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戦後日本の平和運動の歴史についてみれば︑戦後の一九四九年頃から︑国際的な平和運動の盛り上りの日本への影
響もあって︑具体的な形としての平和運動は開始されたが︑やがて日本独自の課題に直面し︵ビキニ水爆実験による
︵●且︶
被災︶︑広大かつ独自の展開をとげる︵原水爆禁止運動︶が︑その特殊日本的な歴史的制約︵これは︑戦後日本の革
新陣営の負う歴史的制約Ⅱ欠陥と決して無関係ではあり得ないし︑それはそれでまた︑恐らく戦前日本の革新勢力︑
その中心部隊としての戦前日本の社会主義運動の在り方にかかわる︶と︑平和運動外の革新陣営内部のイデオロギー
的対立の影響とによる分裂︵ここには︑すでにのちの﹁中・ソ論争﹂のテーマがあらわれていたことは重要である︶
︵⑤&︶
をおこした︒そして︑﹁中・ソ論争﹂ないし﹁中・ソ対立﹂は︑そのような平和運動の分裂状況を︑論理的にも︑実
践的にもリギッドなものとする一要因たることはまぬがれないであろう︒このような意味で︑﹁中・ソ論争﹂は︑た
しかに︑戦後日本の平和運動の歴史を探る場合︑その分析視点にかかわる重要な内容を豊富にふくんでいることは︑
ここにあらためて指摘するまでもない︒
しかし︑さきに指摘したように︑﹁中・ソ論争﹂開始期におけるその象徴的な状況は︑戦後平和運動史の分析視点を
据える作業が︑少くとも︑レーニンにおける戦争と平和の理論の追究からはぐめられるべきことを示し︑それはとり
もなおさず︑第二次世界大戦後の平和運動が︑二つの大戦間の時期に︑さらにさかのぼって︑第一次世界大戦の時期
にいたることを意味する以上当然のことであろう︒つまり︑問題は︑第一次世界大戦期のレー一ンによって設定され
た戦争と平和の理論が︑コミンテルン︑コミンフォルム︑スターリン批判を経て︑﹁中・ソ論争﹂にいたる期間に︑ど しも︑われわ聖 を示している︒ このような事態は︑第一に︑戦後の革新陣営にとって︑戦争と平和の問題が大きな課題となっていることを示すと
ともに︑戦争と平和の問題は︑かれらにとって︑いわばアキレスの健となっていることを意味しており︑第二に︑も
しも︑われわれが︑このアキレスの健に近ずこうとすれば︑少くともレーニンの時期から再検討されねばならぬこと
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のような運命をたどったのか︑を明らかにするにある︒
いうまでもなく︑平和運動は︑諸他の大衆運動︵労働運動︑婦人︑青年運動︑教育運勤等々︶と同じく︑階級闘争
とは異る独自の歴史ならびに組織論︑そしてそれらを規定する内在的な論理をもっている︒しかし︑だからといっ
て︑大衆運動を階級闘争から完全に隔離してしまうことが誤りであるのは︑階級闘争をふくめた反体制諸運動の一部
としてこれらをあつかうのが誤りであるのと同様であろう︒とくに︑平和運動が︑その大衆運動としての独自の組織
ならびに運動の形態をもちつつも︑それが対決するのは︵簡易化していえば︶戦争という︑まさに政治現象そのもの
重要なことは︑このような平和運動のもつ固有な性格を明らかにするためにも︑平和運動と階級闘争との関係︑す
なわち平和の論理と革命の論理との歴史的な存在形態︵関連と差別︶が明らかにされねばならないであろう︒
本稿は︑以上のような問題意識にたいする何らかの材料を探り出すための覚書なのであり︑それ以上のものではな
い0
普通︑第一次世界大戦におけるレーニンとボリシェビキの戦争にたいする方針は︑﹁帝国主義戦争を内乱︵戦︶へ
7.﹂というスローガンに集約され︑その内容は︑﹁資本家階級の階級支配の打倒を早める⁝⁝ために︑戦争の結果生
じた経済的および政治的危機を利用する﹂ことであり︑それはまたその論理的必然として︑愛国︑祖国擁護に対立し
て﹁自国政府の敗北﹂をめざすものと要約される︒このような要約は︑それ自体︑決してまちがいではないし︑レー
