八条院高倉について
(一)
高木佳子
はじめに
『新古今和歌集』
の女流歌人であり、
それ以後の勅
集に、
『風雅和歌集』
を除いた他の十三代集のうち十二の勅
集にその歌が入集している八条院
高倉について、作品および高倉の名がみえている文献など、高倉に関する
資料を収集整理したい。
八条院高倉については、谷山茂氏
注1によって既に取り上げられてきている
が
、
安
藤操氏
注2による
「八条院高倉」
(『学苑』 昭 和三十二年九月号)の論考で、
高倉の作品の所在が調査研究されている。さらにその後の安井久善氏
注3、さ
らに久保田淳氏
注4等の研究成果を足懸りに、八条院高倉の作品および高倉に
ついてその名のみえているものを、できる限り以下にまとめた。
一
八条院高倉は、
鳥羽天皇皇女八条院暲子内親王
(鳥羽第三皇女。 母長実 女。 美福門院。 『女院小伝』 )に仕えた女房で、
『尊卑分脈』
にみると、
藤原
不比等の子で恵美押勝と兄弟になる南家元祖である武智麿を祖先にもち、
「左大臣武智麿四男参議巨勢麿十三男」貞嗣の流れを
む澄憲
(法印大僧都 建仁三年 一二〇三 八月三日入滅)の娘で、
信西
(藤原通憲)の孫にあたり、
『尊卑分脈』の注に「八条院女房
高倉」とみえている。
生没年未詳であるが、
『続拾遺和歌集
注5』に、
法印覚寛よませ侍りける七十首歌の中に 八条院高倉 五三一 五三〇 身はかくて六十の春をすぐしきぬ年の思はんおもひでもなしとあるところから、
十三代集の勅
歌人である覚寛法印の嘉禎三年
(一二 三七)の
「
覚寛法印勧進七十首」
に出
詠
注6しており、
これの行なわれた嘉禎
三年には、六十歳前後で存命であったことが窺える。
八条院高倉について研究を進めていく上での基礎資料として、
本稿
(一)
では、その作品や高倉に関連した勅
集に入集した詠歌四十首
注7を確認する。
二
八条院高倉については、その歌が、勅
集二十一代集のうち、高倉の生
存中に
入された勅
集である八代集の『新古今和歌集』をはじめとして、
その後の
『新続古今和歌集』
までの十三代集では、
『風雅和歌集』
を除く
十二の勅
集に高倉の歌が
入されていることからも、高倉の歌が当時か
学苑 日本文学紀要 第八五五号 一五~二二(二〇一二 一)詠歌資料集成
ら高く評価されていたことが窺える。
『源家長日記
注8』に、
又、八条院ニ『高倉殿と申人をはすなり。その人の歌と そある人のかたり申ける。 くもれかしなかむるからに悲しきは 月におほゆる人のおもかけ 此歌をきこしめして、それも歌たてまつりなとつねに侍。とみえているところから、後鳥羽院に認められる
注9ところとなったことが知
られる。
八条院高倉の作品ならびに高倉に関連する資料について、
先
ず、
『新編
国歌大観』に収められた作品、資料を以下の要領でまとめ、その一覧を掲
げる。
勅
集二十一代集に
入された歌および歌合、私
集等に収められた高
倉の歌を、
『新編国歌大観』の歌番号
注5によって提示して、あとに歌を示す。
(便宜上、 二十一代集には通し番号を付した。 八代集最後の 『 新古今和歌集』 を 〔 8 〕とし、続けて十三代集にも通し番号を付した。 ) 〔 8 〕『新古今和歌集』 (七首 注 )五 四 二〇八 五二五 一一四六 一二〇一 一二七〇 一八四一 〔 9 〕『新勅 和歌集』 (十三首) 二 一 九 三〇六 三六一 四二五 五三一 五三二 六〇三 六〇四 七九二 八〇二 九〇九 一二四〇 一二六二 〔 10〕『続後 和歌集』 (六首) 一 四 〇 五九〇 一〇〇一 一一二 六 一一七九 一二二三 〔 11〕『続古今和歌集』 (一首) 一二一三 〔 12〕『続拾遺和歌集』 (二首) 四八一 五三〇 〔 13〕『新後 和歌集』 (一首) 六二四 〔 14〕『玉葉和歌集』 (二首) 一三三 一八七二 〔 15〕『続千載和歌集』 (二首) 一六 七〇三 〔 16〕『続後拾遺和歌集』 (一首) 六三五 〔 17〕『風雅和歌集』 入なし 〔 18〕『新千載和歌集』 (二首) 九一二 一三〇八 〔 19〕『新拾遺和歌集』 (一首 注 ) 一〇〇二 〔 20〕『新後拾遺和歌集』 (一首) 一〇五 〔 21〕『新続古今和歌集』 (一首) 二〇三五 『春日社歌合(元久元年) 』 (三首) 一三 四三 七三 『内裏百番歌合(建保四年) 』(十首) 一 三 三三 五三 七三 九三 一三 一三三 一五三 一七三 九三 『冬題歌合』 (建保五年) (七首) 八 二四 四〇 五六 七二 八八 一〇四 『名所月歌合(貞永元年) 』 (三首) 四 二六 四八 『新時代不同歌合』 (三首) 一六 一七 一八 『女房三十六人歌合』 (三首) 八八 八九 九〇 『新三十六人 』 (十首) 二 〇 一 二〇二 二〇三 二〇四二〇五 二〇六 二〇七 二〇八 二〇九 二一〇 『万代和歌集』 (十四首) 一 〇 五 一九四 一二六七 一五三 一 一七一五 一八一四 二三八九 二五九九 二八〇〇 二九〇四 二 九八六 三一三七 三一八八 三六 七三 『雲葉和歌集』 (一首) 七八六 『夫木和歌抄』 (七首) 二一八一 三五九九 六六〇八 九 九二一 一四七九九 一六二六五 一六三〇〇 『定家十体』 (一首) 一三八
八条院高倉について、
『新編国歌大観』に収められた右の作品のほかに、
『続群書類従』等の次の資料の中に高倉の名がみえている。
『新百人一首』 (『続群書類従』第十四輯上) 所収 『二八要抄』 (『続群書類従』第十四輯上) 所収 『釣舟』 (『続群書類従』第拾七輯上) 所収以上、高倉の歌、ならびに高倉に関連する資料で、現在までに知り得た
ものをまとめ、その一覧を示した。
三
八条院高倉の歌については、先ずはじめに、勅
集に収められた高倉の
作品から提示する。
〔 8 〕『新古今和歌集』 (七首) 巻第一春歌上 題しらず 八条院高倉 五四 ひとりのみながめて散りぬむめの花しるばかりなる人は問ひこず 巻第三夏歌 時鳥をよめる 八条院高倉 二〇八 一こゑはおもひぞあへぬほととぎすたそかれ時の雲のまよひに 巻第五秋歌下 秋のうたとてよめる 八条院高倉 五二五 神なびのみむろのこずゑいかならむなべて野山も時雨する比 巻第十二恋歌二 題しらず 八条院高倉 一一四六 つれもなき人の心はうつせみのむなしきこひに身をやかへてむ 巻第十三恋歌三 題しらず 八条院高倉 一二〇一 いかがふく身にしむ色のかはるかなたのむるくれの松かぜのこゑ 巻第十四恋歌四 題しらず 八条院高倉 一二七〇 くもれかしながむるからにかなしきは月におぼゆる人の面影 巻第十八雑歌下 題しらず 八条院高倉 一八四一 うきよをば出づる日ごとにいとへどもいつかは月の入かたをみん〔 9 〕『新勅 和歌集』 (十三首) 巻第四秋歌上 七夕後朝の心をよみ侍りける 八条院高倉 二一九 むつごともまだつきなくの秋風にたなばたつめやそでぬらすらん 巻第五秋歌下 建保六年内裏歌合、秋歌 八条院高倉 三〇六 わがいほはをぐらの山のちかければうきよをしかとなかぬ日ぞなき 巻第五秋歌下 九月尽によみ侍りける 八条院高倉 三六一 すぎはてぬいづらなが月名のみしてみじかかりける秋のほどかな 巻第六冬歌 建保五年内裏歌合、冬海雪 八条院高倉 四二五 さとのあまのさだめぬやどもうづもれぬよするなぎさの雪のしらなみ 巻第八羈旅歌 みやこをはなれて、 と ころどころにまうでめぐり侍りけるころ、 よ み 侍りける 八条院高倉 五三一 世をうしとなれしみやこはわかれにきいづこの山をとまりともなし 五三二 白雲のやへたつ山をたづぬともまことのみちは猶やまどはむ 巻第十釈教歌 廿八品歌よみ侍りけるに、寿量品 