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運命の歌 人間の歌

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Academic year: 2024

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(1)

︻論文︼

茎§弱年3拷

運命の歌 人間の歌

商学論集 第赫巻第尋号

一初期のヘルダーリン

 ヘルダ⁝婆ンの窃期の代表作といえば︑だれでもまづ小説﹃ヒュペ⁝

夢オン﹄をあげるだろう︒これは第一巻は一七九七年︑第二巻は九九

年︑当時もっとも名のあった鐵版鮭のひとつ︑コッタ社から産飯され

た︒ 少しのち︑ヨーゼフ・ゲレスというひとがつぎのような書評をのこ

している︒

 この蒔代が馬鹿げたことにかまけていて恩知らずにも忘れてし

まったように見えるもうひとつの作贔は︑ヘルダーリンのヒュペー

婆オンである︒だれが心の奥底で憤・激しなかったろうか︑この量紀

の下劣さに︑またおとなしく手なづけられ︑いいように仕込まれた

人認本姓のどうしょうもなさに︒だれがこの底知れぬ墾落に傷つい

た思いをしなかったろうか︑神々の末裔たるものが野の獣にまじり

草を食み︑ますます地べたに顔をふせ︑かつがつ生きのびる姿を見

て︒⁝⁝それからだれが身のうちに燃えあがるのを見なかったろう

か︑熱猛の高い火柱が︒そして巨大な渦に身をおどりいれ︑おのれ

神 子 博 昭

のもっているかぎ讐の無鰻の力のすべてをあげて身をささえ︑激し

い息吹でさかまく嵐を騨びさまそうと望まなかったろうか︒⁝:そ

のときだ︑悪魔が頭上の空中であざ笑うのをきいたのは︒縫いの当

の旛手のおそろしい力が鉄のこぶしで首根っこをおさえつけ︑復讐

の女神のいけにえにしようと彼をおしひしぎ︑しかも彼を魔手から

救う愛はなかった︒多多そうしたことを知るものはヒュペー夢オン

に自分の発弟を見る思いだろう︒驚愕してヒュペーリオンの姿のう

ちに︑自分の過去のすべてを措きしめるだろう︒

 ゲレスは一七七六年︑ライン履とモ⁝ゼル驚の灘会う地点︑コプレ

ンツの生まれ︒フランス革命勃発蒔にはヘルダー夢ン︑へ⁝ゲルらと

同様︑菟大郷の遅会心に熱狂︑自身ジャコバン諏︑共繕主義者となる︒や

がてしだい泌懐疑的とな拳︑ついには革命運動を数韓︒ドイツ・窟マ

ン諏に近づき︑のち有名なドイツ民衆本を編集︑鐵叛する︒この書評

は嚢らの熱狂と隻意の騒懇をこめていて︑小説門ヒュペ蓄夢オン﹄が

当爵どのように読まれたか︑その一螺をあざやかに語っている︒

      一

蓋欝

(2)

神子:運命の激 人間の敏

 小説にはいっさいの古い殻をぬぎすて︑新しい雛翼を全身全霊でむ

かえいれたいという青年の希望と︑それが無残にもうちくだかれてゆ

く様子とが描かれている︒変革の瞬代に灘会った若者の感受牲のゆれ

が︑現実獲得と現実喪失の霧端にわたって︑ここにはうつしだされて

いるのである︒

 一七九六年から九八隼にかけて︑小説隅ヒュペー︾オン﹄のまわ警

にはいくつもの詩篇が書かれている︒小謙の女主人公ディオティーマ

の名を薩接あげているものもあり︑またそうでなくとも︑ヒュペーリ

オンとディオティ⁝マという麗構を思わせるものがほとんどであ箏︑

これらをまとめてディオティ⁝マ詩篇とでも辱べるものである︒ここ

でも小議認様︑ヘルダーリンの感受性のありようがよくうかがえる︒

 そのなかでもっとも長く︑もっとも有名な﹃ディオティ⁝マ︵詰れ

しぼみ⁝⁝こはつぎのようにはじまる︒

詰れしぼみ うちふかくこも拳つづけた

わたしのこころは いまうつくしい盤界にあいさつする︒

こころの妓は はなさき めぐみ

いのちの力にあらたにみなぎる窃

おお! またいのちにかえってきた︒

ひか箏と大気をあびようと

至福をもとめ 苑という箆が

枯れたおおいをやぶるように︒

なんという変雛よう! わたしの紅くみ いとうたすべてがいまはなつかしいひびきをたてこの静のちのうたに秘す︒そして詩のひとうちごとにふしぎにもおもいだされるこどものころの 金色の騒々ついにこのひとを見いだしたいま︒ディオティきマ! 神聖なひと!妙なるひと あなた癖えこの精禅はいのちの不安をしずめられ禅々の青春をめぐまれる⁝ふたりの天はいつまでもほろびない︒はかりがたい近しさよ畿会いのまえに すでにもうこころから知サあっていたふたりだった︒

