レイデン毛織物工業の衰退過程(上)
佐藤弘幸
1. は じ め に
16世紀末から17世紀全般にわたって大きな飛躍と発展をみせたレイデン毛 織物工業も18世紀に入る頃から次第に停滞の様相を濃くし,やがて衰退の道 を辿ってゆくことになる。正確には一体いつ頃から衰退過程が始まったとい うべきなのかは,にわかには決Lがたいが,おおむね1720年代からとみてま ずまちがいないであろう。そしてその後はかなり急速に事態は悪化してゆく ことになるのである。この点はレイデン毛織物工業史をみてゆく場合まずど うしても否定するわけにはゆかない事実といってよい。ところでその原因と なると通説的には次のような点を恩いうかべるのもさして困難ではないよう に思われる。まずレイデン毛織物工業が中世以来終始都市工業として展開し てきたという事実である。近世の資本主義発達史上における都市工業対農村 工業という周知のテーゼからするならば,典型的な都市工業たるレイデン毛 織物工業がやがては姿を没してしまうのは格別おどろくにあたらぬこととい うべきであろう。それに加えて「オランダ型貿易国家」というわれわれには なじみの類型概念がある。国際的仲継貿易やそれと同じ利害に立つ加工貿易 工業のみが不均衡に肥大し,あらゆる分野にわたってその利害を全面的に貫 徹してゆく体制として確立されたオランダ共和国では,その当然の帰結とし てレイデン毛織物工業の如き自立的な工業が犠牲に供されてゆくのはさけら れないという把捉である。つまりレイデン毛織物工業は,オランダ型貿易国
° ° ° ° °
家の,しかも1都市工業として定められたいわば2重の負の運命にはんろう されて18世紀にはあえなくついえ去るということなのである。
しかし実際そうなのであろうか。たしかにレイデン毛織物工業が18世紀に いたるとみじめな没落に終ってしまうという事実からするならば,こうした
理解は一応は正しいものを含んでいるように思われる
D
しかし没落過程の具 体的分析なしに,たんに都市工業が辿らざるをえない迩命の当然の帰結とし て,いわば自明のものとして,レイデン毛織物工業の哀退を見るならば,や はりそれはあまりに短絡的な理解といわねばならないであろう1)
。後に見る ようにレイデン毛織物工業が都市工業として負わされていた椋々な制約条件 を克服するためにいかに恋戦苦悶したか,そしてまたそれに呼応してオラン ダ述邦議会が打ち出していった諸政策がたんに国際的仲継貿易都市の利害に のみかかわる狭い伴内にとどまるものではなく,より大きな国民経済的利害 をもっつみこむような性格のものをも合むものであったということを知るな らば,多くの場合1 2
村工業の抑圧者として否定的な評価しかうけていない近 世の特権都市の工業に対するわれわれの評価もいくぶん変ったものにならざ るをえなくなるであろうし,オランダ型貿易国家の歴史的性格もまたややニ ュアンスを具にしたものとして映じてくるであろう。以下にわれわれはレイ デン毛織物工業の衰退過程を分析・してゆくことになるが,主点は当然の乙と ながら1 7
世紀後半から1 8
世紀にかけてのレイデン毛織物工業をとりまく松々 な状況と,レイデン毛織物工業が都市工業として負わされた制約条件にいか に対処して,内外の市場でその競争力を維持してゆこうとしたかという点に おかれる。L[
( 1 )
わが国では乙れまで18 i l t
紀のレイデン毛織物工業の研究がほとんど皆無の状態であ ったのも,こうした通説的なオランダ経済史の理解からして,1 8
tJt紀のレイデン毛給物工業はその行き ~Yf く先がみえすいており,もはやそれは分析の対象たりえないとい
う志識があったからではなかろうか。もしそうだとするならば,そ乙
l
とは宍態分析の 欠如したあまりにも観念的で,一面的なレイデン毛織物工業史保がつくられてしまう 恐れがある。2 .