八条院高倉 六〇三 六〇五 身をすてて恋ひぬ心ぞうかりけるいはにもおふる松はある世に 陀羅尼品 八条院高倉 六〇六 六〇四 あまつそら雲のかよひぢそれならぬをとめのすがたいつかまち見む 巻第十三恋歌三 後朝の心を 八条院高倉 七九四 七九二 あふことを又はまつ夜もなきものをあはれもしらぬ鳥の声かな 巻第十三恋歌三 こひのうたよみ侍りけるに 八条院高倉 八〇四 八〇二 わすれじのただひとことをかたみにてゆくもとまるもぬるるそでかな 巻第十四恋歌四 題知らず 八条院高倉 九一一 九〇九 ふくからに身にぞしみけるきみはさは我をや秋のこがらしのかぜ 巻第十八雑歌三 なきひとびとをおもひいでてよみ侍りける 八条院高倉 一二四二 一二四〇 かずかずにただめのまへのおもかげのあはれいくよにとしのへぬらむ 巻第十八雑歌三 文集、親愛自零落存者仍別離といふ心をよみ侍りける 八条院高倉 一二六四 一二六二 あすかがはけふのふちせもいかならむさらぬわかれはまつほどもなし 〔 10〕『続後 和歌集』 (六首) 巻第三春歌下 落花不語空辞樹といへる心を 八条院高倉 一三一 一四〇 さきもあへず枝にわかるるさくらばないはばやしらむ思ふ心も 巻第十釈教歌 化城喩品 八条院高倉 五九〇 五八二 いそぎたてここはかりねの草枕なほおくふかしみよしのの里
巻第十五恋歌五 恋歌の中に 八条院高倉 九九八 一〇〇一 身をかへて又もこの世にめぐりあはばわれつらからん事さへぞうき 巻第十七雑歌中 山ざとにすみてよみ侍りける 八条院高倉 一一二三 一一二六 なべて世をかりのやどりとおもはずはすみうかるべき草のいほかな 巻第十七雑歌中 題しらず 八条院高倉 一一七六 一一七九 とにかくに身のうきことのしげければひとかたにやはそではぬれける 巻第十八雑歌下 題しらず 八条院高倉 一二二〇 一二二三 はかなしといふにもたらぬ身のはてはただうき雲のゆふぐれのそら 〔 11〕『続古今和歌集』 (一首) 巻第十四恋歌四 恋歌中に 八条院高倉 一二二一 一二一三 とへかしなこのよばかりのなさけとてうきはむかしのむくいなりとも 〔 12〕『続拾遺和歌集』 (二首) 巻第七雑春歌 題しらず 八条院高倉 四八二 四八一 見ても又誰かしのばむふる郷のおぼろ月夜に匂ふむめが枝 巻第七雑春歌 法印覚寛よませ侍りける七十首歌の中に 八条院高倉 五三〇 五三一 身はかくて六十の春をすぐしきぬ年の思はんおもひでもなし 〔 13〕『新後 和歌集』 (一首) 巻第九釈教歌 是人於仏道、決定無有疑 八条院高倉 六二四 契りおくそのゆくすゑのたのみあらばこの世をうしと何か かん 〔 14〕『玉葉和歌集』 (二首) 巻第一春歌上 三十首歌よみ侍りけるに 八条院高倉 一三三 ゆきてみん今は春雨ふる里に花のひもとく比も来にけり 巻第十四雑歌一 三十首歌よみ侍りける時 八条院高倉 一八六四 一八七二 世をすつる人にはみせじ山桜色にしうつるこころつきけり 〔 15〕『続千載和歌集』 (二首) 巻第一春歌上 建保四年内裏の百番歌合に 八条院高倉 一六 鶯のふるすにたれかことづてし梅さく宿をわきてとへとは 巻第六冬歌 題しらず 八条院高倉 七〇七 七〇三 つもり行くとしのおもはんことわりもはかなく暮るるけふぞしらるる 〔 16〕『続後拾遺和歌集』 (一首) 巻第十一恋歌一 恋の歌の中に 八条院高倉 六三五 いはぬまは人こそしらねみちのくの忍の里にしめはゆひてき
