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夜麦搗きの習俗と歌謡
1福島県伊達郡梁川町山舟生地区民謡採訪胴査よりー
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一︑民俗採訪と民需査
いにしえの日本人がどの様な精神生活を送っていたかに興味があるものにとって︑まるでタイムマシンを使うよう
に︑それを考えるよすがが現実として目前に存在しているとするならぱ︑それほど心強いことはない︒
文献に残された過去の記録だけでは日本人の精神生括を考えるのには偏りがあるし︑まして︑記録を残せるような階
層の人間たちの精神生活を︑それが日本人のすべてだと思い込むことにも危険性があるだろう︒日本の文化を基盤から
支えているのは︑記録に残らなかった人々の発想や感受性なのではなかったろうか︒
そのような想いが︑柳田国男を筆頭とする日本民俗学の創始者たちを動かしていたのに違いない︒
文献記録にしか残ってぃないと思われていた行出や発想が︑民間の生活習俗(民俗柳田は最初土俗と称したが)の
中に残っている︒あるいは文献では理解できなか0た内容が︑実際の︑昔ながらの生活を保0ていた山闇の民俗を見て
いるとよく分ってくる︒そんなことが度重なって︑日本の文化ヘの氾里解は市走実に深まってきたし︑それを可能にさせた
のは日本民俗学の独特の隆盛であった︒
が︑それも昭和三0年代末までであ0た︒
夜ま調きの習俗と歌謡 ,
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昭和三九年の東京オリンピックを境に︑高度成長の嵐は︑単なる経済現象
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獨飽大学教養諸学研究第二七巻(一九九三年)
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にとどまらず︑文化的な変容の枠組みをもつて首都圏から全国津々浦々ヘ吹き荒れ︑玉年ほどの間に︑日本人の
生活風景を一変させてしまった︒
普々︑よき時代に味わえた︑民俗学者の至福の瞬朋1山道を汗を拭き拭き辿0ていくと︑忘れ去られたようよ小さ
な村があ0て︑そこではまクたく昔ながらの生活感情と習俗が残されているのを発見tる︑などというお伽話すら︑今
でば持っのが不可能になるほど︑平地の民の生活も︑山村生活もすっかり変わ0てし三たのである0
生活風景︑生活様式の変化は︑当然生活習俗に纏わる精神生活の変化をもたらし︑古来の民谷は器の中に埋もれて
いくことになる︒
したがって現在の民俗採訪は︑大抵の場合そうやって殺の中に埋もれてしまった民俗生活の有美と︑その生活感青
を掘り起こすという形を取らざるをえないのである︒
筆者は民俗学が専門の学徒というわけではない︒国文学の分野で﹁ウタ﹂の表現を明らかにして行きたいと思ううち
に︑音楽学の方法も︑民俗学の方法も必要になったとVうだけに過ぎない︒民俗の中で﹁ウタ﹂がどの様なありかたを
してきたのか︑どの様な力を持ち得たのか︑それを探ってみたいと思うのである︒
この十数年来︑夏期を中心に︑徹かになりつっある民俗の中の﹁ウタ﹂(民俗歌謡という意味での民謡)の︑張を掘り
起こすことをしてきたが︑﹁ウタ﹂も矢張り生活に根差したものである限り︑民俗生活をきちんと知っている粘年寄りで
なくては︑﹁ウタ﹂の話もできにくくなっている︒
具体的な年齢屡から言えぱ︑現在で七十代後半以上の幾村生活人でなけれぱ︑一人前の大人になってから︑村の生活
に必要な数々の民俗を主体的に手に入れることができなか0たのである︒それ以下の世代だと︑青年団活動にょる生活
改善運動や︑戦中戦後の混乱︑また高度成長期の主たる担い手として︑民俗生活を失う方向につき進んだ世代であるか
ら︑はかぱかしい聞き取りもできなくなってきている︒
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様な例として︑昭和七年生まれの田植え唄(むろん実際に田植えをする時に歌った唄である)の名人阿部清三氏に︑
