• 検索結果がありません。

新ヒラリズム 第八章 第二十一話 ( 若さを ) 体感する 陽羅義光 ここ数カ月 有名無名を問わず 若い人の小説をずいぶん読んだ 私の歳では 四十代 五十代も若い人であるが 十代 二十代を中心に 三十代の人のものも読んだ 一目して解るのは 次の五点である 一 カタカナタイトルが多い 二 符号 記号

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "新ヒラリズム 第八章 第二十一話 ( 若さを ) 体感する 陽羅義光 ここ数カ月 有名無名を問わず 若い人の小説をずいぶん読んだ 私の歳では 四十代 五十代も若い人であるが 十代 二十代を中心に 三十代の人のものも読んだ 一目して解るのは 次の五点である 一 カタカナタイトルが多い 二 符号 記号"

Copied!
5
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

新ヒラリズム【第八章】 第二十一話

(若さを)体感する

陽羅 義光 ここ数カ月、有名無名を問わず、若い人の小説をずいぶん読んだ。 私の歳では、四十代、五十代も若い人であるが、十代、二十代を中心に、三十代 の人のものも読んだ。 一目して解るのは、次の五点である。 一、カタカナタイトルが多い。 二、符号、記号、罫が多い。 三、異性の筆名を使う人が、それなりにいる。 四、横書きの人が、それなりにいる。 五、小説というよりも詩に近い人が、それなりにいる。 まず、カタカナタイトル(文中でカタカナを使うのは仕方がない)であるが、私 も若い頃はずいぶんとやった。 だがカタカナタイトルは、なかみと上手く響きあうものの他は、 「チープ」 というタイトルをつけたのと同じである。 若い人どころか、ベテラン作家にもこれをやる人がけっこういるが、大半は、 「外国かぶれ」 の作家である。 そういうものを、若気の至りで、かっこいいと感じてしまうんだろうが、滅多に 使わないほうが賢明である。 いや、やめたほうがいい。 符号、記号、罫、たとえば、 「!」 「?」 「…」 など、なかには、恋人へのメールでもないのに、 「♡」 とか、別に検閲されたわけでもないのに、 「×××」 なんかも出てくる。 これらは何よりも品がない。 品なぞと云うと、年寄り臭いと云われるかもしれないが、品というものは、小説

(2)

には大切なものである。 それに、小説は符号、記号、罫で成り立っているものではなく、言語と文章で成 り立っているものである。 私も若い頃は、平野啓一郎ばりに「…」をわんさか出したが、いまは後悔してい る。 これは逃げでしかない。 やめたほうがいい。 筆名も、人それぞれいろいろな思惑もあるのだろうが、異性の筆名を使う神経が よくわからない。 (男性だか女性だか解らない筆名は、本名だってそういう人がいるのだから、まあ よしとしよう) 芸能人なら、まず芸名から奇を衒ってアピールしたいだろうから許せるし、カミ ングアウトしたなら仕方ないが、奇を衒っているとしかおもわれない。 必然性が感じられればいいが、そうでないから、なぜかあわれすら催す。 やめたほうがいい。 横書き小説に就いてだが、日本語を横書きにする必然性がなくては、ただの表層 的嗜好としか思われない。 横書き嗜好を認めたら、斜め書き嗜好も認めなくてはならない。 横書きの黒田夏子に芥川賞をあげたのは、選考委員の醜態だと考えたほうがいい。 「小説はなにをどう書いてもいい」 と森鴎外は云った。 その鴎外は作中独逸語(原語)を使い、芥川龍之介は英語を使い、その悪弊は、 大江健三郎に及んでいる。 私に云わせれば、 「なにをどう書いてもいい」 からこそ、自制も自戒も自国語への尊厳も大切なのである。 やめたほうがいい。 小説か詩かわからない作品は、私は認める。 「詩的小説」 「散文詩」 という呼称もあるのだから、そういうことにすれば頷ける。 私だっていくつも書いた記憶がある。 しかし、そういうものを小説と銘打って発表するのは、どうしたものか。 私の経験上では、小説に於いて、実験的試みをやるときには、必ず詩を取り入れ るか、詩にするか、詩的散文にする。 なぜならそれが一番てっとり早いからで、ということは短絡的発想での作品にな

(3)