ニン主義の戦争論を簡結に指摘するかぎりにおいて正しい︒しかし︑性々にして辞典的な簡結さは︑そのあまりにも である以上︑当然であろう︒
丁1レーニソ
㈹革命の論理と平和の論理
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レーニン主義の戦争論を革命←内乱←敗北主義というふうに要約するのではなしに︑レーニン主義の革命の論理に
おける平和の論理の存在形態を見出すこと︑それが本節の課題であり︑その点に限定する︒
周知のように︑一九一四年八月に開始された第一次世界大戦は︑戦争勃発に先立つ一九○七年八月一八日のシュトゥ
ットガルトおよび一九一二年二月のバーゼルにおける社会主義インターナショナル︵いわゆる﹁第二インターナシ
ョナル﹂︶の大会が定めた戦争にたいする社会主義者の方針の実践が︑現実の戦争勃発という事実に直面して︑実際
にはいかに困難なものであるかを示し︑それは同時に︑第二インターナショナルそのもののかなえの軽重を問われる
ものとなった︒いうまでもなく︑このインターナショナルの崩壊の核心は︑第二インターの大多数の支部が︑戦争勃
発とともに︑﹁祖国擁護﹂の方針をとり︑具体的には︑﹁軍事予算﹂参成という行動に出たことにあった︒
レーニンが第二インターの﹁祖国擁護﹂に対置したスローガンは﹁自国政府の敗北﹂であり︑それは﹁帝国主義戦
争を内乱へ﹂というスローガンの論理的帰結であった︒しかも︑レーニンにあっては︑これらのスローガンは﹁祖国
擁護﹂派もその作製に参加したバーゼル宣言の現実の適用だったのであり︑レーニンからすれば︑祖国擁護派こそは︑
バーゼル宣言をみずから反古にした自己欺臓者なのであった︒ここから︑レーニンは大戦勃発とともに︑祖国擁護派
の理論的根拠を批判することによって︑自己の戦争にたいする方針を︑一九一四年以後の状況のもとで︑形成してい 簡結さの故に︑有機的な全容を犠牲にしてしまう危険がある︒
第二次世界大戦後︑日本をふくめた全世界的規模で展開した大衆的反戦平和の運動を経験しつつある現在︑たと
え︑第一次大戦前と大戦中における大衆的平和運動が︑革命運動の側からみて︑その戦線の中に意識的に採りいれる
ほどの独自の力を量的にも︑質的にももっていなかったという︑いわば歴史的な制約ないし限界を理由に︑革命運動
が︑大衆の反戦平和の意志を︑自己の﹁革命の論理﹂のどの部分にも採りいれなかったと考えることは︑軽率に過ぎ が︑大衆の反戦平和︵
るのではなるまいか︒
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った︒したがって︑レーニンの対戦争方針を解明する鍵は︑なによりもまず︑シュトゥットガルト︑バーゼル両宣言
にもとめられねばならないであろうし︑これら両宣言を貫く論理を明らかにすることからはじめねばならない︒
ところで︑まずシュトゥットガルト宣言のなされた第一次ロシア革命直後の一九○七年の時期におけるレーニンの
戦争方針を見ることにする︒シュトゥットガルトの反戦宣言が出来上るについては︑ローザ・ルクセングルグとレー
ニンのひきいるロシア社会民主党代表団が大きな役割を果した︒かれらはベーベルの草案にたいして︑以下の三点の
修正を行い︑とくに第三の修正点こそは︑その後のバーゼル宣言を経過して︑レーニン主義の戦争方針の核心となっ
たものであった︒その内容は︑㈲軍国主義は階級的抑圧の主要な道具である︒㈲青年のあいだにおける反軍国主義煽
動を行うべきこと︒国戦争の発生に反対して闘う︑あるいはすでにはじまった戦争をできるだけはやく阻止させるた
︵句︒︶
めに闘うばかりでなく︑戦争によって生じた危機を︑ブルジョアジーの崩壊をはやめるために利用する︑以上の三点
︵〃詮︶ブ︵句﹂0
第三の修正点は︑フランスのアナーキスト︑エルベの軍国主義反対のストライキと蜂起戦術にたいする批判の中で さらに深められた︒すなわち︑第一に︑﹁戦争にこたえる﹂可能性は︑戦争がひきおこした﹁経済上ならびに政治上 の危機の性格によってきまる﹂し︑﹁闘争手段の選択﹂は︑﹁階級闘争の激化と政治情勢の変化﹂によってきまる︒ 第二に︑闘争は︑﹁戦争を平和によっておきかえるだけでなく︑資本主義を社会主義によっておきかえることにあ