レイデン毛織物工業に対する内外の競争オランダ共和国の都市レイデンはほぼ
1 7
世紀全般にわたって1
都市工業と しては比類なき繁栄を亨受するが,しかしそれは当時の西ヨーロッパにおいてレイデン毛織物工業が独占的地位を占めていたことを意味するものではな い。それとはまさに反対に様々な国内的あるいは国際的競争にさらされなが ら,その繁栄を維持してきたのである
o 1 6
世紀末にフランドノレから伝えられ た比毛工業を中心に展開してきたレイデン毛紋物工業は,1 7 t
正紀半ば頃まで にはイギリス毛織物工業の側圧のもとに,紡毛工業中心の構成に大きく転換 せざるをえなくなったという事実はよく知られているが,これも乙うした激 烈な競争の産物であったのである。もちろんその後といえども安泰な地位が 保証されていたわけではなく,レイデン毛織物工業に対する内外の競争はま すますきびしいものになっていったD
そこでレイデン毛織物工業に対する内 外の競争がどのような様相を呈していたのか,まずこの点からみてゆくこと にし7 こ し ) 0
まずイギリス毛織物工業との競合関係、であるが,すでにふれたように,
1 7
世紀半ば頃にそれまで慌毛工業中心であったレイデン毛織物工業は主として 市欧・地中海市場でイギリス毛織物工業との競争に敗れ,次第にあI j
毛工業に 主心を移してゆくことになる。そしてその後もj l i e
毛・紡毛の両工業部門にお いて,イギリス毛織物工業の苛成は執!坊に続いた。イギリス庄の各碩のサー イ(セイ)織,パーイ(ベイ)織,サージ織,カノレサーイ(カージー)給,スタメット織などが続々とオランダに流入してきた
1)
上に,さらにスコット ランド産やアイノレランド産の産品(カノレサーイ級, ラス織,サーイ総,プレ ッツ織など)の流入もあったわ。こうした大部分が比毛(ウステッド)系の 各種の製品は, レイデンの多岐にわたる製品と,いわば製品忽の1
対l
の競 争を反閲することになったのである3)
。そしてその過程でレイデンの比毛工 業部門はほとんど回復の余地ない窮状に追いこまれていった。これに対して 紡毛工業部門は比毛工業に比絞してよくもちこたえたようであるが,それで もやはり完全にイギリスの競争からは自由ではなかった的。このようなイギ リスからの競争は1 6 6 0
年代以降一回深刻さを増していったようである。イギリスに次いで脅威となったのは,市ネーデノレラントとドイツとの国境 地却に広がる地方,いわゆるヴェノレヴィエ=アーへン地域の毛織物工業であ る
D
只休的にいうとリエージュ司教飢の首都リエージュ( L i e g e )
と周辺の農村,その中でもとくに良村工業都市ヴェノレヴ、イエ
( V e r v i e r s )
, リンフ、、ル ク公国の農村工業都市オイペン(Eupen)
,ダレム(Dalhem)
,コゃエ(Goe)
など,ドイツではアーへンとケノレンの2
都市,ブノレトシャイト( B u r t s c h e i d )
モンシャウ(Monschau)
,さらにはユーリヒ(J註1ic h )
地方などであった。乙の中ではリエージュ司教領の首都リエージュ市が
1620
年代までサーイ織工 業で栄えており,それ以後は束部のヴェードノレ( V e s d r e )
J!I沿いの民村が サーイ織やラス織,ラーケン織の製造業で繁栄に向かったの。その製品は1 7
世紀半ば頃からレイデンにも流入しはじめ,ここでもまたレイデン産のいろ いろな製品と製品毎のl
対1
の競争を展開した6)
。そのため例えばレイデン のラス織や平綾織のワノレフ。織部門などは没落してしまったのであるの。しか しレイデンにとってよりー庖脅威となったのは,サーイ織やラス織といった 椛毛工業部門よりもラーケン織の紡毛工業部門であった口この点でイギリス 毛織物工業が与えた脅威とは対照的であった。ヴェノレヴィエ,オイペン,ア ーへンを筆頭にして,その周辺でつくられたラーケン織が1 7
世紀半ば頃から レイデン産のそれときびしい競合関係に入っていったからである8)
。その重 圧は1 8
世紀に入るとますます強まり9) 1740
年頃にはレイデンのラーケン総 工業はその外国市場をほぼ完全に失うという事態にまで立ち至ったのであ る10)
。したがって1 7
世紀後半のレイデン毛織物工業を支えてきたラーケン 織工業が1 8
