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中里介山の「日本」

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(1)

中里介山の﹁日本﹂九七 はじめに

歴史・時代小説は一国の歴史を扱うことにより︑国家に対する考

え方を表しやすいジャンルである︒プロット上の善悪構図を強調す

るためにヒーローとその敵を設定することが他国から反感を買うこ

ともしばしばある︒﹁歴史・時代小説家はナショナリスト﹂という

誤解を招きやすいのもそのためであり︑これは日本において多数の

歴史・時代小説作家が﹁五日会﹂︑﹁日本文学報国会﹂のような国家

的な戦争賛美事業に自ら参加したこととも無縁ではなかろう︒

ところで︑近代時代小説及び大衆文学の元祖として評価されてい

る﹁大菩薩峠﹂やその作者である中里介山に関する先行研究を見る

と︑介山のナショナリズムに注目した研究は極めて少ない︒それは︑

介山が政治や戦争などの時事的なことに異様な関心を持ち続けた作

家であったことを考えると不思議にさえ思われるが︑始終﹁反﹂文 壇的態度を取りながら民衆への関心を見せつづけてきた介山の態度だけが強調される分︑彼のナショナリズムはそのイメージ自体が薄らいで来たような感もある︒

数少ない先行研究の中︑中里介山の代表的な研究者である尾崎秀

樹は︑﹁評伝中里介山﹂︵筑摩書房﹃中里介山全集﹄第二十巻︑一九

七二年七月︶で介山の﹁日本の一平民としての支那及支那国民に与

ふる書﹂︵一九三一年︶に触れながら次のように言い切っている︒

彼の時務感は︑世間一般に横行した好戦的な文章とはことなっ

ていた︒それは出征兵士を送る行列をみて︑生き葬いを思い浮

かべるような介山にとっては当然のことだったが︑日露戦争当

時の反戦詩人としての意識は

︑第二次大戦中の非常時局下に

あっても変わらなかったといえる︒

また︑鈴木貞美の﹁中里介山とナショナリズム﹂︵尾崎秀樹編﹃大

中里介山の﹁日本﹂

││

 

超国家主義の一断面

崔    惠 

(2)

九八

菩薩峠﹄︵至文堂︑一九九四年一月︶︶は︑介山のナショナリズムを

全面的にとりあげ︑その解明を試みた唯一の論文である︒鈴木氏は

日露戦争における介山の反戦思想に注目したあと︑介山の小説﹃島

原城﹄︵一九一一年︶の最後の場面に出てくる文章︱︱勝たば︑日

本全土を天主の御前に捧ぐべし︱︱に注目し︑﹁こういう台詞は︑

ナショナリズムに凝り固まったものには書けはしない﹂とする︒そ

して︑﹁中里介山の思想は︑大正期十一年あたりで︑インタ ナショ

ナリズムからナショナリズムへと立場を変えたのだろうか﹂と問い︑

その答えを否だとする︒氏は﹃日本及日本人﹄誌の掲載文章や﹁日

本の一平民としての支那及支那国民に与ふる書﹂などを引用したあ

と︑介山の思想を以下のように﹁国際的平民主義﹂だと結論づける︒

ナショナリズムとインタ

ナショナリズムとを兼ね備えたような︑

いわばインターネイションの﹁平民主義﹂が︑中里介山のほぼ

一貫した立場と見てよい︒︵中略︶ 中里介山の思想には﹁平民

主義﹂が貫徹し︑その権力の否定/無視において︑ステイト・

ナショナリズムは否定されるが︑ナショナリズムとパンエイジ

アニズム︵汎アジア主義︶とインタ

ナショナリズムの三層が容

易に同居し︑また︑徳を備えた英雄を待望するものとなるので

ある︒一方︑介山は編集主任を勤めていた総合雑誌である﹃隣人之友﹄ ︵一九二六年から介山没年まで刊行︶に多くのコラムを載せ︑自分

の政治観︑時務観を述べた︒しかし前に挙げた先行研究にはそれに

対する言及が全くなく︑その上︑長文である﹁日本の一平民として

の支那及支那国民に与ふる書﹂に関しても一部分しか閲することな

く概説されている︒従って︑本稿ではそれらの言説を含めて介山の

ナショナリズムを確認できる関連言説を時代順に追って行きながら︑

先行研究を検証するとともに介山が持っていたナショナリズムはど

のようなものだったかについて考えてみたい︒

一︑日露戦争期の反戦運動

まずは日露戦争期における介山の思想を︑前述した鈴木貞美氏の

論に沿っていきながら確認しておきたい︒

中里介山が日露戦争に際して書いた新体詩﹃乱調激韵﹄︵﹃平民新

聞﹄第三九号︑一九〇四年八月︶は︑﹁敵︑味方︑彼も人なり︑我

も人なり︒人︑人を殺さしむる権威ありや︒  人︑人を殺さしむる

義務ありや︒﹂と人道主義からの反戦の立場を高らかに歌ったあとで︑

﹁あゝ言ふこと勿れ︑国の為なり︑君の為なり﹂と閉じる︒鈴木氏

は各連末尾に微妙に含意を変えて繰り返される﹁国の為なり︑君の

為なり﹂が︑最後に至って全く否定されるべき語句になっていると

指摘している︒

さらに︑鈴木氏は﹃社会主義﹄一九〇四年十二月号に載った﹁戦

(3)

中里介山の﹁日本﹂九九 争と宗教家﹂を取り上げる︒介山はその文章で﹁戦争が罪悪で非義で戦争に依て国威を輝し国力を膨張せしむる事が国家民人の進歩でも幸福でも無い時︑非戦論を呼号する事がその国家を弱めると云ふなら弱めても良いと思ふ﹂とし︑次のように述べた︒

