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最大の争い・国境線

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最大の争い・国境線

―宗教対立と民族対立が生み出す紛争

=テロ・暴動・戦争でも決着がつかない

2008

山本貞雄著

(元総務事務次官

元跡見学園女子大学

大学院マネジメント研究科長)

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目次

はじめに

序・世界の争い―国境と民族と宗教

第一章 アメリカ合衆国の領土の形成

第二章 日本の領土―北方領土、竹島、尖閣諸島、沖の鳥島

第三章 大陸棚と国境線―南極・北極

第四章 イスラエルとパレスチナ

第五章 中国が絡んだ国境紛争

第六章 旧ユーゴスラビアをめぐる紛争

第七章 ソ連・ロシアが絡んだ国境紛争

第八章 イラン・イラクをめぐる紛争

第九章 アジアの国境紛争

第十章 南米・中米の領土紛争

第十一章 アフリカの国境紛争

第十二章 欧州統合の歴史と意義

第十三章 その他

参考文献

終わりに

筆者紹介

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はじめに

「民族の世界地図」(文春新書)によれば、世界における国境線をめぐる具体的 な争いの事例は、61件を数えるそうである。国境線と言うからには、国家の 成立を前提にしている。 一般に、①国境によって区分された領土、②その領土内で一つにまとまった 国民、③その国民を支配する唯一最高の権威(主権)を持った権力機構、の三 つ(国家の三要素)が備わって近代国家(state)は成立するとされる。(現代政 治学小事典) しかし、近代国家が成立する前から、地域紛争はあった。一般に、地域紛争 は宗教対立か、人種や民族対立を背景にしている。宗教や人種や民族の立場か らは地域の境界線は絶対に譲れないのであり、戦争や殺し合いを引き起こした。 近代国家が成立すると、国境線―領土問題―をめぐる争いは、大規模な戦争 を引き起こした。その争いは、宗教対立や人種や民族対立を背景にしている点 では、それ以前の地域紛争と変わるところはない。近代国家成立後の戦争原因 は、もちろん、宗教対立や人種や民族対立だけではなく、資本主義社会成立に 伴い、資源・エネルギーや市場の獲得が大きな動機となっている。 また、国境線―領土問題―をめぐる争いは、戦争といった組織的な形を取ら ないまでも、しばしばテロ行為を引き起こしている。 国境線―領土問題―をめぐる争いを抱える国々にとって、何時戦争状態を引 き起こすか分からぬような緊張状態のもとにおいては、国家として、国民生活 が安定し、経済発展を遂げることは出来ない。

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いずれにしても、国境線は、国家間の最大の争いである。そして、簡単には 解決せず、長期にわたって、引きずる問題であることが多い。 この著作を纏める動機となったのは、跡見学園女子大学で6年間、マネジメ ント学部長を、また 4 年間大学院マネジメント研究科長を務め、昨年4月から 客員教授となったのを機に、学部創設準備委員会委員長としてお世話になった 元北大法学部長の伊藤大一先生と元文部政務次官で跡見学園女子大学の教授で もあった日下部禧代子先生と私の3人でテーマを選んで、月 1 回研究会をやる ことになったが、第6回の研究会で、たまたま私が提案して、「最大の争い・国 境線」と言うテーマを担当することになった。そして研究会で提出した私の資 料は、数十頁程度のものであったが、これを加筆して著書の形に纏めたもので ある。

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序・世界の争い―国境と民族と宗教

歴史的に、国境線をめぐる争いは、地球上の最大の争いであるが、一般に、 世界の国境線をめぐる争いの代表事例とされる61事例についてみると、その 争いに対して付けられている一般名称は、様々で、つぎの通りとなっている。 戦争:5件 独立戦争:2件 内戦:7件 侵攻:3件 領土紛争:3件 国境紛争:3件 領有権問題:2件 独立運動:4 件 内乱:1件 反政府運動: 4件 独立問題:1 件 革命:1件 民族紛争:1 件 紛争:5件 事件:3件 問題:5件 争い:2件 危機:1件 運動:1件 戦争は、武力を用いた国家間の闘争であり、国際法上の戦争には、戦時国際 法上の戦争法規の規定が適用される。 独立戦争は、独立を目指した武力を用いた闘争であり、戦争であることには 変わりがない。 内乱は、1 国内における政府と叛徒との兵力による闘争で、国内的には、内乱 罪が適用されるが、交戦団体の承認を受けると国際法上の戦争と看做され、戦 争法規が適用される。 革命は、従来の被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激 に変革することで、フランス革命がその例である。 人種差別とは、人種的偏見で、ある人種を社会的に差別することで、ユダヤ 人排斥や、白人による有色人種に対する差別的待遇などがその例である。 国境線をめぐる争いには、①争いの原因 ②争いの主体 ③争いの相手

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④争いの目標達成の手段等の問題がある。 ① 争いの原因には、差別(人種差別が典型)、抑圧、宗教対立、民族対立 資源(ウラン・金属等)・エネルギー(石油・天然ガス等)や市場の奪い合い 等がある。 ② 争いの主体には、国家、人種、民族、宗教団体等がある。 ③ 争いの相手にも、国家、人種、民族、宗教団体等がある。 ④ 争いの目標達成の手段には、テロ(特定の個人や集団の暗殺、誘拐等)、 暴力(大量殺戮兵器による無差別殺戮等)、戦争等がある。 上記①で、争いの大きな原因のひとつに、エネルギー資源(石油・天然ガ ス等)の奪い合いがあると述べたが、石油や天然ガスの埋蔵量はその国のポ テンシャル(潜在的な成長可能性)として重要な意味を持っている。 これについて少し敷衍すれば、石油や天然ガスは数億年の地球の歴史を経 て地下数千メートルに生成されたものである。これに対し現在の国境線はた かだか19世紀または20世紀に地表面に描かれたものに過ぎない。この人 為的に引かれた国境線は地球上に多くの領土紛争を巻き起こした。そして海 水面についても、国防上の理由から「領海」の概念が生まれ、地表面および 海面の陣取り争いが起こった。そして次に漁業資源をめぐって「200海里 水域」が主張されるようになり、国家の権利は地上から海面へ、そして海面 から海中へと広がっていったのである。 更に20世紀後半には、「地下に眠る天然資源はその領土を支配する国家 のものである」と言う原則が国際社会で認められた。この結果、天然資源の

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うち経済的価値の高い石油・天然ガスと言った炭化水素資源は特に各国の最 大の関心事となり、権利の囲い込み、いわゆる「資源ナショナリズム」が台 頭したのである。現在では「排他的経済水域(EEZ, Exclusive Economic Zone)」 として、大陸棚の地下資源についても探査・開発のための主権的権利が認め られるようになった。 前述の通り、もともと炭化水素資源は地上の国境とは無関係に人類発生以 前の数億年前に地下に形成されたものである。しかし油田或いはガス田が複 数の国の領土・領海(又は排他的経済水域・大陸棚)にまたがっている場合、 関係国の間で当然のごとく資源争奪紛争が勃発する。紛争は近年とみに頻発 しており、それは隣接する二国間だけではなく、多数の国が複雑に絡みあう ことも稀ではない。例えば南シナ海の南沙諸島は取るに足らない珊瑚礁の 島々であるが、中国、フィリピン、台湾、ベトナムなど周辺7カ国が同諸島 の領有権を主張している。これは地下に未発見の石油・天然ガスといったハ イドロカーボン資源があると予測されているからに他ならない。 以下に、宗教対立と地域紛争及び人種・民族対立と地域紛争の問題を詳しく取 り上げたい。 1 宗教対立と地域紛争 世界の地域紛争の背景には、宗教対立があることが多い。宗教は、一神教と 多神教に分けられるが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれも唯一 の神を信ずる一神教で、経典にも共通点が多いが違う部分が強調されて、しば しば紛争になる。