世紀に入り衰退しはじめる大きな原因の1
つは,このヴェルヴィ エ,オイペン,アーへンなどの毛織物工業との競争に敗れたという事実に求 められるD
レイデンの製品と直接的競合関係にあった外国製品はだいたい以上のよう なものであったが,次に目を転じてオランダ国内の都市あるいは農村地方の 工業でレイデンに脅威を与えたものについてみておとう。
1 7
世紀にはレイデ ンが毛織物工業で空前の繁栄を誇ったことから,レイデンと同じホラント州 内の都市もレイデンから毛織物業者を引き抜いたりして各々都市内で毛織物 工業の保護育成を図ったが,しかし結局のところあまり成功はみられなかっ たようであるo
例えばノ、ゥダ,デノレフトなどがフュステイン織やロノレ織でわ ずかに進出したにすぎなし,,11)
。ホラント州以外ではオーフェノレエイセノレ州の都市カンペンがロノレ織やデーケン織の製造に成功していたようである
12)
。 またホラント州内の良村工業については,1 7
世紀末以降その成長が若干が見られるだけで,いずれもレイデンにとっては脅威となるものではなかったと いってよし可
13)
。ところで
1 7
世紀の半ば頃からレイデンにとってきわめて重要な意味をもつ ようになったのは同じオランダ共和国内の属領(占領州)であるプラーパン ト州の毛織物工業であったo
これはレイデンに対しては一面ではきびしい競 争者であったが,ただ単に競争者としてのみとどまらず,レイデンの協力者 でもあった。この属領の良村毛織物工業とレイデンとの関係については第4
節で具体的にとりあげるが,さしあたりレイデン毛織物工業の競争者として の側面だけに限定してみると,ここの毛織物工業もほとんどがラーケン紘 (紡毛〉工業であり,1 7
世紀後半以降のレイデンとは直接的競合関係に立つ 製品を生産していたのである。それだけにレイデンにとっては,先のヴェノレ ヴィエ=アーへン地域の毛織物工業と並んで,もう 1つの大きな育成となっ ていたのである14)
以上のようにレイデン毛織物工業は
1 7
世紀の半ば頃には杭毛工業(ウステ ッド)部門においてイギリスやリエージュの毛織物工業の競争をうけてかな り急速に衰退の近を辿り,1 7
世紀後半から18
世紀にかけては南ネーデノレラン トの束部とドイツとの国境地帯にひろがる地方,いわゆるず、エノレウ、、イエ=ア ーへン地域の毛織物工業や共和国内属領の良村毛織物工業によって,今度は 紡毛工業(ウノレン)部門も圧迫をうけ,次第に古況におちいってゆくことに なるといってよい。レイデン毛織物工業はこうして内外ともに主大な競争に直面しつつ忠戦苦 闘を続けていたわけであるが,その過程でレイデンにとり何よりもまず現実 の白成になったことは,内外の毛織物製品の低価格攻勢という事態であっ た。つまり内外の毛織物製品がオランダ国内で,あるいは国際市場でレイデ ンの製品に対して競争をいどむ
i
祭の最大の武器ともいうべきものは,価格の 低成さであったのである15)
。例えばイングランド北部やスコットランド産 のノーザン・カージ一級や波放のプレツツ織とレイデンの54
・パーイ紋とは大体同じ品質のものであったが,両者の聞には
3
スタイフェノレ以上の価格差ー があったし16)
リエージュ産のへーレンサーイ織とレイデンのそれとでは3 , . . . . . . , 4
スタイフュノレ17)
イギリスやトウルネー, リノレのグレイン織とレイ デンのそれとでは1
エノレにつき2 , . . . . . . , 3
スタイフェノレの差があるといった兵合 である18)
。その上「リエージュ産の上質サーイ級( c u r i e ss a e y )
は 1エノレが1 7 , . . . . . . , 1 8
スタイフェノレで売られているが,これを1 2
スタイフュノレで売ることも 可能だ」という指摘にみられるように, If寺にはダンピングまがいの攻勢すら みられたのである19)
。こうした内外の毛織物工業の低価格攻勢が続く中で,
1 7
世紀半ば頃にはオ ランダの国内市場はもとより国際市坊においても,毛織物価格の相場は全般 的に顕著な低落傾向を示していった。これはレイデン産のほとんど全ての製 品について指摘できる現象である20)
。例えば紛紋済のラーケン織で 1エル が5
ク勺レデン1 0
スタイプェノレであったものが3
グノレデン1 8
スタイフェノレl こ
