提としていた。つぎは南部のファクターと ニューヨークまたはリヴァプールの販売代理商との間に形成される信用関係 が問題である。

ニューヨークやリヴァプールの販売代理商は南部の港に代理人を配してい る。先述のとおり,かれらとファクターとの間で取引がなされる。前者はか れらが代理をしているニューヨークやリヴァプールの商会宛にニューヨーク や通常(リヴァプールではなく)ロンドン払の為替手形を振り出す権利を認 めらオしており(オープン勘定制度),販売委託を受けるべき荷物を引当にそれ ら商会宛に手形を振り出す。それらニューヨーク為替なりロンドン為替は振 出地で地元通貨に転換されうるであろう(28)。それらには南部からニューヨー クやイギリスへの送金手段(輸入品にたし、する支払手段)としての需要があ る(29)からである。南部から自己宛の為替が回ってくるニューヨークの販売代 理商は,改めてリヴァプーノレの販売代理商宛にロンドン為替を振り出し,そ の代り金で自已宛の南部振出為替の支払に当てることになる。こうして結局,

原綿輸出手形はそれが南部で振')出されたものてあオし,ニューヨークで・振り

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金沢大学経済学部請襲第9巻第3号1989.3

出されたものであれ,ロンドンで引き受けられなければならないのであった。

対アメリカ取引を専門にしていたことから「アメリカ商会」と言われていた 販売代理商によって委託荷を見返とする支払保証が与えられるのである。引 受信用の供与にほかならない。しかも,当該時期,それは後述するように乱 脈を極めたのであった。

すなわち,プランター,ついでファクターの段階での信用の膨張はロンド ン引受信用の取得を先取する形で進められたのである。換言すると,原綿輸 出増加が可能となったのは,究極的にはロンドンの「アメリカ商会」による 引受信用の供与が刺戟的になされたからである。そして,そのロンドン引受 信用の授与もリヴァプールでの原綿の販売(実現)に先行して行われたので ある。それゆえ,リヴァプール原綿市場の市況の悪化はまず引受信用の過大 化に現象し,その破綻に伴って現実化するであろう。そして,その引受信用

の杜絶は南部原綿産地の信用機構をもっとも激しく破壊するはずである。

さて,原綿輸出額のアメリカの全輸出額に占める比重は,1826-30年49%,

1831-35年56%,1836-40年63%で,それだけで全輸入額の3/5を支払うこと ができたといわれている(30)。原綿は1830年代輸出品としてはそオしほど重要な 商品であった。そオLゆえ,1830年代央はたんに原綿輸出ブーム期というよ')

もむしろ一般に輸出ブーム期ということができるわけである。しかし当時 期,原綿のほかにもう1つ重要な輸出品があった。証券にほかならない。証 券の対イギリス輸出ブームに論を進めよう。

のちにやや詳しくみるように,1830-37年度のアメリカの(再輸出を含む)

貿易収支は30年度を除いて恒常的に入超で,それは総額14,960万ドルにのぼっ ていた。しかし,それにもかかわらず,同時期,正貨は31年度に170万ドルの 流出超を記録しているだけで、,その他の年度はすべて流入超となっている。

その差引入超総額は4,470万ドルを示している(3')(32)。鉄道株,市および州債 など証券の輸出がとくにイギリス向けに進められた(33)結果にほかならない(34)。

前述のように連邦財政の黒字が続き,1835年はじめにはいかなる国債をも完 済するにいたるアメリカへの投資は,イギリス人投資家にはほとんどリスク はないと受け止められていたのである(35)。そして,イギリスからの資本の輸 入は1830年代のアメリカ経済の躍進にたいしじつに横粁の役割を果たす(36)。

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アメリカにおける1837年恐慌と信用制度(富田)

つぎの2つの事実を知るだけでそれは十分に明らかである。すなわち,まず 1836年以前に北部での運河と鉄道の建設にはその過半部分が公債に基づき,

900万ドル以上が投資されたが;その大部分がイギリス資本であった(37)。前述 のように,エリー運河をはじめとする運河や鉄道の建設は1830年代の北西部 における西i斬運動の促進因であった。

