(ドイツの東西分断)
(1)第二次世界大戦後、ドイツの敗北で、ドイツは米英仏の占領する西ドイ ツとソ連の占領する東ドイツに分断された。また、ベルリンは、アメリカ、イ ギリス、フランス、ソ連の 4 ヵ国の占領下におかれた。その結果、ベルリン は1945年7月東西二つの都市に分断され、東ベルリンは東ドイツの首都、
西ベルリンは西ドイツの事実上の一州となった。
そして、1948年6月、ソ連はベルリン封鎖(西側占領地区からベルリン への陸上交通路の封鎖) を開始した。
西側はこれに対しアメリカを中心に食糧などの空輸で対抗した。
これでベルリンは二つに分裂が決定的になった。
(2)さらに 1953年6月東ベルリンで大規模な反政府暴動が起き、それを機 に多くの労働者が西ベルリンに亡命した。
このままでは東ドイツは若い労働者を失うことになると危惧した東ドイツ政府 は、1961年8月にベルリンの壁を造り、交通を遮断し亡命を阻止した。
これがベルリンの壁である。壁を越えようする東側の人々は、有刺鉄線の壁を よじ登ったり、穴を掘って壁を越えようとした。成功した人も大勢いたが、多 くの人々は射殺された。
しかし1989年11月9日に民主化を求める青年によってベルリンの壁が崩 された。
1990年10月、ドイツ再統一に際して東西ベルリンも統一され、統一ドイ
ツの首都となった。
(チェコ事件)
(1)チェコでは、1950年代に行われた粛清裁判の犠牲者の名誉回復や計 画経済の行き詰まりやスロヴァキアの自治要求をめぐって、1960年代に入 り、党第一書記兼大統領であるノヴォトニーに対する批判が高まって行った。
また、1967年には、チェコスロヴァキア作家同盟大会において、作家たち が党批判を行ない、また、プラハで学生が学生寮のあり方をめぐる抗議デモを 行った。そして、党指導部がこれを警察隊によって鎮圧する事態に立ち至った。
これに加えて、党内においても、ノヴォトニーの国家・党運営に対して、スロ ヴァキア共産党側から強い不満が出された。
これに対し、ノヴォトニーの政治体制では、チェコスロバキアは極めて不安 定だと見たソビエトは、1968年に入り、ソビエト連邦軍が主導するワルシ ャワ条約機構軍が、チェコスロバキアに軍事介入した。
このワルシャワ条約機構軍の軍事介入をチェコ事件と言う。これに対し、チ ェコスロバキアに起こった一連の変革運動のことをプラハの春と呼ぶ。
(2)1967年 12月にソ連のブレジネフが非公式にプラハを訪れたが、ブレ ジネフはチェコスロヴァキア共産党内の問題との考え方から、積極的なノヴォ トニー支持を打ち出さなかった。そのため、12月に開かれた党中央委員会総
会では、ノヴォトニー批判一色となり、ノヴォトニーが兼任していた党第一書 記と大統領職を分離することになった。
(3)そして翌1968年 1 月のチェコスロヴァキア共産党中央委員会総会に おいて、スロヴァキア共産党第一書記のドブチェクが、ノヴォトニーに代わっ て、チェコスロヴァキア共産党第一書記に就任した。
そして3月には、ノヴォトニーは大統領職を辞任し、スヴォボダが大統領に選 出された。
(4)1968年4月の党中央委員会総会で採択された『党行動綱領』では、
「新しい社会主義モデル」を提起するとともに、「①党への権限の一元的集中 の是正 ②粛清犠牲者の名誉回復 ③連邦制導入を軸とした「スロヴァキア問題」
の解決 ④企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革 ⑤言論活動の自由 化 ⑥外交政策でもソ連との同盟関係を強調しつつも、科学技術の導入を通した 西側との経済関係の強化 」が盛り込まれた。
(5)『党行動綱領』に基ずく改革運動は社会に浸透していった。しかし、各 社会的勢力間では、改革の内容に対する認識に相違が見られた。ある勢力は、
急進的な改革運動に懸念を抱き、ソ連と接触を図っていたし、チェコスロヴァ キアのうちのスロヴァキアでは、民主化よりも連邦化を重視しており、改革に 対する認識はばらばらだった。
(6)ブレジネフ大統領は、ドブチェク党第一書記には、チェコスロヴァキア の自由化や民主化の流れを止めることは出来ないと考え、8月20日、ソビエ
ト連邦軍が主導するワルシャワ条約機構軍に国境を越えて侵攻させ、チェコス ロヴァキア全土を占領したのである。