ここで重要なことに︑社会主義者にとって︑たとえ戦争下にあっても︑社会変革をめざすべきであるが︑同時に﹁
戦争にこたえる﹂反戦闘争の形態は︑戦争のひきおこした﹁危機﹂の性格によって現定され得る多様なものであるべ
きことを指摘した点にあった︒シュトゥットガルト宣言の約二カ月後の一九○七年一○月に︑レーニンが書いたよう
に︑反戦闘争のさいには︑﹁あらゆる闘争手段をみとめ︑ロシア革命の教訓をいれ︑運動の積極面︑創造的な側面を であった︒
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︵Q︾︶
シとイギリスⅡフランス叩Ⅱロシアという交戦列強の両グループの﹃侵略政策﹄を基盤とする﹂ものであり︑すでにバ
ーゼル決議がのべたように︑この戦争では﹁どんなものであれ︑国民的利益をいささかでも口実にして是認すること
はできる﹂いということは︑レーニンにとっては︑いわば大前提であった︒
それでは︑このような前提に立って︑社会主義者は︑すでに開始され︑進展しつつある戦争にいかに対処すべきな
ここで︑われわれは︑レーニンのシュトゥットガルト宣言へのアプローチを想起しなければならない︒すでにみて
きたように︑一九○七年当時︑レー一ンは︑社会主義者の基本的態度が︑なによりもまず︑社会変革にあることを明
白にしたが︑戦争中も︑かれは︑たとえば︑﹁強力な革命運動がこの戦争の直後に︑あるいは革命中に︑あるいはそ ︲︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ の他のときに発展するかどうかを知ることはできないが︑いずれにしても︑この方向での活動だけが︑社会主義的活
︵畑︶
動の名に値するのである﹂︵傍点前田︶と書いた︒またかれはつぎのようにも書いている︒﹁革命的社会民主主義派
の任務は︑革命が急テンポで発展する場合にも︑危機が長びくばあいにも︑長期にわたる日常活動を放棄せず︑ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
︵u︶階級闘争のこれまでの方法をどれ一つ軽視しないことである﹂︵傍点前田︶
ルカーチも指摘したように︑レー一ンにあっては︑﹁情勢の核心は︑ブルジョアジーとプロレタリァードとのあい
︵狸︶
だの階級関係にある﹂のであり︑レーニンがたびたび引用したクラウゼビッッの﹁戦争は政治の継続である﹂という
言葉も︑レーニンにあっては︑﹁戦争は︑たんに一つの国家の対外政策について︑その国がそれまで﹃平時﹄に遂行
してきた方針を︑極端にそしてもっとも積極的に行うことを意味するだけでなく︑戦争は︑一国の内部の階級闘争に
ついても︑すでに﹃平時﹄に社会の内部で作用していた傾向を︑まったく最高度に高め︑ぎりぎりにまで尖鋭化させ
るのであ﹂り︑﹁戦争は︑一国にとっても︑一国内部の一階級にとっても︑完全に新しい状態をつくりだすわけでは
︵週︶
けっしてない﹂ということになる︒ここに︑われわれは︑レーニンの冷いまでの階級の論理の貫徹を見出すことがで のか︒
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化﹂であり︑戦争の内在的矛盾の外化と見倣しうるであろう︒
︵調︶
だからこそ︑﹁社会主義者は︑この徴候に最大の注意をもってのぞまなければならない﹂のであり︑﹁大衆が平和
に期待している幸福は一連の革命なしには不可能であることを大衆に説明するために︑平和を求める気分を利用しな
︵鯉︶
ければならない﹂のであって︒ここに︑はじめて︑﹁内乱へ!﹂のスローガンは登場する必然性を受けとるにいた
ヲ︵︾0
戦争は︑その内在的論理の必然性によって︑大衆の自然発生的な平和への欲求を︑その対極に凝集せしめる︒社会