今回の日露戦争に就いて云ふてもこれは日本国民の意志利害と

露国民のそれと衝突したから起ったのでは無く︑露国宮廷を中

心とせる帝国主義者と日本現政府を代表する帝国主義者との間

の衝突に過ぎぬ︒横暴なる資本家制度を助長する帝国主義者が

自分勝手に戦争を惹起し︑彼等が偶然にして有せる権力を濫用

して無辜の人を殺し︑無用の財を費さしめるのである︒︵中略︶

露の平民と我平民との間に何の恩怨かある︑相共に手を握つて

帝国主義者を倒す可き友であるのだ︒

以上の文章を根拠に︑帝国主義戦争に反対する彼の思想がこの時

点でインターナショナリズムと祖国敗北主義に届いたと解釈するの

はもっともである︒しかし︑明治のナショナリズムがナショナリズ

ム対インターナショナリズムの図式で断裁できない点に注目しなけ

ればいけない︒鈴木氏は︑日本のネイション︱ステイト概念に関し

て︑西欧によって古代からの文化伝統を誇る﹁国家﹂﹁国体﹂の観

念がつくられたこと︑そして︑西欧列強の植民地化に対抗するリア

クションとして﹁西洋対東洋﹂の図式が形成されたことを指摘した 後︑それによってアジア文明の歴史伝統を誇り︑かつ当代においてそれを先導する日本という構図が形成されたとする︒そして明治三十年代から四十年代にかけてはこのナショナリズム︱アジア主義の上に﹁人類﹂という国際的普遍主義が理想として被さる︒これは﹁国

際主義﹂を標榜した雑誌﹃日本人﹄や﹃日本及日本人﹄への流れに

立つ人々にも観察される傾向である︒つまり︑﹁ナショナリズムと

アジア主義と国際普遍主義の三層構造﹂が︑鈴木氏が考える明治イ

ンテリゲンチャにおける普通の思想傾向で︑そのような側面が介山

からもうかがえるということである︒

ところで︑介山の思想がそのような﹁三層構造﹂になっていたと

すれば︑戦争を行う国家を否定したとしても︑国家そのもの︑すな

わち﹁日本﹂を否定したとは言い切れないのではないか︒そのよう

な問いを念頭におきながら︑時代の変遷とともに彼の国家観がどの

ように変容して行ったか︑日露戦争以後における介山の言説を確認

したい︒

二︑﹁大正的言説﹂の問題と浮かび上がる﹁日本﹂像

日露戦争の反戦運動時代以後一九二〇年頃まで︑﹁日本﹂を強く

意識した言説は特に目立たない︒それは︑﹃都新聞﹄の記者として

小説﹃大菩薩峠﹄を連載し始めた介山の多忙さのためかも知れない︒

日露戦争から︑時間が随分過ぎた後である一九二〇年︑介山は第一

(4)

一〇〇

次世界大戦終結に際して﹃日本及日本人﹄誌が行った﹁百年後の日

本﹂はどうなっているか︑というアンケートに答えて以下のような

文章を書いている︒

百年後の日本は世界に於ける最も重要な地位に置かるべく存候︒

西洋中心の時代去りて東洋中心の時代来るべしと存候︒併乍ら︑

これは文明の推移と地理上の形勝によれる結果にして︑日本民

族が其の思想と文明とを以て︑或は経済と兵力を以て世界を征

服し之が支配者の地位に立つといふ意味には之れ無く候︒︵中

略︶/勿論︑その間には︑世界の地図面に於いても︑相当の変

色を見るべく存じ候へ共︑国境よりも国民思想の国際化は目ざ

ましきもの之れ有るべく存候︒やゝもすれば優越と支配と征服

とを国家の隆盛と誤解する帝国主義の誤謬は︑すでに今日にお

いて倒潰に帰したれども︑猶ほすべてに於て︑此の根性が附き

纏ふ事ありとすれば日本国民には危険に候︒今後の観念は︑如

何にして根本的大勢を理解し︑順応し︑且つ貢献せんとするか

の外には之れ無かるべく存候︒︱︱﹁国民思想の国際化﹂﹃日

本及日本人﹄一九二〇年四月号

鈴木貞美氏は介山の右記文章を引用した後︑﹁国境より国民思想

の国際化﹂を将来にみつつ

︑﹁帝国主義の誤謬﹂に警告を発して

﹁我々は︑世界文明に向つて貢献し得べき︵誇り得べきとは云はず︶ 産物を何れの方面よりか産出致したきものに御座候﹂と結ぶ立場をインターナショナリズムだと結論づけ︑それが介山の一貫した立場だとした︒しかし︑鈴木氏は﹁西洋中心の時代が去りて東洋中心の時代が来るべしと存候﹂︑﹁帝国主義の誤謬は︑すでに今日において

倒潰に帰したれども﹂という部分や︑この時期の﹁世界﹂・﹁国際﹂

などという言葉が持つ意味を見逃しているように思われる︒

たとえば︑蓮實重彦は大正期の言説が一九二〇年頃の日本にとっ

て﹁世界﹂がまさしく﹁植民地﹂支配として顕在化している事実を

無視して︑理想化された﹁世界﹂を抽象的に主題化していると指摘

する ︵1︶︒そして︑﹁国際的﹂であることがあらゆる試みを保証している

かのような錯覚が蔓延していることがこの時期の特徴だとし︑その

例として朝永三十郎の﹁﹃思想問題﹄と哲学的精神﹂︵一九二〇年︶

や賀川豊彦の﹁人間建築論﹂︵一九二〇年︶の一部を挙げる︒つまり︑

﹁世界﹂という問題が国際的な葛藤を視界から遠ざける機能を果たし︑

﹁世界﹂・﹁国際﹂という言葉は﹁極端に理想化されて葛藤を欠いた

ある種のイメージ﹂に過ぎなかったということである︒そのような

観点からすれば︑当時の介山の思想をインターナショナリズムだと

言い切るには︑無理があるのではないか︒だとすると︑介山の思想

はどのような意味のものであったか︒その問題を考える前に︑一年

後に書かれたもう一つの介山の文章﹁日本の亜米利加支配 ︵2︶﹂を引用

しておきたい︒

(5)