また,1830年代原綿輸出ブームを刺戟した南部諸州の銀行は,その資本の ほとんどを直接間接イギリスから導入して設立されている(38)。l例として1832 年のルイジアナ・ユニオン銀行(UnionBankofLouisiana)成立の場合 をあげることができる。つぎのとおりて、ある。それはプランターたちが800万 ドル相当の土地抵当証書による株式払込をする形て・成立した,資本金700万ド ルの州法銀行であった。州当局はその800万ドルの抵当証書を担保に州債700 万ドルを発行し,それを銀行に譲渡したのである。その州債代り金が資本金 を構成し,プランター(株主)にたいする(その持分の半分までの)授信の 支払準備金となったわけである(39)力;そのルイジアナ州債700万ドルのうちニュー ヨークのプライム・ウォード・キング商会(Prime,Ward,King&CO.)

が180万ドルを買い取ったものの,370万ドルはベアリング商会が買い受け,

残りの150万ドルについてもベアリングがその販売の委託を受けたのであった(401.

じつは当面のわれわれにとって重要なのは,そうした証券の輸出にも「ア メリカ商会」によるロンドンでの引受信用の成立が伴ったということである。

綿花の輸出委託にたいしてロンドン引受信用が刺戟的に与えらオしていたこと は先述した。委託荷価値が実現する(ロンドン残高の形成)以前にそれを引 当に支払保証が付与されていたのである。証券の輸出についても,その点,

じつはつぎのとおり同じなのでIあった。

とりわけ1836年春以降,ロンドン証券市場は企業設立ブームに乗り,銀行 株,鉄道株を中心に活況を呈していた(41)。そのような状況のもと,前出のベ アリング商会およびブラウン商会のほか,リサーズイ商会(Lizardi&CO.),

ウィルソン商会(Wilson&CO.),ワイルズ商会(Wilds&CO.).ウィ ギン商会(Wiggin&CO.)およびモリソン・クライダー商会(Morrison,

Cryder&CO.)によって代表される「アメリカ商会」の多くは,そのアメ リカ代理人がアメリカ証券の売却(→ロンドン残高の形成)に先行してロン

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金沢大学経済学部議蝿義9巻第3号1989.3

ドン宛に為替を振り出すことを許したのである(42)。さきに簡単に触れたよう に,当時期は'恒常的な入超期でもあり,そのようなスターリング為替には対 イギリス送金手段として強い議娑があったのである。それが買手(輸入者)

によってロンドンに送られ,そしてそこで引き受けられて引受信用が成立す る。つまり,当時期の入超は対イギリス証券の輸出とそれを引当にした引受 信用によって賄われていたことがわかる。そして,そうした信用の供与にお いてもっとも突出していたのが,のちに明らかにするように,ワイルズ,ウィ ルソンおよびウイギンのいわゆる3Wであった(43)。後述するオープン‘クレ ジット(無担保信用)制度のもとで放慢な信用政策をとった3Wに代表され る「アメリカ商会」においては,以上みてきたように原綿委託荷の取扱のほ か証券業務の拡大が図られ,その結果引受債務が累積することにならざるを えないであろう。

ところで,イギリスでは1834年から好況過程に入っていたが,それはアメ リカへの工業製品の輸出増加によるところ大であったといわれている“4)。じ つは,その1830年代央イギリスエ業製品のためのアメリカ市場の拡張は,「ア メリカ商会」による引受信用の肥大的供給によって達成されたのであった。

換言すると,当時期の「アメリカ商会」の信用政策は上述のようにアメリカ を輸出ブームに沸かしめただけでなく,他方輸入ブームにも巻き込んだので ある。すでにある程度論及されたことであるが,叙述のつぎの照準は,「アメ

リカ商会」はアメリカ向けにどのように輸入信用を供与したのか,そのメカ ニズムの究明に定めねばならない。

そのためには,まず問題の時期が事実輸入ブーム期であったことを確認し ておくことが必要である。輸入先としては断然イギリスの占める比重が高かっ た(1826-30年38%,1831-35年41%,1836-40年39%)(45x46)ので,イギリ スからの輸入額を取り上げてみると,それはすなわちつぎのとおり歴然とし ている。1833年758万ポンド,1834年684.5万ポンド,1835年1,056.8万ポンド,