 この詩にはいくつかの稿があるが︑ここで群濡したのは中間稿と呼

ばれるもの︒ 一行︑圏つの強弱格︑交差韻の暖春を二度かさね︑ 一筋

八行︒いわ攣るスタンザである︒ゆった参した詩感の起状のうちに十

五詩簸をかぞえ︑やや長浸の蝉騒のなかに︑はじめてヘルダ⁝︾ンら

しい息づかいの感じられる詩である︒

 この詩はヘルダー亨ンにあって︑四五鴛の歌﹂がゲーテの詩作全体に

しめているような位羅をしめている︒つまりヘルダーリンの詩作全体

の開始をつげるものであり︑しかも決定的といっていいほどの質の高

一至鱒一

(3)

第67巻第漿号

轟学論集

の過去をかかえる魂のよみがえ参の歌である︒ 然たる現在のめざめの野精であるのにたいし︑こちらはほの暗い喪失 さを実現したものである︒ただしゲーテの誇が魂の︑遺糞のない︑純

おお⁝ またいのちにかえってきた︒

なんという変りよう⁝

ディオティーマ⁝ 神聖なひと!

 感嘆符のあとにつづく休止に︑ひそかな畦息が感じられる︒この魂

は傷をうけ︑そしていまふたたびいのちに驚ってきたという︒

 こども時代︑息吹と物の音のうちに︑すでに﹁わたし﹂は㎝︐あなた﹂

を蟻っていた︒こどものころの黄金の轟々を失い︑冷たく青ざめた毎

舞に苦しんでいるとき︑蓬懇のイメージが﹁あなた﹂の姿を予感させ

たという︒

そしていま⁝ あなたを見つけた︒

受精のおごそかに蒔つげるとき

夢みたよ管も うつくしく

気高く やさしく そこにたつあなただった!

おお 空想の貧しさ!

 ゲーテの門五月の歌﹄は﹁ぼく﹂の愛情がすべてのものの光漂であっ

た︒その愛婿が轟然も﹁おまえ﹂もくまなく照らしだす. よろこびはひとの麹からおお大地 おお太醗おお幸よ おお溢れる心おお愛よ おお愛よ黄金なす美しさ朝雲のかの縫にかかるようおまえの恵み 幸うけて野はよみがえる花のかすみに蟹界はみちる あざやかに

おお少女 少女子よ

ぼくはおまえを愛するよ⁝

かがやくよ おまえの鐘

おまえはぼくを愛するよ!

 しかしこちらでは光はディオティ⁝マからやってくる︒﹁わたし﹂は

恥じいり︑うちのめされる.﹁このひと﹂のあまりの畑塾轟さに︑あわれ

みを請うこともしばしばだった︒﹁わたし﹂はディオティ!マをまえに

しては﹁無﹂なのである︒

一i縮一

(4)

神・子:運命のi歌 人間の欲

しずけさのみちわた拳

ひとつの鰻差し ひとつのことばに

やすらぎを ゆたかさを

このひとの守蓬騒霊がめぐんでくれるとき

わたしのいのちを鬱すぶって 神が

このひとの額にたちのぼるとき

賛嘆の念疑うちのめされ

わが身の無を怒り嘆くわたしだった︒

 ﹁わたし﹂はディオティーマの存在を極蟻に建想化する︒補格化すら

してしまう︒そのためディオティーマに通じる道が見つからなくなっ

てしまうのである︒ふた箏の関係は美的・激震主義的なものであるが︑

古典主義的な宮麺恋愛詩の修辞と場面とを念頭におくといっそう遅解

しやすい︒おかかえの宮廷詩人と王族の女性を考えてみる︒ふたりの

あいだに真実の恋愛感精がうまれたとしても︑身分のちがいは絶蝿的

なものである︑富麺詩人がいくらこがれても︑綾は貴族鮭会のなかで

は﹁無﹂である︒この詩のふた9の麗係はゲーテの宮麺麟﹃タッソー﹄

の詩人と王女とを思わせる︒

するとこの天上のひとは

こどものたわむれに やさしくわたしをつつんでくれた︒

このひとの魔法のなかで

いそいそとむすぼれはほどけていった︒

するとあわれなのぞみも

あらがいのさいごの蹄もきえてゆく︒ そして挿々のいのちのさなかに不死のものならぎるに歩み雛るわたしなのだ︒

 この連想化をディオティ肇マはこどもの戯れのうちになだめてくれ

る︒こどもの純粋無堀な戯れのなかに神性があらわれるというのだろ

う︒こどもの黄金の舞々なら︑すでに﹁わたし﹇﹄もよく知っている︒ディ

オティーマは﹁わたし﹂をこどもにかえしてくれるのである︒むすぼ

れはとけ︑あわれなのぞみも︑あらがいの跡もきえてゆく︒こうして

﹁わたし﹂は自分の量界︵エレメント︶を見いだし︑嚢分の存在を見い

だす︒ 最終二籔は陽酔のうちに︑エロスのひそかな成就をつげている︒

テユンダレオスのふた.この星が

かがやかに 堂々と

その軌道を ふた箏のようにやすらかに

あの暗い賞購みにたどり

貫やかなやすらぎにいざなわれ

中空にけわしい懸をえがきながら

やがて海のおおなみに

あざやかに 饒大にしずみ攣くように

おお陶酔よ そのように

おまえのなかに 至橿の墓をふた讐は見る︒

おまえのおおなみのそこふかく

ひつそ吟とよろこびの声をあげ ふた参はきえゆく︒

ワど

(5)