中里介山の﹁日本﹂一〇一 御提案は﹃若し日本人が亜米利加を発見してゐたら﹄といふよりは﹃日本人或は黄色人種が亜米利加を支配してゐたら﹄といふ意味に取る方が宜しからうと思ふ︒︵中略︶自然日本人が

支配したら日本国体の拡大されたものと見るより外はあるまい︒

その是非は日本の国体と民族精神の是非問題になる︑是も余り

無遠慮には言えない問題となりはしないか︒

だから日本人が支配してゐたなら独立戦争は起らずに日本皇

室の忠良なる臣民で今日に至つているといふより外はあるまい︒

そうして日本国民の持てる長所短所は︑やはり拡大して︑其処

に保存せられてゐると見るより外はあるまい︒

この文章が興味深いのは︑アンケート質問を受け止める介山の姿

勢が見えるからである︒質問には﹁日本人﹂・﹁発見﹂となっている

のを︑介山は﹁日本人或は黄色人種﹂・﹁支配﹂という意味で受け止

めている︒﹁広い意味で云へば東洋人﹂ということで﹁黄色人種﹂

という言葉を使っており︑日本人を媒介に西洋対東洋の構図を想定

しているのである︒そのような問題認識にも関わらず︑問題は再び

﹁日本﹂に戻り︑﹁日本人が支配してゐたなら独立戦争は起らずに日

本皇室の忠良なる臣民で今日に至つている﹂と断言している︒ここ

で︑﹁日本皇室の忠良なる臣民﹂という言葉に注目して置かねばな

らない︒

さらに︑もう一つの問題に立ち入っておきたい︒次の引用は︑介 山が当時住んでいた高尾に設けた児童のための教育機関である﹁隣人学園﹂に関する文章である︒

余︑近日﹁隣人学園﹂の標語をつくりて以為らく

   敬天︒愛人︒克己︒

と︑蓋し国家建立の精神も持続の根幹もこの以外に過ぐべから

ず︒︵中略︶語を換ゆれば敬天は宗教也︑愛人は政治なり︑克

己は道徳也︒︵中略︶要するに此の三綱領を外にしては国亡ぶ

べし︑社会亡ぶべし︑人類存立せざるべし︑この三綱領の維が

るゝ時︑国はじめて全く︑社会はじめて存し︑人類以て生活に

堪ゆ︑若夫れ︑これを興隆すること一段なれば︑建国の精神︑

牢乎として天壌無窮なるべく万国の民ひとしく人類生活の真意

義に達し得べし︑自他平等の為に働かん事を欲す︑不宣︒︱︱ 

﹁三標語﹂﹃日本及日本人﹄一九二四年二月号

右記の文章で﹁日本﹂という言葉は見当たらないが︑﹁国﹂︑﹁社会﹂︑

﹁人類﹂のような抽象的な表現が目立つ︒これらの表現は︑﹁隣人よ

り村落へ︱︱村落より都会へ︱︱都会より国家へ︱︱国家より人類

へ︱︱人類より万有へ︱︱万有より本尊へ﹂という﹃隣人之友﹄誌

の標語にも使用されているが︑介山はこれに対し︑﹁人類より万有

への次へ︑万有より虚無へと入れ︑次に虚無より本尊へ﹂とするの

が本旨であったと言っている

︵3︶︒その説明では︑﹁無を知らなければ

(6)

