(6)なお、軍事政権は、スー・チーさんの国政参画排除などを盛り込んだ新 憲法案を起草し、2008年5月10日の国民投票で成立した。
(カンボジア紛争)
(1)冷戦時代、カンボジア問題は、米中ソの大国と地域大国であるヴェトナ ム、タイなどの様々な思惑に締めつけられて、解決されなかった地域紛争の一 つであった。
(2)1970年にアメリカの支援を受けたロン・ル将軍のクーデタを機に、
カンボジアは内戦に突入、1991年のパリ平和協定調印まで続いた。同協定 に基づく国連平和維持活動(PKO)の展開によって、1993年に制憲議会選挙を 実施。その後、ラナリット民族統一戦線党首を第1首相、フン・セン人民党副 党首を第2首相とする変則的な政権が成立したが、1997年の両派の武力衝 突で、フン・センが実権を掌握した。2003年の総選挙で人民党は、第1党 の議席を獲得、民族統一戦線と連立政権を組み、フン・センの政権基盤はさら に強化された。
(3)2006年1月の上院議員選挙は、有権者は限られていたものの、初め て外国の支援に頼らずに行われ、人民党が圧勝した。人民党は、インドシナ共 産党の流れを汲むカンボジア人民革命党として、1961年に結党、フン・セ ンも同盟員だったが、現在は社会主義を放棄している。
フン・セン政権は、自らを「経済政権」と名付け、国際社会からの援助をテ コに経済発展に力を入れ、平和直後に200ドルだった1人当たり国内総生産
(GDP)は、2004年に320ドルにまで増えた。
しかし、政治安定を名目に、野党サム・レンシー党や人権団体への弾圧を強 化し、その独裁的手法が批判を浴びている。
(4)ポル・ポト派国際法廷についてであるが、1975年から79年まで、
カンボジアを支配したポル・ポト派(クメール・ルージュ)政権は、200万 人近い国民を虐殺や飢餓によって殺したとされ、その幹部を人道に対する罪な どで裁くための特別法廷で、国連が1999年に設置を勧告し、アメリカが後 押しした。
国連は国際法廷の設置を求めたが、カンボジアのフン・セン首相は、国家主 権を盾に国内法廷を主張した。
妥協案として、過半数のカンボジア人と外国人の合議制の国内法廷とするこ とで落ち着いた。カンボジア国会は2004年10月に法廷設置を最終承認し、
2006年6月には裁判官と検察官の宣誓式が行われた。刑期は5年から終身 刑である。審理は2007年からの見通しだが、すでに最高指導者のポル・ポ ト首相ら元幹部お多くは死亡ないし高齢化しており、どこまで罪状を裁けるか は不明である。
(5)この裁判は、人権は国家主権を超える普遍的価値であり、国際社会の人 道的介入は内政干渉にあたらないとする冷戦後の欧米の主張を反映したものだ が、ポト派の後ろ盾だった中国は、「虐殺は国内問題」として反対している。