第§7巻第垂号

やがて季籔の女神ホーライの呼ぶ声をききあらたな誇りにまためざめふたたび 星々のようにいのちのみじか夜にたちのぼるまで︒

 ここにはむろん一七九五年末から九八年秋までヘルダ⁝リンが家庭

教饒をつとめていたフランクフルト︑ゴンタルト家の当主の夫人︑ズ

ゼッテとの趨会いの驚きがこめられている︒﹃ヒュペ一華オン﹄の草稿

を見ればわかることだが︑ヘルダ⁝サンはそれ以醜から一定の女性の

イメ⁝ジを抱いていた︒その運懇のイメージをズゼツテに投影したの

だと考えられる︒しかしこの愚会いは決定的なものであった︒ヘルダー

サンはこれを運命的なものと感じとる︒そう感じとった男の魂のふる

えを︑この詩はつたえている︒

 ここでは﹁わたし﹂と﹁あなた﹂はたがいに根芋の内鰐にはい塗こ

む︒ふた蓼は独立した幻想選界をつくむあげ︑外離の量募とはかかわ

らない︒そ轟は逆からいえば︑外部の盤界にたいし︑まったく無騎備

であるということである︒ディオティーマ詩篇のうちのこ参のほとん

どは︑外部盤界の敵意︑悪意︑無蓬解のもとで苦難するふた雛を歌う︒

 これらの詩は古典主義的な宮廷劇を患わせる︒書割をまえに苦難す

る宮廷詩人のせ絵ふだとみると遷解しやすいのである︒

かしわの木

庭騒を轟けきみらのもとにやってきた 出の子らよ! 庭園を轟けむあそこでは自然はつつましく こらえて生きているかいがいしいひとの手に育てられ またひとを育てながら︒しかしこのすばらしい姿一 巨人族のようにきみたちは手入れゆきとどいた経界のなかにたち ただきみら自身と天と地の ものなのだ天はきみらを育ててくれた 地はきみらを生んでくれた︒きみらのうちだれひと拳学校に学んだことはない︒しかもきみらは豊口々として白露に 痘大な棲っこから上空にのびあがり 鷲が獲物をつかむように大いなる魏をひろげて空をつかむ︒そして雲にむかい晴ればれと偉大に 臨をあびた繕冠をふ参たてる.ひとつの盤界だ きみら一人ひと拳は︒天の星のようにそれぞれ#狂の神であウ しかも自由な絆にいっしょに生きる︒せめて屈健をしのべるなら わたしはけしてこの森をうらやまず よろこんでひとの交わ讐にとけこむだろう に︒またひとの交わ参にこの心がしばられず愛をすてることができるなら よろこんできみらのもとにくらすだ ろうに! 宮麺仕えでさまざまな繧辱をなめている詩人は︑ひとのつどう庭園をそっとぬけだす︒詩人はできればここをすつか肇たちさってしまいたい︒だが愛するものが宮廷にいる︒もしくはそこにとらわれている︑そこで彼も心ならずも︑とどまらざるをえないのである︒

一i総一

(6)