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ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、世界的な広がりをみせており、この 点から世界宗教と呼ばれる。 中東でユダヤ教を母体として生まれたキリスト教は、ローマ帝国が国教と定 めたことでヨーロッパに広がった。ローマ帝国の分裂で、キリスト教もカトリ ックと東方教会に分裂。カトリックからはプロテスタントが分かれた。 イスラム教は、アラビア半島に生まれ、アジアに拡大した。イスラム教は、 預言者ムハマンドの後継者争いから、スンニ派とシーア派に分かれ、その後も 教義の解釈をめぐって、いくつもの派が誕生した。 2 人種・民族対立と地域紛争 世界の地域紛争の背景には、宗教対立以外に、人種・民族対立があることが 多い。人種は白色人種群、黄色人種群、黒色人種群が一般的。民族とは、同じ 土地に生まれた者は、言語、風俗・習慣を共にするわけで、そこに民族感情が生 まれる。いわば人間集団を言語・生活様式・宗教などを基準にして分類したもの。 民族自決とは、各民族が自主的に自己の政治的運命を決定すること。このこ とは、民族国家においては人民が政治体制を自由に決定すること、複数国に分 かれている民族にあっては民族統一を達成すること、異民族の支配下にある民 族にとっては独立を獲得することを意味する。 民族自決のイデオロギーは、19 世紀ヨーロッパにおける民族国家の形成、な らびに20世紀に入ってからの植民地の独立に当たって、大きな役割を果たし た。

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第一章

アメリカ合衆国の領土の形成

アメリカは、世界で3番に大きな領土をもっている。現在、アメリカ合衆国 には、50の州があるが、イギリスから独立した当初は、東海岸の13州しか なかった。アメリカが独立した当時は、西欧列強の植民地が混在し、虫食い状 態のようになっていた。 独立から20年後の1803年、アメリカはフランスからルイジアナを15 00万ドルで、また1819年にスペインからフロリダを購入した。 アメリカは西欧列強からだけでなく、先住民のインディアンからもオハイオ、 インディアナ、イリノイ州を1エーカー(1200坪)1セントという破格の 値段で買い取った。(1エーカー=40,5アール(1アール=10㎡)) そして、1845年には、テキサス州を併合したが、テキサス州はもともと メキシコの領土だった。そして、1821年にメキシコがスペインから独立し たとき、メキシコはテキサスの開発のために国籍を構わず入植を勧めたところ、 アメリカ人が大挙して押し寄せ、結局1836年にテキサスはメキシコに対し て独立を宣言してしまい、そしてテキサスはアメリカに併合して欲しいと打診 してきた。メキシコはこれを断り、アメリカとメキシコの戦争となり、アメリ カは勝利し、勢いに乗じてアメリカはテキサス州のみならず、カリフォルニア とニューメキシコまで手に入れ、これらを代価1500万ドルで購入した。 そして、1867年3月30日アメリカは、ロシアから、アラスカを、72 0万ドルで購入した。これを最後に、アメリカの領土は現在の姿に確定した。

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第二章 日本の領土―北方領土問題、竹島問題、尖閣諸島

問題、沖の鳥島問題

(北方領土問題(日本VS ロシア連邦)) (1)北方領土は、日本にとって、最大の領土問題である。北方領土とは、北海 道の北東部に浮かぶ択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島のことである。 外務省の公表資料によれば、わが国は、ロシア人に先んじて北方領土を発見・ 調査した。遅くとも19世紀始めには、わが国は、四島の実効的支配を確立し た。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島と認識してい た。 北方領土には、江戸時代から日本人が住み、松前藩が管轄していた。185 5年に日露和親条約で、ロシアと日本の国境がウルップ島と択捉島のあいだに 置かれたことから、北方四島は日本の領土であることが正式に確認されたこと になる。 (2)しかし、第二次世界大戦末期に旧ソ連軍は、日ソ中立条約を破棄して対 日参戦し、千島列島を占領併合してしまった。これ以降、日本のたび重なる返 還要求にもかかわらず、北方領土はロシアに属したままになっている。 ロシアが未だに北方四島を返還しないのは、「千島列島」をめぐる解釈の違い によるものだ。1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約で、日本は 千島列島と樺太(サハリン)、それに近接する諸島に対するすべての権利と請求

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権を放棄した。日本側は、ここでいう千島列島には北方四島は含まれないと解 釈し、武力によって奪い取った土地を返還することがうたわれたカイロ宣言も 根拠にして、返還要求を続けている。 (3)1956年、日ソ平和条約締結交渉が行われ、歯舞群島、色丹島につい ては、平和条約の締結後、日本に引き渡すことにつき同意したが、これを除い ては、領土問題につき日ソ間で意見が一致する見通しが立たず、そこで、平和 条約に代えて、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定めた日ソ共同宣言に署 名した。そして、領土問題の交渉の継続につき同意した。 (4)日ソ共同宣言後の日ソ交渉の経過を見れば、① 1973年、田中総理 が訪ソ、日ソ共同声明において、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解 決して平和条約を締結することが、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与す ることを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。」と明記 された。その際、ブレジネフ書記長は、北方四島の問題が戦後未解決の諸問題 の中に含まれることを口頭で確認した。 それにもかかわらず、その後ソ連は長 い間「領土問題は存在しない」との態度を取り続けた。 ② 1991年4月、ゴルバチョフ大統領が訪日し、日ソ共同声明において、 ソ連側は、四島の名前を具体的に書き、領土画定の問題の存在を初めて文書で 認めた。 ③ 1993年10月、エリツィン大統領が、訪日し、東京宣言(第2項)に おいて、(イ)領土問題を、北方四島の帰属に関する問題であると位置づけ、

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(ロ)四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結し、両国関係を完全に正常 化するとの手順を明確化し、(ハ)領土問題を、1)歴史的・法的事実に立脚し、 2)両国の間で合意の上作成された諸文書、及び、3)法と正義の原則を基礎と して解決する、との明確な交渉指針を示した。 ④ 1998年11月小渕総理が、訪露し、モスクワ宣言において、従来の東 京宣言、クラスノヤルスク合意及び川奈合意を再確認し、国境画定委員会及び 共同経済活動委員会の設置を指示した。 ⑤ 2000年9月、プーチン大統領が訪日し、「平和条約問題に関する両首 脳の声明」において、クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続するこ とを確認。これまでのすべての諸合意に立脚して、四島の帰属の問題を解決す ることにより平和条約を策定するため交渉を継続することを確認。 その際、プーチン大統領は、「56年の日ソ平和条約締結交渉における宣言 は有効であると考える」と発言した。 ⑥ 2003年 1 月、小泉総理が、訪露し、両首脳の間で、四島の帰属の問題 を解決し、平和条約を可能な限り早期に締結し、もって両国関係を完全に正常 化すべきとの「決意」を確認した。また、「日露行動計画」において、56年 日ソ共同宣言、93年東京宣言、2001年イルクーツク声明の 3 文書が具体 的に列挙され、今後の平和条約交渉の基礎とされた。

