虞 鹿 切 開 題 ︵こ
卜合致︑詮をヰ心ビしてトー 今 里 拳 葦
眞扱がその反射物である罪虞也︑即ち虚偽乃至誤謬を認めるところ′に成り立つと啓へられる限り︑認識以前¢
頑源的満願としてのb訂s芽ssは打訂邑scFであり︑贋理問題の領域から除外され︑不問に附せられるの
︷1︶ が普通であえ︒それ喧畢鱒管最的東商輿或造空して︑所雷接餞扮の流動雷P旦isikN玩誓の性質.
恨序及び恩について空言の支配外踪やる感覚流人丁訂詳H︒叫牒邑i︒ヱたるsim等a諸に過ぎないから
で参る︒従って罫奉る︼目然とか笥驚違按知乃撃墜隈接倦験そのもめとやふが如せものは︑未だ屈理とも非虞瑠と
\
も名づけ得ようのないものであることはいふ愛でもない︒何等かの彗芸張がなされ允場合︑r即ち何畢かゞ判
断された場合にのみ︑始めて展埋または非炭層が問題性を得てくるといふのが︑質理問題掟関する叫般Q見解で
ある︒即ち買理とか慣像とかいふことは︑直観される限りにぬて︑この封象に㈲するのではなくして︑思惟され ︵ 3J た場合に於ける・財政に銅する判断に於て存するのである︒戯しそれだからといつて︑判断以前の原初的儲験そQも
のを全然無意味なものとして不問に附する態寧から︑根本的に眞埋問題の全貌む蓋し得るものとは考へられない9
贋理抹璧典理の存立む認むるところに成立するにしても1何藍鼎理とし伺む非虞理とするか︑即ち馬琴空路理の
存在可鵡の基底的椒接竺鴇どこ隼求められるので僑るか︒と1豊芸は馬偏をして虞保たらしか︑る汲も基底的
なEtwaひを追求しな眈推ばならない︒見方によれば︑その様なEtwa00こそ︑驚は質悔の源泉ともい練る/べき
鵬ふ≡ 眞 囁 の 問 毯 叫
讐芋二巷 第二.三耽 二九四
思のである︒だが若しそのE冒asを環理・非虞埋の分裂がそこ陀融解し︑或はをこから分裂が現はれてくる祝
帝的未分の服態といふ夙に解するならば︑少くとも認識論にとつて︑全く虞燭以給のk訂OStiscがなb訂sDas甲 .舟木十
といふ鱒かはない︒それは環也が却つて非環埋と共にそこに没入解消して︑い絞ゞ凡ての隼が黒くなる問夜忙躇
み逮ふことであり︑そうすれば虞鵜をして判然たらしむる光の源泉む求めようとする一切の試みは︑全く無意時
に鱒言であろう再審完が︑尻馬む嘩蒜に問題にしようとするのは︑醍惰がそこへ身を堅姦れ家に逮ひ込む / 寵めではなく︑却つて隠された状琴冨隠されない状態への鱒換の契械は′
痍碧もつかと‡鮎貯警︒ギリシャ人が︑曜理をal訝計が賢:警れ雷の︶からa.家計
︵隠されざるもα︶ぺの牽顕皇居昧したが︑苗代人Qこの理解に従ふならぼ∵その校な隠蔽態から非搭夜襲への
磯麒Q揺りどころこそ︑昏々Q求めねぼならぬ究局的なもので率る︒だがこの場合忙於てすら?法則以細の鰻験
そのものを︑告無造作に問題の圏外施しやるべきではない︒勿論︑意味的・法則的及もののみが百鬼にと
って現貸的琴有﹂であると考へる立場からサれぼ︑濯味法如以翰の赤裸な惜験といふが如きものは︑寧ろ﹁無﹂
といふほかはないであろう︒だが﹁無﹂といひつ1も︑吾々はそれを無視先の藍l放潜するに忍びない︒少くと
も︑吾芸現驚的生存に疾く鍼はりをもつものとして︑書芸して背筏から或は内部から押し釦加し駆り立て牒
といふ動的′思しかも承濾的なもの1如く了解せざるむ得ないといふ安東をとうすることも出来ない︒但だ吾々が
正面からこれにぶつ1かり︑反省の光を雷てようとすれば︑それと同時に︑反省鰭験そのものゝ申に身を撃レて
し藍ふから︑モ望息昧に於て常に k訂︒S訂c打たることを免ぬがれ得ないのである︒従つてそれ烙剛酎︑最も棍
源的なものではあるが︑同時監晶の手段では手のつ骨棟がないといふ性格を荷なつている︒だから誰織諭に発
■−− 立って︑いつ鳶でもこうtた領域に滞留することは︑﹁誕識が最後的に依接する根東的︒超越的條件の背後にさ
僚に︑人間め有限性な菖廃して︑無謀な越樺は厳に憾まねぼならない︒だがそれにも拘ら車︑敢て目なくして見
︵7︶ ん上する勇敢にして喋螢な努力がその後全く跡を絶つたわけではない︒
︵8︶ さて︑判断に於てのみ成規問題が問題牲を得てくると考へることは︑馬鹿が・勝畿の認識に銅はること堅不す︒
膠議の認識は判断む核心的呼式とするからである︒知覚は軍琴附なもの躍甜はるけれども︑それ.笹よつて輿へら
れるものは︑罫なる表象に過ざない︒また思考は観念的なものに㈲捻り︑普遍性への要求を内戚する針のではあ
るが︑その本質的形琴は推論に率誓る︒勝義の温識は︑この南條件の具備む安武し︑驚灘的なものに囲はると同
時に意味の把墟牢本質とし︑普遍性へ望心悔む宿すものである︒こ㌢した認識の性格は︑形式たる判断︵命題︶の
構造に於て示され︑主語と述語の封立的潜合披∵賢麗性と普遍性の分裂的綜含む示す︒主語的なもめは︑泰雄琴
狂的なものに銅はる表象から得られたものであり︑速給的なものは︑観念的なもの1表現として︑思考から得ら \ れたものである︒この雨着の分裂的綜合に於て︑判断の欝在的︒普遍的意味が形成せられるじ眞埋または非展埋
は︑か1る構造をもつた緒判勘の特質む意味するものである︒従つて鍔也とは︑或を特質をもつた判断そのもゐ
密意味する︒即ち眞なる判断が贋埋なのである︒故に底地が普遍性を契椀とするとは︑炭なる判断そのものが晋
濁性を一つの特質とすることである︒だがそれは判断を碑成する迅語が︑普遍的なものを表はすといふこと1は
別問題である︒しかも贋なる判断の普遍的糖質は︑本来普遍性への要求歓もたない知覚より得られ允薫語的なも■
のに求むるこ七は出来思いから︑述■詣の普遍的性格に掠る準かはない︒ま潅眞埋が蟹雇性を契鹿とすることは︑
畢 哩 の 問 題 二血五
性 か し つ
︵6︶ 5 ぺ洞見﹂せざる基しい努力に過ぎないとの非難む甘受しなければならない︒普々は︑カントの警告する
て ゆき.いはゞ目なくして見んとし︑乃至は目そのもの・ゝ背後に︑認識の一瞥を投げかけんとする不可熊
︵︶
/
帯ニエーノ怨 讐丁三牧 山五木
膵なる判断そ?ものが茸在性を叫つの特質とすることせある︒だがそれは判断を構成する主語的なものが︑寛賽
的なものを表はすといふことゝは別問題である︒︑しかも展なる判断の驚在的特質は﹂刻秀観念的思考より得られ
た望箭な臥の艦求むることほ出発ないから︑本来茸在的なものに関はる主語的なもの1性格に揺る掛か軋な
い︒飯に鍔理が賓在性と普遍性の爾契撥む具足するといふことは︑笹ちに童話′の常在的性格と︑述語の普遍的性
格との単なる質素的踪合によつて志されるものではない︒いひ換へれば︑表に判断がこの二つの契横の蓼東的
紆合であ克といふことがいへ七も︑そのことを以て啓ぢ軋炭なるノ判断の特質を形成するといふことは出殊ない︒
しかも主語的なるものゝ茸碇的性格と︑述語的なるもの1普遍的性格拭︑普通の立場やは相互に漁連む許さない ノ
ものであるから︑一方を他に吸収することによつて山元約に流言因ることは︑各々両方向−に放てのみ得られる
同性格の慣別を顛視力室は混同するものであり︑克とへ結合し得たとするも叫面的偏見に貯すること教菟ぬがれ
得ない︒たとへぼ経験論者は︑︑要語的な方向︑鮒ち
に︑認識作用のナプリオーサな碕榛性真心却して︑受動的拘極性に偏向し篭 慧た観念論者は︑遇譜的方向︑ ケ
即ち思考的なものにも驚衣性を肇へようとした1めに.却って驚衣性む観念的な想慮に挿せしめ︑驚在の麗越的
性格を渡御して︑志し尊抽象に偏向したのノである︒この様な鮎から︑虞理の規定は︑判断の分極的構造樗於げる