一〇二

有を楽しむことは出来ない﹂と述べているが︑ここでの﹁無﹂は仏

教でいう﹁無﹂の概念を越え︑問題を拡大して抽象化する機能をし

ている︒

さて︑前述した大正的言説と批評をめぐる蓮實重彦の論考で︑氏

は大正的言説の主題体系がなんらかの意味で﹁普遍﹂的な価値への

信仰と関わりを持っていたと指摘している︒たとえば﹁人類﹂︑﹁世

界﹂といった﹁問題﹂がそれにあたり︑﹁文化主義﹂や﹁人格主義﹂

といった﹁標語﹂︑さらに武者小路実篤が口にする﹁人類の意志﹂

などがその典型だろうし︑﹁改造﹂︑﹁解放﹂といった﹁標語﹂もそ

れから必然的に導き出されてくる ︵4︶

大正期における言説には具体的な葛藤と矛盾の場が見失われ︑差

異が消滅しているという蓮實氏のこのような分析は︑吉本隆明のナ

ショナリズム論 ︵5︶とも関連付けて考えられる︒吉本氏は︑すべての大

衆と知識人が︑資本制上昇期の大衆﹁ナショナリズム﹂をみずから

のうちにかくしているとする︒そして︑その大衆﹁ナショナリズム﹂

が﹁実感﹂性をうしなってひとつの﹁概念的な一般性﹂にまで抽象

されたという現実的な基盤によって

︑はじめて知識人による

﹁ ナ

ショナリズム﹂は︑ウルトラ・ナショナリズムとして結晶化する契

機をつかんだとする︒大衆の﹁ナショナリズム﹂が心情としての実

感性をうしなったということは︑﹁すでに村の風景・家庭︑人間関

係の訣れ︑涙などによって象徴されるものが︑資本によって徐々に

圧迫され︑失われてゆく萌芽を意味﹂している︒ この吉本氏の論には︑大澤真幸のナショナリズム論にも相通じるところがある

︒大澤氏は大正期のナショナリズムを分析するキー ワードとして﹁天皇なき国民﹂という言葉を挙げた ︵6︶︒﹁天皇なき国

民﹂とは︑天皇に対する狂信的で分別のない献身をともなうウルト

ラ・ナショナリズム︵超国家主義︶が登場する昭和期の前に︑天皇

に対する無関心があったことを意味する︒すなわち︑﹁天皇の身体

が極めて崇高なものとなった結果︑ラディカルな抽象化を経たとき

に始めて現れることが可能﹂だったということである︒日本がネイ

ションを創出するためには︑天皇の身体がある程度まで抽象的なも

のにならなくてはならなく︑さらに天皇制に矛盾しているように見

える﹁民主主義﹂もこの抽象化によって思想として受容されること

が可能だったというのが︑大澤氏の考えである︒

では︑これまで述べてきた大正期をめぐる様々な論説を参考にし

つつ︑再び介山の言説に戻りたい︒介山は一九〇七年社会主義から

離脱し︑﹁宗教の人﹂になると宣言したあと︑晩年まで自らを﹁宗

教の人﹂と称した︒ここで︑介山における﹁宗教﹂の意味をも検討

してみる必要がある︒関連言説を検討する限り︑﹁宗教﹂・﹁信仰﹂

を全面的に取り上げてそれについて論じた大正期の言説はあまり見

当たらないが︑少し時間が経った一九二八年︑﹃隣人之友﹄三月号

には﹁信仰﹂と題した文章が載っている︒その一部を挙げてみると

次のようである︒

(7)

中里介山の﹁日本﹂一〇三 平等はこの人生には来らざるものなり︒平等に向つて欣求することのみが人生なり︒然れども死も亦平等に帰するものにあらず︒たゞ信仰のみが平等なり︒右記引用文のように︑﹁信仰﹂と題したこの文章は平等︑休息︑

戦争︑恋愛︑知識などを小題目にしながら︑いずれも﹁信仰﹂のみ

によってそれが達成せられるという結論で終わっている︒人生の中

で現実的に達成できないそれらの価値が︑ただ﹁信仰﹂のみによっ

て達成できるという考えである︒

もちろん当時仏教系の偉人に対する介山の関心が強まったことは

否定できないが︑仏教系の偉人に関する文章において介山が主張す

る﹁宗教﹂・﹁信仰﹂の概念も︑やはり﹁道徳﹂・﹁人格﹂・﹁平等﹂な

どの抽象的な価値と結びついていた ︵7︶︒介山の﹁宗教﹂は極端に理想

化された抽象的﹁問題﹂に向けられていたのである︒

以上︑様々な理想を目指していたかのように見える一九二〇年代

における介山の言説を考察して来たが︑この時点で介山の思想は既

にある種の方向性を帯び始めていたのではないだろうか︒当時︑介

山が﹁人類﹂︑﹁国際﹂などの人間の普遍性を目指すのは︑自身が﹁日

本皇室の忠良なる臣民﹂なることを自覚した上でのことであった︒

そして︑介山は日本を主体とする帝国主義の動きに対する実感を失

い︑﹁帝国主義の誤謬は︑すでに今日において倒潰に帰した﹂と考

えていた︒ 結局︑この時期における介山の思想は︑既に超国家主義へ結晶化されることを待ち構えていたと見るべきではないか︒その上︑かつて日露戦争に際して﹁非戦論を呼号する事がその国家を弱めると云ふなら弱めても良いと思ふ﹂と言った介山が︑いつの間にか︑﹁日

本皇室の忠良なる臣民﹂へ変化していたことにも注意しなければい

けない︒

それから一九二七年二月︑介山のナショナリズムを検討するにあ

たって見逃せない事件が起る︒﹁大正の天皇崩御﹂と﹁昭和の天皇

践祚 ︵8︶﹂がそれである︒大正の天皇崩御を目の当たりにして﹁日本国

民にとつて日月の一時に光を失ひしの思ひ﹂だとした介山は︑﹁昭

和の天皇践祚﹂と題する以下のような文章を書く︒

国を挙げての悲痛のうちに一道の光明を仰ぎ奉るは︑青年英

明にわたらせらるゝ新帝の御践祚である︒我等は此の天皇の御

治下に諒闇の間にもなほ新たなる希望の由々しき力を感ぜざる

を得ない︒日本帝国の前途益々多事なりと雖も︒日本国民の行

くべき道は皇室を戴いて一路洋々たる船路を和気藹々として進

むより外はない︒昭和維新の曙光の到る処にほの見ゆるを賀し

奉る︒

﹁日本国民﹂としての認識が強まった発言の中︑﹁昭和維新﹂とい

う表現も目立つ︒  周知の如く︑﹁昭和維新﹂とは昭和初年代から二・

(8)