神子1運命の数 人間の歌

ディオティーマ

あなたは黙しそして耐える だれひと拳あなたを遷解しない

溝らかな雛のちのあなたなのに! 詰れしぼみ あなたは黙す︒

というのも ああ 野蛮なひとびとにたちまじ箒

鶴のもとに 一族をもとめてもむなしいのだ

優美にして健大な擁のひとびとは もういない一

だが時はいそぐ︒いまやわがはかなき歌も

その墜を見つめる︒ディオティーマ! 禅々とあいならび

勇士らとともにあなたの名をあげ あなたによく似たその嚢がくる

 のだ︒ ﹁わたし﹂だけが﹁あなた﹂の懸纏を惣り︑また﹁あなた﹂だけが﹁わ

たし﹂の懸値を知っている︒地の人々は﹁野蛮人﹂であ撃︑蓮解しあ

えない︒灘をつぐみ︑どこか.鷲のところ︑雛の時代に︑わかりあえる

人々をもとめるしかない︒それもしかし空しい試みであるかもしれな

 詩人は愛の成就が不罵能であるならば︑せめて詩作だけはなしとげ

たいものと思う︒

運命の女神らに

ただひと夏を恵み給え 大いなるものらよ一 そして歌が熟するために さらにひと歓を︒すればわが心もよろこんで 誓美な戯れにみちたり 死につこうぞ︒

ノ、

麗はこの笹にあり その神々しい義しさを

みとめられぬとき 冥癒にあ参てもやすらぐことはない︒

だが聖なるもの ひさしく

心にかかるもの 詩が成就したのだ︒

ならば来たれ おお影のくにの静けさよ一

よしとしようぞ たとえ竪琴が

ともに黄泉露を下らずとも︒ひとたびは

生きたのだ 神々のように︒それ以上ほなにも望まぬ︒

 これはヘルダーサンが嚢らを宮廷詩人に擬していることを︑もっと

もよく想嫁さ量る一篇である︒ゴンタルト家のなかで︑一介のやとい

人としかみなされず︑しかも糖神的には当家の主人よ鯵もはるかに高

貴であると露負してはいるものの︑轟くにゆけず︑ひくにもひけず︑進

退きわまったところで︑自らを苦秘する宮廷詩人に見たてることによ

診︑かろうじてヘルダーサンは謝えているのだろう︒彼のいのちは︑冷

たく︑青ざめる︒舞台上のせ拳ふを思わせるこの詩とはことな鯵︑つ

ぎの詩はいわば幕のかげで︑自らつぶやき︑そしてつぶやきかえすよ

うな詩である︒

一i総一

(7)

第67巻第唾募

くどうしてすぐやめるのか? もう蓄のように

くうたおうとはしないのか? 若いころ

く希望にあふれ

くうたいだせば つきることを知ら慮おまえだった!

わが歌は幸福とおなじだ︒ータ験えに

あたたまろうとおまえは思うか?終ったのだ!

そして夜の爲が ほら嚢のまえに

不気味に羽ばたく︒ 地は冷たい︒

 小説﹃ヒュペーワオン﹄をとりまくこれらの詩は︑ズゼッテ.ゴン

タルトと畠会うまえに書かれた詩とは一線を面す︒ひとことでいえば︑

ここではじめてヘルダーリンらしい詩が書かれているのである︒だが

これらの詩がそのまま以後の詩にむかって聡かれているわけではな

い︒ここに含まれる薄能性の展瞬として︑これ以鋒の詩があるわけで

はない︒その愚昧からいえば︑ディオティーマ詩篇はむしろ緩宣した

おもむきをもつ︒たしかにここにあることばのニュアンス︑寮同貴さの

雰囲気︑あこがれと悲麟的な失意の感鷲などはヘルダーリンの詩の底

流をなす︒だがこれらの詩篇は︑小議﹃ヒュペ⁝サオン﹄と重んで︑む

しろ裟の詩人としての糞質の表競であるところに意味があるゆ資質と

は︑つま参彼が詩を書こうとし︑想の向くまま︑心のおもむくままに

まかせるならば︑欝然にこうした詩になる︑というその傾陶のことで

ある︒﹁わたし﹂は﹁あなた﹂を理感化し︑ふたりだけの幻想轡界をつ くるか︑敵意にさらされ︑議らを苦難する高貴な精神とみなし︑ますます錘立するか︑その両極に分裂してゆくのである︒ どうして︑こうなるのか︒神的な懸値を実現しようとすることは︑必然的に敵意をよぶのか︒それとも︑もとめ方に問題があるのだろうか︒

﹁わたし﹂の感じ方︑考え方になにか欠けるところがあるのだろうか︒

﹁わたし﹂の弱さが﹁わたし﹂をひるませて晒るのだろうか︒その弱さ

はどこからくるか︒敵主思はどうして生ま託るのか︒⁝一欝らの資質に

さからってでも︑闘いつめる必要があるのだ︒そうしてはじめて︑彼

の﹁詩﹂ははじまるのである︒ヘルダーサンほどの才能でも︑はじめ

から詩人であるわけではなく︑やは拳請人になるのである︒これはあ

ま参裟もわか馨きったことであ滲ながら︑それでもこのことを確認す

るのは︑ちょっとした感慨をもよおさせられることである︒

 ディオティ⁝マ詩篇の灘辺を読みかえしていると︑いつも気になる

一篇の詩があった︒できばえとしてとりたてていうほどのものではな

く︑地味なため︑とりあげて論じられることも︑これまであま婆なかっ

たのではないだろうか︒ただここで引馬したディオティ⁝マ詩篇を背

景にしてこの詩を読んでみると︑その異質さがよく感じられる︒作品

の良し悪しをこえて︑この異質さにはなにか意味があるのではないだ

ろうかとこのごろ考えるようになった︒そのことを少し書いてみたい︒

全篇を訳してみる︒

一i縫一

(8)