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⑦ 2005年6月に、森前総理が訪露し、プーチン大統領より、11月のAPEC の前後に訪日したい、平和条約問題については、訪日時に小泉総理と真剣な交 渉を行いたい旨述べた。 2005年11、月プーチン大統領が、訪日し、小泉総理より、日ソ共同宣言、 東京宣言、日露行動計画等のこれまでの諸合意は極めて重要かつ有効であり、 これらに基づいて平和条約締結交渉を継続する必要がある、両国には四島の帰 属に関する問題を解決して平和条約を可能な限り早期に締結するとの共通の認 識があり、双方が受け入れられる解決を見出す努力を続けていきたい旨述べた。 これに対し、プーチン大統領より、この問題を解決することは我々の責務であ る、平和条約が存在しないことが日露経済関係の発展を阻害している、他方、 この問題は第二次世界大戦の結果であり、他の問題への連鎖という問題がある 旨述べた。これまでの様々な合意及び文書に基づき、日露両国が共に受け入れ られる解決を見出す努力を行うことで両首脳が一致した。 (5)領土問題に関する日ソ交渉は以上のような経過を辿っており、一向に埒 が明かない状況である。なお、私が、総務事務次官の時、総務庁に北方領土対 策本部 が置かれ、大臣が本部長で、私は副本部長を務めた。そして、事務次官 のとき、根室の北方領土記念館を訪れ、その前にある北方領土展望台から北方 四島を眺めた。 (竹島問題(日本VS 韓国)) (1)外務省の公表資料によれば、竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国 際法上も明らかに我が国固有の領土である。島根県の北西約157キロ沖に位

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置する竹島は、東西ふたつの主島と十数個の岩礁からなる小島だ。東京ドーム の約5倍の広さの同島をめぐって、日本と韓国とのあいだで激しい領有権争い が続いている。 (2)島の周辺は、南からの対馬暖流と北からのリマン寒流の接点になってい て、魚介藻類が豊富に生息する。そのため、古くから日韓双方が漁業基地とし て利用してきた。 島が発見された正確な時期は不明だが、日本人には、江戸時代初期にすでに 知られていたといわれる。1905年(明治38)に日本が閣議で島根県に編 入することを決定したが、当時の韓国には外交権がないも同然で、この決定は 無効だという声が韓国では強かった。 状況が大きく変わったのは、第二次世界大戦後の1946年に連合国軍総司 令部(GHQ)が出した覚書で、竹島を日本の行政区分から分離することが書かれ てからだ。 その後、韓国側はこれを根拠にして領有権を主張したが、日本政府は、これ はただの覚書で政府が承認したわけではないと主張している。それに対して、 韓国側は警備隊を常駐させ、日本の艦船の接近を実力で阻止する実力行使に出 た。 これ以降、竹島の領有権は棚上げされ現在に至っている。 (3)日韓が強硬に領有権を主張するのは、竹島が自国の領土になるかどうか で、200海里の排他的経済水域(EEZ)の境界線が変わってしまうためであ る。政治的な意義に加え、とくに日本にとっては、漁業関係者の権益を守る意 味でも、領土にしておきたいのだ。

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最近では、韓国が竹島を図柄にした切手を発行し、それに対して日本政府が抗 議する事態も起きている。 また、日本の教科書への記述問題を契機に、2008年7月29日、韓国首 相は、竹島を訪問した。 (尖閣諸島問題(日本VS 中国 VS 台湾)) (1)尖閣諸島は、沖縄県八重山諸島の北方約160キロメートルの小島群 で石垣市に属する無人島である。外務省の公表資料によれば、尖閣諸島は、 1885年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現 地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んで いる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年 1 月14日に現地に標杭を 建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした ものである。 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成し ており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割 譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。 従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第 2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南 西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971年6月17 日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協 定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれて いる。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭 に示すものである。

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(2)中華人民共和国政府の場合も、台湾当局の場合も1970年後半、東 シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有 権を問題とするに至ったものである。 また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的な いし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の 領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。 大小の島や岩礁からなる群島で、古くからその存在が知られていた。だが、 無人島ゆえに、どこかの国に所属したという明確な文書は残っていない。 そこで日本政府は、当時の清国の支配がないことを確認し、1895(明治 28)年、領土に編入することを決定した。 ところが、1968年の海底学術調査で、尖閣諸島周辺に世界有数の豊富な 石油資源と天然ガスが埋蔵されていることが確認されると事態は一変。71年 に正式に中国や台湾が領有権を主張し始めたのである。 中国は、日本が領有したのは、日清戦争によるものであり、戦争によって割 譲された土地は元に戻すべきだという立場で、領有権を主張している。 実際のところ、尖閣諸島周辺から本当に石油や天然ガスが採れるかどうか疑 問視する見方もある。だが、そんなことに関係なく、この問題は政治問題化し、 各国の活動家などによる示威行動も盛んにおこなわれている。 2004年には、島に上陸した中国の活動家が沖縄県警に逮捕され、強制退 去処分になる事件が起きるなど、対立は激しくなるばかりだ。 (沖の鳥島問題(日本VS 中国)) (1)沖の鳥島は、台湾よりも南に位置する日本の最南端の島で、東京都に属

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し、水面から高さ約1メートル、直径数メートルのふたつの岩礁が突き出てい るだけの無人島である。 国連海洋法条約では、「満潮時にも水面上にあるもの」として「島」の定義付 けがされているので、沖の鳥島は、立派な「島」である。同島は水没しないだ けでなく、日本は、定期的に観測を行っている。 (2)これだけの小さい島が日本にとって重要なのは、この島の存在によって 周辺の海が日本の排他的経済水域になり、廣く豊かな漁場が確保できるからで ある。同島の排他的経済水域は40万平方キロメートルで、日本の国土面積よ りも廣いのである。 そのため、政府は300億円以上の資金を投じてコンクリートの保護壁を築 き、波による浸食を防いでいる。 (3)しかし、近年、中国が「沖の鳥島は岩だから経済水域は設定できない。」 と主張し始め、同島周辺への海洋調査船を頻繁に送っている。国連海洋法条約 では、他国の経済水域内で海洋調査をおこなう場合、相手国に事前に申請して 同意を得なければならないが、中国は無視している。 もし中国側の「岩」という主張が国連に受け入れられれば、日本は膨大な漁 業資源を損失することになる。日本側は、いままで通り「島」であるという考 えを崩していない。