平成元年岩手県江刺市梁川地区で出会0たことがある︒
この方は︑家が貧しかったため︑小三頃から︑田植えの手問取り(田柚えの手伝いを賃仕事としてtること︒隣近
所の共同作業であるユイとは違う形態の労働)をLて稼がなければならなか0た︒手間取りを頼まれる条件は︑仕*(植
える手)の早さと︑上手に田植え唄を歌うことであ0たので︑子供の頃から一所懸命田植え唄を練習したのだそうであ
る︒
昭和二十年代の︑まだ機械が田圃に入る前の頃︑昔ながらの田植えの風景の中で︑十代半ぱの彼は︑手間を稼ぐため
に二十才も三十才も年上の大人に伍して働かなくてはならず︑また︑硫かにそのように働いたのであった︒そしてその
時培った彼の喉は︑四十年経ってもその時の田植え唄を忘れてはいなか0たのである︒
彼の世代は普通︑一人前の働き手とLて扱われる上うになった頃は︑田風に機械が入ってきていた︒結婚して一{永を
構え︑田植えの労働を共同作業の中でりードして行く年頃には︑もう︑手植えにょる田植えの作業そのものが︑ほとん
どなくなっていたのである︒
現在でもしぶとく残0ている民俗は︑多くは︑祭や芸能にかかわるものが中心となっていて︑個人の生活の中では簡
単に消えて行ってしまうものが︑共同体を確認する精神的な紐帯として︑多大な努力を払って雑持されていることが多 ︑ノ
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田植え唄のような︑労働に纏わる民俗と固有に結びついたウタは︑労働の形態そのものが変わ0てしまえば︑民俗と
して残る理由を失ってしまう︒日本の農山村の労働の形が急速に変わった現在では︑この様な労働に纏わるウタも七十
代後半以上の世代の人々の需の中からでないと︑浮び上がらせることはできなくなってしまった︒
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夜愛掲きの習俗と歌話
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獨協大学教撲諸学研究第一一七巻(一九九三年)
一一︑本稿の調査の対象と概要
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︑︑ 平成三年夏︑福傑中通の北端に当たる︑旧伊逹郡に属した梁川町と︑隣接する宮城県伊具郡丸森町で民謡調査を中心とする民俗採訪剥査を行なった︒阿武隈山系の北端福島市内を中心とする中通りと︑浜通りの相馬地方を結ぶ山間地である︒梁川町全域の荊査を試みたが︑
やはり福島市に連なる平野部に開
けた梁川町市街周辺では︑生活の
都市化が進み︑民俗に根差したウ
夕のありかたがどぅであったの
か︑調査をすることは難しか 0
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が︑梁川町でも︑隣の丸森町との境界近くの山問部では︑お年寄
りの話の中から貴重な調査結果を
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1 q '﹂ー W︑︑ /得ることができた︒その中でも特に本穂では︑山舟生地区
に霜ける鯛査で得られた︑往時の労働と離れがたく結びつ
?いていたウタ(いわゆる労作民謡)の一例として︑﹁麦掲き
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唄﹂と﹁夜麦搗き﹂の習俗とのかかわりについて報告し︑民緊唄われることの意襲について改めて考えてみたい︒
梁川町周辺は東北地方でも随一の淡(大麦)の生産地で
ある︒現在でもそうであるが︑以前はもっと作付け面積が
多かったそうである︒水田の耕作面積が比較的少ないの
と︑収量が低いのとで︑どぅしても主食の一つとして︑麦
を栽培しなくてはならなかった︒山舟生地区では米四麦六
の麦鈑奪通の農家の普段の主食であったとVう︒従っ
て︑米よりは手朋の掛かる麦の脱殻は︑重要でかつ労働量
を要する作業であった︒
夜麦搗きというのは︑夏︑収穫を終えた麦(粒食用の大
麦である)の実を︑麦打ちをして穂から落とし︑のぎを取
つた後︑さらに麦粒の固い外皮を臼でついて知く作業であ
