4月20日 兵庫県三原郡三原町養宜 八木八幡神社 神幸祭
八木八幡神社は洲本から福良へ通づる国道のすぐ南側にある。楼門の中の境内正面に拝殿その奥に神殿があるが、
面白いことにその周辺に大日堂観音堂があって、神官や神職、恐らく今日の祭のため他からやって来たのであろう が祭典の支度をする所は寺院の書院である全く昔の神仏混淆の頃の姿をそのまゝ残しているようである。神社の境 内には社日さんを祀る5面の地神塔があって5面に幣を立て、これを塔碑に縄でしばりつけてある。恐らく注連縄 であったであろう。八木八幡神社の春祭は神幸祭であて、午後1時頃本社より、国道を横断して1本道の約500m程 行った所にある御旅所へ渡御がある。
祭儀に参加する氏子はもとは上養宜のみであったらしいが、後、中養宜もこれに参加するようになった。発輦に 先立って神前の広庭で獅子舞がある。その頃までに4 台の屋台壇尻が境内に入って居る。上組、中組にそれに上組 中組それぞれの若連中の壇尻である。
獅子舞は上養宜の青年団から出る。神庭に筵を数枚敷いて、その上で舞う。囃子は径50㎝位の鋲打張太鼓1ヶ、
1人で打つときも2人で打つときもある。特に曲目によって打方が違うのもなく、簡単なものである。
獅子舞は赤獅子1ヶ、2人舞で頭使いは頭を被るのではなく、胴幌の中で獅子頭の咽の所についている縦の取手を 持って(右手で)前につき出して舞う。従って、獅子頭はあまり大きいものでない。胴幌には背筋に当る所にたて がみに幣紙を無数につける。紺の獅子模様の幌で、変っているのは胴幌の後端が拡がっているのではなく、後振が 入ると丁度尻の所で袋に縫ってあってかがむと馬の尻のようになり、御丁寧に尻尾の所で凸突の尾のように縫って あって、後振がどうするか分らぬが舞っている間そこへ手を差入れて宛も尾を振っているように左右に動かす所作 をする。
獅子にも助が1人つく。仮面、頬被り、3色の御幣を持つ。獅子の舞振に14種あるということであるが今は全部 舞える青年は居ないということである。
1庭約10分。舞ったのはいもほり、水のみ、背延び、股喰も も くい、せなぐい、おしかけである。終って神輿が出るが 行列には、随分数多くの神具がお伴をする。昔はこの行列の順序も随分きびしかったが持ち手がないので 1 人でさ しばと旗を一しょにかついで行ったり、唐櫃の上に木履をのせて行ったり手のあいている氏子が勝手に持って行く。
大きな黒縁赤地の幟が4本あるが、これは倒して前後2人が担いで行く。金幣奉持者1、道を塩水で浄めつゝ行く。
神輿はさっさと前を進み、御旅所を通りこして中養宜の部落の中を巡回して帰って来る。
御旅所は社殿がなく、コンクリート通りの神輿台が1つある丈で、その前に非常に大きな石鳥居が1つ、中央の 横石の下に小さな注連縄が 1 つ吊ってあるのみである。鳥居に添えて大幟を建てると、御旅所での祭典が始まり祭 典中に巫女神楽がある。
この巫女神楽は淡路神楽であって、こゝでは「里神楽」といっている。市村の小井から来ている。神輿の前で鈴 扇の舞、榊の舞を舞う。舞人は2人、囃子は笛、太鼓、銅跋子である。
祭典が終って、大鳥居の下で獅子の 1 庭があって直ぐに還御になる。神輿が本殿に還御になり壇尻も従いて帰っ て境内にそろうとすぐ拝殿の前に床几を6ヶ2列に3台づゝ並べる。拝殿の方に向って後の2台は囃子方の坐る所 前4台は踊り場となり、神舞が始まる。
まづ最初に三番双がある。囃子方は子供(男童)がまづ床几の輪に4名1列に並び次が三味線(青年)端が拍子 木であって、拍子木は 2 本床几の上に蜜柑箱を伏せて置き、上になった底板を拍子木で打って拍木をとる。舞人は 三番叟1人、10才位の小年で長唄の三番叟の衣装をつけ青年に担がれて来て舞台に降されると、すぐ舞う。片足を 前方に投出して床に尻をつける型などする。囃し方に坐った 4 人の子供も、三味線の間に時々、アー、アー、アッ と間の手を入れる丈けで、最後の所になって僅かに
千秋楽には いやさきを のべ と歌うだけである。