禅子:運命の歌 人聞の歌

    人    間

おお大地よ あなたの

若い離々の覆が海原から芽ぶき

よろこびを辱験し 常緑の躰に

おおわれ 大洋の灰色の荒野のなかに

はじめての愛らしい島々とな拳香りたつと 宣口びの色をうかべ

震の檸は見た 擁々しい

葦穂が 響の神の永遠の青春の

ほほえむ子らが あなたからうまれでるのを︒

そのもっとも美しい島のうえ たえず

木の闘をおだやかに風の吹きぬけてゆくところ

そこにかつてぶどう樹の欝のもと あたたかな

夜の瞬けた朝まだき

うまれたのだ 母なる大地よ⁝ あなたのもっとも美しい子が︒

そして父なるヘリオスを観しみの曇で

少年はふ嚢あおぐ︒そして目ぎめ 繁い

実をあじわい 聖なるつるを

みずから義母にえらびとる︒少年はすぐ大きくなる︒その子をさけ

 る

ノ〜

獣たち︒というのもどこかちがうのだ

人簡は︒あなたにも また父にも

似ていない︑というのも醜いいつ 人間にあっては大顎にも

父の気古岡い︑翼とあなたのよろこびが

おお大地よ! またあなたの悲しみが蒼から結ばれていたのだか

 ら︒神々の太母 馨然に

あの万物を麹くものに 人間はひとしくなろうとする§

ああ⁝ それゆえに 大地よ⁝ あなたの懐から人賜をか彗たてる

人鷺自身の傲慢さ︒あなたの贈参ものも

その心陵美ないましめも 空しい︒

さらに良きものを飽くことなくもとめる響蛮さ⁝

岸辺の香参たつ草原から

花咲かぬ海療へとでかけずにはいられぬのが大鷹なのだ︒

そして屡々の夜のように

娃が金色の果実にかがやこうとも それでも

出申に穴をほ警 たて穴からうかがうのだ

父の繁れやかな光からは遠ざか讐︒

それはしかし響の擁にたいする不実だ︒Bの神は︑下僕など愛されぬ また憂慮など曝けるというのに︒

一灘3一

(9)

第67巻第4号

暴醗

というのも森の鳥のほうがいっそう嚢譲に呼藪する たとえ

人懸の騰のほうがいかにすばらしく高鴨るにせよ︒また

暗雛未来を見ぬくものは たしか紅

死をも予見し ひたすらおそれずにはいられない︒

そこで息づくあらゆるものに銭羅をむけ

講参のうちにも永遠に不安を麹くのが人聞というものだ︒あらそい

 のなかに

身をす馨へらし そのため平穏は

愛らしい蕉は長くは咲かない︒

人聞こそ生きとし生けるもののうち

もっとも複福されたものではないか? それにもかかわらず

 激しく運命はつかむいっさいをひとしなみにしょうと

とウわけ強きものの すぐ熱くなる胸ぐらを︒ 深く

 羨んでおわか参のとお塗︑ディオティーマ詩篇とはずいぶんちがう︒

ちがいはこの詩をすかして齪念の纒式がうかがえること︑またそれに

関連して︑この詩の人聞像にある種の稚魏さの麟象がついてまわるこ

と︑そうしたところがらやってくるのだろう.少し冷たくこわばった

宮廷恋愛詩ふうの諺辞はここにはない︒ディオティ⁝マに雛界を見つ

ける繊纈な魂のふるえも︑藪独と失意の嘆きもない︒むしろこれはル

ソーふうの人聞の誕生謙である︒だがディオティ⁝マ詩篇の﹁わたし﹂

の希望や孤独の痛みとまったく無縁の人聞が登場するわけではない︒ むしろ人聞は父なる段の禅と︑母なる大地のあいだの子︑中閥の存在として位置づけられ︑それ幽え︑さらに良いものをもとめ︑講蒔に死をおそれるものとして織かれる︒ここでは﹁わたし﹂の渇望や苦痛が董登遍化され︑しかもそのよって来るところが探られているのである︒ この入閣の姿はまだ稚い︒しかしたえずもとめながら︑霧時におびえのなかにうずくまる複雑な人聞の姿を鋳のことばにとらえようとする最擁の試みだといえるだろう︒

:というのもゆいいつ 人聞にあっては大腿にも

父の気書闘い魂とあなたのよろこびが

おお大地よ⁝ またあなたの悲しみが昔から結ばれていたのだか

 ら︒神々の太母 翕然に

あの万物を捲くもの紅 天賜はひとしくなろうとする一・

ああ⁝ それ襲えに 大地よ! あなたの懐から人離をか讐たてる

人聞露身の嶽慢さ︒あなたの贈讐ものも

その優美ないましめも 空しい︒

さらに良きものを飽くことなくもとめる野蛮さ1

 人聞は大地から生まれる︒しかも父は緊の神であるため︑︒麗の気高

さにさそわれるままに大地の懐から身をふ9ほどこうとする︒だがそ

の衝動は激しいゆえに︑人購の傲慢さのあらわれでもある︒さらに良

いものを︑もっとすぐれたものを︑たえず人聞はもとめるが︑その様

       九

一欝2一

(10)