嬰薫的結合から導入されるものではなく︑判断に於て去張される判断そのもの1意味に屈する特質に放て開元せ
られる︒
以上のことから︑凡そ眞なる認識の傭件として︑驚衣性と普潟性を羅列し要求することは︑判断の構迫的性格
より推して極めて容易なことであるが︑さて何によつてそ霊日適性が傍題せられ︑何によつてその資産性の板塀
がつきと滴られ得るノかといふ間野党申それ時の閑聯が如何隊紅埋骨せらるべきであるかといふ問嶺について ⁚ − −I −ト1 ・ ・ ⁚■ r 1⁚■ ト■−・⁚♪ ︑−■ L
贋埋が判臨▲計固有の成城とする限り︑普遍性は︑述語的な方向に求めちれ︑をの極限に・於て縫封化せられるの
傾向む兎ぬがれ得ない︒それは先づ主語的・質料的なもの1個別性︑経験的なもの1相封的褒易健からの開放む
要求する︒一輝に︑認識の普遍性む強調する合理諭の立場が︑党天主義を王張するのはこのためであり︑また論
壇主義者が心琴重義盈排斥し︑歴史性乃要は生の相対性を醇んずる傾向にあるのもこのためである︒此数なき皇
せに歴兜を盛んじたへ1ゲルに於てすら︑結局︑それが詠埋¢吸収せられた1めに︑却って生と歴史との固有の
∧9︶ 意味が否定せられるこ主になつ元の臥−顛する托その合攣重義の必戯的締結なのである︒普遍性を富んじたカン
\ √は︑経験から猫立なる形式的虞珪を設蟄︑それむ意識一般に基づけた︒尤もこの場合カ′ントの批判主義.にあつ
七は︑草々人間の理論的認識を現象の掛界に限界し︑畢としての形而上拳を斥けた与とは周知の通・りである︒け
れどもカン′トの設けたこの制限は︑その後の下イ勒観念論忙於て次第に撤厳され︑ヘーゲルに寧つては﹂認識論
︵10︶ そのも町を習拳の後備的基礎撃たるの資格なきものと定め︑贋理は今日または明日のもゐで・躍なく︑時間を超越
して凡ての時に向つて眞であるとの見解から︑極端に展埋の褐封性が室張された︒艶灯ま雀カントの精神に立ち
麗らうそする薪カント笹沢に放てさへ︑直取と恩悼の置別は次第に思惟の側に吸収され↓マールプルヒ笹沢にあ
︵11︶ つては︑時基の薗鶴形式すら範囁と解されたほどで・める︒更に七うした展埋認識の絶封化の傾向を二屏極端に押
し捲めてゆけば︑途に却って思惟作用そのものから離れ去ることによつても︑なほ曙理の可能なることが主張さ
れて︑所謂質理白鴎︵萄aE訂it an乳cF︶ の設定歓談く見解が生ずるに至る︒︵絶封的客観︑重義−BO−琶nO︶こ ︵ 12︶ め立場にあつてや選球は﹁それが何人灯よつて認治されるかされぬか歓眼中に暖かないもの﹂即・意買から覇
山五七 虞 瑠 の 問 題 は︑烈しい柏別と果てしない瞼路が壕想される︒
第二サニ各節二︒ニ惑 蒜八
立にそれ自身慣誉もの︵象se⁝串me莞S︶と考へられ︑孟が思惟の所産たること底力排し︑普それ自身永久に猫存する虞埋が⁚︑吾芸思惟に於てその姿む頗はにするに過ぎ忽ふと瑠へられる︒︵CO鼓n︶乞して
人間の思惟を越えるといふことから・途に屈建白櫨を紳の思惟の申に押しやつてし蕊ふのである︒︵訂−眉亡ph壷︶
︵13︶
︵1 を底如して︑観念の心機的生成を因果の関係によつて説明しようとする心理的乃至は生腰的な時間的礎盤の問題 を︑眞備聞題から険排しようとしたのも︑貰謹む理想的可能性の世界に於て語らうとするこうした態度に通サる
ものである︒琵理の必然性は︑事茸的必然性を指すQで捻なく︑寧ろ理想的必然性を指すとい牟ま張軋︑・こ望息
痍に於て蒜尤もとされるので奉る︒展理問題は事驚の心理的解剖ではなくて︑認識の損接づけ槽利づけであ
島︒こうした見解から詔碍空虞埋問題数叔抜ふとすれぼー認識が箸還盈4して成霊トめられ得るために
は如何なる傑作む必要とするかの問題に︑専ら論究の億嘉が集中ぶれる︒だがこのことけ︑必然的に一朝斯に於 ︵娼︶
セ安常する低値としのみ展埋が考へられるといふことむ意味するから︑これを姦から見ると︑展埋の賓在を首足 ナることにもなるゐである︒且つ判断を以て主観と触るぺからざるもぁと見る限り︑展埋はそれ自身潤自な客観 的茸在性を有し得ないことになる︒そこでボルツアーノの如きは︑前掲の如く︑主観的思惟作用と眞埋それ自身
︵ま訝虚偽それ自身Falsc夢賢nsicFJ藍別し︑オサ←炭理戊儒牒軍怠崩Lてしまつ卑︒それ は寄態としての判新作用と︑その作用が甜はる判断内容自髄との隆別を確菰たらしめることによつて︑この雨着 を混同する心理主義の立場む批判しょうとするものである︒蓋し意訟観衆藍単に事皆の立場から挑むる場合︑眞 鍵の碍封給は避げ得られない膵結となるからである︒だが芳し忘︑単に意粒の論理的︒先天的◎形式的機能に
あネ限を向汐︑その具麺的壷質的溶質を把へることを忘れ汐ならば︑これまた慈しき抽象に堕することを宛ぬが
︵16︶ れ得ない︒本乗︑意識は必ず心理的機能としてはたらくものであり︑また同時に論理的確資性むその内ぬ含んで
ゐなければならぬ︒そしてとの両機能は︑五ひに他の棚方から抽象することなく︑叫髄不可離の争一的具濃性紅
恕て把返されねばならぬ︒
フツサールの現象挙が所謂硯叙事的還元に基づく純粋意識を研究領域かしたことは︑心琴重義を梯して論琴意
義をとる彼の態度から常然のととであつた︒だがその現象拳的認識論の内容を仔細に瞼討すれば︑そこに論攣玉
虫を以て終始貫徹L責せなぃもの.1あることが窺はれ息︒即ち現象革にいふ純粋意識の基本的椿退を成すもの
\
︵17︶ 一
ゼあるが︑これむ作用の爾に即して見れぼ︑内にノエマとして意味む成する意味志訂的意味附輿作用としてのノ
土サスは︑意味藍息嫁するといふ意味志向 ︵好評已呂乳首最昌︶ と︑意味が現に意向されるに止まぎす存慮
匿開披る場合︑軸ち意味充管 ︵謬計utng詫r迂訂羞︺とに虚別せられる︒この意味充蟹に於て︑意味は畢なる
意味ではなくして眞に充たされたる意味︑即ち展の存在に開はや意味となる︒尤もこの場合︑存在といはれてい
為ものも︑既に括弧づけられた自然的なる存在ではなくて︑所謂現象塾周布鹿ヽ挽筈すれば︑ノエ㌢スの意味附
典にその兜脇的礎盤をもつ意味的存在であることはいふ恵でもなぉ︒然し意味と存在は必ずしも同じ領域を以て
︵柑︶ 由癒するものではなく︑時には現驚に存在せざる点味も可髄であるから︑即ち意味不充賛も可能であるから︑勝
義の認識についていふ意味的存在とはこの病者が合致したものを指す︒そうすれば︑そこに︑意味と存在との相
恕︑或は展咋存廃する意味は如何にLて可餞であるかといふ問題数啄び︑現象畢的意識.分析論は硯‖奴畢的認識論
虹鱒ぜられ︑意味意向作用より意味充茸作用︑革なる忠魂より虞の存在へ︑志向性より明詮牲への輪廻鮎があら
一五塊 馬 理 の 問 題
第ニサニ巷夢二・≡睨 ハ○
ト はれてくる.意味充蟹件用枚︑いはゞ架基的意味む具慣的ならしむる作用であるが︑それは何によつで充零され
るか占い六ば︑存在忙鼠も直接的に紺はるもの︑即ち直観乃至知覚に喋る鱒かはない︒知覚作用乃至直観作用に 才子↓思ふ﹂作用應﹁在る﹂作用に充質され︑箪なる意味は展憲昧志向的存在に相成され︑そこに認識が成 薗立つのである︒従って認識は︑遠望心向の直観による瀧軍或は意昧と笹親との合致卜竃同化的流言いふこ
とが些挙美しか豊芸は︑との直観作用の充驚に郎Lて意味唄指示する対象の存在陀確信を滝つ?即ち意味の
意向的銅係が︑由象の硯驚的布衣自鰻品する確贋性の意識乃至確信意謝を庖ろので慧︒これが亡rg−a計︵膜