ってしまう。 やめたほうがいい。 以上は、老婆心ではない。 日本語で小説を書くなら、まずは日本の古典を読むべきである、と云いたい。 そうして、まずはそこから出発すべきだ、と云いたい。 高所から云っているのではなく、若い頃の私の恥でもあるからで、あえて云々し ているのである。 先の五点は、平安時代や江戸時代の物語にあるわけもないが、(異性の筆名を使 った人はいるが、必然性があったとおもわれる)明治大正時代でも、優れた作家は そんなことはしていない。 優れた作家は、若い時代の小説に於いてもそんなことはしていない。 とにかく古典を読んで、日本語愛に目覚め、日本語で真面目に(内容は不真面目 でもよい)書いていくべきである。 それでは内容的に、何か感じるところがなかったのかというと、おおありであっ た。 いろいろあるが、私が感心し、関心を持ったのは、主に次の三点である。 一、私たちの世代が(少なくとも私が)、興味を持たなかった(持てなかった)も の、つまり書かなかったことを、上手く書いている。 二、私たちの世代が(少なくとも私が)、思い付かなかった、あるいは思い付いて も重要とおもわなかった、発想や展開に魅力がある。 三、私たちの世代が(少なくとも私が)、使わなかった、文明の利器を上手く活用 している。 結論。 年寄りの作家はふんぞりかえっていないで、もしくはへろへろになっていないで、 才能ある若い人の小説をよく読むべきである。 そうして読んだなら、年寄りの冷や水とか、年寄りのお節介とか云われることを 恐れずに、若い人に口うるさく云うべきなのである。 指導とかそんな堅苦しいことではなく、交流というレベルのアドバイザーでいい とおもわれる。 そんなこともしていないから、日本語はどんどん堕落し摩滅し消耗し腐敗してい く。

(4)

まあ面倒臭いだろうが、作家としての若さを保つ秘訣、くらいにかんがえておけ ば、やれるだろうよ。 * * 若い人、と云ったのは、むろん現代の若い人であるが、じつは明治大正時代の、 若い人の小説もずいぶん読んだ。 志賀直哉、谷崎潤一郎など、文豪たちが若き日に書いた小説の話ではない。 そういうものは、総て読んできているので、今回は(口はわるいが)どこの馬の 骨とかも解らぬ人、若い頃にしか小説を書いていない、作家としては、いわば無名 の人のものを読んでみたのである。 そのなかで今回は、森しげの、 『死の家』 に就いて少々。 森しげは、作家としては無名だが、森鴎外の才色兼備な後妻としては有名である。 二十二歳で、当時四十歳の鴎外と再婚した。 鴎外のすすめで小説を書いたが、『死の家』は、歴史に残る、平塚らいてうの雑 誌、 「青鞜」 に載ったものである。 森鴎外に就いての著書もある、森まゆみの『死の家』解説によると、 「若い弓子は藤沢に嫁いだ乳母が肺結核にかかって死にそうなのを見舞いにいく。 感染を恐れて乳母の家では出されたものも食べない。弓子は死の家を離れるのが嬉 しかった」 という粗筋で、 「アッパーミドルの令嬢の心境を描きたわいないが、文章は鴎外その人が手を入れ たのか、すっきりして迷いがない」 という評価である。 私は読んで、いささかちがう感じを抱いた。 この粗筋だと、弓子は冷淡な女という印象だが、冷淡であれば、もうすぐ死にそ うな元乳母を見舞ったりはしない。 冷淡であれば、末期の乳母が二階にまで昇って弓子を見送る様子を、弓子が見上 げるシーンや、弓子が乳母の息子の、その後まで想う様子も描かれなかったであろ う。 表向き冷淡に描かれているのは、弓子が作者自身であるからで、じつはこの弓子 の視線や感性はちっとも冷淡ではない。

(5)

この、 『ヒラリズム』 は、 『絶対文感』 の姉妹編で、作者の「絶対文感」を云々する主旨ではないから、小説の引用はや めておくが、ここまでは鴎外も手を入れなかったであろうから、私は森しげの書き 方に、いわばアンビヴァレンスな感性を感じて、感心したのである。 そうして、このアンビヴァレンスな感性は、現代の若い作者に通じるものを感じ たのである。 しかも森しげは、タイトルも文章も奇を衒ったりはしていない。 現代の作者にも、森しげにとっての森鴎外が必要だとおもったゆえんである。

参照

関連したドキュメント

二月は,ことのほか雪の日が続いた。そ んなある週末,職員十数人とスキーに行く

睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている

喫煙者のなかには,喫煙の有害性を熟知してい

する愛情である。父に対しても九首目の一首だけ思いのたけを(詠っているものの、母に対しては三十一首中十三首を占めるほ

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

十二 省令第八十一条の十四の表第二号及び第五号に規定する火薬類製造営業許可申請書、火 薬類販売営業許可申請書若しくは事業計画書の記載事項又は定款の写しの変更の報告

彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に

いてもらう権利﹂に関するものである︒また︑多数意見は本件の争点を歪曲した︒というのは︑第一に︑多数意見は