次に「神舞」がある。「幣舞(へまい)」ともいう。囃し方は全員そのまゝ。舞人は4人、6~7才の男童、白い着 物(うち 2 名年少の方は水色の下衣を重ねる)に片帯をしめる。着物の背の所には日の出に松の模様を染め出す。
或いは染めた白い布を縫付ける。神主さんに頼んで造って貰ったという白木の幣串の御幣長さ60㎝位のものを持つ。
父親に抱かれて来て舞台の床几に、拝殿に向って右側、後の方柝方の所から出るようであるが、出るのをむずがる 舞人があって結局父親共々床几に上り、父親が後から一々振りを導いてやらせるようになってしまったが、それで も泣出して踊らない舞人もいる。
舞振。始め床几の中央稍後方、囃し方に近い方に正面に向って横 1 列に並び、幣を右肩に担ぎ、次に幣を持った 右手を左手に添えて前方へ突出し、次に2人づゝ向き合い幣を振り、正面に向き直り、4人とも3~4歩、幣を担い で前進、止って幣を振る。後向きとなって元の位置へ返り、正面に向く。歌が3節あるので、これを3度繰返し、4 人共左向き、先登のものより、床几の線を大巡りして、床几に上った所から下りる。この舞振りの基本形態は以下 の何れの踊りにも共通であった。歌詞は次の通りである。これは上養宜の踊りの世話人をして居られる人から謄写 本を借りて、踊の始まるまえにノートしたのであるが、何分にもあまり練習も出来ない昨今とて、この通り歌うか どうかは分らないし、果して謄写本が正しい伝来の歌詞かどうかも不明という。何れにしても今日まで口うつしの まゝで自分も三味線を曳くし、若いときは踊りにも出たが、その頃と現在でも可なり舞振や、施調が違うという。
歌詞もその謄写本を基とに、本日テープに録音させて貰ったものを参照にした。
中養宜の神踊のとき囃し方は全部入れ替る。踊り子は8~9才の男童4人、茶色の中紋の縞の上衣、持つ幣の切り 方も上養宜のものと少し違うようであった。舞方は全く同じであった。この歌詞は上養宜の謄写本になかった。全 くテープによる外採集の方法はなかったのである。
続いて花踊、鎌倉踊、二見踊が上演された。この 3 つの踊りは通常神踊りを踊った少年の次の年上の少年が順次 踊ることになっているのであるが、近頃は、その年頃の少年は舞をいやがって稽古もせず、自然消滅してしまって、
やれないことになってしまっている。所が神輿舁きに出た青年(神輿舁は氏子中の家順になって居て、今年は上養 宜に集中されている)が自分達で昔やったのをやろうということになったし、又囃し方も前記のように、何んとか 歌の本調子のものを保存したいという相談がまとまって明21日に専門家に来てもらって録音をとることになったら しい。そこで、吹込に廻った青年、少年の連中が昨日(宵宮)から決って練習中なので、これもやるというので、
いはば臨時に本年は 3 曲続けて青年がやることになったが衣装は揃わないまゝに祭半纏にズボンを穿き、豆絞りの 頬被りで、それでもてれるというので皆が露天商で賣っている、可愛い、セルロイドの女子面をつけることにした という。但、採物だけは保存されている所定の道具を用いた。舞振は前にも書いたように神舞に殆んど変らない。
神踊り(上養宜)囃子、三味線、柝、地唄い東西、このところあいつとめ御覧に入れます、じようれい神踊りの始まり、さきさようそうれえい一、淀戸の車はいな水故廻るわたしや殿ゆえ気は廻るあゝあるええゝそこでしんきは増すわいなああゝそれそれほんにそうじやえ二、思ひ乱るゝなる芦屋の里であさのたく火はほたる火えゝかええそこで浮き名は立つわいなあゝそれそれほんにそうじやえ三、恋の中だちいな筆ゆえ廻るわたしや殿ゆえ気はまわるあゝあるええゝそこでしんきは増すわいなああそれそれほんにそうぢやえ神のみすえはつげのくし×××(拍子木三つ入る)神踊り(中養宜)
東西このところあいつとめ御覧に入れます神踊 カンオドリの始まり面白の花の都筆に書くともよだちみやぎには祇園、清水、落ちくる瀧の音羽の嵐みづのさくらはきぎに道はほうじじ嵯峨のおん寺廻れば廻れ水車のわとおうびてん堰の川やなぎ川柳は水にもまるゝつらい柳はわけにもまるゝふくらふけはあ瀧にもまるゝ都のうちは車にもまるゝざるすはひじきにもまるゝげにまことは笛太鼓やこっきりこはほうかにもまるゝこつきりこのふたつの竹の世々をかためてうち泊りたる御代かなよいよいよい