始信撃とか暗訂a︵原始怨念︶と名づ賢毘Vこめ肘始信慮に於て︑意味が志向する封象は現優に存在しー
意味意向は十全的鱒発雷され明記的去る︒だから原始信欝警︑展埋は基的明澄或は虞の存警周妄の セ秘現︒即ち﹁展墓征するといふととは︑墓晶へられ明澄的に悪され得るといふことと同じ意味驚
へ20︶ つ︒﹂鹿つて﹁展に存在す州う封象には︑原始的に十全に対象を把へる可能的資織が封臆する﹂から︑理性的に定立 ︵
21︶ せられる封象と存在する対象と竺つのものであり︑﹂﹁眞珪と紘明かに原始信感の倍億確信の十全的理性性格の ∧
22︶
忠霊である︒﹂こ空軍味に於て﹁塀的完たされ毒床と封警竺警−﹂︑﹁豊造物︵存磐と知性と ︵祝︶
・√ 牒牒越牒 魂教導的誠拙論は明か成合致況に終結している︒重機的に見て︑フッサールの▼現象挙が論琴重義の蕊場であ
れ︑概して先験的︒観念論的と見られるに㊦関らず︑虞理誕籠の究周に兼て︑展理を番数と知性の叫致と考へざ
るを将卒かったといふことは︑正に論翠玉哉的敬念論を以て貫徹し志せない.ものゝあつたこと▼む物語ってbる︒
即ち一般掟贋毯の普遍性を求めゆく方向が︑兜験主義的な形式奈義乃車玲琴重義的濫徹底深化卑しめられるこ︑と
妃よつても︑なほ素朴葦在論的登別掟を食む模掲的合致説から眈却し得なかつねことむ示す︒この.ことから︑凡
そ虞埋を知鞠の眞撃として︑存在から限善樽じた領域︵雷管併依乃至洞讐に於て問題にしようとする試み
も︑究局に於て巧存在に閲はること敷くしてそれ自身の完結を成就することは出来ないといふことが確認され
宅勿論︑威慧蓋睦︑審理姦持せんとする限グ︑甘dぎi寵超え℃阜diuri芸向はねぼ誉ぬこ 忌芸で雪︒孟は︑知識の問題から霊の問題を騒適すをとによつて長身純欝菅得ると考へら れるからである︒けれども如何に論理主義乃至は形式主義に徹しようとする立場にあつても︑好局忙於ては︑眞 理の管質む間はぎるを賭ない︒それは知識の本質に基づくのである︒知識が知識たる以上︑何等か布衣との舶係 を食違遠纂識は雷得ない㌻の意警警は超越的豊概念畠めざるむ得ない︒事物と知性との合致
といふ展理現克の扱き難い根撼はこ1に存するのである︒現今に於てもハルトマンの批判的布衣諭にあつては︑
こノの横幕的合致盆が殆んど原型に近い壌で維持せられている︒ハルトマンの出資鮎は︑周知の通りma払ml︼m
a昌ege雷訂i言mi号音aコ寮膚hysikを庶警する自然的態度にあるが︑それは主として偶感盃と喪
蓋の此岸豊爺質的︑超立場附撃慧蔓品より藩㌻邑︒︒b−i4ぺa姦レi喜r邑P
を探ることは︑彼の盟絹ApO訂i打め方淡から雷蛮のことであるざうした態寧から︑より基礎的なも⁚の表的な
ものへと進行してゆけば′ra江︒eSSe量はra㌢cOgn㌻針鼠∵から湛別−せられ︑それ白閣に於て先なるものと
して存在論的な態度が自熟的見方の延長として採用せふれる︒か1薫仔牢捕的な態度からすれば︑常々の認識に
蜜つて︑克と盟東隣に既に孟自警掌る或る盈壷雷︑原設計警L耳許さなければ嘗な \
い︒そ㌢の許雷−それ竺遡って疑ぎめの論警告し警ないもので雷︑従つて雷る信仰の基礎
の上に想定せぎるを得ないといふことは︑既にカ/ト笹あつて馬︑哲撃乃至般的人間理性に対する贋づきの石
炭哩ふ問題 二︼
ノ
/
二ハ二 夢二サニ窃 欝ヱニ耽
︵27︶ ▲ とされていた︒だが存在論む凍る限りは︑観念論が認識を封象の生産業しくは創造と説くことに対する存在論鼠
肴の見解がなけれ博ならぬ︒邑iO
主醸するにしても︑その立場の固有な特質がこつの餞系を以て示されねばならぬ︒こ1で問題となつてくるの
は︑不可認識的な馬の︵da002rヨS已鴬H訂n各a且或は非合理的なもの︵Ⅰ胃a玖Onal認︶ の存在性格である︒
泰変弼にとつては︑そこに︑可認識性の領域を限ることよりも︑なほ認識の野次ほ一般に且つ仝鰻として自性存
蕗︵Ansic訂軋n︶であることの方がより詫要で思る︒.観念論的室且場に於ても︑所謂問題意級の不発仝性︵−㌢
已茸巨声&︶の充金化︵Ad茸邑iOn︶即ち主観佗よつ七春野化された︒bj琵・昌のはかに︑なほ未だ客観化
され慧不霊性のま1志向されて空音ci象jも認織の封管してとり入れ計ることいふ茎もない
〟 が︑とし忙不可認識的なもの︑或は非合理的なものが出現することによって︑可溜識的な超客観に放てなほ主観と ′ あ閃はりむつなぎ得たものが︑最早こ1では重くそのきづなむ絶たれ︑必然的に主観から狗茸に成立するほかな
をものとなる︒自鰭存在はかくて謬誠の全対象領域にカ破く迫り兼たるのである︒だが自憾存在の猫立性は︑存
在論的には本質的なものでは・なく︑主観に封して関係しているか否か︑射ち猫立セぁるか着かについては全然無
︷頭︶ 碧である鮎忙存する︒だが若し認識論的毘る誉ば︑それは私に由し量るもの皆mi︒訂註鼠es︶鉱
り︑存在論的に見るならば︑Ansic訂eide鼠語と
こうした白魔存在む官許se㌔︵把捉︶することが認識で思るといふのが︑ハルトマンの認識現象箪の根太であ
る︒把捉といふことは︑具憾的忙は︑重税が自己の範囲外に出で1自照存在の範囲軋入り込聖\その踵々なる性
密を自己の範囲にもち来た㌻こと1解軋られるが︑主観如かくかではたらきかけても︑自濃存在は何の影響も受
注もことなく︑無関心佐封立する断に特色を有する︒そこに客観の所謂無頓着性がある︒この鰊頓着なものが﹂却
つてこれにはたらきかける主観を攣化せし.協︑恰も︑ライプニッツの
監︶として表はれ︑この像と自牌存在と
ンの見解は︑上述の通り︑彼の存在論に基礎づ汐られ︑且つその立場の性格から雷然の締結であるノご已iOeS苧
ヨdiの健児は︑主観による構成む布衣の野に放ち︑認識されるもの1影響む受けてはたらく限り︑認識する常蔑
○ に支配的な紀位を典へつ1も︑認識関係把於ては︑白地存在の無頓着性が却つ.て支配的︑規定的であるといふ受
動的︑横筋的な傾向がその金地を貫ぬき︑この嶽なとてろから︑∵終局認紘は超越的紬係として考へられるのであ
る︒一般忙合致説には超越的展埋概念が必然的に相賭するの漉このためである︒然しハルトマン的な布衣論の立
瘍にあつてはー認識の構造の問題よりも︑寧ろそれに優先し七︑存在者の存在関係の問題が叫燈篭嬰な意味をも
つ︒そしてこの存在者の布衣閥係を基礎として︑自憾存在にはたらきか拝島・こと忙よつて攣化せしめられる主観
め側に弟ける像と封‖紋との↓致として展理路識が論ぜられるに過ぎない︒従つて何よりも外界の賛任性に関する
●
へ30︶・ 蘭題が︑その存在論の重要な部分を占めーこ㌢L兜所興の根祇の上に依存しで存在論的登別進がある︒l彼にとつ
︵31︶
てそれは霊論の序警雪と同時窟畢邁霊前掟で羞る︒だが外慧慧性竃讐粁蓋の孟が轟さ
︵架︶ れるものではないことは︑ハイチツガーの指摘する通りである︒賢資性の問題に竃鮎を泣く立場︑即ち存在者の /
存在関係佐於て炭嘩規定を考へせうとする立場が︑必然的に琵理数像と封衷との‖仙致といふ超越的関係に於て準
えようとする態度に憑かれるのは首おであり︑且つ相雷の埋由も存したわ伊であるが︑盛運問題の重犯は︑この
像と封‖奴との山致︒不﹁致が︼鰻何によつて知られるかといふ鮎にあり︑山致説の致命的閃雉も賢はそLに・あつた
のである︒このことは︑ハイヂツ計−甘指摘する通甘︑外界の賛在怯む如何に耕じ適しても︑そのことからは何
め解決も得られな㌢叫致・不鵬致がいはれる為に軋︑党づ酎脊の随餌が繭能されなけれぽなちないが︑それは叫
二ハ三 鍔 環 の 問r題.