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第三章 大陸棚と国境線―南極・北極

(大陸棚と国境線) (1)日本の「領土」が一気にいまの1,7倍にも広がるかもしれない、とい う話が進んでいる。日本の周辺の海の話である。 1982年、第三次国連海洋法会議にて、「海洋法に関する国際連合条約」 (海洋法条約)を採択、1994年に発効した。 海洋法条約によれば、陸地の沿岸から12海里(22,2キロメートル)ま では領海、沿岸から200海里(370,4キロメートル)までは「排他的経 済水域」と決まっている。 この排他的経済水域の海底部分が「大陸棚」である。大陸棚とは、陸地から なだらかに続いている海底の土地のことである。すなわち、大陸の周縁に分布 するきわめて緩傾斜の海底で、傾斜の変換点をその外縁とする平らな棚状の地 形をいう。 この大陸棚の地下資源は、大陸棚の沿岸国のもの、という考え方が成立して いる。

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「排他的」とは、「よその国はダメ」という意味。つまり、「領海」ではない けれど、よその国に漁業や海底資源の採掘を認めない水域、ということである。 沿岸国は基本的にこの排他的経済水域である200海里(370,4キロメ ートル)までの海底及び海底下を大陸棚とすることができる。 (2)さらに、海底の地形・地質が一定条件を満たせば、200海里の外側に 大陸棚の限界を設定することが可能であるとされている。 つまり、大陸と連続している地盤であることが証明されれば、さらに「大陸棚」 を延長できる。 このことについて、上記海洋法条約に基づく大陸棚の延長規定では以下の細 目を規定している。 1. 大陸斜面脚部から60海里(111,12キロメートル)の範囲 大陸斜面脚部とは、陸と海の境界である「大陸斜面」の麓(基部)で地形の 傾斜の最大変化点をいう。 2. 堆積岩の厚さが大陸斜面脚部からの距離に対して 1%である範囲 ただし、以下の2つを越えない範囲。 1. 領海の基線から350海里(648,2キロメートル)の線 2. 2500m の等深線から100海里(185、2キロメートル)沖合の線

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以上のことを簡単に言えば、大陸棚の傾斜が終わる場所(傾斜最大変化点)、 つまり大陸棚の足元にあたる「大陸傾斜脚部」から60海里(111,12キ ロメートル)まで延長できる。ただし、無制限ではなく、最大で沿岸から35 0カイリ(648,2キロメートル)となっている。 (3)これが認められるのは、2009年までに、国連の「大陸棚限界委員会」 に科学的な資料を提出して、認定されたときである。 日本の海上保安庁が調査した結果、沖の鳥島や南鳥島の周辺など六ヶ所合計 で、現在の日本の国土(領土)の1,7倍にあたる65万平方キロメートルが 大陸棚に認められる可能性があることが分かった。 ここが、日本の大陸棚に認められれば、海底の地下の資源を探査・開発でき るようになる。政府は、2004年度予算で、100億円かけて厳密な調査を 始めることになった。 (南極の領有権問題) 南極は、どの国の領土でもない。しかし、極寒のこの地に日本をはじめ、数 多くの国が基地を建設している。日本の昭和基地など、南極には2003年時 点で28基地もある。 参加している国は日本を含めたアジアから、北米や南米、さらにはヨーロッ パまでさまざまだが、こんなに寒くて何もない南極に、なぜ各国が基地をつく りたがるのか。 観測基地というだけあって、その目的のひとつは、地球の歴史がわかるとい う南極の氷の調査である。

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しかし実際は、氷の下に眠っている金・銀・プラチナなどの金属資源や、石 油や天然ガスなど、豊富な資源の開発が目的なのである。 過酷な気象条件で、長らく人跡未踏だった南極は、その資源も手つかずのま ま残っている。 現在は、中東地域で豊富に産出する石油もやがて枯渇してしまう。したがっ て、ほかの地域で豊富な資源を探さなければならない。そこで、各国が注目し たのが、南極だったのである。 南極圏にはじめて人類が足を踏み入れたのは、18世紀後半のことで、最初 は、アザラシやオットセイの捕獲が目的だったとされる。 20世紀に入ると、ノールウエーとイギリスの探検隊が相次いで南極圏に到 達した。 1908年、イギリスが領有権を主張しはじめると、それからはノールウエ ー、フランス、ニュージランド、オーストラリア、アルゼンチンが領有権を主 張し、一触即発の状態となった。 第二次世界大戦後、領有権を主張する国はさらに増えた。日本も57年に昭 和基地を開設している。 しかし、資源の開発は、新たな戦争の火種となり、南極の環境破壊につなが ると、61年に基地を持つ12カ国によって、「南極条約」が結ばれた。この条 約によって、南極での資源の開発は禁止となり、南極の自然は保たれたといえ る。 さらに、91年には、最低50年間は資源の発掘は禁止となり、南極はどこ の国のものでもないと改めて確認がなされた。

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現在南極では、各国が協力し合って観測を続けているが、いつまでこの状態 を続けていくことができるであろうか。

北極の領有権問題) 地球温暖化を科学的に研究している国連の「気候変動に関する政府間パネル」 (IPCC)の調査によると、北極圏の平均気温は、過去100年間で2度上昇し ている。地球全体の平均気温の上昇率の2倍に達している計算である。 北緯90度に当たる北極点を中心とした北極圏の総面積は2500万から3 000万平方キロメートル、この圏内に埋蔵されている石油・天然ガスの量は 地球の陸地全体の埋蔵量の約4分の 1(約100億トン)に当たると推定される。 従来、北極海は分厚い氷で覆われて、海底の資源開発は困難と考えられてき たが、最近の温暖化によって、北極海の海氷は縮小する一方で、海底の資源探 査と開発は容易になる方向である。 これまで、北極海に隣接するロシアやアメリカ、カナダ、ノルウェー、デン マーク(グリーンランド)など5カ国は、互いに北極に対する領有権を主張し てきた。北極海については、1920年代に、旧ソ連やアメリカ、カナダ、ノ ルウェー、デンマーク(グリーンランド)の沿岸5カ国が、領土の東西の端と 北極点を結ぶ三角形の範囲に領有権を持つことで合意していた。しかし、19 94年に発効した国連海洋法条約で、領海は12カイリ(約22,2キロ)、排 他的経済水域は200カイリ(約370キロ)と定められた。これにより、ロ シアは、それまで沿岸国の合意で認められていた広大な海域の領有権をうしな った。ただし、国連海洋法条約は、排他的経済水域の外側でも、それが大陸棚

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であれば、大陸に位置する沿岸国が資源開発の権利を持つことを認めている。 ロシアは、北緯88度の地点にある北極海底の「ロモノソフ海嶺」が東シベ リアと大陸棚で繋がっていることを立証しようと努めている。そして、200 7年8月、ロシアの探査船「アカデミック・フェドロフ」号は、砕氷船「ロシ ア」号と共にムルマンスクを出港、ロシア号が先頭に立ち北極海の氷を砕いた おかげで、フェドロフ号は夜8時、無事に北極点に到着、翌日午前、史上初め て水深4200メートルの北極海底に小型潜水艇「ミール」(ロシア語で「世界」 の意味)2隻を送り込み、ロシア国旗が付いたチタン製のカプセルを埋めるこ とに成功した。ロシアによる北極探査の意図は、この地域に埋蔵された石油と 天然ガスの所有権を前もって公認させることにある。ロシアは、海底に旗を立 て北極の領有を主張したわけである。 しかし、競争国は依然としてロシアによる大陸棚連結の事実を認めていない。 このロシアの行動に対し、カナダは、北極海のレゾリュート湾に、新たな軍 の訓練施設を建設する方針を決定し、早速警備隊を増強している。 また、デンマークもスエーデンと合同の調査隊を北極海に派遣して、北極海の ロモノソフ海嶺が、自国の大陸棚であることを証明しようとしている。