.昆る︒これは粗搗きの段階で︑男手を必要とし︑八月いっぱ
Vビろまでは︑昼澗の什亭を終えた男たちにょって︑その
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名のと粘り夜行なわれる作業である︒粗搗きを終えた麦は殻入れに入れられて貯蔵され︑その都度食ベる量に応じて
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地図1 福島県伊達郡梁川町山舟生地区の位置/
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獨協大学教聾諸学研究第二七巻(一九九三年)プノ仕上げづきがなされるのである︒
この︑夜行なわれる粗搗きの際にウタが唄われた︒麦搗き唄である︒それだけではなんの変哲もよ︑労作民謡よので
あるが︑夜麦搗きという作業と︑麦搗き唄というウタとの間に大変面白いかかわりが存在したのである0単純に労作民,言っては﹁麦搗き唄﹂のウタとしての表現は分らなくなるのであ0た0
民謡研究の第一人者であった故浅野健二氏は﹃日本需・芸能の周辺﹄のなかで︑東ヒ民謡の項にお︑て扶の美に記
された︒
また米につぃて盛んな麦作は︑その八割が阿武隈台地から生産されると言われるように︑福.俄浜通りの嘔馬地
方には美しい陰旋調の﹁麦搗き唄﹂がある︒
麦も搗けたし寝︑ころもきたしうちの親たちゃア佐んとに寝ろ寝ろと
毎年夏が来ると︑麦打ちの処理が終わった後夜業仕事に若い男女が夜麦搗きをする0 庭に幾っもの臼七並ヘ︑
一っの臼に二人ずつ横杵(昔は手杵)で向かい合って掲くのである0
確かに類似の麦搗き唄は︑相馬市周辺のみではなく︑宮城県南部︑そしてこの梁川町周辺にも分布して︑るこミ︑
既に﹃日本民謡大観﹄や﹃東北民霊﹄'福島県民謡緊翁査報告﹄﹃宮援儒豐剥査報告﹄よどで報告されて︑る0
また︑習俗としての梁川町山舟生の夜麦搗きについては︑既に昭和五四年十月に成城大学民谷学研究会によって︑﹃冥
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島県伊達郡梁川町山舟生日面民倫査報告書﹄のⅥ人生儀礼二婚姻の項で数の様に報告されて︑る0麦つき.米っき夏の夕方には︑娘や婦人達が麦っきをし︑冬には米っきに集まった0 葱沼と日面は円々に中町
の家を交代でまわる︒麦は一ウスに二人でかかり︑カタヅキ︑ナカヅキ︑シアゲと三回つく0 米は一ウスで弌工
つけた︒娘達が麦つきや米っきをしている所に若い衆が五︑六人で夜遊ぴにくる0麦っきうこは次のようなしの︑
あつた︒
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きねの枕にうすのかげ麦ついて助らぱ片肌脱いでおらも助らぱ丸はだか
もつけたL寝ごろもきたしうちの完見憲ξあねろねろと
の底頁が見たさに 1隹か来たような煽一キ艮の外鳴いた金令虫^日を止めた
以上の記述・報告では窺えなかった点について︑今回幾つかの新知見が得られ︑また︑音楽的にも興味深い事例を見
ることができたので︑線告し考察を加える︒ ︑︑︑ナ
三調査実績稜麦搗きに関わる分)
◎調査日程
平成三年八月二十七t三十日◎採訪地
福島県伊逹郡梁川町山舟生地区
◎追稠査日
平成三年十一月四制︑十二月一日
◎調査者
飯島一彦︑飯島みほ︑伊藤健中井彩
◎本稿に関わる伝承者一覧
斎藤ヨシイ女(明治三十五年四月笂日生)
斎藤ヨリ女(明治三十八年工月王日生)
佐藤嘉助男(明治三十六年七月十二日生)
夜変掲きの習俗と歌謡 J゛︑ノ 0
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字日面在住
字除石在住
0坊.清水. R面・除石地区でかつて行なわれていた夜麦搗きの習俗
(斎藤ヨリ氏︑佐藤喜助氏の話から)
麦の収穫ば六月いっぱいで終わらせた︒そうして麦打ちを行ない︑誓る状態にした0 八月︑クぱ︑頃までの二箇
間は夜麦搗きを行な0ていた︒麦搗きの作業は荒搗き1搗いた麦を千t1唐箕にかける1仕上げ島きと︑う手順で行よ
われるが︑夜麦搗きはこの中の荒麦搗きの作業のことである︒だが︑坊・清水部落では︑荒麦島きは男ミ朝早くや天一︑