プラハでは、22日、臨時党大会が開催され、ワルシャワ条約機構軍の軍事介 入を激しく非難し、ドゥプチェクら党指導部への支持を表明する決議を行った。
(7)ソ連のチェコスロヴァキア侵攻に対して、侵攻の翌日、アメリカ、イギ リス、フランス、カナダの要求で国連安全保障理事会が招集された。ブラジル、
カナダ、デンマーク、フランス、パラグアイ、イギリス、アメリカが提出した
「侵攻が国連憲章に違反する内政干渉であり、即時撤退」を求める決議は、賛 成10、棄権3、反対2の採決結果出たが、ソ連が拒否権を行使したため、葬 られた。
他方、西側陣営、とくにアメリカは、ドゥプチェク指導部による改革運動に 共感を持っていたが、具体的な行動は取らなかった。その理由は、当時、ソ連 との間で、核拡散防止条約の調印や戦略兵器制限交渉が開始されており、ソ連 との関係改善を期待していたため、こうした流れが中断されることを恐れたの であった。また、当時アメリカは、ヴェトナム戦争で泥沼にはまっていた。当 時、米ソの間には、冷戦下のヨーロッパ分断状況や米ソの勢力圏に対する相互 不干渉という暗黙のルールがあり、ジョンソン大統領には、そのことが念頭に あったのである。
(8)1969年4月、ドゥプチェクに代わって、フサークが党第一書記に就 任し、チェコスロヴァキアの自由化、民主化の流れの阻止を進めていき、「プ ラハの春」は終わりを告げたのである。
この事件によって、共産党自身による共産党体制の改革の試みが、共産主義 の祖国であるソ連によって押しつぶされた。
この結果、国際共産主義運動は分裂状態に陥った。フランスやイタリアの共 産党は、プロレタリア独裁を放棄し、議会制民主主義の枠内での社会主義理念 の実現へと方針転換を図り、世に言うユーロコミュニズムが台頭した。また、
中国共産党は、ソ連のチェコスロヴァキア侵攻を覇権主義と厳しく非難すると ともに、1969年にはダマンスキー島における軍事衝突に発展し、中ソ対立 は修復不可能な状態になった。この結果、国際共産主義運動は動揺し、冷戦構 造が変化し、米ソを中心とする共産主義陣営と自由主義陣営の間にデタントを もたらす素地となった。
また、東欧諸国も、共産主義の祖国であるソ連によって、共産党自身による 共産党体制の改革の試みが否定されたことから、市民社会による政治変革を求 めるようになり、これが後に、ポーランドの連帯運動となり、最終的には19 89年の東欧革命に繋がった。
(ハンガリー事件)
(1)1947年以降、アメリカとソ連の冷戦が始まった。ソ連の東欧支配が 強まり、これに併せて、ハンガリーでも共産党による権力の掌握がすすめられ た。他の政党は非合法化され、社会民主党は共産党と統合され、勤労者党とな った。1949年5月の総選挙では、勤労者党が大勝し、8月には人民共和国 が宣言された。そして、共産党である勤労者党の一党独裁にもとづくソ連型の 社会主義体制が誕生した。
(2)国内では基幹産業の国有化や農業の集団化がおこなわれ、対外的にはソ 連など社会主義国との友好関係が強調された。反体制派とみなされた者は逮捕、
投獄、処刑、或いは収容所送りとなり、粛清された。
(3)1953年、スターリンが死去すると、ハンガリーでは、権力を独占し ていた共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュが首相を解任された。そして、
穏健派のナジ・イムレが後任の首相に選ばれた。しかしソ連・東欧諸国間の関 係にはほとんど変化がみられず、1955年にはワルシャワ条約機構に加盟し た。
(4)スターリン死後の変化は一時的なもので、1955年4月にはナジが突 如首相を解任され、ラーコシ派が党第1書記と首相の座に復帰した。
1956年2月、フルシチョフソ連共産党書記長が、スターリン批判を行い、
これに刺激を受けたハンガリーの民衆は、ハンガリーの体制に対するの不満を 爆発させた。ポーランドでは、ポズナニ暴動にはじまるの民主化運動が進んだ。
ハンガリーの学生と労働者は、ポーランドの民主化運動に触発されてたちあが り、穏健派のナジ政権の復活を勝ち取った。
(5)穏健派のナジ政権は急進化した民衆に後押しされて、複数党制の復活、
自由選挙の実施、駐留ソ連軍の撤退、ハンガリーのワルシャワ条約機構からの 脱退などを宣言した。しかし、この動乱は結局、2度にわたってソ連の軍事介 入で鎮圧され、ナジ首相は反逆罪で処刑された。この動乱をハンガリー事件と 言う。