1836年1,242.6万ポンド,1837年469.5万ポンドて、ある(47)。1834年以後のイギ リスの好況に対アメリカ輸出が大きい役割を果したことはさきに指摘されて いたが,1835,36年のアメリカの対イギリス輸入額の顕著な増加にそれは証 明されている。さて,アメリカの1830年代央が輸入ブーム期であったことを

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アメリカにおける1837年恐慌と|副'1制度(富山)

裂付けるもう1つの証拠は,1830-37年度の間,さきに指摘したとおり1830 年度を除いて恒常的に入超が続くなか,35年度と36年度にとくに大きい入超 額が発生している事実に求められる。すなわち,前述したようなジャクソン 政府預金の合衆国銀行からの引掲げ機趙に伴って策気後退に見舞われた1834 年度には,前年度の1,350万ドルから630万ドルに減少したものの,1835年度 2,150万ドル,そして翌年度には5,220万ドルの入超を記録し,その間の入超 額は累計で149.6百万ドルに達している(48)。

1830年代中期が輸入ブーム期であったことは,以上で明白となった。それ では,以上のような輸入ブームは信用論的にはどのように造成きれたのか,「ア メリカ商会」がアメリカにたいし展開した輸入信用供与メカニズムの蓉察に 取り掛かることにしよう。

イギリスの「アメリカ商会」はそのアメリカ代理人を通じて,イキリスエ 業製品を輸入しようとするアメリカ人輸入商に商業信用状を与え,そのアメ

リカ人輸入商のイギリス代理人が輸入のためにかれらのロンドンにある本店 宛に通常4ヵ月の手形を振り出すことを認めていた。それが呈示されたら,

引き受けていたのである.そのさいに「アメリカ商会」がきわめて寛大な態 度をとったことが,のちに指摘するようにアメリカ人輸入商の歴史的生成を 刺戟することになったわけである。そして,そのような「アメリカ商会」の 側でのルースな信用供与態度,他方新興の輸入商としてはその信用に頼らね ばならないという事情,それら両者相俟ってつぎのような手形制度の利用を 結果するのであった。すなわち,輸入商は1つの「アメリカ商会」宛の為替 手形を決済するために別の「商会」宛の手形を振り出し,その引受を受ける

ことができたのである。「アメリカ商会」のアメリカ代理人は商業信用状発行 に際しては一定割合の輸入保証金を行(り,さらに船積書類を担保にとって-

これは,船積書類は輸入荷の積込地から直接輸入商宛にではなく,信用状発 行者たる「アメリカ商会」のアメリカ代理人に送付されてくることを意味す る-授信残額にたいする保証とするという仕方がとられたならば,起りえ なかったことである。しかし,ブームに乗った「アメリカ商会」相互間の競 争は,かれらをして直接アメリカの輸入商に船積書類を受け取らしめること

を許すよう働いたのである(49)。前述のように,輸出(原綿,証券)にたいし

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金沢大学経済学部論!』ミ第9巻第3号1989.3

刺戟的に引受信用を与えてきた「アメリカ商会」のもとには,こうして輸入 についても引受信用が累積していたことになる。

以上の考察は他面でそれまでのアメリカの対イギリス輸入制度に変化が生 じていることを明らかにしている。ここでしばらく歩を止め,以下その点に ついて一考をなしておく。

イギリスからの輸入においては1825年恐慌以後決定的に,そこの輸出代理 商がアメリカの荷揚港(ニューヨーク)に代理人を置き,競売制度を利用し て,その荷を迅速に売り捌くという委託販売制度がとられるようになってい た(50)。イギリスエ業製品の輸出委託制度が,そしてまたアメリカの荷掲港に おいて麓売制度が堅固に存続するかぎり,アメリカ人輸入商なる商人範罎が 成熟しうる余地はないわけであった。しかし,1830年代央の「アメリカ商会」

