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イラン・イラクをめぐる紛争

ドキュメント内 最大の争い・国境線 (ページ 97-103)

(イラン・イラク戦争) 

(1)中東は、「世界の火薬庫」といわれることがある。東西冷戦が終わった 今、世界戦争が起きる危険が最も高いのが、中東だといわれている。 

中東の紛争というと、イスラム諸国とイスラエルとの対決という構図を思い浮 かべるが、ことはそう単純ではない。イスラム諸国同士でも、深刻な対立があ る。それも10年、20年単位の話ではなく、数百年単位の長さで、いがみ合 いが続いているのだ。 

(2)その最たるものが、イランとイラクの対立である。この両国は、シャト ル・アラブ川という河川の領有を巡って、長い間対立してきた。シャトル・ア ラブ川は、メソポタミア文明で名高いチグリス・ユーフラテス川が合流した下 流域の川で、全長は200㎞、その川幅は最大で800mになる。この川は、

イランとイラクの間を流れているため、両国による領有権争いが起こったので ある。 

(3)イランとイラクの国境紛争は、両国の前身であるサーファビー朝とオス マン帝国がメソポタミアを争っていた頃に、今から4〜500年前の話である。

1639年両国は、シャトル・アラブ川の東側にあるバムシール川の東側を国 境線とした。しかし、この地域の小競り合いはその後も続いた。 

(4)その後、第一次大戦を経て、アラブ世界が大きく再編された。サーファ ビー朝の後身のカジャール朝はイランに、オスマン帝国が領有していたこの地

域はイラクに、それぞれ引き継がれた。現在に続くイランとイラクが誕生した わけである。そして、国境紛争もそのまま両国に持ち越される形になった。 

(5)両国は相変わらずシャトル・アラブ川の領有をめぐって対立し、武力行 使をちらつかせたり、国際連盟に訴えたりもした。 

  シャトル・アラブ川は、ペルシャ湾に注いでいる。ペルシャ湾は、スエズ運 河が開通するまでは、西洋と東洋を繋ぐ一大物流拠点だった。シャトル・アラ ブ川は、そのペルシャ湾と国の内陸部を結んでいるのだ。特に、この地域で石 油が採掘されるようになってからは、原油の輸送路という意味で非常に価値の あるものとなった。 

(6)やがて、両者は妥協点を探ることとなり、1937年、イランとイラク の間で、国境条約が締結された。国境は今まで通りシャトル・アラブ川の東側 ということになったが、イランにもシャトル・アラブ川の使用権が与えられた。

これで両国の小競り合いが終わったかというと大間違いで、まだまだ国境紛争 は続くのである。 

(7)1970年代、イランはアメリカの後ろ盾を得て、イラクに国境線の改 訂を迫る。さすがにイラクもこれに抵抗できず、1975年シャトル・アラブ 川の最深部の中央が国境ということに同意する。川の領有権の半分を取られて しまったイラクは、このことを深く根に持ち、復讐の機会をうかがうことにな った。 

(8)そんなイラクに、千載一遇のチャンスが訪れる。 

1979年、イランで革命が起き、親米政権が倒れ、バリバリの反米派ホメイ ニ師が政権の座に着いた。アメリカとイランの関係は急激に冷え込んだ。 

アメリカの後ろ盾がないのを見計らって、1980年、イラクはイランに先制 攻撃を仕掛けた。イラン・イラク戦争の始まりである。 

イラン・イラク戦争は奇妙な戦争だった。アメリカは、表向きはイラクに支援 していたが、裏ではイランに武器を供給した。ソ連もイラクを支援する傍ら、

アフガニスタンに侵攻した。 

(1) アラブ諸国のほとんどは、イラクを支援したが、シリアとリビアだけは、 

イランを支援した。 

また、すべてのアラブ諸国と敵対するはずのイスラエルが突然、イラクを爆撃 したり、北朝鮮がイランに武器と兵士を送ったりと、東西南北の陣営が相乱れ る大混戦となった。 