一〇四

二六事件︵一九三六年︶の頃まで軍人の一部や民間の右翼・ファッ

ショ陣営が標榜したスローガンである︒彼らにとって財閥︑軍閥︑

官僚︑政党は国民と天皇の間を遮る障壁であり︑それらを排除する

ことによって天皇中心の政治を実現しようとするものがそのスロー

ガンの意味であった ︵9︶︒政党政治に失望しながら変革を夢見ていた介

山だけに︑﹁昭和維新﹂は彼にとって幻想を与えるに十分なスロー

ガンであったはずである︒

三︑﹃日本の一平民としての支那及支那国民に

   与ふる書﹄をめぐって

﹁昭和維新﹂を成し遂げる﹁日本﹂を夢見ていた介山は一九三一

年十二月︑春陽堂から﹃日本の一平民としての支那及支那国民に与

ふる書﹄という本を刊行する︒介山はその本の序で︑自分がその年

の七月から八月にかけて中国を旅行したのは﹁支那の歴史と文学と

風物とに憧れて遊歴を志﹂すためだったが︑﹁それ以外の時事に対

して多大なる感慨を充たされて﹂帰り︑﹁支那国民に忠告﹂しよう

とする目的でこの書を書いたと語っている︒それは介山にとって︑

﹁東亜の天地より真正の平和の光明を開かねばならぬ使命﹂のため

であった︒

旅行中︑鉄道で不快な出来事に遭った介山は︑それが﹁あなたの

国の国民性の不足なる部分の一切を説明する有力な材料﹂だとし︑ さらに当時中国の体制を批判する︒介山の目に映った中国の体制は﹁世界の列強の処迄漕ぎつけたいといふだけのもの﹂であり︑中国

の政治家のいう﹁打倒帝国主義﹂は解せないものであった︒

固より日本は帝国であります︑日本の帝国である地位は英国の

帝国である地位よりももつと不動のものであつて︑これは日本

が亡びない限り存する万国絶倫の国体でありますから︑帝国の

文字がお気に召さうと召すまいとも︑日本のこれを戴ける立脚

は何物を以てしても替へることの出来ない歴史的約束なのです︒

︵中略︶所謂帝国主義は欧羅巴大戦に於て︑独逸が敗れた時既

に一段落を告げたものでありますが︑帝国主義そのものの実質

は何れの国にも残つて居らないという処はありません︑現在で

は国家といふものの成立そのものが帝国主義的要素なくしては

立ち行かないものであると同時に︑この帝国主義的要素の為に

世界各国がどの位苦しんでゐるかは想像の外であります︒

中国を旅行した介山は︑﹁日本に対する極度の憎悪と侮辱﹂を目

にして︑それが政策的に行われているとし︑﹁自己の国の多慾怠慢

無力﹂に対する自省がなく︑﹁他の徳を少しも思わずして︑その怨

みのみを記憶せんとする国﹂であると批判する︒そして国民性を改

造することを知らないでいる国家は﹁帝国主義の国家の存在に幾十

倍する危険なる国家﹂だとし︑﹁帝国主義以上の危険なる国家を作

(9)

中里介山の﹁日本﹂一〇五 ることに急いでゐる有様は現世紀の是れも大きな謎﹂だとする︒

日本の帝国主義といふものが世界の脅威となつたかも知れませ

んが︑日本の軍国主義なるものは︵若しさう呼ぶべきものがあ

るならば︶戦争後のデモクラシーの風潮の前に一時閉塞して今

日に至りましたから︑さうしてこれは脅威とは見做されて居り

ませんでした︑現今世界の脅威は矢張りソビエットの新組織と︑

亜米利加の金力の外はありますまい︒

ここには日本の帝国主義よりも世界の脅威なるものが﹁ソビエッ

トの新組織と︑亜米利加の金力﹂だという主張が書かれている︒こ

れは社会主義が物質的な面ばかりを重視すると批判して転向した︑

介山の一貫した立場だと見て良い︒そのような面で︑介山にとって

資本主義と社会主義は違いがなかったのである︒しかし︑日露戦争

期に反戦的立場から帝国主義を批判していたような態度は︑この時

点では全く感じられない︒それは︑介山が日本の帝国主義を次のよ

うに﹁侵略﹂でなく﹁文明の為の天職﹂と捉えていたからであろう︒

そして介山はむしろ︑﹁支那国民﹂にそれを﹁納得しなければなら

ない﹂と注意をうながす︒

侵略などといふことは︑到底︑本気の沙汰で考えらるべきもの

ではないが︑併しながら野心の為の侵略ではなくて︑文明の為 の天職︑その天職を天に代つて行ふといふやうな使命を与えられた場合は︑また全く別箇なものになって行くのであります︒︵中略︶それを侵略と呼ぶならば︑その侵略こそ︑いつも︑あ

なたの国の国民が渇望する所の王道でありましょう︒

そして︑その﹁文明の為の天職﹂が侵略ならば︑その侵略はむし

ろ必要なものであり︑﹁救国の手段﹂だとさえ表現されている︒こ

のような立場は︑満州事変について述べた次の言説からもうかがえ

る︒

満蒙に新国家が成立した︵中略︶日本は之を助けなければなら

ぬ︑日本人は努めてあちらへ行つて︑新文明の大成に参加せね

ばならないが︑たゞ此の国に行く日本人は︑此度こそは内地人

の最も精鋭優良なるものが平和的に彼地の土となつて一生を捧

げるつもりでなければならぬ︱︱﹁新国家成立﹂﹃隣人之友﹄

一九三二年三月号

しかしながら︑先行研究におけるこの書の評価は不思議にも内容

とは異なっているように思われる︒たとえば介山の伝記を書いた松

本健一は︑介山が一九二七年五月羽村に農業生活と精神教育を一体

化する場として作った西隣村塾の意義について述べながら︑それが

﹁近代日本の一帰結である大東亜戦争を推進しつつある国家体制に

(10)

