1月15日 熊本県菊池郡菊池町長野 菅原神社 斉式
熊本県菊池郡菊池町字長野、菅原神社の氏子のやる年神の斎式
1月15日午後1時から、お墓の祭、村の南の小高い所にある板碑(先祖のお墓)(天文18年‐1549‐4月28日の 銘あり)に粢と甘酒を供える。次に年神の斉式板碑の傍にある榎の根元の自然石を塗る。奉仕者は当年結婚予定の 青年1人。長野川で禊をして素裸のまゝで勤める。塗るとき年寄の1人が
赤松権現神徳寺やわた八幡年の神。
浜松の音はずだんずだん、浜松の音はずだんずだん と謡うのに合せて3回半に手をまわして塗る。
この儀式に先立ち、奉仕者は御神体の表面に一応塗る。村人がからかう。サイシキが終ると若者は手についた粢 を参詣人の顔につける。参列者は片肌をぬぐ。座前(3名の当屋)が神供、新茣蓙を整える。後座(節当渡し)を開 く。太刀魚の平、スシ豆腐、エビの吸物、こんにやく。
お墓の祭は県道の右崖の上にあって、その先の溝に水神様の祭場がある。すぐ見つかったが誰も居ない。その傍 の 1 軒の家に入って尋ねた所、そこの主人は額に粢の印をつけたまま顔を出して、今終って自分も参列して帰った 所だという話であった。まだ座前に家へ行けば皆集っているだろう。3時に神社へ集って座まつりをすることになっ ているという。それで座前のうちの座頭のお宅、北村さんの家を教えてもらってそこへ行く。県道沿い左側に菅原 神社があり、それに隣り合って手前、即ち西側の屋敷が座頭北村さんのお宅である。
粉雪のちらつく実に底冷のする谷相いの部落。北村さんの薄暗い玄関先の座敷で、ぞくぞくしながら、かじかむ 手をこすって聞書したもの。
菅原神社は長野部落の鎮守であって、1月15日はその鎮守の宮座の座まつりである。神社の境内には何時の頃か らか知らぬがハイカタ天神があって、宮座では、ハイカタ天神をまつるのが主であるらしい。
ハイカタ天神の横に(右手に石垣を共同にして)山の神がある。この山の神は小さな自然石で、もとは部落のず っと奥の方(約 1 キロ程)に祠があったらしいのを後年にこゝへ合祠したのであるが山の神の講は座まつりとは別 になっていて、祭祀者も違う。祭日は1月16日である。扨宮座の方であるが、長野部落の住民(屋敷を持っている もの)は全部宮座に入っている。このうちから毎年3人選ばれて「座前」をつとめる。現在長野は23戸、迫間川の 左岸に散在しているが神社のある中心地域を本村といってそこに11軒、下流の方に亘って出村という本村地区より は新しく開拓された地区に12戸ある。出村の12戸の方は年順によって毎年1人づゝ本村の方は抽籤で毎年2人づゝ 座前をえらぶ。本村の抽籤はくじに当らなかった家だけを毎年抽籤するので、一互い座前を勤めてしまうと、その 次の年はまだ11戸全部がくじを曳く。 座前3人のうち1人を座頭と呼ぶ。座頭は座まつりの節当(せっとう、お こないのことをいう)に用いる器を 1 年間預る役目をし、節当の際、節当渡しの儀式があって、次の座頭にその器 を渡すのである。もとは1月16日即ち斉式の翌日、菅原神社の拝殿で新旧6人の座前が並ってやった。現在は1月 15日午後3時頃からやる。
器というのは朱塗の盃 2 個でこれを盆に乗せて甘酒をつぎ、旧新の座前の前に置いて、「座を渡します」「座を受 取ります」と挨拶して、座を譲るのである。このときの肴は定っている(前掲)後、新旧座前は旧座頭の家へ集っ て、なおらいをして盃以外の座の什物を一切渡す。古文書は座に必要な品物や買物を認めた帳面がある。
13日。座前は手わけをして注連縄をつくる。神社の鳥居にかける注連縄は中央で径10㎝位の太い注連を綯う。ハ イタカ天神と水神様にかけるのは細い紙垂れをつけた注連で、菅原神社の境内にある 2 ヶ並んでいる猿田彦碑には 夫々ハチマキと称える注連をかける。
またカケグリというものをつくる。青竹を幅 3㎝位に割り長さ60㎝位、その中央の部分の竹の身を削り落して、
