第五章 中国が絡んだ国境紛争
(中・ロ全国境線確定)
(1)冷戦時のソ連は、共産圏の親玉で、アメリカに匹敵する軍隊、さらに1 万発以上の核ミサイルを持つ超大国だった。アメリカをはじめとする西側諸国 も、ソ連と直接戦闘にならないよう神経を使っていた。
だが、そうしたソ連に、唯一、自分から戦争を仕掛けた国が中国である。
中国とソ連は同じ共産圏に属する国のため、最初は非常に仲がよかった。し かし時が経つにつれて、外交政策の違いなどから袂を分かつようになる。(19 57年、西側諸国との平和外交を展開し始めたソ連は、59年になって突如、
中国への原爆の技術供与を停止した。また同年、中国はチベットをめぐってイ ンドと武力衝突したが、ここでもソ連は中立の立場をとったため、援助を当て にしていた中国の思惑がはずれてしまう。そうした経緯で、両国の関係は急激 に悪化していったのである。)
(2)そして中国の建設当初から抱えていた国境問題が再燃してきたのである。
中国とソ連
(
当時はロシア)
が、近代的な意味での国境線を引いたのは1858 年から60年にかけてである。しかし、当時のロシアは清の末期、清国がイギ リスにアヘン戦争に負けたばかりのときである。対等の話し合いをするには、両国の間に力の差がありすぎたため、中国側にとってみれば、このときに決ま った国境線は、自国に不利なものだったという認識が残った。
その後、ロシアで革命が起き、ソビエト連邦が誕生する。
それから第二次大戦が終わるまでは、中国とソ連の国境付近には日本が満州 国を作っていたため、両国が直接対立することはなかった。
(3)しかし、1945年に日本が降伏すると、国境付近にソ連が怒涛の勢い でなだれ込んだ。一方の中国は、まだ中華人民共和国の建国前の混乱の段階に あり、とても国境に注意を配る余裕はなかった。そういうどさくさの中で、中 国とソ連の新しい国境は決められた。それが中国の不満の種だった。
中国とロシアの国境の半分は、アムール川、ウスリー川といった河川に沿っ て引かれている。これらの大河の中には、2500もの島々があったのだが、
ソ連はそのほとんどを我が物にしていた。
通常、河川を国境にする場合は、その河川の領有権は両国で均等に分けるこ とになっており、また、河川に島がある場合も、同じように均等に分けるのが 普通である。そのため、中国はたびたび「河川の中の島を半分渡してくれ」と ソ連に打診していたが、ソ連は受け付けなかった。
業を煮やした中国は1969年3月、ついに実力行使に打って出て、ウスリ ー川に浮かぶ珍宝島を強襲した。それを皮切りに中国とロシアの国境全体で小 競り合いが起こった。このとき、ソ連も中国も核兵器を持っており、もし両国 が本気で戦い始めれば、核戦争に発展するおそれもあった。
(4)この紛争はほどなく停戦を迎えるが、珍宝島を含む、河川の島々の領有 権は後々まで争われ、結局、中国が珍宝島の領有権を手にしたのは、1991 年の中ソ国境協定でのことだった。
そして、中国のヤンチェチー外相とロシアのラブロフ外相は、2008年7
月21日、北京で会談し、中ロの東部国境確定に関する議定書に署名した。
大ウスリー島の半分が中国に引き渡される。かつて武力衝突にも発展した両国 間の国境紛争は、40年に及ぶ交渉を経て最終決着し、約4300キロにわた る国境線がすべて確定された。
両国は05年、ハバロフスク西方のアムール川(中国名・黒竜江)とウスリ ー川の合流点に位置する大ウスリー島の東部をロシア領に、同島西部と隣接す るタラバロフ島(中国名・銀竜島)を中国領にすることで合意し、詰めの交渉 が続いていた。
(中印国境紛争)
(1)中印国境紛争とは、中華人民共和国とインドの国境問題により生じた紛 争のことである。
インドと中国は途中でネパールとブータンを挟んで長く国境を接しているが、
ほぼ全域がヒマラヤ山脈といった高山地帯であり、正確な国境はあいまいであ った。その国境の解釈をめぐって武力衝突が起き、1959年9月から始まり、
1962年11月には大規模な衝突に発展した。主にカシミールとその東部地 域、ブータンの東側で激しい戦闘となったが、中国軍が圧倒的勝利を収めた。
現在アクサイチンは中国が実効支配している。停戦の前日に中国政府から発表 された4つの声明は、国際社会から好評をもって受け入れられ、インドは政治 的にも敗北した。
(2)この紛争は、インドが核開発を開始するきっかけともなった。また中ソ 対立の影響で、インドをソビエト連邦が支援していた。印パ戦争ではパキスタ ンを中国が支援しており、大国の対立が色濃く影響していた。
2005年、マンモハン・シン首相と温家宝首相の間で、両国が領有を主張す る範囲の中で、人口密集地は争いの範囲外とする合意がなされ、両国にとって 戦略上重要とされるアルナーチャル・プラデーシュ州、特にタワン地区は、現 状を維持している。