禅子:運命の歌 人鶏の歌

子は野蛮だという︒ 一行のなかで﹁さらに良きもの﹂⑫ぎ騎霧む︒段撃と

﹁野蛮人﹂良驚≦︑臨号ということばがぶっか讐︑きしみあう︒

 大腸は花咲き︑秀吟たつ葦原から︑もっとよ恥ものをもとめ︑なに

ひとつ見えね不毛にも似た大海漂へとでかけずにはいられない︒また

杜がたわわに実をつけ︑金色にかがやこうとも︑由中深く穴をほり︑そ

こにうずくまり︑じっと外をうかがうという︒一これはどういうイ

メ⁝ジだろう︒つぎの詩簸紅﹁というのも﹂とある︒人聞は霧中に穴

をほ参︑たて穴からうかがう︒﹁というのも﹂森の鳥のほうがいっそう

嚢虫に呼畷するからだ︒そうつながるのだろうか︒そうだとすれば︑ど

んな実参がもたらされようと人聞はいつでも大地にしば参つけられて

いて︑どれほど駒が高なろうと︑鳥ほども大地から解放されない︑そ

の失意の様を︑あるいはいくぶんすねた様子をいったものだろうか︒

 大地にしばられた大閤は︑大地のものの密命をも見ぬく︒地に生ま

蕊たものは︑いっかは解体しなければならないのである︒だが死を予

見するだけに人聞はそ醜にあらがう︒そして死をもたらすと思われる

すべてに︑隣郷の姿勢をとる︑﹁誇参のうちにも永遠に不安を抱﹂いて

︵ぎΦ三管警護傷彗も弓ε副霧︶︒ここでも﹁不安﹂と﹁誇箏﹂とがぶっか箏︑

きしみあっている︒深く︑激しく︑運命が入間の麹ぐらをつかむ︒

 運命とはここでは︑さきほどの詩﹃運命の女神らに﹄のように︑大

鹿存在をはなれたところで力をふるい︑人聞の生死をあやつるもので

はない︒むしろ人瞬が自分の存在条件を知り︑それを実現しようとし

た善︑またそ麗にあらがった参して︑嚢分を確立しようとすると︑ま

さにその努力や試みそのものが人間自身を露難におとしいれるとい

う︑人聞の存在そのものがもつ矛繕である︒

 人聞の﹁繰慢さ﹂を捲摘し︑人間を﹁野蛮人﹂という︑この詩には        一〇人隅のあり様にたいする撹舞がうかがえる︒嚢讐はどこまでとどいているだろうか︒ 人聞はよ拳買いものをもとめ︑その結果︑︑不毛のものしか晃旗せないというが︑それは﹁気富岡い魂﹂にかりたてられ︑はるか彼方しか§にはいらず︑まさに人離にとってふさわしく花咲いている草頭の懸鶴を認めそこなっているからだ︑というのだろうか︒﹁気書開い魂﹂にかられる鋳熱が︑あま拳に人聞の感じ方︑行動を一襲的なものにしているということだろうか︒では人聞がそのことを反省すれぱ︑大鹿の緻慢はやわらげられるだろうか︒しかしそもそも反省はどのようにして可能になるのか︒むしろくりかえし人聞は︑﹁気高い魂﹂にかりたてられ︑あま参に︸藤的に感じ︑行為し︑そのため不毛さのまえにたちすくむのではないだろうか︒ 死についても瞬じであろう︒人聞は自分を守ろうとするあま参︑いのち全捧を激にまわしてしまう︒自分もひとつのいのちだという反省は︑どのようにしたら可能となるのだろう︒ここでもくりかえし︑自分の行為のもたらす不毛さに人聞は痘慰する︒運命の過程からのがれる遊を示すまでには︑まだ鏡鞍は達していない︒むしろ﹁せざるをえない﹂人聞の姿を確認する︒人糞は香合たつ草原をはなれ︑苑咲かぬ海原にのりださざるをえない︒大鷺は死を予見し︑ひたすら死をおそ ヤ   モ   ヤ   ヤ   ヤ   やれざるをえない︒ 題名からおわかりのとおり︑この詩はカント︑フィヒテの人糞の主体性の醤学を背景にしている︒ふたりの哲学者の︑主体的な意志をもつ大腸織とは異なるものを︑この詩は織こうとしていると慰われる︒ 人間の意志︑自立心は独立してあるわけではない︑とヘルダーサン

は考える︒カント︑フィヒテの場合も︑もちろん神学が背景にあ讐︑そ

一驚至一

(11)

第67巻第蓬号

れらはまったく独立してあるわけではないのだが︑しかし根対的縫は独立したものとしてとらえられている︒人間は盤立した存在なのだ︵あるいは︑そうあるべきなのだ︶︒ヘルダー夢ンは大顎をもう一度︑関係のなかにつれもどす︒人聞の意志︑自立心と思えるものも︑じつは露の糠と大地のあいだに生まれおちた存在が︑与えられたものを実現しようとする遍程のなかで︑あらためて嚢分のものととらえかえしたものであることを示そうとする︒ 大鷺は人閥であろうとする︒入閣であろうとするとは︑父によって与えられた欲求を実聡し︑母によってさずけられた燧体を維持することである︒人潤は馨分の力を︑つま箏懇嫁し︑詩嚢し︑意欲し︑工夫し︑努力し︑実現する力を自分のなかから︑自分だけで作陰だし︑くみだすわけではな鯵︒薩の神と大地によって与えられたものを︑大鷺はわがものととらえかえすのである︒しかし大鹿は人聞であろうとすれば︑とたんに運命の遺程にまきこまれてゆく︒人聞が自分の力を︑ただおのれにのみ由来するものと思いこむことにたいする撹覇が︑ここ