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第四章 イスラエルとパレスチナの問題

(1)イスラエルという国は、ユダヤ人が積年の悲願で作った国である。 この問題の発端は、第一次世界大戦までさかのぼる。第一次世界大戦前、現 在のイスラエルがあるパレスチナ地方は、イスラム教の強国オスマン帝国の支 配下にあった。第一次世界大戦では、イギリス、フランス、アメリカ、イタリ ア、日本などの連合国側に対し、オスマン帝国はドイツとの同盟関係から、ド イツ、オーストリア、トルコなどの同盟国側として参戦した。この大戦中に、 ロシアで革命が起こり、史上最初のプロレタリア独裁の社会主義政権が誕生し た。 当時のユダヤ人社会では、同盟国側を支持するものが多かった。当時もっと もユダヤ人を迫害していたのはロシアであり、そのため、ロシアと戦うドイツ を支持していたのだ。 (2)大きな金融力をもつユダヤ社会を、両陣営とも引き入れたかった。苦戦 していた連合国側のイギリスは、ユダヤ人社会に大きな約束を持ち出した。戦 争終結後には、パレスチナ地方にユダヤ人のナショナルホームを作る、という ものである。イギリスの出した提案は、ユダヤ人社会の願望を捉えたものだっ た。このイギリスの出した提案は、当時のイギリスの外務大臣バルフォアが、 ユダヤコミュニティの長・ロスチャイルドに送った手紙から「バルフォア宣言」 と呼ばれるが、「バルフォア宣言」では、ユダヤ人の「ナショナルホームを作る」

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となっており、「ユダヤ人国家を作る」というわけではなかった。しかし、ユダ ヤ人たちは、「自分たちの国家を作れるもの」と解釈した。 ところが、イギリスの約束は空手形だった。パレスチナをめぐってイギリス は三方に異なる提案をしていたのだ。 1つは、同盟国フランスに対してのもので、中東全体をイギリス、フランス の両国で分割をするという提案だった。第一次大戦での同盟国であり、当時、 世界の強国だったフランスの機嫌をとったわけである。 2つめは、アラブ社会に対してのもので、パレスチナを含めて中東でオスマ ン帝国に代わるアラブ王国を樹立させるという提案だった。当時、イスラム世 界の大部分はオスマン帝国の支配下にあったが、それをよく思わない部族もあ ったので、戦後の独立を条件に各部族に反乱をおこさせたのである。 そして最後の1つがユダヤ人のナショナルホーム建設の提案だった。 つまりイギリスは中東のパレスチナ地方を三者に与える約束をしたのだ。 (3)第一次大戦後のパレスチナ地方は当然、混乱した。パレスチナ地方は、 国際連盟での決定によりイギリスの信託統治区域とされた。 第一次大戦終結時には、パレスチナには約75万人の住民がおり、そのうち 65万人がアラブ人だった。ユダヤ人も住んでいたが、ごく少数に過ぎなかっ た。両者は親密とまではいえないものの、ほぼ平穏に共存していた。しかし、「バ ルフォア宣言」を受けてユダヤ人の大量移住が始まると、それに対して、アラ ブ人社会は大反発をした。そして、パレスチナでは、ユダヤとアラブの小競り 合いが頻発し、大惨事になることもしばしばだった。 (4)第二次世界大戦期間中、600万人のユダヤ人が殺害され、ユダヤ人の

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国の建設はユダヤ人の悲願となった。そして、第二次世界大戦後、パレスチナ でのユダヤ人とアラブ人の対立は、限界点に達し、イギリスは、ついに信託統 治を諦め、パレスチナを国際連合に任せることにした。国連では、パレスチナ を3つに分割し、ユダヤ人の自治区、アラブ人の自治区、そして各宗教の重要 な資産があるイスラエルの一部は国連の管理下に置くという提案をした。ユダ ヤ側はしぶしぶながらその提案を受け入れたが、アラブ側は受け入れなかった。 ユダヤ側には得るものがあったが、アラブ側には失うものしかなかった。 1947年5月14日、イギリスの委任統治の終了と同時にパレスチナのユ ダヤ人は、イスラエルの建国を宣言した。それと同時に、独立を承認しない周 辺のアラブ諸国との戦争が勃発した。第一次中東戦争である。アラブ側は相互 の連携をとることができなかったため、必死のイスラエル軍の前に敗退を重ね た。この第一次中東戦争は1949年に休戦協定が結ばれ、終了するが、アラ ブ側は多くを失うこととなり、逆にイスラエルは、国連が決めたユダヤ人の自 治区以上の地域を支配することとなり、この休戦協定ラインが、現在国際的に 認められているイスラエルの国境である。 (5)1956年、エジプトはスエズ運河を国有化しようとした。スエズ運河 のそれまでの所有者だったフランスとイギリスは、イスラエルをけしかけてエ ジプトを攻撃した。第二次中東戦争である。しかし、米ソは、イギリス、フラ ンス、イスラエルの各軍に撤退を要請した。この第二次中東戦争は、イギリス・ フランスの時代から完全に米ソの時代に移ったことを表した出来事だった。 (6)1967年には、パレスチナの民族運動を支援していたエジプト、シリ アに対して、イスラエルが先制攻撃を仕掛ける第三次中東戦争がはじまった。

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このときのイスラエル軍は、装備も兵力も建国当時とは格段に拡充し、アラブ 軍を徹底的に蹴散らした。たった6日で終結したこの戦争で、イスラエルはこ れまでの4倍以上の地域を支配することとなった。第三次中東戦争で、イスラ エルが得た領土は、エジプト領ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン領ヨルダン川 西地区、シリア領ゴラン高原で、このうち、シナイ半島は1979年にエジプ トに返還した。ゴラン高原などには、すでにユダヤ人入植がはじまっている。 (7) パレスチナ自治区は、イスラエルの中央部を占めるヨルダン川西岸と、 地中海に面した南西部のガザ地区である。ヨルダン川西岸の面積は三重県とほ ぼ同じで、ここに210万人のパレスチナ人が住んでいる。ガザ地区は種子島 より小さく、110万人が暮らしている、大変な人口密集地である。 (8)1973年10月アラブ側がイスラエルを攻撃して、第四次中東戦争が 勃発したが、米ソが双方への武器補給をとめたため、決定的な勝敗はつかなか った。 度重なる中東戦争の結果、住む家を失って難民となったパレスチナ人は38 7万人にも達している。 パレスチナ自治区に「パレスチナ国家」を樹立する方針だけは決まっている が、パレスチナ過激派による爆弾テロと、それに報復するイスラエル軍の暗殺 作戦の応酬で、和平への道は見えていない。 (9)中東問題を解決するため、1993年、イスラエル軍がヨルダン川西岸 とガザ地区から撤退し、ここにパレスチナ自治区を作る合意が成立し、パレス チナ自治政府も誕生したが、そこから先へはなかなか進まない状況である。 (10) 中東問題の解決をめざして、2003年6月、新しい「ロードマッ