′
㌧
二ハ四 攣一サニ琴 第二︒・≡耽
憺如何にして可能である・か︒ハルトマン
主観または静識の弼立性が存すると考へる校である︒認識を超越的な関係と考へる立場からは︑認粍を判断と同
一疏する見解は︑翠なる論理重義として申伊られることはいふ−訂でもないが︑意識と封象との相関に於て認識を
考へようとする考へ方も同校に拓辞せられる︒著し相関に於▼て認誠が考へられるならば︑牡界は認識されてい息
限り存在するものとして成立するこ︑とゝなり︑従って封象に於て認識されている.こと1⁚されてい孜いこと1の底
別がなくなると同時に︑質理と誤謬との封立は︑たゞ概念∴判断或は琴次の内的一致・不一致に掃すること▲ タ なり三鞄埋の驚准性は全く液却されること1なる︒意識内容仝髄陀ついて︑その驚在性は金紺象である存在せる や
倣界にNu牒詳P ︵適中︶するか香かによつて保護せられるほかはないとすれば︑認識は超越的囲係に於て親
られねぼならないこ上は常然である︒尊卑この超越的関係の故に︑竜観の猫立性と客観︵厳密には︵ルトマンの
へ33︶ 所謂超客観︶?無頓着悼も成立L得るわけで︑両者の間の超越的関係として山致・不一致といふことも理合され
るのである︒だがこうした説明陀あつても︑なほその二致︒不山致が何に嫁つて定められ得るかといふ問題は︑
依然として未解決のま1残されている︒吾々が知り得るものは︑たゞ率親閲の∴敦︒
の変れもない︒合致といふことが︑展嘩の茸衣性を保託すると考へられるのは︑展埋はもと存墟に施し︑有産正
闘はることなくしては︑如何なる観念的内容も意味を成きないと考へられる1掛らである︒態とへば表象知音蒜二
致を以て内在的眞埋概念を規定する場合に於てすら︑=その二致櫨︑結局それが同一の存在に開はらしめられるこ
と吟遊づくほかはないのでノある︒
︵34︶ 凡そ合致︵Cberei計timmu眉︶ といふ貫其は︑アサストテレスによつてどm︒i富ata︵相似︶といはれ︑中
恰期に於ては∵椴に息駕瑠atiO︵相常︶或はcOrrの瑠○已昌tia︵相鯨︶ cOn扁nientia︵一致︶といふ常襲で率 ︵ 35︶
誉れー爾警da蔓atiOi邑ect宏et︵知
化されて兼たのであるが︑何れ︑にせよ観念的判断円容と賓在的慮それにつ・いて判臥されるものとし七の事物との
問の聯踊に於て︑蚕憾的にせよ部分的にせよ︑同﹂なものとして見出されるといふ意味をもつてゐる︒同妄㌢
のとして見出されること︑即ち合致といふことが成立するためには︑先づ桶者六即ち思惟と苦鹿︶が同叫に蹄す
一て ︵3
考へにその恵1従ふならぼ︑合致は絶封同叫を意味すること1なる︒そしてこれむ素朴に解して︑異なる観念に
該蕾する茸在は同校把異物であるといふことを尿頑として払致すれば︑メガラ畢次の如き判断不可能誠に除い
るバ慧し異なつた観念ほ︑その表現する異なつた蜜在と同校
乱︑両者の同心性針金然拒否して︑両者む結ぶ如何なる橋架もないとすれば︑認哉の可能性は全く破壊されてし′
豊であろう︒そ︒で嘗完漉︑思惟壷警の向遠雷空つ\同時品者造高か写る誉
考へ出さねぼをらぬ︒こ1に中世期以雑訂等n許とe軋ste邑iaの隈別が拭く問題にされた理由が存する︒この間 ㍉〃 題の究明は︑存在者に関してその存在形態の昏々相む憧別することによつて︑同﹂と非同∵の調和む計らうとす
るもので軋り︑畠山物について︑それ自身鱒於炒る存在と︑それが思惟せられることに於てある存在を慣別する
jき︑思惟は驚在そのものとは閤二ではなくなり︑メガヲ拳派のいふ判断不可軍記はこれを避ける七とが出挙
る︒即ち賛在形式に従ってそれ自身存在するものから︑知性の存在形式に従って知性の中に存在する封象が論理
的に協別せられ︑︑それが革質L±ヤつの布衣転態として要素的に結合せられているところに∵同早耳能の根接を見ノ
潤すことが山裾る︒そLて剣件の存在形式に従りて斑在を捕捉することは︑その抽象作用によつて∵感覚的なも〜
︵五 眞 寧の 問︑層
」
二ハ六 俸サニ巷 帝ヱ一疲
のに内在する本質を摘へ︑それを衷現する概念の巾に驚衣の本質を見ることであり︑それは途に茸在の諸相を分〜
離することに究伺する︒そしてそれが断定によつて再び掠合せられ︑この分離と結合が完全に相臆するところ
に展班の謀抽が存すと考へられる
存することなく︑また合致が成写する限り︑何等かの媒介及必要とすべく︑従つてその様介は所有の何れにも巌
せす︑しかも何れとも有機的に結合せられる概念によるほかはないといふのが︑尿埋に関するスコラ的考へ方の
蒜である︒デカル1に於て﹁息ふ↑せいふこと1﹁在る﹂といふことが︑根本的閤験に於ては直接結びついて
居りながら︑理性の驚赤直接捕捉に充分な注琴が梯はれなかつた1めに一息惟の直接封象は免攣り思惟となり︑
従つて虞理の琵衣性に・ついて完全にそb棍越せっをとめることが出発なかった︒またBegユ詳各ne An買訂苧 ︵ 39︶ ∃gひi已−宋rと心ふカントにとつても︑概念は何等驚賽謬抽の媒介とはなり得ないことは心ふまでもない︒抽
衆概念とその原型たる晋在とは全然異質であるとの考へかむは︑寧ろ常然のことである︒この際判蘭作用を離れ
て考へられる兇なる概念は︑偶飢的事物に於伊る特定の驚耗的本質む表はすものではなく︑鼠に抽象的本質︑換
言すれば可能象る本凛藍風味するに過ぎな▼いことは勿論であるが︑展理問題に閃はる判㈲軋於ては︑抽象的軋嘩
は︑驚准の諸相を多くの概念に分倒して捕捉するけれども︑それを直ち忙分割為れたま1賛在するもめ
醸するものではない︒この分割されたもの1多様性が.︑断定作用む介し︑賓在に於て同一に鐸することを骨足す
るものである︒要するに概念問のⅥ壷は﹁同叫の賓衣に開はることによつてのみ立儲煎られる︒とうした鮎か
ら︑直也とは断定に於て︑二つの概念む結合する理性の作用と︑これ等の二つの働念の密現されて心る同こ仰の
︵40︶ . 賛在或ほ可能洩る存在せの適合であると定義せられる.︒然しこの定義は︑露㌻tiaとe訃t星iaむ存在疎意の
要素的な置分に基づけて︑雨着の転々なる特殊な別働む保首︑つ\概念の媒介を以て同定録すペき所以む表明
するに過ぜサ︑合致とい′ふてとの本質的な問題む根本的忙解決するもので軋ない︒こさも合致を形式的匿規定
する前に︑合致といふことの成り宜つ春草論的藍恩味が間ほれなければならない︒
﹁合致する﹂といふ乙とは︑合致するもの1問忙於ける∵つの聯開と肇へられるが︑同時にそれ空つの軋た
らきとも見られる︒はたらきには常戯はたらくものとはたらきかけられるものとの讐且が基底的前提として琴琴
きれる︒そしてこの間に放ける作用的な交渉聯開を如何に解するかによつて︑合致といふことの意昧も明かにさ