主義者の戦前から把持してきた階級の論理は︑帝国主義戦争によって︑また︑まさに帝国主義ブルジョアジー相互の
闘争としての帝国主義戦争なるが故に︑それ自体としては︑なんら本質的な変化をうけるものではない︒この点を看
過して︑帝国主義戦争という事態によって階級の論理それ自体に一定のモディフィヶーションを行ったところに︑第
一インターの﹁崩壊﹂の真の原因が横たわる︒すなわち︑かれらが︑戦争が生み出した﹁事実と傾向﹂︵大衆の自然
発生的な平和の欲求︶をそのまま受けとり︑帝国主義戦争にあっては︑﹁勝利でも敗北でもない﹂﹁平和のスローガ
ン﹂を社会主義者として打ち出すことは︑単なる大衆追随主義であっただけでなく︑そのような﹁平和のスローガ
ン﹂が︑帝国主義戦争にあっては︑﹁問題を諸国政府︵スローガンの内容からすれば︑もとの地位にとどまり︑﹃自
己の立場を保持﹄しなければならない諸国政府︶の戦争という平面にうつす﹂こととなり︑戦争を権力政治の次元で
のみとらえ︑戦争の﹁真の社会的階級的性質﹂を見逃すことになる︒﹁平和のスローガン﹂が客観的には﹁祖国擁護﹂
の﹁スローガンのいい換え﹂たる所以であった︒
しかし︑階級の論理は︑そのままストレートに﹁内乱﹂のスローガンに持ちこまれたのではない︒戦争という外見
的には︑異常な︑カタストロフィツクな状況下にあって︑戦争が内包する内在的論理としての平和の論理を自己の中
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ここには︑一九一七年の﹁二月﹂から.一月﹂にいたる時期︑さらにブレスト講和および一八年にはじまる戦時
共産主義の時期に︑レーニンの﹁内乱﹂のスローガンに外化された﹁帝国主義戦争下における革命の論理﹂を︑具体
的な情勢のもとで貫徹することが︑如何に困難であったかという︑かれみずからの経験が表白されていた︒
事実︑まだ革命の成功していなかった一九一七年三月一四日に︑カーメネフの署名で︑ペトログラード・ソヴェト
の発した﹁世界の人民に告げる﹂という宣言は︑﹁軍隊と軍隊がむかいあっているとき︑これら両軍隊のうちの一方 一一月プロレタリア革命の五年後の一九一三年二一月一○日から一五日までハーグで開かれた︑国際平和会議のソ
ビエト代表団の任務についての二一月四日付けの覚書のなかで︑レーニンは︑つぎのように書いた︒代表団は︑﹁戦
争にたいしてストライキもしくは革命をもってこたえよう﹂という戦争にたいする左翼的言辞を﹁もっともするどく
反ばつすることからはじめる﹂べきで︑ストライキや革命で戦争に﹁こたえる﹂ことは︑﹁こうした表現のもつ単純
︵鮨︶
さ︑文字どおりの意味では︑不可能である﹂・さらに同じ覚書で﹁戦争がうみ出されるところの秘密は︑どんなに大
きいものであるかということ︑また労働者の普通の組織が︑たとえ革命的な組織だと自称していても︑実際にさしせ
まっている戦争に直面しては︑どんなに無力なものであるかということ︑こういう事情を︑人々に説明しなければな
︵妬︶
らない﹂とも書いた︒ に組み込むことによって︑帝国主義戦争下における革命の論理は︑新たな外化を行う︒﹁内乱﹂のスローガンがそれ であった︒そして︑レーニンのこのような帝国主義戦争下における階級の論理の形成は︑まさしくシュトゥットガル ト︑バーゼル両宣言を︑文字面においてでなく︑その深部において適用したものであることは︑さきにのべたことか ら明らかであろう︒
( 2 )
平和共存
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は︑武器を投じて降伏し︑帰還するように提案することは︑きわめておろかしい政策である︒これは︑平和の政策で
はなくて︑奴隷の政策である︒自由な人民は︑嫌悪の念をもってこれを拒否するだろう﹂︑﹁銃弾をもって︑砲弾に
︵︶︵犯︶
は砲弾をもって︑答える﹂とのべ︑その露骨な﹁祖国擁護﹂の立場を宣明した︒もっとも二月二八日には︑ボリシェ
ビキ央委員会のロシア・ビューローは﹁圧制と隷属を行うものにたいして︑すべての国の人民が革命的闘争をおこな