青い皮だけを薄く残し、両端を撓めて丁度ピンポンのラケットのようにし、両端を 1 束にして、同じく竹の皮で結 えたものである。これを 1 個づつ供える。祖先のお墓という板碑にも供える。また年神様に供えるカケグリは別製 で径2㎝位の青竹長さ20㎝位のものを割らづに筒のまた24ヶを束にしたものである。また甘酒を仕込む。これは 数日前からとりかゝる。粢団子を造る。米の粉を団子にして2 ヶ重ね餅のようにしたもので、当日になって年神様 に供えてから、水で溶いてどろどろにする。14日、節当の献立の準備、その買物に隈府まで行く。また作った注連 をそれぞれの場所にかける。ハイタカ天神と水神とは笹竹を4 方に立て、これに注連を張りめぐらす。ハイタカ天 神の注連張りは隣りに祀ってある山の神を含めて張る。御先祖様のお墓の板碑にも注連を張るが、座前はそのとき お墓の周囲の掃除をする。年神様へ上る霜柱のひどい径の左右崖の斜面一体は墓地になっていて、大ていの村人た ちはやはり14日、夫々墓の周囲を掃除する。羊歯や楠天を花筒にいける。
夜になって座頭以外の2人の座前は村中の1軒々々を訪れて、明朝9時頃から年神様のお祭をしますからお詣り 下さいと案内をかける。もとは羽織を着て、提灯を持って廻ったが今は平服のまま電池を持って行く。
15日。斉式の当日。午前9時頃1度節当の献立準備全部を菅原神社へ運んでおく。甘酒、粢団子、カケグリも運 び、拝殿で祭典、修祓、祝詞、そのあとで粢の塗り役を決める。
この 1 年間に嫁を貰うことになっている青年が選ばれる。青年が少なくなって、嫁を貰うことを、かくすので近 ごろは塗り役を定めるのに困ることが多い。そのときは嫁をだまって貰ったものから選ぶ。ないときは 2 年つづけ て、役を引受けさせられる場合もある。
神社で祭典後、参列者一同ハイタカ天神、猿田彦に参拝し、甘酒と粢団子を持って、祖先のお墓へ行く。祖先の お墓のまつりというのはその板碑を始め、大きな榎の根元に並んでいる5~6ヶの石碑に杓で甘酒を流しかけするこ とである。石碑といっても殆んど自然石で、頭から甘酒をかむっているものもあるし、台石に流されているものも
ある。
この間に塗り役は年神様の榎の根元を雑草を抜いたりして掃除をする。昨年の祭具の朽ちたまゝになっているの も取除く。予め一度粢を塗る。村人が祖先の墓にお詣りしている間に、そこから 20mばかり離れたやはり大きな榎 の根元に根に抱きかゝえられているように斜に横たわっている年神様の掃除をする。塗り役は予め年神様へ粢を塗 るようである。
塗り役は1度水神様の傍の谷川へ降りて裸になり、みそぎをしたようであるが今は裸になって、粢を溶く。
参詣人も片肌をぬいだ。所がこの日は極ったように寒いのでこれをやらぬものが多い。参詣人も昔は必ず羽織で あったが今は洋服やジャンパーのものが多いので片肌をぬげない。塗り役は 1 度裸になるが、外の者がその着物を 預ってやって、すぐ着るという。水神様へ降りて行く麦畑の畦路も靴の下で霜柱がパリパリと鳴った。
いよいよ年神様の前で斉式が初まるが、年寄の音のよいものが謡う。これは誰とも限ったことはないが、大てい 年寄の長老が謡う。
赤松権現、神徳寺、やわた八幡、年の神。
浜松の音はずだんずだん、浜松の音はずだんずだん
これだけのごく短い謡であるが、この間に塗り役は、粢の溶いたのを両掌につけて年神様の石の表面を謡に合せ て、丁度 3 廻り半に終るように撫ぜる。早くても遅くても運が悪いというので、早いぞとか、遅いとか参詣人から 半丁が入る。
終って、塗り役の手についた粢で参詣人の額に一人づゝ印を塗って貰う。
一同それから水神様に詣って家へ帰るのが12時半頃になる。1度家に帰って、午後3時頃、神社の拝殿に集り節 当をする。
村人は年神の祭、祖先の墓まつり、水神様のまつりは夫々別個のものと信じられている、が墓地と年神の石のあ る場所から考えて、どうもこれは塞の祭りのように思われる。恐らく長野部落開拓当時、この場所は部落の迫間川 を降る、境であったらしい。そこに祖先をまつる墓地が築かれたものであろう。塞の河原と見られる。
次に1、塚や石に粢を塗り、甘酒を献ずること。
2、祭祀者が未婚の青年であること。