まで下がり,へーレンサーイ織は 56グノレデンから 43グノレデンに,上質ワノレプ 織は lエノレが3 2
スタイフェルから約2 0
スタイプエノレにというようにかなり大 幅な値下りであった21)
。そのためレイデンの毛織物生産者が競争に耐えて ゆくには,どうしても価格の引き下げが至上命令として実現されねばならな かったのである22)
。今や彼らは「安い価格とわずかの資用でもって外国の 顧客をつなぎとめるようにあらゆる方法を考えなければならなJ23)
くなっ たのであるo
そのためには製品をコストを割ってでも売らざるをえないという事態も山てきたのである
24)
。このようにレイデンの毛織物生産者には何よりもまず製品コストの引き下 げが至上命令としてっきつけられたのであるが,彼らにとりてっとり早くで きることといえば,職人や下請人の労賃を切り下げる乙と以外にはなかっ た。そのため
1 7
世紀の半ば頃から毛織物工業関係の多くの部門でかなりの賃 銀の切り下げが進行したのであるお)。ギルド的な統一的賃銀規制がほとん どみられなかったレイデン毛織物工業においては,職人や労働者,下請人な どの犠牲のもとに労賃を引き下げることはむつかしいことではなかった。し かし当然のことながら賃銀の引き下げには限界があった。もともと賃銀は多く の 場 合 ぎ り ぎ り の と こ ろ ま で 切 り 下 げ ら れ て い た 上 に , と り わ け オ ラ ン ダ の;首都市のように消費税が高く,都市的諸条件により生活費も高くつくよう な と こ ろ で は , な お ー 居 賃 銀 の 圧 下 は 困 難 で あ っ た 。 そ し て 応 急 的 対 応 策 が もはや見つからなくなると,その結果は明白である
D
コスト引き下げに対応 し き れ な く な っ た 製 造 業 部 門 に は 支 退 へ の 近 し か 残 さ れ て い な か っ た の で あ るo 17
世 紀 半 ば 頃 に サ ー イ 織 , ラ ス 織 , フ ュ ス テ イ ン 織 , パ ー イ 殺 な ど の 総 じて流毛工業部門が全般的衰退に陥ってゆくのは,これらの部門がコスト引 き 下 げ の 要 請 に も は や 対 応 で き な く な っ て い た こ と を 示 す も の と い っ て よ い26)
。 こ れ に 対 し て ラ ー ケ ン 微 な ど の 紡 毛 工 業 部 門 は こ う し た 悪 条 件 に か な り よ く 耐 え た よ う で あ る が , そ れ で も そ の 影 響 か ら ま ぬ が れ え た わ け で な く , こ う し た 危 険 は 少 く な る ど こ ろ か ま す ま す 大 き く な り つ つ あ っ た の で あ るO
L
E.( 1 ) N. W. Posthurnus ( e d . ) , Bronnen t o t de Geschiedcnis dcr Leidsche T e x t i e l n i j v e r h e i d
,6 d l n . 's‑Gravenhage
, 1910~22.d 1 . V
,NO.337 ( 1 6 5 4 "
f.),No. 8 7 ( 1 6 5 8 { f )
,No. 2 9
(1 663~) ,No. 3 0
, ~2 7
, ~4 2 ( 1 6 6 3 j n
,No. 1 1 4
,A,
~6~7 ,B
, ~1, ~3 , ~5 (1 663 年).No. 3 5 2
, ~, 1
~6
, ~8 ( 1 6 6 3
年),NO.34
,~
4 ( 1 6 6 3 1
s),No. 1 3 2
, ~3 ( 1 6 7 0 午).以下 L .T. N.と略記。 N.W. Posthurnus ( e d . ) , Adviezen u i t het j a a r 1 6 6 3 betreffende den toestand en de bevor‑
dering der t e x t i e l n i j v e r h e i d i n Holland (H. G. , B i j d r . cn Meded. , XXX
V1I) ,No. 7
, ~2 .
~4 . 以下 Adviezenと略記。
( 2 ) L . T N.