れる︒尤もこの場合︑能朗の封立を前提として︑その勘立閑儲から交渉聯閲紅把える態度訂採るか︑或は交渉聯 町
決せられることで昂る︒
普噂︑賓衣論的な立場にあつては︑誕識の封象とゑる存在は︑瓢拙作用に発意って墾止に存在し︑誕識作用によ
って何等内容的な欒史む受けるも各はないょ考へられる︒たとへぼ︑蹄鶉ハルトマンの見解などは︑壷硯︵厳
常には主観によつて客観化された客観を超えた所謂麗容親︶はA邑cF軋nとして佃頓着であ告その故に︑︷吊
らほ何等欒化せしめられるこ七なく〆︑却つてはた昌きかける主観に診轡を及ぼすといふ受身的でありながら支配
的な定位が輿へられるのである︒従つて存在むそのま1に把捉するといふ模為的関係が認識であり︑認識作用が
封象に︑表的に欒更を加へる女らぼ︑それは本郷の認粍ではないと考へる︑のである︒この℃とは認識の木賃的な
要求砿基づくもめであり︑従つて著々の認識にとつて拭ふべからざることで・菅笠/そしてこ1ではra許諾β
diがra㌻cOg富男diに優兜する︒合致するはたらき如何を間ふ前にトはたらきが於てある存在者の存廃関
係が問詰ねば計らない︒然しこの校−姦識完彗て攣芸存在各党することは∵認識の本質的恕要求で笹
琴理 や申題 こハ七
山大入 第二十二怨二鱗二︒ニ叫牧
あるが︑そ.がを以て直ちに現賢的に眈に到達されたものとして前提せらるべきではない︒存華目憾むそのま1把
挺するといふ﹂とが∵王凱朝梢成を供たすし七可能であるとの保葦はどこ軋もないからで︑める︒そこで組識のか
1る本質的嬰求が︑現某的に裾何忙愛常するか︑或は合致するはたらき瓜⁚革質的に如何なる磯.餞をもつかとい
ふことを反省すれば︑認嘩作川歓超越した驚究純なものは﹂研謂存在自醍として到底把返し得ないものと定め
ら飢︑捉つセ認純の封衆拭︑専らアプリオー㌢の概念によつて構成されたものと考へられる︒この立場にあつ
ては︑認抽の本来の琴警抜内在的である︒内在的であれぼ㍉合致といふことは無意味であ㌢︑樽琉的窒放球規苑
はこ1に一應授えされたかの如く忙息はれるが︑少くともこの立場の︑代表者と見られるカント把あつては︑なほ
︵41︶ この既定が維持せられている︒カント認識論の目槙が合致に存Lたこと榛疑へない︒所謂コペルニクス的撼諷と1
解せられる構成読も︑たゞ合致に達する仕方に踊はるに過ぎない︒眞理の相性せ合致と見る見地は︑置理はもと∫
存在に威し︑それは書々の思惟如何に拘らす輿へられたものであり︑そしてこれを認識する知識の展通性は︑こ
.の存在に嵐する箪∵釈的展埋に関係づけられることにょつ七琴哀的に成立すると考へるのが普通である︒然るノ
にカン.トにあつて拭︑この事情は全く逆に︑展望は飽迄も知識の罪過として︑主観によつて柄成されるところに
成立するものと見られる︒故宜カントのコペルニクス的抽廻も︑賛は︑総務認識漉劉衷に従ふといふ滑梅的態密
から︑却つて封衷が認識に綻はぬばならぬといふ積極的態度に鴨じた︑慧でゞあつ七︑存在と知性の合致乾いは
ば知性の捌から構成したに過ぎない︒構成の材料は認識の内容として客観より輿へられたものであり︑感覚乃軍医
祝が受容的である限り︑要する笹それは存在自鰻に制約せられたものである︒更にカント自身も︑認識の形式は
内容的客観的眞理を認識のために賂作るに充分ではないことを認めている︒感覚の娘漁として物日餞といふ不可
知な或るものむ筏さざる歓待寧かつたのもこのためである︒要するに嘉ントの認識論が典型的構成詭であゎエ埜が
ら︑結局客観からの制約臥食まざるを得ない限り︑合致としての展理規定む発ぬがれ将卒駆っ発ことは炭へ啓
い︒感性の受容性む許しながら︑な鱒蓋観の構成を維持しようとすれぼープラトンの如く︑﹁等しきもの拓よつ
て等しきもの藍といふ原理かキ理健と感性に各々相常する二棍類の露弛む説かざる限り︑どこかにこの両者
を統山的に理脅する煙がなければならぬ︒バーヂン畢派はこ′の問題を受けて︑形式と内容をごつの嬰率として翠
︵42︶ 取の成立む説こうとした︒︵二質素説︶これは雨着の踊係訂 dasE︷完羞乱das A已巾記の望n訂i:と見る相
関警窪関係訟︵穿をi象⁝de芸elati︒nism阜笠つもので二等しきもの誓つて等し富・の
を﹂箋いふ傾疏的な見解か・らr等tからぜるものによつて等しからざるもの及﹂といふ見解への革命的な意味を
黎むもので︑そのこと自身モの恵1で琉仙的竪琴織を麹愈しようとするものである︒たがこうした試みも︑裂す
るに典五る二づの要素む説く以上︑それの流山匿射する論理的な説明が不能である限り︑異なる箪素は典故る故
を以て相互迭透は許されず︑結合も成じ得ないから︑その関係は飽迄併列的な二元封立のま1筏され︑結局根本
的な琉・叫を果L待ない︒然る軋純粋息′惟の創造的生産む以て叫元的に貰ぬこうとするマしルブルヒ拳操にあつて
は︑・へか1る二元封立挨全く排除され感覚的賢答の研輿性は︑純粋思惟に封して皆軋課せられたる︵aufgeg各eヱ ︵ 43︶ 問題Ⅹに過ぎないものとなる︒この立場にあつては︑思惟は内容の城壁を破って浸入し︑これを理性一色にぬp
つぶすことによ′つて︑\即ち形式は質料む声mSC雇窪eヨ ︵包囲︶するのみならすdu言hd旨gen︵通徹︶するこ
とによつて︑認識を展に統一的な頗造に於て攣合することが出雑る左考へる︒かくすれば︑感覚的輿件は結局何
等の意昧なきものとなり︑思惟と存在との合致といふことは︑思惟の側に解消⊥︑分離に革ける合一の保存︑合
一に於ける分離の保存は︑寄ち思惟の綜合的統野割に録すること1なる︒だがこ鱒場合︑存在に閲はる感覚的
輿件を課せられたる間儲Ⅹと考べることは︑勿論問題ほ未解決なるⅩであつて︑それ貞身預め規定されてゐない
眞 哩 の 問 題 ハ九
璧一十二審 第二・ニ疲
山七Cものではあつても︑認耗の成立に閲し全々何の役割をも演じないものではない︒細枠息惟の産出にとつて何の規 稟性もないものならば︑最早それ隠問題ともいひ得ないであろう︒少くとも間踵としての意味が認められてゐる
以上︑存在に銅はる感覚的直観内容を何等かの意味で認めるこ・とであり︑従つてこの立場にあつそも︑バーデlrr
へ44し
壷沢の二審素読の場合と同様︑合致といふ麒理規定か皇芸に除却ん待たとはいひ斯い︒
カントの残し寵二元論的不徹成が︑フィモァ忙よつて叫鱒儀野望離的卜能動的に徹底せLめちれ︑物日醍の存
在払完全笹除去せられて︑純粋首我の笠戯的自己蟄朕のための抵抗物として﹂自我は自ら非戦を定立するものと
︵45︶
考べちれ卑ことは周知の′通りであえ笥フィ竺アの自我の本質揉その賛成性に放て見られ︑賃銭的なもの挽いふ壷