から類推して、山の神の祭でないかと考えて見る。
所が長野では山の神の祭は別に講があって16日が祭日となっている。山の神の祭は全々斉式には関係がなさそう である。また祖先のお墓の祭と称えるものと、年神の斉式と称えるものとも長野では別のものと考えられているよ うであるが、この宮座は事実同じものであって、準備その他も、この2つは同じ座前によって併行して行われる。
年神と祖霊の祈念の祭りがどうも同一ものでないかと想像される。両方とも墓地の一段高い大きな樹の根元の所 にあって、県道のため崖を削ったせいもあろうが、迫間川の左岸山の傾斜地を縫うて山奥へと入ってゆく県道沿い に一段と突出ている崖の真上になっていて、もとの長野の本村と呼ばれる聚落はその崖を見上げて道を曲って始め て視界に入る場所にある。
先祖のお墓という板碑は天文18年(1549)4月28日と銘のあるもので原田大和守大倉房種の墓という。
宮座の行事とは別に長野では14日の夕方、もぐら打ち、馬売り、どんと焼が行われた。どんと焼は水神様の前の 今は麦畑になっている広場に大きな笹竹を立て、その根元に藁を積んで、正月の松飾りや注連縄を集め、また書初 の紙を持寄って、夕方これに火をつけて大火を焚いた。書初の紙は燃え上る程、字が上達すると喜ばれ、家々から は餅を持って来て長い竹の先につきさし、このどんどの火で焼いて食べた。最近は火の用心から中止して、家ごと に自分の家の松飾りを焚く。これは夕方とは限っていない。
もぐら打ち。14日の晩に子供達がやった。竹の棒の先に藁を括ねて着けたもので家の庭や、雨戸、柿の木などを 打って廻った。これも最近は殆どやらない。このもぐら打棒はどんど焼に燃してしまったが、これを柿の木に吊下 げて置く家もあった。
馬売のみは僅かに残っているようである。昔は青年も参加したが現在は子供が主となってやる。藁で長さ50㎝位 の馬をつくりこれに篠竹の脚4本を挿し、14日の夕方、これを持って各家を訪れるのである。門口に馬を置いて門 口を叩くと、すぐ物陰にかくれる。すると家人は門口を空けてその馬を受けとり、代りに盆の上に餅1重ねと銭50
~100円を包んで門口の戸の外に置くとすぐ戸を閉める。
そうすると子供達は、ごく静かに抜足さし足で盆の所へ近づき、餅と包紙を受け取って、大急ぎで引上げる。家 人はバケツに水を入れて家の内の土間にじっとしていて、盆の上に乗せたものを子供達が取ると間パツを入れず戸 をあけて、子供達に水をかけるが、子供達は水をかぶらないように逃げると運がよいという。
馬はしばらく、その家の床の間とか神棚に止まっているが大てい節分頃には荒神様にあげて、そのあとは朽ちる に委せる。このあたりの人家では各家で屋敷神として荒神様を祀っている。荒神様は大てい庭の隅、東の隅にある という。北村さんのお宅の荒神様は隣りの菅原神社との境の籬の隅にあって、家形の小さな石祠が 3 つ道から籬の 間から見えていた。
13日注連縄造り。鳥居、ハイタカ天神。2の猿田彦の鉢巻。
水神様のシメ、かけぐりを作る。竹をまげて 年神様のかけぐりは24本括ねたもの。
甘酒をつくる。数日前から。
粢 米の粉の団子2つ重ねたもの。当日現場で水でとく。
14日。節当の献立の準備、買物。
しめ縄を掛け、かざる。
座頭以外の当前2人で夜になって村中へをかける。もとは羽織を着て、提灯を持って行った。今は平服、電池。
15日。朝9時頃、神社で一度節当の献立全部を甘酒と運び、神職の祝詞。こゝで塗り役をえらぶ。この1年間に 嫁を貰うことになった者、青年がいない。それより下の年のものがやることはない。前の年にやったものが、もう 一度頼まれることがある。年上のものが多い。座前3人のうちから選ぶことはない。塗る役は褌1つ、参詣人は片 肌ぬぐ。今はやらぬ(洋服)年寄の謡の間に3廻り半に塗る。10~11時頃午すぎに終るのが恒例。
祖先の墓まつりは杓で甘酒を流す。年神の祭、祖先の祭 水神の祭は夫々別のもの。座前のやる行事はこれ丈け、
他に年中行事はない。
14日夜。もぐら打、馬売り、◎のみ残る どんと焼き