日本の学校教育用地図帳では、両国主張の境界線をともに引いた上で、地域は 所属未定とする手法がとられている。
(ベトナム戦争)
(1)1945年 8 月に第二次世界大戦が終結すると、 アジアや中南米、 ア フリカにある多くの植民地で、宗主国の弱体化を背景にした軍事行動を伴う激 しい独立運動が発生し、独立運動家と既得権を守ろうとする欧米列強の宗主国 との間での紛争が繰り返し起きた。
(2)独立運動は共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多く、ア メリカに対抗する共産主義体制のボス的存在であるスターリンに率いられるソ ビエト連邦は、当然、各地の共産主義勢力を支援したが、米ソともに核兵器を 保有していることから直接戦うことは避け “冷たい戦争” と呼ばれる冷戦構 造が成立した。
(3)その対立は朝鮮戦争やキューバ危機、ベルリン封鎖に見られるように代 理戦争の形をとって表面化した。自由主義の盟主を自認するアメリカは、中華 人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義政権の成立が“ドミノ倒し”のように 発生したこともあって、一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くとい うドミノ理論に怯え、アジアや中南米諸国の反共産主義勢力を支援して各地の 紛争に深く介入するようになった。
(4)1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴い、1940年8月より宗 主国であるフランスの主権擁護を条件に仏領インドシナに進駐していた日本軍 が撤退すると、コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンはハノイに首都 を置いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ、共産主義を基礎にし た国造りを目指した。
(5)しかし、日本軍が去った後のインドシナ一帯の再支配を目論む旧宗主国 のフランスは独立を認めず、インドシナ一帯に再進駐した。
その後フランス軍は同年12月19日にベトナム民主共和国へ武力攻撃を開始 し、第一次インドシナ戦争が勃発した。またフランスは、1948年にベトナ ム臨時中央政府を発足させたり、さらに1949年6月、ベトナム国をサイゴ ン市に成立させて、首班に旧皇帝バオ・ダイを据え、その威光を利用したりす るなどして、傀儡政府に対してベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。
(6)その後フランスは、同じインドシナのラオスを同年 7 月に、カンボジア を 11 月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつ、ベトナム国の正当性 を強調しようとした。しかしその様な中、同年10月にベトナム民主共和国の
隣に共産主義の中華人民共和国が成立すると、翌1950年 1 月にソ連と中華 人民共和国がベトナム民主共和国を正当政権と認証し、武器援助を行うように なった。この承認に対抗しアメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を 開始した。
その様な状況下で少しずつ劣勢におかれつつあったフランス軍は、ベトナム民 主共和国軍に惨敗し、事実上壊滅状態に陥り、ベトナムをはじめとするインド シナ一帯からの撤退を余儀なくされた。
(7)その後フランスはベトナム民主共和国とスイスにおいて和平交渉を開始 し、同年7月には関係国の間で和平協定である「ジュネーブ協定」が成立した。
これによりベトナム民主共和国の独立が承認されることになったが、冷戦下に おける共産主義の東南アジア台頭を恐れ、第一次インドシナ戦争中を通じて同 盟関係にあるフランスを積極的に支援し続けたアメリカは、それに対抗して、
北緯17度でベトナムを南北に分割させ、南に元々はフランスの傀儡政権であ る、「ベトナム国」を存続させた。
アメリカはフランスが第一次インドシナ戦争に敗北しベトナムを撤退して以降 は、反共産主義的な姿勢を堅持した南ベトナムの歴代政権を「ドミノ理論」を 根拠に、フランスに代わり軍事、経済両面で支え続けた。
(8)その機に、1960年に北のベトナム民主共和国に指導された南ベトナ ム開放民族戦線(ベトコン)が結成され、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ 活動を本格化させた。南ベトナム解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導し