による引受信用の膨張的供与に導ぴかれた輸入ブームは,そのアメリカ人輸 入商の登場を促し,対イギリス輸入過程にアメリカ人商人を直接参入させつ つ展開されたのである。1838年,つぎのように評されたという。「合衆国に輸 入されたイギリスエ業製品の大部分は,ここ数年イングランドに在住するア メリカ人輸入商の代理人によって製造業者から買い入れられた(51)。」と。(イ ギリスの委託輸出制度に依拠した)輸入荷揚港における競売制度の展開にブ レーキがかかり出したことを示唆するものと取ることができる。しかし,ア メリカ人輸入商の台頭したがってまた競売制度の存在意義の低下としてここ で歴史的に評価しようとする場合には,ブーム消滅(1837年恐慌)後に関心 を寄せることが重要である。ロンドンで、の引受信用の収縮は旧来の輸入制度 への回帰を結果するかもしれないからである。しかし,Lコゥインによれば,

1837年恐慌およびその後1839-43年の不況ののちも,輸入品の配給上競売制 度への依存度が高まることはなかったのである(52)。1830年央の輸入ブームを 契機にした輸入商範罎の歴史的成立,競売制度の歴史的意義の相対的低下を 規定することができるであろう(53)。

さて,論をもとに戻す。「アメリカ商会」は新生の輸入商にたいし進んで信 用を与えたのである。その結果,かれらのもとには引受債務が累積したので あった。続いて,その決済可能性を問うべきである.それはいうまでもなく アメリカの国民的購買力にかかっているわけで,その内実を明かすことが課

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アメリカにおける1837年恐慌と|:洲制度(宮田)

題となる。

アメリカ人輸入商のイギリス代理人から発送され,ニューヨーク港に到来 する輸入品は,輸入商→ジョッパー(jobber)→小売商人というルートを経 て,梢識者のもとに届いた(54)。その間,信用関係はつぎのように形成された。

すなわち,輸入商は長期の信用~それは19世紀前半の終りごろでも6-8カ 月に及んだ-でジョッバーに売り,後者はまた同じ条件で南部,西部地方 の商人に売った。それぞれ約束手形が利用され,輸入商はジョッバーの,ま たジョッバーは地方商人の裂書を受け,直接にまたは手形ブローカーの仲介 を得て(55),銀行で割引を受けることができたのである。そして,地方商人は 綿花生産者(南部プランター)や食料品生産者(西部農民)に8カ月,12カ 月および18カ月というより長期の信用で売ったのである(56)。そこではどのよ うな信用形式(約束手形,帳簿信用)が利用されたのか,詳らかにしえない が,とにかくつぎのあるいはそれ以上先の収穫期まで支払は猶予されたわけ である。また,南部の場合,綿花生産者に輸入品を掛売りする商人は,(原綿 を取り扱う小売商を含めて)ファクター(コットン・ファクター)であるこ とが多く,しかも後者は前者にたいしては輸入品に限らず,一般に日用品の 供給者であった(57)ことT付記しておかなければならない。結論はこうなる。

すなわち,イギリスエ業製品にたいする最終購買力は原綿の売行き(南部),

畜産物を含む農作物の作柄(西部)に左右されたと考えることができる,と。

しかし,注意しなければならないのは,それら両要因はけっして相互自立的 ではなかったということである。南部はこの当時も依然として,西部産品の

-大消費市場を形成していたからである。1830年代,運河に代表される運輸 手段の発達が,西部の産物にたいし東部市場(さらに海外一西インドのみ ならずヨーロッパー市場)を開放する過程はすでに進行中ではあった(58)が,

商品流通構造の変革が歴史的に認められるには,まだ1840年代,さらには50 年代が俟たれねばならなかった(59)。つまり,1830年代央としては,イギリス からの輸入にたいする国民的購買力は南部原綿の作況とその輸出状況にその 一切がかかっていたわけである。

以上の考察から知られたように,1830年代央に輸出ブーム,そしてそれを 上回る規模での輸入ブーム(入超構造)が展開されたのは,イギリスで「ア

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(15)