︑
うために⁝⁝また隷属させられた人民に課せられてきた血なまぐさい人間と殺を終らせるために︑交戦国のプロレタ
︵鯛︶
リアートとの交渉をはじめる﹂との党宣言を発していたが︑戦争にたいする態度をめぐってボリシェビキ内部が混乱
︵釦︶
しており︑レーニン不在の情況下では︑戦争遂行論が圧倒的多数を占めていた︒
ところで︑革命の年一九一七年初頭は︑国外にあったレーニンが︑一月三一日付け論文﹁世界政治の転換﹂で分析
したように︑﹁戦争終結をよぎなくさせる客観的諸条件﹂として︑下からの大衆の不満や憤激だけでなく︑いまや﹁
︵瓢︶
戦時利得に食傷したブルジョアジーの階級的本能を階級的打算﹂の作用が加わったことで︑大戦は二転換﹂の時期
にさしかかっていた︒権力政治の延長としての講和が進められようとしていたのである︒この上からの﹁帝国主義的
講和﹂の路線を断ち切ることなしに︑﹁民主的講和﹂は達成できなかった︒すなわち﹁革命的プロレタリアートガブ
ルジョア政府を転覆させなければ民主講和は不可能﹂であった︒いまこそ﹁内乱﹂のスローガンは︑レーニンのいう
︵犯︶
ように︑﹁戦争の初期にくらべてさらに大きな意義をおびる﹂にいたった︒それと同時に︑﹁帝国主義的誰和﹂の路
線に対決し︑﹁内乱﹂成功を前提とする︑権力を獲得したプロレタリアートによる真の﹁民主的講和﹂の構想が具体
的日程にのぼされねばならなかった︒
かくて︑三月七日から二六日にわたってレーニンがスイスで執筆し︑国内に送った﹁遠方からの手紙﹂によって具
︵調︶
体化され︑革命成功の翌二月八日に公表された﹁平和の布告﹂は︑﹁民主的講和﹂の内容を具体的に示しただけで
なく︑権力を獲得したプロレタリアートと︑帝国主義諸国政府とのあいだの︑権力政治の領域においてではない︑新
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︵犯︶
はならない﹂︒
すなわち︑譲歩的態度とオープンな提議は︑一方で諸国政府をして︑﹁われわれの条件﹂および自国の人民のまえ
に立たせることによって︑ソビエト政府および﹁自国の人民﹂にたいしてなんらかの回答をせざるを得ないようにさ
せると同時に︑他方では︑諸国の人民に︑かれらが﹁なんのために屠殺場におくられるのか﹂また︑﹁銀行家と地主
の政府を打倒した﹂ソビエトの社会主義革命のことを知る機会を与え得ることになる︒かくて︑﹁こうした犯罪者に
︵調︶
は人民も遠慮することをやめ﹂︑かれらをして反政府的ならしめることになる︒
ここには︑国際関係の領域内で︑外交Ⅱ権力政治とは別個なかたちでの人民相互の革命的連帯が可能であることが
一不されていたのである︒この新しい形式の国際関係は︑内容において革命的であり︑それは︑権力政治にかわる﹁対
話﹂と﹁交渉﹂と﹁公開﹂の原則にもとづくところの︑いわば民主主義的な国際関係であった︒第一に︑一旦そのよ
うな国際関係の領域が部分的にもせよ︑一時的にせよ︑出来上るならば︑﹁政府機関の全威力をあげて︑大衆をブル
︵︶
ジョア的統治者のすきなところへ投入すること﹂をもって︑その﹁強力﹂を誇示するブルジョア政府を︑﹁世論の統
制下﹂におく可能性を生ぜしめ︑ブルジョア独裁は︑人民のデモクラシーによって新たな挑戦をうける可能性を生ず
る︒一方人民の側では﹁大衆がすべてを知り︑すべてについて判断をくだすことができ︑そしてすべてについて判断
できて︑自覚してすべてのことにあたる﹂基本的可能性が生れる︒
第一一に︑そのような国際関係が︑社会主義国家と資本主義国家とのあいだに生ずるということは︑﹁社会主義ソビ
エト共和国の実例﹂が︑﹁すべての国の人民にとって生きた棋範﹂としてかかげられ︑﹁この模範のもつ宣伝的・革
︵︶
命的効力﹂が無視できないものとなる︒﹁あちらは︑ブルジョア制度と︑すっかりむきだしになった一弓の略奪者グ
ループの侵略戦争︒こちらは︑平和と社会主義ソビエト共和国﹂︑という状況を大衆的規模でデモンストレートする
ものとなる︒