,d 1 . V
,No. 2 9
,No. 3 5 2
, ~, 1 No. 5 7
, ~4 ( 1 6 8
3‑i
F‑),Adviezen
,No. 7
, ~4.( 3 )
例えばイギ、リスのサージ給対レイデンのサージ織,rnesolancn紋
,drogetten
M~ , イギ、リスの rnunick
‑saeyen対レイデンのフノレラーケン椛やティーレンテイン
紋,イギリスのカーヅー紋対レイデンの平波識のワノレフ。紘,イギリスのパーィ;品対レ イデンの6 0
ーパーイ放といった只合である。L .T. N.
,d 1 . V
,No. 3 0
, ~2 5
,S 4 2
,No. 1 1 4
,B,
~, 1
~3
, ~5
,No. 3 1 0
,S 2 . No. 3 5 2
, ~6
,1 .
( 4 )
とりわけgreynrooden
と祢する亦色ラーケン治の流入が若しかった。L .T. N.
,d 1 . V, No. 4 2 6 ( 1 6 6 1 "
F),No. 2 9 ( 1 6 6 3 " 1
ワ,Adviezen
,No. 7
, ~2 .
( 5 ) N. W. Posthumus
,De i n d u s t r i e e 1 e c o n c u r r e n t i e tussen Noord‑ en Zuidnede
r1andsche n i j v e r h e i d s c e n t r a i n de x v n e en X¥ 1 l l e eeuw
,1 n : Econo‑
misch‑Historische Herdrukken , 1 9 6 4 , b 1 z . 1 0 9 . 以下 Concurrentie と略記。
( 6 ) 例えばリエージュ産のラス織対レイデンのラス織, リエージュ産のサーイ給対レイ デンの平綾識のワノレプ織といった具合である。 L . T. N. , d l . V , No. 8 7 , No.
1 1 4 , A ,
~3 ,
~4 ,
~9 , B , S 4 , No. 1 3 2 ,
~3 , No. 3 1 0 ,
~3 , d 1 . VL No. 1 6 9 . ( 7 ) L . T. N. , d l . V , No. 1 1 4 , A ,
~9 ,B , S4. このためレイデンのラス紙ネー
リングは 1 6 6 2 年にサーイ織ネーリングに吸収合併されている。 i b i d . , No. 1 5 5 , No.
3 1 0
,noot ( 2 ) .
( 8 ) L . T. N. , d l.町, No.290 ,
~5
(16 3 8 牢 ) , No. 3 5 5 ,
~1
(16 4 7 年 ) , d 1 . V , No. 3 3 , I I ,
~6
(16 6 3 年). Adviezen , No. 7 ,
~, 1 No. 1 0 ,
~2 .
( 9 ) L . T. N. , d l . VL No. 2 3 5 (
17 2 6 年 ) , No. 2 4 2 (
17 2 8 年 ) , No. 1 6 8
(17 2 8 年),
No. 1 9 1 " " " " ' 2
(17 0 3 年). N. W. Posthumus
,Bescheiden betreffende de P r o v i n c i a 1 e Organisatie der Hollandsche Lakenbereiders ( d e z g n . Droog‑
scheerderssynode) ,
(H. G. Werken , 3 8 ) , No. 6 5 ,
~2
(17 3 7 年 ) , No. 6 7
(17 3 7 ) , noot ( 4 ) ,以下 Droogscheerderssynode と略記。 L .T. N. , d 1 . VL No. 1 4 .
~
3
(17 3 7
年).U O ) N. W. Posthumus , Concurrentie , b 1 z . 1 1 6 .
( 1 1 ) L . T. N. , d l.町, No. 2 1 , 1 No. 2 6 9 , d l . VL No. 4
1.( 1 2 ) L . T . N. , d l . N , No.262 , No. 2 6 9 , No. 2 7 7 , No. 3 6 4 , S , 1 d 1 . VL No.
1 7
1.( 1 3 ) L . T. N. , d l . V , No. 5 0 4 , d 1 . VL No. 1 4 , No. 7 4 , No. 8
1.N. W.
Posthumus , De Geschiedenis van de Leidsche Lakenindustrie , d 1 . m , B i j 1 a g e 町,以下 Geschiedenis と略記。 N. W. Posthumus , Droogscheerder‑
ssynode
,No. 5 0 .