金沢大!;:経済学部I嵩リミ蕊9巻編3号-1989.3

メリカ商会」による引受信用-それはのちにわかるように地方銀行(株式 発券銀行)信用,さらにイングランド銀行信用つまりイギリス銀行制度によ る銀行信用に連らなっていく-の供与が肥大的に進められたからである。

しかし,当時期,ロンドンにおける引受信用の膨張はアメリカの銀行制度の 次元では政府預金の累積およびそれに刺戟された銀行信用の拡大に反映され たと考えることができる。それゆえ,ロンドン引受信用の拡大は土地投機ブー ムをも含めた全ブーム発生の橘粁とされなければならないのである。しかし,

それにはいずれ限界が訪れる。

(4)DavisRDewey,FY"α"cね/His'or)ノCl/jhFU)zj帆Sta2eS,NewYork,1911,pp、168, 217,246.(以下,本i1$はFY"α"cmZHHstoryと略記。)如上のデューイの掲げる公有地 売却代り金の数値は,B・ハモンドにも引用されている〔BrayHammond,Ba"jbsczM Pb"/jbMzA腕uノヅ、加加ノノIC他"o/"ノヵ〃/o/"cCjzノノノリィノヒzZlstPrincetonpaperback pr.,Prince[()n,N、J・’1967,p、451.(以下,本瞥はBZz"ノゥsα"dPMjjcsと謁記。)〕が,

W.G.サムナーのあげているのはそれらとはやや異なる。〔cfWilliamGSumner、

AHiS/oZyq/Ba"AjjZg醜メノbe[ノクzjZedS/αtBs(Sumnerandothers(eds.),AHiSjory q/Ba"んj)Zgj〃Aノノノノbe比ααj昭Mjjo"S,vol.I),NewYork,1896,rep、1971,p、261.

(以下,本書はB""んj噸/〃ノノze[Bと三月記。)〕

また,つぎの点も断っておく。以上に掲げた年次は9月30日までのそれぞれ1年間(年 度)を指していると思われるが,デューイはそれには触れていない。以下で取り上げる 統計賛料についても同様に考えられるものがあるが,年度と判明した場合に限りその旨 明記する。

(5)4年間の分割払方式のときも,銀行イ鋤jの拡大に刺戟されて,1818年,土地投儘が生 じている。(WalterB・SmithandArthurH・Cole.〃(cノノ(αノノo"s/〃A7"cノブc(7〃

B"si"esSZ7gO-I86qCambridge,Mass.,1935,p29.)このときの銀行侭用の拡 大とは別稿(「第2合溌国諜行と外国為簿取引」『金沢大学経済学部議集」第9巻雫2号,

1989年3月)で辻べたように,成立初期第2合霧同銀行の挾漫な信用供与およびそれに 依拠した南部および西部の州法銀行の循用拡大を指す。

(6)Dewey,Fi"αブノciaノHMO、/,pp、216-217;SmithandCole,⑰、Cit.,p、53.

(7)JohnJ・Knox,AH7SZo”q/B、"んj咽j〃伽U)zjjcdSta岨re-issued,New York,1903(lsted,1900),rePl969,p、82.

(8)CharlesAConant,AHMノノyq/ルノM'γ〃B""AscWSs"q6thed.,NewYork,

1927,(lsted、1896)rep、1969,p、625;Hammond,BajzAs(イMハノノ"Cs,pp、452-453.

(9)Dewey,FY"αMtzノHぶCD/,pp209-210.

(10)Hammond,Ba"ノレsα〃PMjjcS,p、82.

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アメリカにおける1837('ミ恐慌とILiHJliill度(宮111)

(11)Conant,qP・cjZ.,P626.