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ったということであった︒すなわち︑まず国際政治の面では︑帝国主義との結びつきから完全に離脱することが必要
であった︒そのためには︑対ドイツ単独講和は︑たとえ︑それがいかに屈辱的な﹁チルジット講和﹂であろうとも︑帝
国主義の交戦両グループの対立を﹁利用﹂して︑一定の﹁息抜き﹂の時期をかちとるための最良の道であった︒そし
て︑そのような﹁息抜き﹂の基本的課題は︑国内政治の面では︑権力をにぎったプロレタリアートが︑ブルジョア革
︵抑︶
命の﹁事業を打ちかため﹂︑﹁どれだけうまく﹂ブルジョア革命を﹁のりこえ成長できるか﹂にあった︒これは︑レ
ー一ンのブルジョア革命とプロレタリアー革命の相互関連の理論の精髄であった︒レーニンが︑﹁平和の布告﹂のな
かで︑すでにブルジョア独裁下における﹁世論﹂の圧力︑人民のデモクラシーに一定の意義を見出したことはすでに
指摘したが︑ソビエト体制下においても︑﹁政治﹂の領域を考慮するとき︑デモクラシーは不可欠のものであった︒
しばしば講和を﹁息抜き﹂と表現したレー一ンは︑その﹁息抜き﹂の根拠を︑﹁大衆の生活﹂の現実に求め︑﹁われ
︵網︶
われの有機体﹂の病気と表現し︑左翼反対派にたいし︑﹁大衆の生活︑歴史は︑諸君の断言よりもはるかにつよい﹂
ことを強調し︑いまでは﹁いっさいの決議は︑大衆の討議にかけられる︒大衆は︑これらの決議自分の経験によっ
て︑事実によって点検することを要求しており︑かるがるしい言説に熱中もしないし︑諸事件の客観的な進行にょっ
︑︑
てしめされる道からふみはずさせられることもない.⁝⁝数百万の大衆Iところで政治というものは︑数百万人の ︑︑︑︑︑ いるところではじまるものであり︑数千人ではなくて︑数百万人のいるところではじまるものでのみ︑真剣な政治は
︵︶
はじまる⁝⁝﹂︵傍点は前田︶と書いた︒
左翼反対派は︑権力をにぎったプロレタリアートの当面するものが︑なによりもまず︑﹁真剣な政治﹂にあること
を見逃していたのであり︑ブルジョア革命とプロレタリア革命との正しい関連を理解していなかった︒国内革命の完
成と国際革命の援助は︑﹁真剣な政治﹂の視点に立つとき︑﹁人民﹂を︑﹁大衆﹂を︑﹁世論﹂を抜きにしては考え
られなかった︒また︑このような視点においてこそ︑レーニンは﹁どのような外国の征服も︑人民の政治制度をけっ
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対ソビエト武力干渉と反革命の危機が︑その峠を越した一九二○年になって︑平和共存論は︑一定の定式化を受け
ることになった︒そして︑その契機となったのは︑いわゆる﹁利権﹂問題であった︒
レーニンは一九二○年一二月六日︑ボリシェビキ︑モスクワ組織の活動分子にたいして利権問題にたいする基本姿 ︑︑︑︑︑ 勢をつぎのようにのべた︒すなわち︑﹁政治的考慮という見地から見た利権問題の基本的な点は︑われわれが理論的
に把握しているだけでなく︑さらに実地に適用している準則⁝⁝全世界で社会主義が最後的に勝利する日まで︑基本
的な準則であるような準則﹂として﹁二つの帝国主義のあいだの︑二つの資本主義的国家群のあいだの対立と矛盾を
︵釦︶して﹃純形式的なもの﹄にしえないであろう﹂とのべたし︑また﹁われわれが席をともにしたのは︑リープクネヒト ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︵副︶ ではなく︑ホフマンであった︑lそうすることによってわれわれはドイツ革命を援助したのである﹂︵傍点前田︶ とのべることができたのであった︒
講和と休戦による﹁息抜き﹂の期間は︑ソビエト政府にとっての︑﹁それ︵帝国主義グループの敵対と戦争︶を利
用しては︑社会主義革命をつづけ強めるために自由に腕をふるうだけの行動できる一定の期間がえられ⁝⁝ロシアを
︵顕︶