にはあるだろうひそれなら人鶏がその思いこみを反省すれば︑運命の

遺程は解澄するだろうか︒この点でヘルダ!ヲンの認識は人聞を中心

にしたそのような考え方よ拳も︑もう少し根本的で︑そして悲麟的で

あるようだ︒人聞は人間であろうとすればさけがたく違命の過程にひ

きこまれて傘く︑そうヘルダ華華ンは見ているように思われる︒

 ズゼッテヘの思い︑周囲の悪者心︑敵意による痛み︑張独のなかの失

意︑等々すべてをのこ陰なくこの詩のうち紅くみあげたわけではない

が︑ともかくも︑これは一歩であった︒この詩の運命機念のなかには︑

おのれの資質にさからってでも︑自分の霞苦と不幸の淵源を︑さらに

灘分と飽の人々との関係をあらためて問いなおそうとする意欲がうか がえる︒たしかにこの詩の人聞檬は稚い︒像の背後に懸式がすけて見えて︑極言すれぼ︑この詩は敬文で書きかえても趣旨をそこねないほどだ︒だが︑いまは︑これでいいのだ︒カント︑フィヒテをくぐ塗ぬけ︑ヘルダー︾ンなむに作りあげた擾念と観A忍の図式は︑露分の資質に抵抗してでも闘いを深めようとするとき︑ぬきさしならぬよ箏どころとなっている︒ディオティーマ詩篇にたいする自己髪舞︵アンチテーゼ︶となっているのである︒生あるものの運命が完全に姿と縁をえて詩となるまでは︑つま参散文ではおきかえ不璽能のことばとなるまでは︑もうしばらく待たねばならない︒ ﹃人麗﹄という詩が書かれた少しあと︑雛母の七十二歳の誕生露を記念して︑ヘルダ⁝サンは悲歎影式のひとつの詩をささげている︒

たくさんのことを経験なさったおばあさま︒あなたはいまやすらか

  に 幸せに 遠近の心からの摸拶をうけ

老齢の銀髪に冠のようにおおわれ .﹂どもらの

 尊敬につつまれている︒その子らはあなたから膏ち 花咲き 成

  熟したのだ︒

長いいのちはあなたに柔穣な魂をもたらした

 そして毒望を︒それある聯えに苦しみのさなかにもあなたの心は

  なごやかだった︒

というのもあなたはあの母のように満ち足9 そして敬虔なのだ

  かつて

 ひとのうち最農のお方を われらの大地の友をうんだあの墾母の

      ﹈一

一鰺奪一

(12)