(12)Dewey,FY"αM(イノHIsjo肌pp、168,169,219,246ルヅミ,1836年,政Mj:の「御ハ蝋 行」l:fi金は4,100万ドルに上っている。(Conant,0カ.cjf,p、626.)「櫛用銀行」の.髄本 金の誌鋺(4,64()万ドル)をすこし下『】|るf1蝦,lfi柵(金(1,6()0万ドル)の約2,61臼に 連する鋼であった。(SumneI.,Ba"んノブzgノノzZkUSp、262.)なお,デューイによる と,i836年ULI1日現1血旦,政府の「御朏」し行」預緋鯛は4,938万ドルである。(Dewey,

〃l("lcjajH/StoDノ,p、210.)

(13)ReginaldCMcG1-ane,T〃en"jM/I83ZSo"ICF/"(z"(・MPm肱加sq/メカc ノ、1ヵs("z、〃EノTZ,Chicago、1924,p、44;SmithandCole,OP・Cit.,pp、4()-4L (14)McGrane,opcit.,pp、45,48.

(15)DouglassC・North,T〃CECC"oソ"jcGwノMbq/ノノzeU”/eds/α/〔'S’1刃O-Z86Q EnglewoodCliffSN.J・’1961,pp、124,137,Chartsl-X,I-XI.

(16)中西弘次「西漸述勅」謙木圭介(認)『アメリカ経済史川〔京大学出版会,19721it,(輔

2厳請2節1,)161ページ。

(17)Dewey,Fソノノα"(Wz/H7Mory,pp224-225iSmithandCole,0P.c肱,p、54.

(18)ルイス.M・ハッカー「資本主従の勝利下!(中僅継一・三ilii進沢)H〔大出版会,

1953年,17ページ;田ハルノ凹児「アメリカ西都における土地投艤の雁史的道炎」iYi汕暴 i斉嵩川羅11巻鋪2.3合併号,1959年,232ページ。なお.中村勝己「アメリカの土 地投橇に関する-5if究一HollandCompanyのj蛤---」「三I僻:会准`釧繭50巻第 1号,1957年,はニューヨーク西部の土地投橋について滝じたものであるが,土地取引 にいかに投桧蕊者が介入したかを知るうえで参考になる。

(19)1833-40年,アメリカの綿花土曜堀加のほとんどすべては,「低|有部」の折しい5つ の州(アラバマ,ミシシッピー,ルイジアナ,アーカンソーおよびフロリダ)での土曜 によるものであった。(M・BHammond,7WCCがo〃JM"β/r)ノ,A〃EhwZ)ノj加4"ICガcα〃

E(U"0J"jCHM"〕,,NewYork,1897,rep、1966.p、72.)

(2())PeterTemin,T/l〔'ん(;んs("'/α〃ECO"(ノノノZy,NewYork,1969,plO3,Table3.6.

ニューヨーク価慌,リヴァプール価格も同様の廻瀞を示している。(StuartBruchey

(ed),CO"()〃αノ!‘/〃CGパノ(4)ノハ()/メカeA7"(’ノ伽〃Br(ノ"ひ"'」1,I7gO-Z86()ISolf江cs aMRcロゴノ"蕊,NewYork,1967,pp、16-17.)

《21)1831-40年の間に稚鴬数は795から1.240,綿花梢fYhi(砿lot)は7,780万ポンドから 11,31()万ポンド,紡鐸数は120万から230万,生罐商は3200万ドルから4,640万ドル,労 蛎者蓮は62,177人から72,119人へと,それぞれ堀加している。(MelvinT・Copeland,

T伽COノノoノlハ化"ノィ/MM"gノM(sノノyq/ノノノc⑪ljMS/αtcS,CambridgeMass.,

1917,pp6.11.)

(22Bruchey(ed.),()P.cノノ.,pp、16-17.ただし,テミンらの掲げる数値とは,若-Fだが,

謎熊がある。(Cf・Temin,opcj/、,p、103,Table3.6;BrianRMitchellandPhylis Dean,A6Wnc/q/B'伽〃HM))伽ノSjα/M`WS、Cambridge,1962,p、180ノ (23)HaroldDWoodman;K/"gC()ノノo"αノノ(/H7M?c/α/"e)弼,FY"αjzczソ19α"dMzγMノノ堰

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(17)