の悪い時などに搗いた︒というのも麦の外皮は硬く︑男の力でなけれぱ搗けなかったからである0 そうして仕上げ島き
は女衆が行ない︑{永族のものだけで麦掲きは済んだ︒仕上げ搗きは食︑へる分だけを島いたので女衆だけで島けこ0
一方︑日面.除石部落は豊かな家が多く︑麦の収穫量も多か 0たために︑女衆は各家を行っこり来こりして手伝0
た︒またその家に手間取りに来ているものも夜麦搗きを手伝0た︒そこヘ他の部落からも若︑男犬ミ女遊び工てら︑娘
に会うために手伝いに来ていた︒夜麦搗きをいつ行なうかについてはその家の主人が息子や良と冒談し︑他の家と重よ
ることの無いようにしていた︒そして家族から他の若い衆ヘと情報が流れ︑夜麦搗きが行なわれる0 夜愛島きを行よう
家では臼と杵だけ用意しておき︑その他は一切構わなか0た0
場所は︑月の明るい晩などは︑外の庭で︑暗い晩は﹁からもの屋﹂(物置小屋)で行な0た0 むしろを女︑て臼を幾っ
か 9‑ーさ並︑へて置き︑杵は横杵(ヨリ氏は手杵)で搗いた︒集る人数は十人前後であった0
夜飯が終わってから集り始め︑用意された麦が搗き終わるまで行なわれ︑大体十時頃までかかった0 格好は'段と変
わらない︒むしろの上には履き物を脱いで上がり︑男女が向い合って﹁柵搗き﹂をし︑話などしな工ら島︑こ0 あぶ 獨諭大学教養諸学研究錦二七巻(一九九三年)
八巻ミッイ女(明治三十八年生)
幕田忠男(昭和五年九月二日生)
<ナ会1ー'堤空}ーー'.1曾々︑ーー琵1望婆1WW為烹^ー"ー︑1t゛'ー, 4:︑典々矧き︑ーーーミ^ーー,^1恵安︑^団︑凡N1.︑ 1壽
てしまった者たちは︑周りで座って交代するのを待っていた︒興が乗ってくると歌が出始め︑勉の臼のものたちや待っ
ているものたちも一緒になうて歌った︒唄を歌うことで搗く調子を合わせたり︑作業の単調さを紛らわせたりするとい
うことよりも︑目の前の相手と楽しむためという意味合V︑が強か 0た︒
唄は男と女に関するものが多く歌われたが︑即興で歌を作ったりナることはなか0た︒たとえぱとのような歌が歌わ
L ブヒ︒
は1 俺とゆかねか裏山にあけぴとりさゆかねえか
高い山から谷底見れぱ赤いたすきの女が見える
島田娘と夏吹く風をそよと入れたい蚊帳のなか
島田娘と垣根の芋は掘られながらも絡みつく
娘十六七はしてもしたがる針仕事今朝もしてきた寺参り
向い小山の崖のつっじおよびなけれぱ見て暮らす
へのと鉄砲にして笹籔こげぱししもむじなも皆逃げる
へのこの皮下駄の緒にナればいくら履いて︑脱いでも切れやせぬ
べっちょの皮袖口にすればいくら抜いても挿しても切れやせぬ
(以上︑斎藤喜助氏)
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麦を搗くなら男と搗きゃれ男ちからで麦の皮剥ける(以上︑斎藤ヨリ氏)
一緒に麦を搗くうちに︑仲の良くなる男女もいて︑手拭いを交換する人たちもいた︒
はなかったが︑目と目で通じ合った︒夜麦拙きが終わってからは︑若し︑娘と残ったり︑
夜麦掲きの習俗と歌謡
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七ー, 4 ーイミ︑︑ιミョ亭
口説きの決め手となるような唄1差つて千テ0 たりしたものたちも
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獨協火学教養諸学研究鋳二七巻(一九九三年)‑0二
おり︑来る時は何人か連れ立0 て来たのが︑返りはバラバラ倫った︒親たちも︑支麦島きに陶しては大目に見て︑
た︒それが縁にな0 て結婚する男女もいた︒ただ︑普通の結婚の形式をとって結昏tるので︑周りには圭︑ら本人ミ
言って分かった︒
0岡.大小・日面・除石地区でかつて行なわれていた夜麦搗きの習俗
(斎藤ヨシイ氏の話から)
麦は七月十日頃までには刈り取りを終え︑麦打ちをしておいた︒そうして麦を掲ける状態にしておき︑﹁設入れ﹂に入
れて船いた︒霊過ぎから夜麦搗きを始め︑十月の始め頃まで行なった︒
夜麦搗きは男も女も掲き︑ユイをして歩いた︒その場ヘただの手伝いで来るものはほとんどいなか0た0 一晩に一