再組織する﹂ためのものであった︒ロシアにおける社会主義敢命の続行と強化︑すなわち一国社会主義革命の成功の
国際革命に与える意義は︑もしもソビエトが﹁平和の布告﹂で︑すでに設定された新しい国際関係のパターン﹁オー
プンで妥協的な﹂を基礎にして︑資本主義諸国と対してゆくならば︑またもしも︑ブルジョア独裁下における人民の
デモクラシー︑世論の圧力を考慮にいれるならば︑その宣伝的︑革命的意義は大きかった︒それは︑左翼反対派の﹁
国際革命の尻おし﹂︵レーニン︶︑革命の輸出ではない︑新しいかたちでの︑革命的連帯の方向であった︒のちに一
定の定式化をうけることになるレーニンの平和共存論が︑革命の輸出でもなく︑権力政治の次元での外交的かけひき
でもないことは︑ここですでにその大体の輪郭としてしめされていたのである︒
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︵卵︸
利用し︑かれらをたがいにけしかける﹂︵傍点前田︶ことである︑と︒
客観的状況からすれば︑レーニンも挙げたように︑﹁帝国主義諸国間の根本的な大分裂﹂と︑﹁ベルサイユ体制﹂
による戦勝国と敗戦国との対立︵とくにドイツ︶があったし︑さらに戦勝︑敗戦をとわず︑帝国主義諸国と植民地と
それでは︑帝国主義諸国間の対立を利用するという﹁基本的な準則﹂にもとずく利権政策は︑これらの矛盾Ⅱ対立
にたいして︑どのような作用をするのであろうか︒まず第一に︑それは︑帝国主義側からする対ソビエト戦争を未然
に防止し︑その発現を引きのばし︑ソビエト社会主義革命の完成にたいする安全を保障するものとしての意義があっ
た︒すなわち︑﹁一方では︵かれらが利権に同意すれば︶︑戦争の場合は︑われわれは︑最良の条件をもつことにな
るであろうし︑他方では︑戦争をのぞむものは︑利権に同意しないであろう﹂から︑﹁利権の存在は︑戦争に反対す
る経済的ならびに政治的論拠であ﹂り︑﹁われわれにたいして戦争をやりかねない諸国家も︑利権を手にいれれば︑ ︵瓢︶︵弱︶ 戦争ができなくなるであろう﹂︒まさに︑﹁利権が手をしばる﹂ことになる︒
第二に︑利権は︑その経済的交流を生み出すことによって︑﹁帝国主義が圧殺しようとしている資本主義諸国︵と
︵妬︶
くにドイツ︶をソビエトのまわりに結集﹂し︑またそれは︑﹁被圧迫国民に手をさしのべる﹂ことになり︑来るべき
プロレタリア革命の一要因としての﹁被圧迫大衆の同盟﹂を形成する要因となるものであった︒
したがって︑利権政策は︑ブレスト講和がそうであったように︑﹁資本主義とボルシェビズムの衝突という見地か
︵釘︺
らすれば⁝⁝戦争の継続﹂なのであり︑ただ﹁他の舞台における戦争﹂﹁新しい分野での戦争﹂であった︒つまり︑
利権政策は︑帝国主義の対ソ戦争の﹁手をしばり﹂︑それを未然に防止し︑同時に世界の被圧迫国民をソビエトのま
わりに結集し︑来るべきプロレタリア革命への展望をもつ闘争なのであった︒
レーニンの平和共存論は︑利権政策遂行のなかで︑一定の定式化を見たが︑その利権政策の成功︵利権契約の増加︶ の対立があった︒
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てオープンなものでなければならなかった︒事実︑ソビエトがこれまで資本主義諸国ととり結んだ協定の実際は﹁わ
︵舵︶
れわれがどんな商売のやり方をしているか︑どういう契約をどういう条件でむすんでいるか︑あるいは将来むすぶか﹂
を示していた︒またそれは︑﹁外交的威信﹂や﹁名声﹂を維持するために﹁懸命になる﹂ようなこととは無縁でなけ
平等互恵の原則のうえに立つ︑オープンで︑権力政治の介在を許さぬような新しい国際関係は︑もしも資本主義側
が︑それを拒否するなら︑﹁諸君が損をする﹂のだし︑﹁自分でなにを欲しているのかを知らず︑いわゆる意志の病
︵園︶
いと称せられる病気にかかっていることを︑自分の国の人に証明してみせることになる﹂ものであった︒
かくて︑レーニンは﹁商人の世界﹂に象徴される新しい国際関係を︑両者の﹁めあて﹂とするものが︑どのように