稔沢大学経済学部禽喋第9巻第3号1989.3

/mjCojto〃CmPcW舵Sozfj/z,Z800-m25)Lexington,Ky.,1968,p、13;Bruchey

(ed),p227.ところで,ファクターと後出の販売代理商(commissionmerchant)の 用語法についてであるが,たんに慣習・綱例上のことにすぎず,法律上も区別されずに 使われていたといわれている。(NormanSBuck,T/zeDcw雌加刎q/MzeOZgzz肱α"o〃

q/A"gルーAme"cα〃Tm血Z800-I85qNewYork,1925,p6;RalphWHaskins,

“PIanterandCottonFactorintheOldSouth:SomeAreasofFriction'',

Ag7a/C邸〃7zzノH7S/o'6)/,volXXIX,1955,p、1,,.3iWoodman,0カ.cjj.,p、13,,.16.)

(24)つまり,ファクターにとっては委託荷がプランター手形奥書の見返りとされるわけで あるが,しかしかれらに委託荷にたいする先取特繼が正式に認められるのは,1840年以 後のことである。(Woodman,⑰、cjf,p、62.)

(25)Woodman,op・Cit.,pp、34-42,114-117;GeorgeDGreen,FY"α"cwz"d Eco"Cl"jcDczノe⑰"12"t/〃伽O〃so"ノノ2,Lo蠅伽αBa"ノセj咽I804-Z8団,

Stanford,Ca1.,1972,p75.

(26)cfFritzRedlich,TノbeM)〃jソZgq/A"zeがαz〃Ba"ん/咽jM′〃α"anノセ[zSpart l,Z沼Z-Z84q2nded,NewYork,1951,rep、1968,ppll,44.

(27)Green,”.cが.,p75.

(28)Woodman,”.c".,p、120;Bruchey(ed),”.cノノ.,p、226iJohnRKillick,`(The CottonOperationsofAlexanderBrownandSonsintheDeepSouth,1820-

1860,,,/b""zα/q/so"Z"eγ"HiSZor)WoLXLIII,no、2,1977,p、185;ThomasPGovan,

“BankingandtheCreditSysteminGeorgia,1810-1860'',ノリ""!α/q/S剛ノiem

HiStory,voLIV,1938,p、179.

(29)念のために一言しておく。ここでは南部の東部向け取引としては原綿の輸出に問題を 限定しているために,それとは逆方向の東部の南部向け取引も,輸入品のそれに限定し て立論されている。周知のとおり,噸都塵工業製品も南部(および西部)に重要な市鍔 を求めていたのであり,(GuySCallender,"TheEarlvTransportationandBanking EnterprisesoftheStatesinRelationtotheGrowthofCorporations,',Q"α畑'2)ノ ノリzイ”αノq/ao"o腕zcS,voLXVII,1903,pl29;EmoryRJohnson,HiSj0'qyq/

DC"!`Mcα"‘FM瞳〃Cb"'腕c噸cW〃FU》0j剛S〃Cs,voLI,Washington,,.C,,

1915,pp、338-341;LouisBSchmidt,“InternalCommerceandtheDevolpment ofNationalEconOmybeforel860',クノDJイノフzαノノbノ・幻o/1W、ノECO"o"nWoLXLVII,

no、6,1939,pp、800,806-807.)そのための噸部向け支払手段にたいする南部におけ る需要を見落しているわけではない。

(30)Geol宮eR・Taylor,Tlze乃翅"SPOγ/〃OJzRα'omtjo",I8I5-186QNewYork,

1964,pp、186,451;cfNorth,⑫.c肱,P、76,Chartl-VIII.

(31)Sumner,AHZS/or)ノvA腕cノアtzz〃O(me"C)/,z(ノ"ノiCノiα比,芯o〃/ハeE"g/MBa"ん RCS'沈加〃α"。A"sノノプα〃HZPer/Wb"G)l,1874,rep・NewYork,1968,p、134.(以下,

本書はAwcj”〃Cz",w0Gyと目§記。)なお,後出の注(48)を参照。

(32)後述するように,1836年,金準備高を激減させたイングランド銀行は,対アメリカ僧

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参照

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