臼金斗臼)毎晩搗いてぃた︒搗くときには男と女が相搗きし︑横杵(昔は手杵)で搗いた0 話をしたり︑皆で唄を唄
つたりしながら搗いた︒唄は作業の単詔さを誘らわすために歌った︒歌われていた唄は
搗いて助られてただ帰されぬアードカンドカン杵を枕でほんとに臼のかげハードカンドカン
麦も拙けたし寝頃も来たし寝頃も来たしうちのぱっぱや孫寝ろ寝ろと
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ーー'麦を搗くなら七から八から三から四からはほんとに誰も搗くJ '︑ 6一方︑日面.除石は家柄が揃ってぃたので︑たくさん麦を搗いていた︒そこへは若い男が夜遊びがてら遠くからも行
うてぃた︒中には見染めた人を目当てに通0た人もいた︒夜麦掲きが緑で結婚した人たちもあった0
四夜麦搗きという場の差異と麦搗き歌の表現
如上の採胎査の結果から︑地区によ0て夜麦搗きの形態に差異が島ったことが分かる︒棒.架也区では家族で麦
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きを済ませていた︒岡.大小ではユイ(隣近所の共同作業︑労働力の貸し借りをするJ で麦搗きを行なっていた0 日面.除石では︑{永族以外のもの︑手聞取りに来ているものや他の部落から若い男たちがや0てきて一緒に夜麦島きを行な0 ていた︒
この違いは︑第一に地区にょって生じる経済的規模の差によるものと考えられる︒日面︑除石では比較的豊かな家が
多かうたようである︒伝承者の表現では︑﹁家柄が揃っていた﹂となっているが.︑この地区は︑宮城県丸森町に抜ける街
道沿いでもあり︑傾斜地が多いが︑開けた地勢とな0ている︒手問取りという労働力を常時必要とした地区は周辺では
この地区だけだったようで︑麦の収穫量も多か 0た︒当然麦搗きをする労働力も多大に必要になるわけである0 他の部
落からさえ若者がやってきて︑手間の掛かる寄を手問賃なしでやってくれる七なれば︑それに越したことはあるま
︑ 0
それに比して︑他の地区ではよそから手伝いに来てもらう必要がなかったのである︒一{永族︑もしくは隣近所でユ1r
イをするだけで人手は問に合ウたのだ︒
経済的規椣の差にょってもたらされる作業形態の差異は︑作業の性格の違いをももたらしている0
日面.除石では︑夜麦搗きが行なわれる家の親たちは準備だけをしておき︑後は一切構うことがなか 0た0 つまり︑
親たちには︑庭で行なわれる夜麦搗きの様子は分からなかったわけであるが︑このことは︑夜麦搗きの場で男女が出会
うことを認知し区たことになるだろう︒また︑他の部落からも夜麦搗きの場に若者が出かけ︑実際に夜麦掲きが縁で
結婚した男女もいたということは︑山舟生において︑夜麦搗きが男女の出会いの場として社会的に認知を保ていたとい
うことにもなろう︒経営規模の大きな幾家の主人にとっては︑手間賃を出さ十に麦搗きをしてもらえるという対費用効
果もめったわけだが︑実際に夜麦搗きの場に参加するものたちにと0ての意味は︑作業の形態をとりながら︑農村生活
には数少なかった男女の出会いの場︑楽しみの場であったのだ︒
一力︑他の地区では夜麦搗きは純粋に儲作業としての性格しか持ち得ていない︒一{永族あるいば︑
夜変拙きの習俗と歌謡
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獨協大学教養諸学研究鋪#七巻(一九九三年︺‑0四
料を確保するための労働の一嚇としての夜麦搗きだったのである︒
このように︑一見同じ様な夜麦搗きという作業でありながら︑山舟生には異な0た性格の二種の夜搗麦きが存在して
ということになる︒額14無できた麦搗き唄の歌詞はどれもさほど特,雅女的なものではないが︑あからさまに男女の関わ
リ︑あるいはあけっぴろげに性交を思い起させて(いわゆるバレ唄の表現)︑男女が(主に男性だが)互いに誘い合う表
現となっていると考えざるを得ない
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それに対して︑単に労働作業としての意味しか持ち得ない場での麦摘き唄は︑たとえ同じ様なバレ唄の表現であ0て