〔 18〕『新千載和歌集』 (二首) 巻第九釈教歌 廿八品歌よみ侍りけるに、法師功徳品を 八条院高倉 九一二 津の国やなにはにおふるよしあしはいふ人からのことのはぞかし 巻第十三恋歌三 恋の歌の中に 一三〇八 日にそへて思ひぞしげる大あらきのうきたの杜や我が身なるらん 〔 19〕『新拾遺和歌集』 (一首) 巻第十一恋歌一 建保五年内裏歌合に、冬夜恋 八条院高倉 一〇〇二 長き夜に氷かたしきふしわびぬまどろむ程の涙ならねば 〔 20〕『新後拾遺和歌集』 (一首) 巻第二春歌下 建保内裏の百番の歌合に 八条院高倉 一〇五 これならで何を此世にしのばまし花にかすめる春の明ぼの 〔 21〕『新続古今和歌集』 (一首) 巻第十九雑歌下 建保四年内裏十首歌合に 八条院高倉 二〇三五 いざさらばこん世をかねて契りおかんかぎりもしらぬ月の光に
以上、八条院高倉の歌四十首が勅
集に入集している。
高倉が当時詠出している歌合をはじめ、私
集ならびに他の歌集などに
収められた作品や、高倉に関連する資料については、次の稿において記載
し、さらに確認追究していきたい。
注 1 谷山茂 『谷山茂著作集五 新古今集とその歌人』 (角川書店 昭和五十八年十 二月) 所収 「第三章 新古今の歌人」 309頁 (初出『新古今の歌人』堀書店 和二十二年十二月) 、「第二章 新古今作品論」 100頁 (初出 「寿本新古今和歌集」 『人文研究』四巻六号 昭和二十八年六月) 注 2 安藤操 「八条院高倉 (勅 集の女流歌人第四十回) 」『学苑』 (第二百八号) 和女子大学 光葉会) 昭和三十二年九月 注 3 安井久善 「宝治二年院百首作者伝」 (『宝治二年院百首とその研究』 笠間書院 昭和四十六年十一月 所収 四七四 五頁「安嘉門院高倉」 ) 注 4 久保田淳 『新古今和歌集全評釈 第一巻』 講談社 昭和五十一年十月 番歌 223頁) (初出『国文学』昭和五十年一月) 注 5 引用は『新編国歌大観』による。 通し番号については、 『新編国歌大観』 の 「 凡例」 五 において、 次 のよう に示されている。 各集ごとに、和歌 連歌の別なく、その歌頭に通し番号を打った。 ただし本文中に、改行等の形で独立表示されているものに限った。な お旧 『国歌大観』 の歌番号と異なる場合には、 右 側に新番号 (ゴシッ ク体) を打ち、左側に旧番号 (明朝体) を付記した。 本稿の『新編国歌大観』からの引用歌については、右記に従っている。 注 6 久保田淳氏 (注 4 前掲書 225頁) は、 『為家集』によれば、 『覚寛法印勧進七十首』は嘉禎三年(一二三七) の催しであった。ゆえに、その 頃 「六十の春」を 過 してきたと 呼 る年 齢 であったと 知 られる。ただし、古人の「六十」は五十四、五から六十三くらいまでを指すいい方だから、今の場合も幅を考えねばな らない。一応、嘉禎三年に丁度六十と仮定すると、治承二年(一一七 八)の誕生ということになる。治承二年は安徳天皇誕生の年である。 おそらく、安徳天皇 惟明天皇 後鳥羽院などと同じ世代なのであろ う。 と述べておられる。 為家の自 歌集 『中院詠草』 (新日本古典文学大系 46『中世和歌集 鎌倉 』 岩波書店 所収) に、 冬 嘉禎三年、覚寛法印勧進七十首、置 二 一字 一 68あふさかの山下水の冬さむみ氷のせきもとぢかさねつゝ と、 「覚寛法印勧進七十首」が嘉禎三年に行なわれたことがみえている。 注 7 『新編国歌大観CD ROM版V e r . 2 』(角川書店 『 新編国歌大観』 編 集委 員会監修 平成十五年六月) 所収の 『勅 集付新葉集作者索引』 (昭和六十一 年名古屋和歌文学研究会編) では、 八条院高倉の勅 集の句検索の 「一覧 表示」において、四十一首を表示している。 注 8 『源家長日記』古典文庫 校者 石田吉貞 昭和三十四年四月 93頁 注 9 『和歌大辞典』 (明治書院 昭和六十一年三月) において乾安代氏により、 鎌倉期歌人 八条院高倉。生没年未詳。嘉禎三 12 37 年に六〇余歳で 生存。 法 印澄憲女。 「くもれかしながむるからにかなしきは月におぼ ゆる人の面影」 (新古今一二七〇) の詠が後鳥羽院の叡感を蒙り、 歌 会に出席するようになった。 (略) と解説されている。 注 10『勅 作者部類』 ならびに安藤操氏の論考 (注 2 ) では、 『新古今和歌集』 への高倉の入集歌数は八首を数えている。 それは、 『新古今和歌集』 (巻第十八雑歌下)の、 西行法師、山ざとよりまかりいでて、むかし出家し侍りしその 月日にあたりて侍るなど、申したりける返事に 前大僧正慈円 一七八二 一七八四 うきよいでし月 日 のかげのめぐりきてかはらぬ道を又 照すらむ の歌が伝本によっては、高倉の歌として記載されていることからのようで ある。 谷山茂氏 (注 1 前掲書) が既に 言及 しておられるが、 谷山氏は 『和歌文 学大辞典』 (明治書院 昭和三十七年十一月) 「八条院高倉」の 項 においても、 (略) 新古今集雑下で、西行法師に詠みあたえた うき世いでし月日の かげの … の歌は、 流布 本に高倉の作とあるが、これは 実 は慈円の歌 である。 と記される。 峯村 文人氏も日本古典文学 全 集 26『新古今和歌集』 ( 小 学 館 昭和四十 九 年三月) 1782歌の 頭 注において、 底 本 (高 木 注 :「山 崎 宗鑑 書 写 本」 ) に、 作者を、 「八条院高倉」 とし、 「 イ 本、 此 ノ 作者 無 シ レ 之 レ 」と注記。 「慈 鎮 和 尚 かし よう 自歌合」によると、作 者は慈円 じえ ん 。 作 者名を書か ず 、 前 二首とともに慈円の作としている 伝本に 従 って 改 めた。 とされている。 『新編国歌大観』の『慈 鎮 和 尚 自歌合』を示すと、 十 禅 師十五 番 十三 番 円 位上 人 横 川よりこのたびまかり出 づ る事のむかし出家し 侍りしその月日にあたりて侍ると申したりける返事に 左 勝 一八〇 うき 世 出 でし 月 日 の 影 のめぐりきてかはらぬ 道 をまたてらすら ん 同行に 契 りける人 先立ち て大 原 にこもりたりけるに 右 一八一 世をいとふ 心 の 空 の ひ ろければいる事もなき月もすみな ん 左 月日の影のめぐりきてと侍る、ことばの 露 いますこし 光 ある や うに 見 え侍り
とあり、慈円の作と考える。 注 11『新編国歌大観』 では、 一 〇〇二のほかに一〇〇八の歌を次のように 「八 条院高倉」の作とし、 巻第十二恋歌二 宝治二年百首歌たてまつりし時、寄玉恋 八条院高倉 一〇〇八 消えねただなにぞはあだのことのはにかけてもつらき袖のし ら玉 とある。 『国書人名辞典』 (岩波書店) などでも、 八条院高倉の歌として入れてい るが、乾安代氏 (注 8 ) は、 なお、新拾遺集一〇〇八は宝治二 12 48 年院百首の安嘉門院高倉の詠。 この高倉とは別人か。 としている。 久保田淳氏 (注 4 前掲書 225頁) は、 谷山茂氏は『和歌文学大辞典』の「八条院高倉」の項で、これが安嘉 門院高倉の作であることを指摘されたが、 「両高倉は別人か、 同一人 か」 と結論を留保された。 安 井久善氏は 『宝治二年院百首とその研究』 (昭 46 11刊) 四七四ページで、 『葉黄記』 に 「 安嘉門院高倉 親縁法印 女 」 とあることを紹介され、安嘉門院高倉について、 決定的なことは言えないが、九条内大臣基家 といわれる「親時 代不同歌合」においても、両高倉は別人として扱われており、確 証のないままに、ここでは親縁女説に従っておく。 とされた。極めて慎重な処理であるが、本書においては、これだけの 材料があれば、両高倉はむしろ別人と見るべきかと考える。結局、現 段階では、嘉禎三年以後の八条院高倉の事蹟を知ることはできないの である。高倉が八条院暲子内親王に出仕したのがいつ頃かも、不明で ある。 と、結論づけられた。 一〇〇八の歌は、八条院高倉の作ではないとしてここには入れない。 (たかぎ かこ 文化創造学科)