で牒なく意志衷由的なものであり︑主観的なものむ客観化し︑自己咤勤して投皆︵邑g瑠箋e誅n︶するこ′と咋
ほかならない︒こうした自己蟹現の行為に於て封目的自覚む遊行することが︑凡そ雫践的なもの1本質的な在り
方である︒非我由自己外定立の底には︑こうLた寧既約な本質開聯が含まれ1鶴ってその錮聯は︑鼠に内からの
連紋的鮪恕として外が定立されるものでもなければ︑また常に由布的︒孤立的に外が考へらるべ空でもない︒琴
L非我を自我の迅綬的所産として節すれぼ︑外は乳なる内の連結として︑儲哲にいへば・そこに内と外との段嘩
的国別はない.フィ七テ自我給に於ける贋践的本質闘聯は︑︑連紋的にではな︿て︑香足的噺縦即ら内と外と・の鱒 ′
理的直別む行革によつて飛蹄的に達観せしめるところにめみ成点する︒従つてそこには耕許法的な割烹統二聖申 ︵46︶ 定的聯
閑が琢想されてゐると見られてゐる/Cこ1に於て感性甘受容的なものと考へるカント的人間の有限性が破
致せらが︑認散の形式と共に内容計も自らの研磨とすることの椚凍る人間の無限性に立脚して︑そこから内と外 との交渉聯踊即ち合致は︑相互に呑発し合ふ異質硝封韮者む契椀とする英機的綜合に海関せられる︒それは政平
常なる認識論的問題の究明に止らず∵却らて阻接在るものゝ存在論朋柿追の.究明に開はる︒即も具醍的な驚華
.■■■
を一理性的原理的なものから故国論的把生産しよ㌢といふ態度絃乗でられ.1占東的布衣α存在論として︑そ
覧らの漂於て芝生の雷や本質的蹄嘗開明じようとする態度一に開はる︒宗この疎2で.認識も世界
化於ける存在と偏在との関係と見︑動的驚戯的鱗城に闇路る偽のと見ることは︑匪町園地問題からの逸松を意曝
するてとゝ革りはしな等あらうか︒欝掛的目的に依存するものは︑眈に展悔ではなくして替意であると薯へら∧
驚からで鷲︒眞悔陶題芸質は︑それが蜜践的関心せ離れて︑それ自馳組讐究局の目的孟誉れる㌢
ろ軋存する︒尿偏間学名威的餅城に踊捻らしめるてとは︑そのこと自髄眈に展と沓との混−司でーめるといふこQ
批評は確かに正常やある︒少くせむ︑≠フグ芸ズムの如き︑︑炭建白曜の存在む香淀して成型訂人間の月的や関
心躍よつてのみ定めようとす畠山簡約輿埋敬老衝いて飴りあ.るものがあ孝ぺ戯しそのことは︑笹ちに如何なる意
味ノに於ても︑賞理に踊する鷺成約関心む担訂する甥由とはならない︒許乱臣ふp崇良計から国別される意味
温て︑竃簑践から固別されることか出誉ノ︒然し霊︵邑−as︶意深く炭乳盲aci艮と通するや
のが雷︑知︵sci畳鰯深く葦︵c︒nSCi邑ia︸嘉するものが雪と考ヘノ観る限り︑.雷管竃
け
別の徴表は確饉ではあり得ない︒ナトルプによれば︑その驚践哲撃は哲畢生髄藍還し︑知識は機能的にAkti!
星野︵動作性︶Akどali註靂現性︶計i︒邑i−計︵合理性︶の湊透的結合町於てぞの具概性を見錯L得るものと
︷49︶ 考へられ薫こうし空畏でならば︑誕粒もま空つの形成作用であり︑展望はか1る形成作用に於て散見され︑
るも考雪¢合致と芸こょもl封象の駁慧観照籠於嘉豊′つとのみ見らるべきもので凄く︑その鷹狩
は︑探し璽箭・行動的な披作の雪ことを看過すべ督ではない︒勿論認識路用がc邑i⁝⁝ihil〇
限り︑その胡蟄鮎には︑常に何等かの新興が前超されねぼならぬことはいふ法号もないが︑現賓的な認拙作用に
とつては︑その所輿といはれるものも︑耽竺軽の主観的扶持虞依存しているものである︒貫なる事署としての
眞・理 の 問 題 山七︼
療三千二雀 第ニ●三軍 膿
\
− 叫七二
prぎ茸realityは純然たる芦a︒Sとして顧みられを必要はないが︑それから偶像む除き去つ尭real謹lit下
になれば︑既に主観による撰捧がなされてゐる∵王観に︑猫立な簡在といふが如きものも︑r−認識成立のため忙
は必然的に要諦され︑理論的にその根接が間はるべきものだとするもーそれは単に永簡約信仰としで︑常識的・
な態度で承認して芭けば足り.鷺際的な認識の主題は︑主観的な目的開聯に依存せしめて考察さるべきで畢る︒
恵たたとへ︑真鶴的に弼立な管衣想革から謬識む説くことむ許容しても︑超越的存在のありの患1の把擾といふ
ごとは︑茸際上雷芸とつ七は不可能なことである︒・目的や銅心に着色せらるゝてとなくして蒼々はもの監貰
することは出奔ない︒翰撃革哉者が前払する﹁純粋思惟﹂と小ふが如きもの濁︑彼等が箪に慣定しね句iktiOゴに
過ぎす︑親密には存在し絡ない︒こうした理由から︑超越的客観についての驚在問題を︑背景的な領域に押しや
り︑超越的主観の現質的存立の可能を否定して︑寄ら相野的な生の月的閲聯から贋班をも考へてゆこうとする見
地が硯はれてくる︒プラグマチズムや心般︑鱒生の哲由と線解せられるもの1立場は︑多かれ少なかれこうした傾向
にある︒そしてそこで軋合致といふことは︑最早葦なる模籍的な一致ではなく︑ご笹横張せられた軍陣忙於て︑
主税と顔境との通鮭∵或は徳政仝披から見た調和といふ意味に埋愈される︒知識は生命の目的闘聯へ退元せち
れ︑知識の教用は復命への奉仕を卦昧するプラグヤチズムにとつて︑
る︒虞濯甜識は︑決しで概念餌題脛験的駁封象と叫致するといふが如きところ匿成立するのセは紅く︑却つて機
念が歴静的な生と調和するところに成正する︒粘つて馬偏決定の基準はその繁用約数瞼に依存する︒このこと蜂明 / ︵50︶ かに知識乃至縁戚埋の生への従属藍塩味する︒嘗セニイチエは︑虞埋と生命との二者鐸血に射する態度決定に於
壱︑虞理乃至知識空疎の化石の如きものに過ぎす⁝不断の攣化教展たる螢命わらの騰落であると考へた︒眞迎
ノむ生命との封立に於て或は従厳に於て考へようとするこうし.た態度は︑同時に丁芳生の白樺性乃草且足性老主張
暢
である︒知識が生忙従属することは︑如鞄の眞理性に闘する規定を︑認識論的な鎖磯に於て求め得ないことむ意
ル下 味するから︑それは革ら茸践的毒動的な領域に於て∵室観的な目的や関心に依存せしめて︑その密行約数験に徹
せうれるほかはな℃そLてその資行的赦戯の有戯竺健何によつて決定せられるかといふ問題む深く追求して
ゆけぼ︑垂の指向すべ昏現局鮎が確立せら吾壷である︒然しこうした問題の追求は︑棟慶に鷹封諭を碓ふプラ
グマチズム佐とつては︑形而上峯的な掲のとして二次的とされる︒かく最高目的を茸行的萩験の究静的基準とし
て追求することを避抄る七すれば︑それは轟し雷り経験的等質に警禁は監︑蕾し認識の出磯警空現賓
由存在む可能にするい恵ぢのモメントは質料酌軍曹的なもの以外にはないからである︒ジェームスがこの事賓
約なものゝ究撃㌢反省以瀧︑の慣摸的知覚の状態たる純粋曜験︵pu記 e溜りi琶e︶ に置き︑そうした唯忘 へ