祖母
L . T. N. , d 1 . N , No. 2 8 3 , No. 2 9
1.No. 3 5 5 , d 1 . V , No. 3 3 , I I , 96 , d l . VL No. 1 5 . Adviezen , No. , 1
~2 , No. 9 ,
~9 , No. 1 1 ,
~ 1.O. Prings‑
heim
,Beitage zur w i r t s c h a f t 1 i c h e n Entwicke1ungsgeschichte der Ver‑
e i n i g t e n Nieder1ande im 1 7 . und 1 8 . ]ahrhundert
,1 8 9 0 . Anhang I I
,A.
(
1 日 「当地〔オランダ〕に非常に多くのフランス産の製品や,とりわけイギリス産やり
エージュ産の製品が輸入され,非常に安い価格で ( t o ts o o c i v i 1 en p r i j s ) 売られ
ている
J L. T. N.
,d
l.V, No. 3 0
,S 1 4 . r
外国の製品が当地〔オランダ〉で国 内の製品よりもヨリ安い価格で( t o tc i v i l d e r p r i j s )売られているかぎり...・
H・. . J i b i d .
,No.30
,S 4 0
,No. 3 1 0
,S , 1 3 . r
外国産のラーケン織やサーイ織その他の 製品がわが国では小売商によってヨリ多く売られており, (わが国の製品と〉同ーの 品質でも価格が安いということがはっきりしているJ i b i d . . No. 3 4
,S 8 . ( 1 6 ) i b i d .
,No.30
,S 1 5
,No. 3 5 2
,S 1 " ' 2 .
U
百i b i d .
,No. 1 1 4
,A, 5 .
U8)i b i d ., No. 2 4 4 .
( 1 9 ) i b i d .
,No. 3 0
,S 2 0
,2 2 .
凶 ) 1 r
外国産の製品によって価格の大幅な下落がひきおこされているJ i b i d .
,No. 3 0
,S 1 4 . r
多くの製品はこのところ著しく価格が低落しているJ i b i d .
,No. 3 4
,S 6
(16 6 3
年).(
2 1 ) i b i d .
,No. 3 0
,S 1 4
,S 1 6
,S 2 0 .
その他については,i b i d ., No. 3 0
,S 1 7
,S 1 8
,S 2 1
,S 2 4
,S 2 6を参照。
励
r
(イギリス人はへーレンサーイ織を〉わが国に多量に送りこみ,わが国のサーイ 織をかなり値下げさせてしまったJ i b i d ., No. 3 0
,S 4 4
,No. 3 3
,1
,S 4 . 帥 i b i d .
,No. 57
,S 5 .
帥 例 え ば
munike‑saeyen織は,本来なら l
エノレが1 4 " ' 2 0
スタイフェルの価格であ るのに,イギリス品が多量に入ってきたために, 8~10 スタイフェルで完らなければならなくなった。
i b i d .
,No. 1 1 4
,B
,S 2
,No. 3 1 0
,noot ( 2 ) .
四 , ) r
(製品)価格のなんらかの切り下けーは必然的に労賃の切り下げにつらなる。……ラーケン織工業で働いている職人の労賃は,
乙乙 1 5
年末完全に%は安くなった」i b i d .
,No. 3 0
,S 2 9 (
16 6 3
年),r
ここ1 2
年から1 5
年の問に白銀はそのみじめな条件 のもとにかなり低下し,子供をかかえている主婦がその賃銀で生活してゆくのは鷲き 以上のものであるJ i b i d .
,No. 3 1 , 1 S
1.その他紡糸,刷毛,撒布の労1 1
・の低下に ついては,i b i d ., No. 3 0
,S 3 0 ‑ 3 8
,No. 1 1 4
,A, S 1 3
,S 1 4
,No. 3 1 1
,S 2 ‑ 4
,No.352
,S 3 .
倒 その結果は外国製品のおびただしい流入である。
r
(小売りでは)リエージュ産 サーイ織10 0
エノレに対して,国内産のサーイ織は1
エル3' e !
られているにすぎない」i b i d .
,No. 3 0
,S 1 0 . r
レイデンでつくられているよりも4
倍も多いイギリス庄のパ ーイ織が国内で売られているJi b i d .
,No. 3 5 2
,S 8 . r
小売商のところでは,国内製品 1 に対して外悶製品は 6 う
'Jられている。とくにサーイ織はそうである
Ji b i d .