  ちなみに、このときのイラクの指導者はサダム・フセインである。つまり、

アメリカは、サダム・フセインを支援していたこともあったわけである。 

(2) イラン・イラク戦争は、その後10年間続き、100万人の犠牲者が出  たとされる。肝腎の国境はどうなったかというと、ほとんど戦争前の状態に戻 された。 

(10)その後、イラクはクエートに侵攻して、多国籍軍から叩かれたり、ア メリカと戦争したりで、イランとイラクの国境問題は置き去りになっている感 がある。 

(イラン革命) 

(1)イラン革命は、1979年2月、パーレビー王朝を打倒した革命で、イ スラムに基づく国づくりを始めたため、イスラム革命と呼ばれている。以後、

1979年11月のアメリカ大使館占拠事件、1980年9月のイラン・イラ ク戦争勃発(1988年8月停戦)、1981年8月のイスラム共和党(IRP)本 部爆破事件、1987年6月のイスラム共和党解散、1989年6月3日のホ メイニ師死去と数々の節目を経てきた。現在ホメイニ路線を継承したハメイネ 最高指導者を中心に、イスラム法学者を最高指導者(ヴェラヤーテ・ファキー フ)とする統治システムをとっている。一部革命を知らない若い世代からは不 満の声が聞かれ、海外への頭脳流出も見られている。 

(2)上述の通り、イラン革命は、1979年に、パーレヴィー朝に代わって、

ホメイニーを指導者とするイスラム教シーア派の法学者を中心とする反体制勢 力が、政権を奪取した革命のことである。イラン・イスラム革命とも呼ばれる。 

(3)パーレヴィー朝下のイランは1953年のモハンマド・モサッデク首相 が失脚し、その後、ソ連の南側に位置するという地政学的理由もあって、アメ リカ合衆国の支援を受けるようにななった。そして、脱イスラム化と世俗主義 による近代化政策を取りつづけてきた。皇帝モハンマド・レザー・シャーは1

963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の 向上などを宣言し、上からの近代改革を推し進めた。シャーは自分の思うがま まの近代化革命を推し進め、近代化にはイスラム教は邪魔と考え、厳しい弾圧 を続けた結果、宗教界の人々はもとより、右派から左派まで国民はシャー打倒 を叫びだした。 

(4)皇帝側は宗教界と事態の収拾をはかったが、宗教界や反体制勢力の一層 の反発を招くなど事態の悪化をとどめることができず、反皇帝側の政党である 国民戦線のバフティヤールを首相に立てて、翌1979年1月16日、国外に 退去した。 

(5)バフティヤールはホメイニーと接触するなど、各方面との妥協による事 態の沈静化をはかったが、成功せず、バフティヤールは辞任、反体制勢力が政 権を掌握した。 

4月1日、イランは国民投票に基づいて、イスラム共和国の樹立を宣言し、ホ メイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制を構築することとした。 

(6)イランは、アメリカの支援を受け近代化を行っていたパーレヴィー朝を 倒したことや、露骨な反欧米主義とイスラム至上主義を掲げたことから、アメ リカをはじめとする西側諸国とイランとの関係が悪化した。特に、11月には アメリカ大使館占拠事件が起こり、アメリカとの関係は断絶寸前となった。 

一方、周辺のアラブ諸国にとっては、シーア派を掲げるイランにおける革命 の成功は、シーア派の革命思想が国内のシーア派信徒に影響力を及ぼしたり、

反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内 のイスラム教徒全体に波及することに対する怖れを抱かせ、イランは周辺アラ ブ諸国からも孤立した。 

(7)上述の通り、1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、

かつ国内に多数のシーア派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イ ラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。イランの猛烈な反撃に よりイラクが崩壊し、産油地域が脅かされたり、シーア派の革命が輸出された りすることを懸念したアメリカがイラクに対する軍事支援を行った結果、この 戦争は 8 年間の長きにわたった。 

また、前述したように、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦 のアフガニスタン侵攻も、ソ連が、イスラム革命がアフガニスタンへ飛び火す ることを恐れたために長期化したとされる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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