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プ」をイスラエルのシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッパス首相が、ア メリカのブッシュ大統領の仲介で了承した。 (11) 中東和平プロセスの混迷とパレスチナ内部の混乱が続く中、200 4年10月末アラファト PLO 議長は、入院先のパリで逝去した。これを受けて、 アッバース・前 PA 首相が PLO 議長職を継承した。 (12)2005年 1 月 9 日、新たな自治政府長官を選出する選挙が実施され、 アッバース議長が約 63%の得票率で圧勝、アッバース PA 大統領は、ハマスを始 めとするパレスチナ諸派との対話を重ねると同時に、ガザ地区に治安部隊を展 開する等、治安情勢の沈静化に一定の成果を上げた。2005年 2 月 8 日、シ ャルム・エル・シェイクにてムバラク・エジプト大統領、アブダッラー・ヨル ダン国王、アッバース PA 大統領、シャロン・イスラエル首相による四者首脳会 談が実現し、軍事活動と暴力の停止を双方が宣言し、西岸 6 都市の治安権限の 移譲、パレスチナ人拘禁者 900 名の釈放等につき合意された。2005年 9 月、 イスラエルによるガザ撤退が無事完了した。しかし、ガザ撤退完了後、武装組 織による祝賀パレードにおける爆発事件、武装勢力のイスラエル領内に向けて ロケット砲の発射、これに対しイスラエル軍の武装勢力幹部の暗殺・逮捕等ガ ザ地区の情勢は不安定な状況が続いた。 (13)パレスチナ情勢は混迷を深めながらも和平努力が継続されている。2 006年 1 月、第2回パレスチナ立法評議会(PLC)選挙が行われ、イスラエル を承認せず、対イスラエル武装闘争継続を標榜するハマスが過半数の議席を獲 得し、3 月、ハマス幹部であるハニーヤ PLC 議員を首相とするハマス主導の自治

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政府内閣が成立した。イスラエルは PA 内閣との接触を停止(アッバース大統領 及びその周辺との接触は維持)した。 更に、6 月 25 日にガザ地区で発生した パレスチナ武装勢力によるイスラエル兵士の拉致事件を契機に、イスラエル軍 がガザ地区に侵攻。更にイスラエルは、テロ組織への関与の容疑で、ハマス関 係者である PA 閣僚や PLC 議員等多数を逮捕、収監した。他方、パレスチナ人の 間でも、PLO 主流派のファタハとハマスの間での内部抗争が激化し、パレスチナ 人同士の衝突で多数の死者が発生した。この事態を打開するため、アッバース 大統領とハマスの間で、ファタハ、ハマス等パレスチナ諸派が参加する「挙国 一致内閣」を樹立するための協議が重ねられ、2007年 2 月、サウジアラビ アの仲介で同内閣樹立の合意に至り、3 月、再びハニーヤ首相を首班としながら も、非ハマス系閣僚を多数含めた挙国一致内閣が成立。 (14) しかしながら、2007年 5 月上旬頃よりガザ地区でのファタハと ハマスの対立は再び激化し、6 月14日、ハマスの部隊はガザ地区内の大統領府 や保安警察本部を占拠、ガザ地区全域の掌握を宣言する事態へと至った。この 事態を受け、アッバース大統領はパレスチナ自治区全域を対象に緊急事態を宣 言し、ハニーヤ首相を罷免、ハマス関係者を排除し、ファイヤード前財務庁長 官を首相とする緊急内閣を成立させた。その結果、パレスチナ自治区はアッバ ース大統領側が統治する西岸地区と、ハマスが支配するガザ地区に事実上分断 された。イスラエルは、和平プロセス進展に再び尽力し始め、イスラエル・パ レスチナ間の首脳会談が定期的に開催され、双方の対話は活発化した。また、 2007年11月には、ブッシュ米大統領が提唱した中東和平に関する国際会 議がアナポリスで開催され、2008年中の和平合意に向け、イスラエル、パ

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レスチナ双方が努力することで合意した共同了解が発出された。続いて12月 には、財政危機が懸念される PA を支援するため、パレスチナ支援プレッジング 会合が仏主催によりパリで開催され、参加した約80カ国・機関より、総額約 77億ドルがプレッジされた。 (15) シャロン・イスラエル首相の後任にオルメルト首相が就任したが、 個人的に癌にかかっていることの告白や多額の金銭受領の疑惑があり、200 8年7月28日、元首相の国防相からの糾弾で、首相を辞任した。なお、同年 8月8日の北京オリンピック開会式には、イスラエルからペレス大統領が出席 した。

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第五章 中国が絡んだ国境紛争

(中・ロ全国境線確定) (1)冷戦時のソ連は、共産圏の親玉で、アメリカに匹敵する軍隊、さらに1 万発以上の核ミサイルを持つ超大国だった。アメリカをはじめとする西側諸国 も、ソ連と直接戦闘にならないよう神経を使っていた。 だが、そうしたソ連に、唯一、自分から戦争を仕掛けた国が中国である。 中国とソ連は同じ共産圏に属する国のため、最初は非常に仲がよかった。し かし時が経つにつれて、外交政策の違いなどから袂を分かつようになる。(19 57年、西側諸国との平和外交を展開し始めたソ連は、59年になって突如、 中国への原爆の技術供与を停止した。また同年、中国はチベットをめぐってイ ンドと武力衝突したが、ここでもソ連は中立の立場をとったため、援助を当て にしていた中国の思惑がはずれてしまう。そうした経緯で、両国の関係は急激 に悪化していったのである。) (2)そして中国の建設当初から抱えていた国境問題が再燃してきたのである。 中国とソ連(当時はロシア)が、近代的な意味での国境線を引いたのは1858 年から60年にかけてである。しかし、当時のロシアは清の末期、清国がイギ リスにアヘン戦争に負けたばかりのときである。対等の話し合いをするには、 両国の間に力の差がありすぎたため、中国側にとってみれば、このときに決ま った国境線は、自国に不利なものだったという認識が残った。

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その後、ロシアで革命が起き、ソビエト連邦が誕生する。 それから第二次大戦が終わるまでは、中国とソ連の国境付近には日本が満州 国を作っていたため、両国が直接対立することはなかった。 (3)しかし、1945年に日本が降伏すると、国境付近にソ連が怒涛の勢い でなだれ込んだ。一方の中国は、まだ中華人民共和国の建国前の混乱の段階に あり、とても国境に注意を配る余裕はなかった。そういうどさくさの中で、中 国とソ連の新しい国境は決められた。それが中国の不満の種だった。 中国とロシアの国境の半分は、アムール川、ウスリー川といった河川に沿っ て引かれている。これらの大河の中には、2500もの島々があったのだが、 ソ連はそのほとんどを我が物にしていた。 通常、河川を国境にする場合は、その河川の領有権は両国で均等に分けるこ とになっており、また、河川に島がある場合も、同じように均等に分けるのが 普通である。そのため、中国はたびたび「河川の中の島を半分渡してくれ」と ソ連に打診していたが、ソ連は受け付けなかった。 業を煮やした中国は1969年3月、ついに実力行使に打って出て、ウスリ ー川に浮かぶ珍宝島を強襲した。それを皮切りに中国とロシアの国境全体で小 競り合いが起こった。このとき、ソ連も中国も核兵器を持っており、もし両国 が本気で戦い始めれば、核戦争に発展するおそれもあった。 (4)この紛争はほどなく停戦を迎えるが、珍宝島を含む、河川の島々の領有 権は後々まで争われ、結局、中国が珍宝島の領有権を手にしたのは、1991 年の中ソ国境協定でのことだった。 そして、中国のヤンチェチー外相とロシアのラブロフ外相は、2008年7