異なっていようとも︑﹁外見上非常に堅実な信頼できる様子﹂が必要なことを明らかにした︒かれはいう︒もしも﹁
外見上﹂の﹁信頼﹂をすらも与えない﹁政府と契約をむすぶ﹂ようなことをする商人は︑﹁ばかであり⁝⁝商人間の
︵︶
闘争の論理がそうしたものを商人の世界から掃き出してしまう﹂と︒
﹁外見上の﹂不信︑すなわち当初から露骨な背信的な態度をとることこそ︑平和共存にとって最大の妨害であり︑
逆にいえば︑体制を異にする国家間の国際関係における平和共存政策は︑少くとも露骨な背信的態度を排除すること
を大きな目標としていたし︑それが平和共存政策の限度でもあった︒そして︑利害の対立とそれにもとずく権力政治
から︑自己を隔離しつつ︑オープンで譲歩的な態度でのぞむことによって︑かえって帝国主義の本質を全世界人民の
まえに暴露させ︑﹁民主主義の新らしい世界史的類型﹂を﹁社会主義革命の副産物﹂としての﹁ブルジョア民主主義
︵︶
的な改造﹂へ向わせる条件を整備することであった︒︵I終り︶ を示していた︒ま一 ればならなかった︒
註 ︵1︶戦後日本の平和運動の全般的な特徴については︑前田︑柳沢︑可平和運動L︵﹁戦後日本の経済と政治LⅢ所収︶にのべた︒
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︵別︶
︵配︶レーニン︑同前︑二九八頁︒
︵閉︶レーニン︑同前︑二九八頁︒
︵型︶レーニン︑同前︑二九八頁︒
︵路︶レーニン︑可わがハーグ代表団の任務の問題についての覚え書L︑邦訳全集︑第三三巻︑四六六頁︒なお註︵皿︶参照︒
︵妬︶レーニン︑同前︑四六六頁︒
︵︶両.園.忌働︾鈩困童︒ごaの︒ぐ豆宛易の旨︾日篇国︒雲の曇涛宛のぐ︒言ざ口虐習字毛鵠︾ぐg﹄︺乞巴・原田︑田中︑服部訳︑可
ボリシェヴィキ革命L第一巻︑六八頁︒
︵詔︶スターリンは︑この時期に︑臨時政府に圧力を加えて平和交渉の意向を表明させよ︑との説をとっており︑戦争継続に向う
臨時政府に過度の期待をかけていた︑という︵菊地昌典可ロシア革命L︑一二八頁︶・
︵四︶E・H・カー︑前掲書︑六六頁︒
︵別︶四月一日の全ロシア︑ソビエト協議会では︑三二五対五七という大差で︑革命の利益のために︑戦争を継続することが決議
された︵菊地︑前掲書︑一二九頁︶
︵狐︶レーニン︑﹁世界政治の転換L︑邦訳全集︑第二三巻︑二九二頁︒
︵銘︶レー一ン︑同前︑二九八頁︒
︵認︶五通の可遠方からの手紙Lのうち︑三月一二日附けの第四信可どのようにして平和をかちとるかLにおいて︑レーニンは︑
権力奪取を前提としたうえでの講和綱領六項目︵H過去の政府のむすんだいかなる条約にも拘束を受けない︑邑全秘密条約
の公表︑同即時休戦をすべての交戦国に可公然とL提案︑㈱講和条約︵すべての植民地の解放とすべての民族の同権︶の可
公表L︑⑧万国の労働者への政府打倒の提案︑㈹ブルジョア政府の戦債の支払いは認めない︶を︑はじめて明らかにした︵ レーニン︑﹁平和の問題L︑邦訳全集︑第一二巻︑二九七頁︒レーニンは︑その死の約一年まえの︑一九二二年の十二月四日 附けの可わがハーグ代表団の任務の問題についての覚え書Lの中で︑反戦闘争について︑可戦争が罪悪であり︑戦争が社会 主義者にとってゆるしがたい等々ということを理論的にみとめたところで︑問題をこのようにたてることには︑すこしも具 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 体性がないから︑それは意味のない空文句である⁝⁝︒戦争が近づくかもしれず︑また近づくであろうということについ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ て︑われわれは真に生き生きとした観念を︑すこしも大衆にあたえていないL︵傍点前田︶と書いた︒︵邦訳全集︑第三三 ︑︑︑︑︑| て︑われわれ皿 巻︑四六七頁︶
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