一〇六 対して抵抗する︑その抵抗の拠点﹂だったとする︒そして ﹃支那及

支那国民に与ふる書﹄も西隣村熟を拠点に書かれた︑﹁抵抗﹂の意

味を持つ業績の一つとして挙げている

︶10

︒もちろん︑伝記の最後のと

ころを見る限り︑松本氏も介山が日本イデオロギーにふかく侵され

ていたことを認知している︒だが︑氏は﹁にもかかわらず︑日本イ

デオロギーはついにかれの思想ではなかった﹂と結論づける︒﹁か

れはそれを︑つねに草莽であり平民であり百姓である︑かれの根拠

地における生きかたにおいて問い直し︑そのことによって時代の幻

想を︑その時代の内側から喰い破ってゆく可能性をみせた﹂と評価

しているのである︒

しかし︑西隣村塾における自給自足生活が日本イデオロギーを前

提にした生活だったと理解した方が正しいのではないだろうか︒松

本氏は︑介山が日本イデオロギーに流されつつも﹁かれが根拠地の

生活において︑そのイデオロギーを問い直していることによって﹂

抗っていたとしているが︑それ自体が日本イデオロギーを前提にし

ている限り︑それを﹁あらがい﹂と見做すには無理がある︒もちろ

ん︑﹃大菩薩峠﹄に描かれたお銀様や駒井のユートピア実験が当時

の体制に対する彼の精一杯の問題提起だったと認められるとしても︑

介山は松本氏のいうように国家体制に対して単なる﹁一平民﹂だと

は言えなくなっていた︒彼は︑少なくとも﹁帝国日本の﹂一平民と

しての自分を深く自覚した上で生きていたのである︒

帝国日本の一平民として介山の抱いていた幻想の面々は︑以下の ようなコラムからも確認できる︒

日本の軍人は優秀である︑仮にこの軍隊の力を以て︑武断政治

を施行したとする︑それはたしかに今の政党政治などよりも目

醒ましき改革を断行し得るだらう︑又それ〳〵機関を働かしむ

るに於ても軍隊式の活動をもつてすれば︑能率も︑実行もキビ

〳〵と挙げるに相違ない︵後略︶︱︱﹁抜かぬ太力﹂﹃隣人之友﹄

一九三二年四月号

このように軍部による政治に幻想を抱いていた介山は︑五・一五

事件の時にも﹁あの事件について︑相当に毀誉褒貶もあるだらう︑

暴行を是認する理由はあるまいが︑その影響どころではない︑殆ん

ど日本を救ふの緒を開いた程の大きな影響感化を認めなければなる

まい

︶11

﹂という文章を書き残した︒さらに︑前で言及した松本健一氏

による伝記には︑五・一五事件の裁判のとき︑被告のひとりが中里

介山云々といったのを聞いた介山が非常によろこび︑﹁何という青

年将校だったか名をたしかめておいてください﹂といいつけたとい

う逸話

︶12

も紹介されている︒政党政治に失望しつつ変革を願望してい

た介山は︑この時期になるとついに﹁日本﹂に対して幻想を抱くと

ともに軍部による政治改革にも幻想を抱いていたのである︒

(11)

中里介山の﹁日本﹂一〇七 四︑﹁天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス﹂

五・一五事件の二年後に起った天皇機関説事件に際して︑介山は

天皇機関説を﹁根本的に︑永久的に日本国を毒するもの﹂だとしな

がら︑﹃隣人之友﹄誌の一九三五年四月号の社説に﹁天皇ハ神聖ニ

シテ侵スヘカラス﹂と題する文章を載せた︒この文は︑当時日本帝

国の憲法第三条であった﹁天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス﹂の解釈

をめぐって︑美濃部達吉の解釈を批判する目的で書かれた︑三面に

渡る長文である︒介山はこの文章で︑美濃部が﹁本の天皇の神聖不

可侵の意味を﹂解していないとしながら︑その意味について次のよ

うに述べる︒

例へば︑太陽の如く︑その光沢は普く生物に恵まれるけれども︑

若しそれに近づく時は︑身を焼き亡ぼされる︑太陽の恩恵は万

人皆これを受けるけれども︑太陽に押れ近づくことは何人にも

許されない︑若し仮りに比較を取つていふならば︑日本の天皇

の神聖はこの太陽の光の如きものであり︑それを侵すことを許

されないのは︑太陽に近づくことの許されないのと同じ意味で

ある︒そして︑日本の﹁根本原理﹂について︑﹁日本帝国に於ては︑天 皇はオールである︑万世一系の天皇あつての日本国で︑天皇がお在しまさぬ時は日本国は無いのである﹂とし︑﹁天皇の神聖を理解し

奉らざる処の憲法学者が

︑日本帝国の帝国大学の憲法のオーソリ

チーであつたとは︑天下にこれほど奇怪なる現象があり得るであら

うか﹂と︑それが想像もしなかったことだとする︒それから︑美濃

部達吉の著書の中から特に批判すべき部分を抜粋して︑いちいち批

判する形で文を進めていく︒結論のところでは﹁吾人は常に申す通

り︑日本帝国の広大なる皇恩の下に生きてゐる一人ではあるが︑特

に何等特別の権益を蒙つてゐる身分ではない﹂としながら︑﹁併し

今日までの生活と思想両方の経歴から︑日本国は皇室無くして存在

することが出来ない国民であるといふことが︑明確に分つて来た﹂

と言う︒介山が見るに︑日本国民には﹁皇室に対する尊崇心︑これ

が一つあるだけ﹂で︑﹁これが崩れた日には日本国は亡びる﹂ので

ある︒

さらに︑それから五年後である一九四〇年二月号の﹃隣人之友﹄

の一面には﹁百姓のうたへる歌﹂という題目でいくつかの詩が載せ

られるが︑その最初に﹁天皇と百姓﹂と題する詩がある︒そこで介

山は︑﹁日本は天皇と/百姓の国である/天皇と百姓の間に/官人

/将軍/執権/閥族/政党/等のやからがあつて/国に功勲も立て

たが/同時に害悪も為した/日本の真正政治改革は/天皇と百姓/

の原始に帰ることである﹂と歌っている︒

以上︑これまで介山の代表的な言説を選んで取り上げたが︑その

(12)