も︑表現上は作業唄の性格しか持ち得ない︒伝承者の言葉にも﹁唄は作業の単調さを紛らわせるために歌った︒﹂とあっ
た︒ここではバレ歌の表現は︑昼聞の労働に疲れた上での夜の重労働を︑少しでも楽しい場にし︑眠気を覚ますための
夜業唄の意味しかない︒
後に示すように︑この二っの違った籍を持っ揚で歌われた麦搗き唄は︑麦搗きという作業にあ0たテンポで唄われ
る︒その点では二っの場になんら違いはない︒麦搗きという作業の様態︑歌われる唄と作業との見掛け上の密接な結び
つきは︑これら二っの場で歌われる麦搗き歌の表現になんら積極的な弁別をもたらすものではないのである︒
しかし︑作業に参加するものの意識の違いにょり︑見掛け上は同様の作業であろうとも︑そして︑同様の唄が歌われ
ようとも︑各々で歌われていた唄の性格︑表現上の意図は明らかに違ったものとな0ている︒
男女の出会いの場として機能していた日面・除石地区の夜麦掲きの場で唄われた麦搗き唄は︑一見作業唄の様に見え
ながら︑実際は男女が互いに情を交わすための表現として機能していたことになろう︒
それに対して坊・清水・岡・大小の各地区では︑麦搗き唄は純粋に作業唄として機能していたということになる︒
伺じウタが︑表面上同じ表現を持ちながら︑場の差異にょって︑まったく違う機能を果たナ︑つまり︑まったく違う
表現意図を付与されるという点についての好例がここに存在した︒
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俗に見られる麦搗き唄の果たしている機能の違いは︑その理解を不可能にする事例に見る︒しかし︑このような例は︑
歌謡にとっては纓々起こることであって︑特殊には属さない︒
なぜ歌謡には︑場の制約にょ0て︑表現意図が後天的に付与されるという構造が存在tるかは︑大きな命題である︒
ここでは︑本調査にょって得られた事例のみについて誇察するならぱ︑麦搗き唄が夜麦搗きという揚の違いにょって︑
二っの別の機能をそれぞれの場で発揮する理由は︑以下の様に考えられる︒
需は本来的には問い掛けの性質を必十持って表現される︒なぜなら︑歌謡は語・音楽の両面にわた0て︑共同性
の堅周な枠組みの中で表現される非日常的な表現だからである︒これは別の面から一冨えば︑現にそこに居て︑そのウタ
を非日常的なものとして受け止めるものが必ず必要となる︑ということでもある︒かつては決して不特定多数をあらか
じめ予測してなされる表現ではなか 0た︑ということだ︒
特定の少数︑もしくは多数が聞き手として保証される時︑初めて︑歌謡は聞き手に対して歌われることになる︒なぜ
なら︑歌謡は自分に対してのみ︑もしくはそこにいない誰かに対してのみ歌われるということはあり得なかったから
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問い掛ける行為に粘いて重要な位置を占めたのが︑やはり男女の問い掛けであったろう︒そして作業の仲問に対して︑
さらには神に対しての問い掛けである︒
作業としての夜麦搗きでバレ唄が歌われるのは︑もちろん適接的には作業の仲間に呼びかけて眠気を誓すためであ
るが︑そこには豊秘ヘの期待もあるだろう︒性的な期待感を込めた歌謡表現は︑田植え唄と同様な意味を持0ていたと
言えると思う︒
それに対して︑男女の出会いの場としての夜麦搗きで歌われる麦搗き歌では︑呼び掛けそのものが直接的な男女関係
‑0工夜変掲きの習俗と歌謡
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コi獨協火学教挫諸学研究第二七巻(一九九三年)‑0六
を示唆tる行為であって︑バレ唄の表現もその場の雰囲気を高め︑結果的にば多産と豊秘を約束ずるものとなったに違
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礼的女長持ち歌などを聞くことができた︒
ところが幕田氏は実際の麦搗きの作業は行なったことがなく︑ごく幼い頃に見たことがある程度だという︒それも道
理で︑この地区ではすでに昭和の初期には精麦の機械が現われ︑夜麦搗きの労働は︑従って男女の出会いの場としての