神子:運命の歌 人聞の歓

ように︒

 これは燈母と祖母をと彗まく人々に運解されることを欝的として書

かれた詩である︒読み手の縁が詩の表現を講醸している︒そうではあ

るが︑これはヘルダ⁝夢ンにと讐思いがけない鬱葱と反省と熟薩の

きっかけともなったと想像される︒きっかけは種子であ塗︑自分でも

気づか癒うちに心のなかで芽ぶき︑成長し︑葉と枝をひろげる︒

 この詩を讀むとヘルダー琴ンをとりまく鮭会贋のあるさけ目に気づ

かされる︒

 ヘルダ⁝リンが発想し︑工夫し︑ことばをけんめいに彫琢する︑そ

のあて名である讒者は︑こみ蒔点では彼の故郷の人々ではなかった︒そ

の読者は﹃ヒュペーリオン﹄を運解し︑叢ギサシアの意義を懸り︑現

在の状態を欠落ととらえ︑未来に新しいギ夢シア︑すなわち新しいド

イツがあらわれることを望む人々である︒

 実鰹はヘルダー夢ンはどういう屡を想定していたろうか︒領邦国家

が官濠調度を整臆して惨くにつれ︑穀たにおこった官擦︑知識人麟︑つ

ま讐官吏︑法律家︑大学教授︑学校教麟︑牧麟︑学生︑等々のうちか

な拳教養の高い人々であ聾︑また貴族のうち芸備︑宗教などに深い鰻

心をもつ人々であったろう︒それらの人々にはことばがあ轡︑そして

表現手段がある︒これはしかし入舞のうえでいえば︑当繕の人難二千

数百万人のうち︑ごくわずか︑一パーセント欺下といったところだろ

う︒ しかしこのささげる詩でヘルダー婆ンが晦きあうのは︑故郷の人々

である︒星縫には︑故郷シュヴァーベンのある意味で特権馨をなして

いた︑牧瞬や教会財管選考︑村落の酋長などの宗教的な共瞬体である︒        二⁝たしかにこの人々は農民や奉公人︑その地に箆鼓して特権的な位置をしめてはいるが︑それでもヘルダーリンが想定していたこの時代の新しい講者屡とくらべれば︑ずっと無言は深い︒様々な苦難を︑いわば無需のうちに雑えつつ︑欝繹を守ってきた人々なのである︒ことばと人簡の主捧性をささえに生きる麟ではなく︑すでに与えられたわずかな衝撃と受動性に生きてきた人々なのである︒そうヘルダ⁝弓ンは感じとった︒そのことばのとぼしさと覇える心の深さとが被をとらえた︒幼い響がいっきょによみがえる︒その衝撃が︑一瞬︑破の心をうち︑静かに波紋をひろげたのである︒

すべてをなだめ 死すべき哀れな人々とともにひつそ箏歩む

 この類まれなる方︒その精神の神々しさ︒

生けるものはなにひとつその擁から倦まれることなく

 逡の苦しみは すべて愛する騰に抱きとめられた︒

死とむつみ 人々のために

 苦痛と労苦をくぐりぬけ 勝利のなかに父のみもとに煽っていっ

  た︒あなたもその方を御存知です おばあさま一 そしてあなたも

 耐えつつ信じ ひっそりとあのすぐ蕊たお方について歩まれる︑

.こらんなさい︒こんなことばがわたしの心をこどもにかえした︒

 そしてこの目から 甚のように濃があふれる︒

 無言で醗えつつ信舞する人聞は﹁気高い魂﹂にか雛たてられ︑不毛

の大海原にでかけることもなノ\︑死をおそれ︑生あるものすべてをお

の轟の敵とすることもない︒運命の遺程そのものが︑はじまらないの

一9§一

(13)

第解巻第魂号

…点

憂縄

である.しかしそれはカント︑フィヒテの人聞の主体性の思想を知っ

たいまとなっては︑それ以繭の段踏の入閣縁である.まして詩﹃人閣﹄

はカント︑フィヒテをこえたところに︑藩たな人聞檬を措こうとする

試みである︒だからヘルダー︾ン自身︑その運命観︑人腿像に直接対

置させるつも吟でこのささげる詩を書いたわけではない︒だがそれで

は幼いころ感じとった共瞬体の宗教心はまったくの無音継妹だろうか︒

それはまだヘルダー夢ン自身わからないのだ︒だがこの詩を書くうち

にヘルダー夢ンの心のなかで︑よみがえり︑うごくものがあった︒な

にか一越︑心におち︑撮をはろうとしているのである︒

 詩﹃人糞臨と祖母にささげる蕪とは墓接幽きあっているわけではな

いが︑講者のあいだには容易にはお拳あえない亀裂がある︒人聞が人

聞であろうとすると︑さけがたく不毛と苦難に嚢面するという︑ある

意味でカント︑フィヒテをこえた運命観︑人聞像と︑無言のうちに醗

えつつ欝ずる︑カント︑フィヒテ以前の人弱の生き方とのあいだには︑

深いさけ馨がある︒このさけ目はしかし︑すでに最後まで彼の詩をた

どったものがもう一度ふりかえるとき︑彼の詩のもつ可能性のひろが

拳として見えてくる︒これがつま彗ヘルダーリンの霧難である︒

       ︵了︶ 離α鉱︒ユ営﹂キξ︵三急就oo魁四望嵩鉱毒≦︑簿︸電藁&﹂ 蝋φ︵一〇寮務︒冨寓r一9︸錘&誉軽Z霧議○蒔吟磯■讐α一毫残夢ノ等花盛機箆ごしG整葺嵩︒ぎ≦川霧πΦ葺益 参態琶○巽一箪鐘麟驚く韓︸躰騎﹂薯瞬 譲葉ンδp︸烹&﹁睡︵一丁疑出器蒙讐お餐\≒︸廃曲乳①︑一箪紀一≦三7鷺︒ぴ駕邑

︵券韓段﹂ざ糞≧σ応算︵瓢﹁菱﹂︶雲欝︒ぎご一㊦喉箕糞 叢琴︒弓○蔦幣瓢鞍霧魯一︵馨¢ひ

 N≦置9雲剛穿く︒7一瓜︵︶⇒葎盈閃窪3毎キ鴬野三﹂鷺翳む︒︷饗﹂ん︒一康四緊野鳩︒︒O−一〇︒振︑

  ︵讃餐縷についてはとく£>ぎ奪ε家賃9ざ︾鍵盗塁OO慈叶N黛⁝一︑噴霧艶艶﹄

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一98一

参照

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︵閲︶レーニン︑ユ○月革命四国 同前︑八九頁︒

九日 四八二頁。 64 青山霞村『擬古文辞 破綻一覧表』からすき社 大正一五年二月一日。 65 上田行夫「口語歌人大会と其前後」

〔 9 〕『新勅  和歌集』 (十三首) 巻第四秋歌上 七夕後朝の心をよみ侍りける 八条院高倉