一〇八

他の文章を挙げるまでもなく︑介山が戸坂潤のいうニッポン・イデ

オロギーに侵されていたことは明らかであろう︒即ち︑介山は天皇

を中心とする﹁日本主義・東洋主義乃至アジア主義・其他々々と呼

ばれる取り止めのない一つの感情のようなもの

︶13

﹂という同時代の感

情と軌を共にしていたのである︒だから︑介山が自分の考えをいく

ら論理的に説明しようとしても︑その本質は空疎なものであったた

め論理的な意義を見つけ出し難かったはずである︒たとえば﹁日本

国は皇室無くして存在することが出来ない国民であるといふことが︑

明確に分つて来た﹂といいながらも︑かれは﹁皇室なくして存在す

ることが出来ない歴史や現実﹂というのがどういうものなのかに関

しては何も詳しく論じていない︒それは︑﹁声だけで正体のない﹂

ものだから︑論じようとしても論じることが出来ないはずだったた

めであろう︒そして︑戸坂のいうようにそれは説明されるべき対象

ではなく︑却ってそれによって何かを相当勝手に説明するための方

法乃至原理に他ならなかったはずである︒

介山は晩年まで﹁ニッポン﹂への幻想を捨てずにいたようである

が︑敗戦を予感していたかどうかは定かでない︒しかし︑介山が没

年である一九四三年︑﹃隣人之友﹄の八月号に﹁信仰のない国は必

ず亡びる︑信仰のある国は必ず興る﹂という文章を書き残している

のを見ると︑介山は自分が抱いていた幻想をどうしても信じたかっ

たように思われる︒ おわりに

最後に︑本稿のタイトルに使った﹁超国家主義﹂という言葉の意

味について述べておきたい︒

﹁超国家主義﹂という用語を世に広めた丸山真男は︑それをナショ

ナリズム一般から区別するにあたり︑その差異を天皇制に求めた︒

そして︑天皇個人の権威は﹁万古不易の国体﹂という不分明な﹁無

限の古﹂に担保されるにすぎないことにより︑天皇もそこから噴出

してくる﹁無限価値流出﹂に身を任せているだけなのだと指摘した︒

その結果

︑誰も何もはっきりとは決めないのに

︑ナショナリス

ティックな抑圧と侵略の衝動だけは持っている﹁無責任国家﹂が現

出し︑そこに極端なる国家主義としての﹁超国家主義﹂が附随する

というのが丸山氏の議論の骨子であった︒そしてそれを支える心理

的基盤は︑上からの圧迫感を下からの恣意の発揮によって順次に移

譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系だった

という

︶14

おそらく︑このような意味において天皇を強く肯定する上でニッ

ポン・イデオロギーに侵されていった中里介山を超国家主義者とし

て評価するのはもっともであろう︒しかしさらに︑超国家主義の持

つもう一方の側面に注目しなければならない︒

丸山の弟子に当たる橋川文三は︑いわゆる超国家主義者と称され

(13)

中里介山の﹁日本﹂一〇九 る人たちのケース・スタディを試みたあと︑次のような結論に至る︒

超国家主義の中には︑たんに国家主義の極端形態というばかり

でなく︑むしろなんらかの形で︑現実の国家を超越した価値を

追求する形態が含まれていることを言ってもよいであろう

︵中略︶しかも︑それぞれにおいて︑その超越の契機をなして

いる信仰なり体験なりが︑かなり異なっていることも気づかれ

るであろう

︶15

丸山のいう超国家主義という言葉は︑より強度で露骨なナショナ

リズムを意味する点からすると︑﹁超国家﹂という言葉にアクセン

トがついている︒一方で橋川は超国家主義が国家を超越しようとす

る意志の面を強調したことから︑﹁超﹂という部分を強調している

と言える︒本稿で触れてきた介山の言説は︑確かに丸山の言う﹁超

国家︱主義

︶16

﹂に近い様相を帯びている︒しかしながら︑それと同時

に介山の文学︑特に国家から疎外された人々を中心に︑現実国家の

概念から離れた世界を描いた﹁大菩薩峠﹂は︑まさに橋川のいう﹁超

︱国家主義﹂的な性格が強い作品であると言えよう︒前に言及した

先行論をはじめ多くの研究者たちは彼の文学が持つ

﹁超︱国家主

義﹂的性格だけに注目したがゆえに︑彼の真意を単なる﹁抵抗﹂︑﹁反

戦主義﹂︑﹁平民主義﹂だと誤解してきたように思われる︒本稿で主

張したいのは︑介山にそのような意識がなかったということではな い︒一見して単なる﹁抵抗﹂に見えるそれらの意識の裏面には︑いつの間にか︑帝国日本を肯定する﹁超国家︱主義﹂的心理が﹁付着﹂