夜麦搗きの習俗も︑急速に廃れてしまったからである︒
幕田氏は麦搗き歌を祖父や父親が宴席などで歌うのを開いて覚えたものだと言う︒その声は哀剥を帯びて︑民誤手
などからは閣けない︑いかにも在地の民謡であクた︒
この幕田氏の麦拙き歌は︑山舟生のものに間違いないのだが︑斎藤ヨシイ氏に歌っていただいたものと較ベると︑四
つの点で大きな違いを認めることができる︒(楽製照)
第一に︑テンポの違いである︒実際に夜麦搗きを経験した斎藤氏の歌のテンポは︑相搗きをして互いに杵を振り下ろ
す︑実際の作業の早いテンボとしてま0たく無理がない︒これは横杵でも縦杵でも同じである︒粗麦搗きに用いる縦杵
は非常に太く重いものであ0た︒それに対して幕田氏の歌はゆっくりで︑いかにも実際の作業を陛れた感がある︒
第二に︑テンポが遅いゆえであろう︑幕田氏のものは所々に民謡歌手ほどではないにしても小節らしい節回しが付け
られている︒旋律も装飾的な付点音が多用されて鷲り︑実際の作業には不適当であろう︒斎藤氏の歌い方はぶっきらぽ
うで︑単純である︒
第三に︑嚇し言葉の違いである︒実際には唯し言葉とは言えないのだが︑斎藤氏の歌には﹁ハードカンドカン﹂とい
う言葉が入っている︒これは実際の麦搗きをしているつもりで︑杵を振り下ろした音を擬音的に表現して下さっていた
のである︒これに対して幕田氏の歌では同じ部分の雌し一言葉として﹁ハードッドド︑ドッドド﹂という音が入ってい
る︒嚇L号豆柴でさえ実際の作業を忘れてしまったと言うべきであるが︑他の民謡の影響も考えられるだろう︒あるいは︑
嚇し言葉の発生を老えるのにはいい材料となるだろうか︒
夜麦掲きの習俗と厭謡
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いないのである︒一一
ケ 五音楽的側面歌荊表現としての︑
夜麦搗きの場に朽ける
淡搗き唄の機能の差に
ついての考察は以上だ
音楽的側面につい
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てはまた別の知見を得
ることができた︒ここ
で簡単に報告する︒
除石地区で採訪調査
を行なっている時に︑
幕田忠氏に︑麦曾唄
を歌0 ていただくこと
ができた︒幕田氏は地
元の民謡に詳しく︑他
に結婚の習俗に伴う儀
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獨協大学数養諾学研究第二七巻(一九九三午)‑0八
第四に︑音階の違いを指摘できる︒斎藤氏の歌は︑典型的な陽旋法令わゆるヨナ抜き音階)であるのに対して︑幕
田氏のものは典型的な陰旋法である︒但し︑最後の部分に装飾的な陽旋法の旋律ヘの転沸を行な0ている︒陽旋法から
陰旋法ヘの変化は︑民栗ら芸謡ヘの変化に伴う音楽的変化として古くから諄られている特徴である︒現代では陽旋
法・陰旋法という言い方は︑ヨ本の音階論としては不適当とされているが︑この事例は余りにも典型的なのであえて使
用した次第である︒
以上の諸点を眺める限り︑斎藤氏の麦搗き歌と幕田氏のそれとは︑麦掲きの実際の作業が行なわれていたか否かにょ
る民謡の変化が起こった事例として︑典型的なものと見ることができる︒報告されている周囲の麦搗き歌を見ても︑前
記四点の変化を除く部分でばこれほど一致するものはないから︑山舟生における麦搗き歌の変化と見て間違いがないも
のと思われる︒
その点では︑第二節に引いた浅野健次氏の言う麦搗き歌は︑実際の麦拙きの作業から酷れた段階のものである可能性
が^局い七^弓えるのではないだろうか︒
最後に︑採訪羽査に協力Lていただいた山舟生の伝承者の方々に深く感謝の意を表し︑本箱を終わることとする︒
︻註︼
(1)この点については﹁ウタの自立1梁塵秘抄第四五七番歌から1﹂(﹃梁塵﹄第十一号︑平成四年十二月)に浦いて詳細に論じた︒
※第三節及ぴ第四節の前半は︑調査に同行した現在本学経済学部四年の伊藤健君の手になるものを改稿したも
のである︒調査の手配やテープ起こしの労をとってくれた伊藤君の協力︑伺じく採訪調査に同行し︑記録.
聞き取り等について協力を得た本学外国語学部三年の中井彩さん︑およぴ荊妻み抵に深く感謝する︒ イ﹂ノ︑︑︺︑)︑︑︑