51︶ 茸衣から形相的なもの或は意味的なものも︑寄茸的なもノのと昇忙内在的に派生し得るものと考へて︑・そこに認識
の増額鮎を浸き︑恵た展理性の最後の保謹む磨こづとしたのはこのためであ瓢︒従ってジ二サームスには︑繁用論
的な覇と同時に茸在籍的な面が混催し︑﹁虞理であるから有用である﹂﹁禰用であるから虜理である﹂といふこの ︵
52︶
両方の説き方抜︑全く同じこと藍息醸するものとされた︒串蜜そのものはSimp−ya諾であつて直ちに質種とは ︵53︶
− いへないが︑眞埋絃軍層の円から出致し寄賛の問に終結す竃信念の機能である︒従ってジェームスの展理翫の棍 ︵54︶
祇はい驚在論者表の眞理規寵たる合致にあることはいふ空で一もない︒彼自身も﹁展埋け賓在上表することで ︵55︶ あり︑虚偽は叫致せざることであり︑それは主知主義者も管用主義者庵党議む言するものである﹂と明言して
ゐる︒但しその表するagreわといふ意塊は︑主知主義者の如く︑本質的に自動ガなき静的な関係を意味する
のではなく︑観念が動きはたらいて務め心濫揃いていた管際的結果む生ずるといふ出奔事に於て︑観念が驚衣に
眞 理 の.問 題 一七三
B計n耶或は苧bsistの世界を設くに空つた
ナる︒それが食め匿唯÷の普遍的範警
表するといふ意味で雪て︑こ1に行成的態度塞掌る茸用義軍としての雷が誉れてゐる︒デ言−
控あつては︑agr宋は寧ろsuc象と解芦れ︑忘管用論的に徹威Lた態度がとられ︑管在静的遊撃言落在︵ 57︶ を許容せざる甘得ないと見られ七ゐる︒ 茸在籍駒傾向が微塵蒜威せしめられ思と一路係項芭ての箪純な賓窪勿論のこと︑その間の関係掌ら一 へ
58︶ 腐の賛庭と見る多元琵な貰親︵E旨na⁝iew︒巧打e︸a−i︒n︶墓じ︑そこでは雷猛ら賛春的領域に隠
し;警いきとも悉く墓の申や解潤し1璧は漕誉書還する′こと去る︒タ従って書芸みが鑑 ︸
かれ︑その峻層性が昔々にとつて耐へぬぽ寧首非抑制性・非回避痙と七退去るところに鍔埠の確濯が見 られるのであるが︑こ霊場監らゆる面に讐志し・ようとすれぼ︑蓋箋観的硯警違れてど誤謬の ︑ 規澄も︑霊的領域炭て︑慧的咋∵即ち客観的に説明し︐霹ればなら賢空かうホルト等は︑あらゆ
為寧軋ら︑董聞及び時間につ等の誤警櫨力物嘩的十生確約佐藤し得る雷に腐心毛ヤる︒讐如何に淡 ︵59︶ 謬の掌る冨姦琵・生諾現管して説明し緒普するも︑それ造讃の素材姦驚穿として芸的 匿分解し雷誓ないの・で雪て︑をの汝墓索約諾によつて憲義認し潅とふふは食らきその駁のを放ね 書ことは出窓い︒芸茅諾立場農ぬく望︑表的とやはれる誤謬鋭警も︑・護飽学濃釜的蚤界 に富づ誓攣る必要雷るから︑誤謬がそこ芸豊つ露的︒観念論的領域に代るペき有の血兎左して 第二十二名 夢二ユニ耽
」 ) 0
ホルトは﹁有は何物もc昌nO冒しないが︑あらゆ竃もの監▲営tO
といつて︑Realに封嘩するT2命も︑un詔巴に封應する声 ︼七四
邑r宕も︑共にこの唯叫普遍なカテ.コリー笹受持せられるといふ汎客観主義に立脚する︒こ1忙於て︑革質と異
なつて知られた誤謬・といふ︑王観的現象も︑出e軋n粥としての存立の世界佐一於て理愈軋らるべきものとなる︒Re針
も房吉叫も悉く中性的有の二光的領域の申に説明t適そうとするこうした考へ方は︑頗る徹底Lた駐在観で軋
あるが?最も包容的な有の解繹む以て︑観念論軋も賛髪摘の申に包みこもうとした肛過ぎないのであつて︑卑ゞ ノ
へ机︶ 有把句乱れた観念論と何等典なるこどはない占従ってそれ等の人達の申にあつても︑モンデーギユの如きは﹁若
し戯念論乃至完諭逐必嘗以上に恐れるあまり汎客観童義に走り︑誤謬計もなほ山越の等質となせぼ︑償理と非
︵62︶ 眞埋の本質的な直別峠なくなぺ客観的相封︑書式風格いり規準芯義に趨慮りする惧れが串る﹂と批評Lている︒
との批評は︑新路在論の偏向を矯めんとする瞥督であると計時に︑彼等員身その所詮の根本的雑踏な指相するも
めである︒むしてこの難路に遥む通する唯心の方汲は︑彼等の成木的立脚地たる汎客観主義を除却するほかにな
い︒認識論約に虻∵主観と外附封象との幽畢纂容しなげればならない︒しかも饗在論的な澄場む離れること滋 ヽ
くしてこのことを途行しよヶどすれぼ︑意識経験に原初沖に輿へられた置摸輿件の性格に︑資衣的窒息昧と同時
に︑幻覚︒錯覚等の主親的・心理的現象
︵63︶ るもの惹ないがーむも出ハに包含せしめる監はない︒ドレイク表の批判的蟹衣論が軍に輿ヘーられ雲g許n︸
a竃㌻⁝Wa艮封象を本質又は性質複合︵E罵n乳︒H
とのためである︒この性質横合抵−そのま1では直ち忙客観的とも︑撃硯的ともレひ待ない中性的な論癒的有であ
へ64︶ もとレはれて周るが︑その有は︑存在すると恩はれたといふ性酪計も許されてゐる意味に於て︑い確ゞ想像され ︵ 65︶ た性償禦ごT訂imagi邑c訂莞草甘mp−e且なのである︒従つて時−に展であることも悔であるLとも起り碍
るとレふ可能の傲鞄を残すからー誤層現象はこの鮎に基づけて推計く説明され得る︒然しその反軍には︑営然存
山七五 異 型 の 問′越
第サニ穏 笛ニー・三観 山七大
在界の詮明を充分に果し得ない結果に攣かれる︒輿件は︑感覚典侍にせよ・記憶輿伸にせよ︑また思考輿備にせ
︵66︶ よ︑単に性質複合であり︑.論理的有であつて︑展の存在界忙位澄をもつ存衣物ではないから︑所謂水質ハEssnc巾︶
といはれるものは存在界を作る要素ではなく常に輿へられた現象に過ぎず︑
れ自身では純粋躍存在たり得る棒利はないからである︒想像されたる本質としての性質複合といふ直接輿件か
ら︑如何にして驚在的なものを導奮出し得るかといふこと︑延いては展理は何に基づけて規定せられるかといふ
七とが︑批判的質在論に激せられた難問である︒こゝに至つて合致といふことは︑異質的なもの1直接適合とい
ふ本邦の意味が回避せられ︑中間勧なしかも援除な領域Ⅵ儲滞せしめられることによつて︑何れの方向へも規定
せしめられ得る自在性を得ると同時に︑計たそのこと・の故に︑何れの方向へも蔭ちに落着することの出兼なれ中
間地常に・彷復し︑展埋の森質的規定は途に性質複合とムふ恋㌫中に隠蔽せられること1なつた︒
凡そ虞埋む﹁知性と存在との合致﹂主見る中性期以死の侍統的定義は︑総元素朴驚在諭を前提とした認識論上
︵67︶
の所謂槙蒐詭の基調をなすものと考へられて米食︒然し合致は必ずしも検算詭にいふ桟拓に限つた洩秒ではない
と恩はれる︒銭箱は樗在をあるがまゝに受容するといふ合致の消極的二閻恕抽象したに過ぎないからである首致
が存應と思惟の分裂登別掟として︑その丙宥の聯関の上貯成り雪以上︑必ずしも存雪面のみ歓燦党せし嘗