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月21日、北京で会談し、中ロの東部国境確定に関する議定書に署名した。 大ウスリー島の半分が中国に引き渡される。かつて武力衝突にも発展した両国 間の国境紛争は、40年に及ぶ交渉を経て最終決着し、約4300キロにわた る国境線がすべて確定された。 両国は05年、ハバロフスク西方のアムール川(中国名・黒竜江)とウスリ ー川の合流点に位置する大ウスリー島の東部をロシア領に、同島西部と隣接す るタラバロフ島(中国名・銀竜島)を中国領にすることで合意し、詰めの交渉 が続いていた。 (中印国境紛争) (1)中印国境紛争とは、中華人民共和国とインドの国境問題により生じた紛 争のことである。 インドと中国は途中でネパールとブータンを挟んで長く国境を接しているが、 ほぼ全域がヒマラヤ山脈といった高山地帯であり、正確な国境はあいまいであ った。その国境の解釈をめぐって武力衝突が起き、1959年9月から始まり、 1962年11月には大規模な衝突に発展した。主にカシミールとその東部地 域、ブータンの東側で激しい戦闘となったが、中国軍が圧倒的勝利を収めた。 現在アクサイチンは中国が実効支配している。停戦の前日に中国政府から発表 された4つの声明は、国際社会から好評をもって受け入れられ、インドは政治 的にも敗北した。

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(2)この紛争は、インドが核開発を開始するきっかけともなった。また中ソ 対立の影響で、インドをソビエト連邦が支援していた。印パ戦争ではパキスタ ンを中国が支援しており、大国の対立が色濃く影響していた。 2005年、マンモハン・シン首相と温家宝首相の間で、両国が領有を主張す る範囲の中で、人口密集地は争いの範囲外とする合意がなされ、両国にとって 戦略上重要とされるアルナーチャル・プラデーシュ州、特にタワン地区は、現 状を維持している。 日本の学校教育用地図帳では、両国主張の境界線をともに引いた上で、地域は 所属未定とする手法がとられている。 (ベトナム戦争) (1)1945年 8 月に第二次世界大戦が終結すると、 アジアや中南米、 ア フリカにある多くの植民地で、宗主国の弱体化を背景にした軍事行動を伴う激 しい独立運動が発生し、独立運動家と既得権を守ろうとする欧米列強の宗主国 との間での紛争が繰り返し起きた。 (2)独立運動は共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多く、ア メリカに対抗する共産主義体制のボス的存在であるスターリンに率いられるソ ビエト連邦は、当然、各地の共産主義勢力を支援したが、米ソともに核兵器を 保有していることから直接戦うことは避け 冷たい戦争 と呼ばれる冷戦構 造が成立した。

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(3)その対立は朝鮮戦争やキューバ危機、ベルリン封鎖に見られるように代 理戦争の形をとって表面化した。自由主義の盟主を自認するアメリカは、中華 人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義政権の成立が ドミノ倒し のように 発生したこともあって、一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くとい うドミノ理論に怯え、アジアや中南米諸国の反共産主義勢力を支援して各地の 紛争に深く介入するようになった。 (4)1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴い、1940年8月より宗 主国であるフランスの主権擁護を条件に仏領インドシナに進駐していた日本軍 が撤退すると、コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンはハノイに首都 を置いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ、共産主義を基礎にし た国造りを目指した。 (5)しかし、日本軍が去った後のインドシナ一帯の再支配を目論む旧宗主国 のフランスは独立を認めず、インドシナ一帯に再進駐した。 その後フランス軍は同年12月19日にベトナム民主共和国へ武力攻撃を開始 し、第一次インドシナ戦争が勃発した。またフランスは、1948年にベトナ ム臨時中央政府を発足させたり、さらに1949年6月、ベトナム国をサイゴ ン市に成立させて、首班に旧皇帝バオ・ダイを据え、その威光を利用したりす るなどして、傀儡政府に対してベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。 (6)その後フランスは、同じインドシナのラオスを同年 7 月に、カンボジア を 11 月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつ、ベトナム国の正当性 を強調しようとした。しかしその様な中、同年10月にベトナム民主共和国の

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隣に共産主義の中華人民共和国が成立すると、翌1950年 1 月にソ連と中華 人民共和国がベトナム民主共和国を正当政権と認証し、武器援助を行うように なった。この承認に対抗しアメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を 開始した。 その様な状況下で少しずつ劣勢におかれつつあったフランス軍は、ベトナム民 主共和国軍に惨敗し、事実上壊滅状態に陥り、ベトナムをはじめとするインド シナ一帯からの撤退を余儀なくされた。 (7)その後フランスはベトナム民主共和国とスイスにおいて和平交渉を開始 し、同年7月には関係国の間で和平協定である「ジュネーブ協定」が成立した。 これによりベトナム民主共和国の独立が承認されることになったが、冷戦下に おける共産主義の東南アジア台頭を恐れ、第一次インドシナ戦争中を通じて同 盟関係にあるフランスを積極的に支援し続けたアメリカは、それに対抗して、 北緯17度でベトナムを南北に分割させ、南に元々はフランスの傀儡政権であ る、「ベトナム国」を存続させた。 アメリカはフランスが第一次インドシナ戦争に敗北しベトナムを撤退して以降 は、反共産主義的な姿勢を堅持した南ベトナムの歴代政権を「ドミノ理論」を 根拠に、フランスに代わり軍事、経済両面で支え続けた。 (8)その機に、1960年に北のベトナム民主共和国に指導された南ベトナ ム開放民族戦線(ベトコン)が結成され、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ 活動を本格化させた。南ベトナム解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導し

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ていたが、その後南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や自由主義者な どの、共産主義者とは縁遠い一般国民も多数参加していくことになる。 (9)アメリカによるベトナムへの軍事介入はジョンソン大統領によってより 増強され、泥沼化した。 1963年11月のケネディの暗殺に伴い、ケネディ政権の副大統領であった ジョンソンが大統領に就任する。その後ジョンソン政権は、ケネディが推し進 めた軍事介入政策をそのまま転換することなく戦争介入の体制が整って行く。 翌年8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が 可決され、ジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれ た。ジョンソン大統領は即日、報復として解放戦線勢力圏と同時に、トンキン 湾事件報復を口実として首都・ハノイ市などの北ベトナム中枢への爆撃(北爆) を命令した。 その後アメリカは、北から南への補給路を断つため隣国ラオスやカンボジアに も攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュ といった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。 アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベト ナム兵士をあぶり出す為に枯葉剤をまき散らした。 (10) 戦地から遠く離れているものの、テレビ中継により多くの国民が戦闘を 目の当たりにしていた「戦争当事国」のアメリカでは反戦運動が高揚していた。