もと神輿舁きの若衆は帰ってから神前で「さゝら踊」をやった。また近郷から引馬が出て、競馬、流鏑馬があっ たが現在廃絶。
御旅所ではごく短かい祭典のあとすぐ還御になるが御旅所の神輿の前で巫女神楽があった。
舞人2人。囃子は太鼓(鋲打手太鼓)、銅鉢子、笛、各1人である。所謂淡路神楽で、「市村にある里神楽」との み教えられた。13日に下司の春日神社で見た巫女神楽と同系のものと思われる。
鈴扇の舞、榊の舞を演じたが他に「剣の舞」もあるという。2人の巫女が反対方向の隅から開いた扇の上に鈴をか ざして中央に進み、向き合い、そのまゝ深く伏し、次いで立ち上ると両手を高くさしあげる舞振りのものである。
市村の小井部落にある。
神踊りは細川尚春がこゝの藩主であった頃出来たというが、時代考証はまだしていない。その頃の養宜の庄屋に 可なり豪家があってその妻女は京都の公卿筋の息女であったが、その人が神踊の歌詞を作ったという。
同様な形態の踊はもと榎列にもあったらしい、大踊といった。
「淡路の民俗」によれば(243頁)踊るのは神踊)(幣踊とも)花踊(豊年踊とも)、鎌倉踊、二見踊の順で年令は 順々に高くなるが、何れも小学生であったという。以前は老人たちが氏子部落間で互に他の部落の踊りに「賞め詞」
二見踊採物花笠竹の輪四つを赤紙で巻き四つ金輪にしたるものを持つ、もとはその上に紙の造花をつけたという。東西、このところ、あいつとめ御覧に入れますじようれい伊勢道中二見踊の始まり、さまさようそうれよいよいよい一、伊勢のようだの一踊り二見ヶ浦に住すないてそうれよいよいよういやーよいやなー二、宇治の里瀬の阿曽次郎さんは私しや蛍で身を焦すそうれよいよいよういやーよひやなー三、障子ひらけば卯の花かおる月がないたとほととぎすそうれよいよいよういやーよいやなー末はおのえのとも白髪
×××(拍子木三ツ入る)ななとこさらえてやーとこせーえゝおようのやーなーあれわいせ、これわいせやーあとなー 花踊採物生木の梅の花枝と梅の葉枝とを両手に持つ東西、このところあいつとめ御覧に入れますじようれい花踊のはじまり、さまさようそうれい一、花を見たくば吉野へござれ今は吉野の花ざかり散れば実がなる人が知るさゝ世の中をねんようによおい二、牡丹、しやくやく、百合の花、すゝき、山吹、藤の花梅と桜に色揃ひけりさゝ世の中をねんようによおい三、桐に鳳凰、松に鶴柳に燕は巣をかけて竹に雀は恋の謎さゝ世の中をねんようによおい花の踊は面白いチヨンガシチヨンガシチヨチヨンガナノハナチヨンガチヨン
鎌倉踊採物、兜、箕に白紙を貼り、尻受けの所に金紙で鎌型の前飾を貼る。被らない、両手に持って踊る。東西、このところあいつとめ御覧に入れますじようれい世の中豊年のはじまり、よいよいよおい一、鎌倉の八幡さんのごしやの前ちょいとさかぶとあらためえ顔よおさんちよいと師直は横れんぼまあほんにえそろいかな二、二度となるよいすしやの娘ちよいとさすしになる程押されても末は鴉のなき分れまあほんにえそうかいな三、妹背山ではひなどりをちよいとさ吉野山廻れとへだてられちよいと焦さん顔と顔まあほんにえそうかいなとかく浮世はおもしろい×××(拍子木三ツ入る)
をかけたという。この詞章は賞めさえすればどう言ってもよかった、というのは自分の部落の児が賞められると必 ずその返しとして相手部落の踊を賞めなければならないことになっていたという。
「淡路草」にある「風俗答書」によれば社家村八幡(三原町上田八幡)。 8月15日の祭にも神踊は行われた。その歌に
天竺も踊てしらそく姫が米(よね)をまく・・・・・みろくつけて米をまく・・・・・誠や鹿島の浦にはみろ くの船が来たと、ともへには伊勢と春日と中には三島の社祇園しやうじやの梅の宮・・・・惣じて神の御数は 九万八千社也
などあるが種々の系統の詞が入りこんでいるといへよう。