されていたということを指摘したいのである︒

このような観点から︑本稿のはじめのところで言及した﹁出征兵

士を送る行列をみて︑生き葬いを思い浮かべるような介山﹂という

尾崎秀樹氏の評に関して書き加えておきたい︒この評は﹃百姓弥之

助の話﹄︵隣人之友社︑一九三八〜一九四〇年︶という介山の自伝

的な小説に登場する場面に対する評である︒その場面とは︑百姓弥

之助は軍歌を耳にしながら︑出征兵士の行列をみて﹁生き葬い!﹂

という気持がひしひしとして魂を吹いて来た︑というところである︒

尾崎秀樹はそれに﹁反戦詩人としての意識﹂は変わらなかったと評

したが︑これはその時点の介山には適しない評価のように思われる︒

本稿で見てきたように

︑この時期の介山は既に日本の行う戦争を

﹁聖戦﹂だと思い︑そこに夢を托していたからである︒本稿の論点

と一見矛盾しているかのように見えるこのような場面は︑超︱国家

主義の一面としても理解できるし︑吉本隆明が行った大衆ナショナ

リズムの特性によって説明することも出来る︒

吉本隆明は﹁戦友﹂という歌曲を取り上げ︑そこでは﹁お国の為﹂

が︑個人の生死や友情と矛盾し︑それを圧倒し︑しかしあとに余情

が残るということが表現されたという︒そしてこの表現の裏面には︑

他人のことなど︑己れの生命のために構ってはいられない︑また己

れの利益のためには﹁お国の為﹂などかまっていられないという︑

(14)

一一〇

明治資本主義が育てた理念を︑かならず付着しているものだとしな

がら以下のようなことを述べた︒

おそらく後年︑昭和にはいってウルトラ・ナショナリズムとし

て結晶した天皇制イデオロギーは︑己れのためには﹁天皇﹂や

﹁国体﹂なぞは︑どうなってもしかたがないという心情を︑そ

の底にかくしていたのである︒明治においてはじめにたんなる

裏面に付着していたにすぎない個人主義が︑ひとつの政治理念

的自己欺瞞にまで結晶せざるを得なかった実体を︑わたしたち

は︑﹁天皇制イデオロギー﹂あるいは﹁ウルトラ・ナショナリ

ズム﹂とよんでいる︒このような自己欺瞞は︑大なり小なり︑

理念が普遍性を手に入れるためにさけることができないもので

ある

︶17

介山の心にも吉本氏のいうような自己欺瞞が存在し︑それに対す

る自覚が作品中に︑ある種の叫びのように噴出していると見ること

はできないだろうか

︒その意味において

︑介山は天皇制イデオロ

ギーに侵された﹁民衆﹂の代弁者になり得たという評価も可能であ

ろう︒

このような例のように︑そして︑超国家主義者と呼ばれる多くの

人がそうであったように︑私はいま︑介山の文学や思想の中には﹁超

国家︱主義﹂的性格と﹁超︱国家主義﹂的性格の両側面が緊張関係 をなしながら共存しつつあったと思っている︒もちろん結果的には一方が他方に沈没されているが︑介山の頭の中ではその両方を行き来する持続的運動が行われていたのではないだろうか︒特に本稿で見てきたようなエッセイ類は﹁超国家︱主義﹂的側面が強く︑小説作品の場合は﹁超︱国家主義﹂的側面が強いようにも見えるが︑それも時代や作品の展開によって少々違ってくる︒そのような意味から︑本稿で取りあげた介山の﹁日本﹂関連言説は彼の持つ超国家主義的思想の﹁一断面﹂に過ぎないと言える︒その全貌を明らかにするために︑今後とも介山の文学や思想を再検討していきたい︒

︵1︶ 蓮實重彦﹁﹁大正的﹂言説と批評﹂﹃批評空間﹄第二号︑一九九一年七月

︵2︶ 中里弥之助﹁日本の亜米利加支配﹂﹃日本及日本人﹄特別号︱︱若し日

本人が亜米利加を発見してゐたら亜米利加大陸はどう変化してゐるだらう

か?︵一九二一年十一月十一日︶

︵3︶ 中里介山﹁無﹂﹃隣人之友﹄一九二七年三月号の社説

︵4︶ 注︵

1︶の十六頁参考

︵5︶ 吉本隆明篇﹃現代日本思想大系4  ナショナリズム﹄︵筑摩書房︑一九

六四年六月︶の解説

︵6︶ 大澤真幸﹃近代日本のナショナリズム﹄︵講談社︑二〇一一年六月︶の

第二章参考

︵7︶ 介山の宗教観に関しては稿を改めて論じたい︒

︵8︶ 中里介山﹃時事及政論﹄︵一九三三年一〇月︑隣人之友社︶所収

︵9︶ 高橋正衛﹃二・二六事件︱︱﹁昭和維新﹂の思想と行動﹄百六十三〜百

六十七頁参考

(15)

中里介山の﹁日本﹂一一一 ︵ 10︶ 松本健一﹃中里介山﹄︵朝日新聞社︑一九七八年一月︶の二一九頁

11︶ 中里介山﹁五・一五事件﹂﹃隣人之友﹄一九三三年七月号

12︶ 注︵

10︶の二三七頁

13  ︶ 戸坂潤﹃日本イデオロギー論﹄︵白揚社︑一九三六年五月︶参考

14 ︶ 丸山真男﹁超国家主義の論理と心理﹂﹃世界﹄一九四六年五月号参考

15︶ 橋川文三篇﹃現代日本思想大系

31 超国家主義﹄︵筑摩書房︑一九六四

年六月︶

16︶ この表記は片山杜秀﹃近代日本の右翼思想﹄︵講談社︑二〇〇七年九月︶

に倣った︒

17︶ 注︵

5︶の一八〜一九頁

**資料引用にあたり︑旧字体は新字体に改めた︒

(16)

参照

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