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同時期には日本やフランス、イタリアなどの当事国ではない西側諸国でも、左 翼学生を中心とした運動と絡めた形で大規模な反戦運動が行われていた。 ジョンソンに代わって1969年1月20日に登場した共和党のニクソン大統 領は、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍 を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようとこのとき 54 万人に達し ていた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり8月までに第一陣25,000 名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。 (11) 11月からは米ソ戦略兵器削減交渉の予備会談が行われ、1970年 4月からは本会談に入った。冷戦は緊張を緩和し、いわゆるデタントの時代に 入る。 ホーチミンは、1969年の 9 月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院に て79歳の生涯を閉じた。 就任以前から段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年 1 月の 大統領就任直後よりキッシンジャー大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和 平交渉を開始させたが、1972年の北爆の再開などにより交渉は難航を重ね た。この年4月、ニクソン大統領は北ベトナムの隣国である中華人民共和国を 電撃訪問する。共産圏の大国である中華人民共和国を訪問したことは、国境を 接する北ベトナムについてや、中華人民共和国が同じく隣国のカンボジアのポ ル・ポトを支援している事が関連していると考えられた。

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(12)秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日、 北ベトナ ムの特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印にこぎ つけた。そして4日後の1月27日に、チャン・バン・ラム南ベトナム外相と アメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官、グエン・ズイ・チン北ベトナム 外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間でパリ 協定が交わされた。この「和平協定」調印へ向けての功績を称え、レ特別顧問 とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問 は受賞を辞退した。 (13)1973年のベトナム戦争終結から、35年経った現在、ベトナムは 様変わりで、ベトナムはここ最近の2年間でもかなり変わってきた。アジアで は中国に次いで経済成長率(GDP)が高く、毎年 7%以上の成長を続けており、ど んどん道路やビル、高層マンションなどが建っている。また自動車の数も2年 前の5倍くらいに飛躍的に増え、朝夕の通勤渋滞が発生している。

(南沙諸島領有権問題)

(1)南沙諸島またはスプラトリー諸島とは、南シナ海に浮かぶ約100の大 変小さな島々で構成され、互いの距離は十数キロメートルから数十キロメート ル程度で位置している。 一般の人が普通に居住できる環境ではなく、島そのものにはほとんど価値が無 いが、海洋・海底資源が見込める。そのため台湾、中国、ベトナム、フィリピ ン、マレーシア、ブルネイが領有権を主張している。現在、島を実効支配して いるのは台湾、中国、フィリピン、ベトナムなどである。

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(2)インドシナ半島を植民地としていたフランスが1930年からいくつか の島々を実効支配していたが、1939年にヨーロッパでの戦争が始まるのと 前後して日本が中沙諸島と共に領有を宣言し占領、以降太平洋戦争終結まで支 配していた。 1951年のサンフランシスコ講和条約で領有権を放棄するまで日本が領有権 を主張していた。行政区分は昭和13年12月23日閣議決定により台湾の高 雄市の一部としていた。 (3)しかし、帰属先を明確にしなかったためにその後1949年にフィリピ ンが領有を宣言し、1956年以降は南ベトナムがたびたび上陸し、南ベトナ ム政府が1973年9月に同国フォクトイ省への編入を宣言したことに対し、 中国も翌年 1 月に抗議声明を出して領有権主張を本格化させていった。 (4)1970年代後半に海底油田の存在が確認され、広大な排他的経済水域 内の海底資源や漁業権の獲得のため、各国が相次いで領有を宣言している。ま た広大な地域に広がる島々は軍事的にも価値がある。中国を含めた ASEAN での 会議で軍事介入はせず現状維持の取り決めが結ばれたが、最近中国の人民解放 軍が建物を勝手に建設しマレーシアなどから非難を浴びている。 1983年にはドイツ人のアマチュア無線家のグループがキャンプを張っての 移動運用を試み、ベトナム軍の守備隊に銃撃されて死傷者が出る騒ぎになった。 (5)1995年に米比相互防衛条約が解消されると、中国軍の活動が活発化 し、フィリピン主張の島を占領して建造物を構築した。

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2004年9月に、フィリピンと中国が海底資源の共同探査で2国間合意が成 立し、2005年3月には、フィリピンと中国の2ヶ国に続きベトナムも加わ り、探査が行われている。 (6)2007年11月中旬に中国側が中沙諸島だけでなく、南沙、西沙の両 諸島にまで行政区「三沙市」を指定したことをきっかけとして、同年12月に ベトナムで「中国の覇権主義反対」などと唱える反中国デモが発生した。 2008年 1 月に台湾が実効支配する南沙諸島最大の島である太平島に軍用空 港を建設完成させた(滑走路は全長1150メートル、幅30メートル)。そ の後、台湾総統が視察に訪れ、フィリピン政府の抗議を受けた。 (朝鮮戦争・朝鮮統一問題) (1)太平洋戦争における日本のホツダム宣言受諾無条件降伏は、これまで植 民地であった朝鮮半島に軍事的空白を生み出した。日ソ不可侵条約を破棄し、 対日戦線に加わったソ連軍が満州から朝鮮に勢力をのばそうとしていたが、米 軍には朝鮮半島の全てを占領管理する兵力が不足しており、当時の米国の首脳 はソ連と協議し、日本軍武装解除のための米ソ軍管轄区域の境界を38度線と して分割占領した。 (2) 米・英・ソ三国はヤルタ・ポツダム両会談の決定にしたがって、戦後処 理の問題を解決するためモスクワで会議を開き、朝鮮を独立国として再建する ことを前提として、臨時朝鮮民主政府を設立するために会談をもつとの合意み たが、ソ連の力による共産化政策で東欧諸国に次々と共産主義政権が樹立され たことから、アメリカの封じこめ政策が始まり、話し合いによる朝鮮独立問題

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の解決は難しくなった。 このため、アメリカは朝鮮問題の解決を国連に付託し、国際機関の場での解決 を期待した。 一方、南朝鮮では1948年5月、内外の反対を押し切り総選挙を行うと共 に同年8月15日大韓民国として独立を宣言した。このような、南朝鮮の動き に対応して北朝鮮こおいても8月25日に最高人民会議の総選挙行い、9月8 日憲法を採択して朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言、分裂国家としての道 を歩きはじめたのであった. (3)国連第3回総会は、会期最後の12月12日に至って、ソ連の反対を押 し切って、朝鮮問題に関する米・中(台湾)・豪三国共同決議案を48対6で 採択した.主な内容は次のとおりであり、 ① 韓国政府を国連監視下の自由選挙に基づく、唯一の 合法政府であるこ とを宣言する。 ② 米ソ両国に、在野占領軍をできるかぎり早く撤退させるよう勧告する。 これにより、統一朝鮮を話合いによって実現する道を最終的に閉ざしたことと なった。 (4)韓国は、米軍の撤退が国家の安全を脅かすものとして、駐留を要請する が、アメリカは国連の決議に従い、1949年6月29日、約500名の軍事 顧問団をのこして撤兵を終了させた。 ソ連は国連決議に先立ち撤兵を開始し、1948年12月30日撤兵を完了 したとモスクワ放送は報じている。 (5)北朝鮮ではソ連の援助を得て経済の再建を図ると共に軍事力の整備に努

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