考へねば至芸由は監︒邑i⁝SSe息iむraIi⁝○篭sCendiに擾発せし賢う美し票ルトマンの見解
は︑︑か﹂る抽象に佑いつたものと思はれる︒′表に鷺発給の立場が︑その章蓮の籍藤如何に拘らザ︑こうした僚
向にあることは︑立場の特質上寧ろ雷魚のことである︒もとよ息最は︑資在静的登別埠を全英含まないところ
に成己緒ないことはいふ書も監が︑それと同じ権利畠て︑締成約な普昧を全然食違いと芸にも成立
L得ない︑p模錯視と購成説とは︑同等の樺利を以て合致のもつ滑軽喝墳械的隠面を各々異なる側から︼面的正
賞ぬこうとするものである︒轟音の直別は︑
といふ鮎忙見られるに過ぎない︒乱々ほ認識論上の種々なる立場がi琵在紛はもとより観念論的な立場にあつ
て耳らー多かれ少軒かれ︑か与る贋や意塵での合致といふことかち免職がれ得なかつたことを見て裾た︒そし
てかゝる意味での香致は︑判断について黒ば︑蓋謁なも︑のと碧謁な鴻のとの問に存する単なる摸渇的関係
把止−まらず︑両者の分裂的結合鮎であり︑その限j眞周の普遍性と蜜凝性の疏︼鮎とも見られる︒判断に於汐る最
盛の普遍性應︑常然述語的な方向に求められ︑それが勢ひアプリオーサなもの形相的なものぺと発展せしめられ
たことは必然肘過程と見られる︒だがこの方向︑に於て純粋になり得′ることのみを以て︑由誠の眞理性を充分に且
っ完全に詮き壷す﹂とを待なかつたことは︑既に書芸明かにして粥たところであそ形式的展埋を詭いたカン へ 68︶
トはV物白磁とその腕畿といふ困難む残し︑純粋息惟の生産を以て叫功を説き恕そうとLたコ一声ン把あつてすら︑問題Ⅹの設定を説き︑何等かの意味に於て存雀に踊はる感性的直観内容を謎めたものと解され︑また純粋意
識を研究領域とするフッサールの現象畢的認識論も︑究局に於て意味充管の普衣的而を認容せざるを得なかつ
た︒しかもこれと邁のことが︑そのまて鷺凝論的方向につヤても緒摘される︒即ち鷺在論的乃至客観主義的な方 ノ︼
向への連騰は︑途に終職を専管の閻に解約し去るか︑或は貸衣せ中性的有とし′ての存立に記せ換へ︑或は管凄む
\性質複合といふ腔陣な中間的存立に欒容せしむるの巳むなきに垂つた︒各のことは驚在論の進歩であると同時に
普遍性ゐ方向に純粋になるとと一は︑却つ七その底紅賛在怯む呼びー鱒忙茸在性に徹することは︑却ってその究
局に普遍性む要求せざるを得ないといふこゐ両方向への必然的超脱の過程は︑一髄何む物語つているのであろう 観念論への後退とも見られる︒
虞 理 の 問 題 ﹁七七
璧叫サ巷 第ニ・ニ痘 ∴七入
か︒去れは明らかに︑普遍性と茸在性乃豆は意味的形相的なものと事背約質料的なものが不可離の聯摘に於て︑
展理の本苑的意味形成の不可紋條件むなしているといふこと︑しかもこの南面は他を一方に還元すること一も︑藍
た互ひに迭透し合ふととも許されない抱封異質性聡於てあるとと︑そしでそれ等を同聖横瀬から合理的に導き
由すことも全く不可能であることむ示す︒認識の基本的構造からしてこ申開面は飽進も相反する方向にあり︑番
質的なものそのものから意味の横瀬を導き出すこそは不可能であると共に︑叡た意味的なもの阻みから事驚的な
軋のを産出することも出誓い︒雨着露係は内在胡魔績的ではなくして超越的断庖的で雪︒そしてこの資味に
於ける二元封立は人間の認識能力の限界かち必然的である︒七1に合致詭の困雉があると同時佗︑合致といふこ
とが新しい意犠で深く問題にされねば獲らぬ所以があると息ふ︒普遍性と驚在性が展なる認織の示可快條件とし
て︑何れの叫方を炊くも︑展理を一般的に且つ尭仝に規定し得ないとすれぼ︑合致といぁことは︑この開署の園
痴なる具足と解せ■られる腰かはない︒だが園浦なる具足といふことが︑たゞ異質的なもの1羅列といふことに止
るなら・ぼ︑それは罫に要索の分析に因る條件の摘出忙過ぎす︑合致といふことの意味を本質的に規定するもので
はない︒バーヂン畢沃のこ要素詭が︑眞の意味に於て︑認織を統血的に理合し得なかつたの軋このためでぁる︒
しかもこの二つの條件が偽造も相反する方向に求められる以上︑常々の︑認識にとつて︑それはたゞ併列的僚件と
して外部から諮総の眞理性を規定する抽象的尺度たるに止まらず︑探く内面的な聯閲に於て把捉されねばなら
や︒との分裂と結合︑断絶と統一との関係が︑.スチラ的理倉を超えて︑如何なる立場から完全に掟示され得るか
を追求することが普々に課せられた次の間題である?
昭和二四︑九︑一致
荘
︵l︑︶ mund忌二票鼠b穿とm仁ndusへin邑露ibi甘を嘗y玖kの領域とすれば︑更にその前恨押として直接慣旗の守Ophysi村
の領域がある︒︵くg−.H・毘ckert−宮gen署邑乙erErkenntnis.︶
︵2︶ 宅−1ames二胃agmat計m−噌.N念寸ひ︑
︵3︶ 舞ant﹀Kritikd.ナ.く雫nu已t−ノP S.∽g●㌦
︵4︶ く・Die−∽・冒gmentαd雪雲嘲せatikerこ・
へ5︶ Di−旨ey∽の訂s少mヨe−丹e Scぎi叫訂ロⅠ﹀舛くⅠⅠ.
由しデイルタイのこの見解は︑理論的詔識の限界を現象に限るカyト等の立場に賛意を表する潜味であるヱ﹂ゝでは原意と
/
栴\々異なつた意味に併用した︒尤もデイルタイ徳自己の詑親泳がカント等のそれと蕗な右侍異性を明かにtて︑認識主翫を
全人的人間として︑意欲し感潤し衣魚する本質軋︑まで深めようとした執政意すべきであるズa.a.〇.舛くⅠⅠⅠ.︶
︵6︶ 只P己﹀舞ritikd.㌣くernnnft−P S.讐︸●
一 ′ ︵7︶ 狩断的︒形而上掌的傾向といふよりは︑こ〜で蜂一般に︑非合理主義的な傾鳳をこれに属せしめたい︒ \
官︶ Ari冨teiesもei富rpr.:冨∽∽いぎe膚雫玖ca㌫・−ON声惜しハイデッガー▼ラスク琴はこの粘ギリシャ的眞哩概
念の訳解とする︒︵くg−.HeideU︒ger−Seinu已Z卦︐S.N−誓Pこ富農Die訂F蒜くOmUr什eきS.−余●f︶
︵9︶ 田撃方博士﹁哲撃通論﹂第一車第六節及び箱七節参照
︵10︶ 占rkeヨeロW茎eヨa訂r︐e訂白pnerken諾−is押ebe諾︒un貯reim√a訂derw訃eノ10r加ごN jenesschO訂斧u00︸㌍hw∫
iヨm2n2訂r諾コ・eheer乱c㌻ins宅P留りWage・ご・1卜1︼箭e亀︐Enzyk訂p註e der phi訂Ophiseh2辞去眉口器訂冨nim
G苫n告i鰐川∵∽ −? か なほくg−.L・署e訂︒n﹀DieUnm蒜−6.hkeit′der守kenntnistheOrie.S.⁚−∽﹀S●−ブ
眞 理 の 問 題