,No. 4 3 9 ,
~1 0 . その他, L . T. N. , d l . N , No. 269 , E , No. 87 ,
~, 1 Ad‑
v i e z e n , No. 1 4 ,
~5 , b .
3 .
危機回避のための2
つの方向それではこうした内外の競争の増大という事態に対してレイデンにはいか なる対応策が設されていたであろうか。われわれは次にこの問題を検討して みたい。思うに当時のレイデンの毛織物工業関係者はその対応策として次の
2 つの方向を考えていたようであるわ。まず 1 つは都市特有の消 1~税の軽減や免税によって労働コストの引き下げをはかり,それを通じて毛織物のコス トを引き下げようという方向である D 乙れはいうなれば都市工業に固有の制 約条件を克服しようとする解決の方向である D もう
lつは,オランダ国内に 輸入される外国製品に適切な課税を行なう乙とにより,その無秩序な流入を 規制し,それによって国内市場をレイデン毛織物工業のために確保しようと する方向である O これはいわば保護貿易主義的な方向であるということがで きる。このように時人には
2つの解決方向が頭に拙かれていたわけである が,この 2 つのうちより多く,J1(視されたのはどちらかというと前者の方 向であり,後者の方向の採用には慎重な配慮が要望されていることがわか る 2) このことははからずも当時のレイデンおよびオランダ共和国のおかれ ていた国内的および国際的状況を反映するものであり,きわめて!n J 味深いと いわなければならない。そしてレイデンはこの
2つの危機回巡の方向のいず れをも効果的に実現する乙とができず,結局第 3 の 辺 を え ら ぶ こ と に な る が,これは次節にゆずって,ここではこの
2つの危機回避の方向について検 討し,当時のレイデンあるいはオランダ共和国をとりまく国内的・国際的状 況を考えてみたい D
(1) 消費税等の軽減による労働コスト引き下げの方向
レイデンの位置するホラント州はオランダ共和国全 7 州のうちでもっとも
都市の密集した州であり,そうした事情を背景にしてこのホラント州では消 費税に重点をおいた税制が共和国の独立以前からみられた 3) 。この消費税は 本来的に都市に固有の税制であるために,同じホラント州内部でも都市と民 村とでは担税力に大きな聞きがあり,しかも諸都市の問ですらも税率は一律 ではなかった。ところでレイデンの場合事情はどのようであったかという と,ホラント州内の農村地域はもとより,他の多くの都市よりも消費税負担 が重いということが指摘されている。もとより厳密な比較は困難であるが,
当時の人々にはそのことが十分に認識されていたように思われる的。かのピ ーター・ド・ラ・クーノレも『レイデン市の繁栄』の中で1"われわれは……
近隣の諸都市よりも主い消費税や家賃を負担している……」と指摘してい
る5) 口
消費税はその性格上主として生活必需品に課せらることになっていたが,
レイデンではおよそ次のようなものに課税されていた o まず食糧品として は,大麦,小麦をはじめピーノレ,肉,バター,塩,食用油,果物などが課税 の対象となり,さらにロウソク,石鹸といった日用品や泥炭,設などの燃料 品にまで及んでいたのである旬。その課税額も決して安いものでなかったこ とは,例えばノマンの価絡の引,ビールはその%が消費税であったことをみた だけでも十分うかがえる 7) 。そのため「もし労働者が彼の収入を全部消費に あてるものとすると 1 週間のうちに知らず知らずのうちに少くとも 1日な いし
1日半を泊費税の支払いのために倒くという計算になる 8) J といわれて いたのである的。 レイデン市民のこうした高い消 1 5 税負担がいかなる経済的 影怨をもつものであったかは,想像にかたくない。まず何よりもそれは生活
究の高n;~} としておらわれ,次いで賃銀にはね返っていったということである 10) 1 6 4 7 年頃にすでに, レイデンとリンプノレフ,ユーリヒ, ブラーパン ト(属領)とではラーケン織
lエノレあたりの労賃だけをとりだしてみても,
そのラーケン紘の品 1 1 によっては 1 0 , 1 2 , 1 8 , 2 5 スタイフェノレの差が出てい
ることが指摘されている 11) 。そのためこれらの地方とは競争しながら製造
業を維持してゆくことが不可能になっていると認識されているのである 12) 。
こうした認識は1 6 3 0 年代,つまりレイデンのラーケン私立工業が急速に勃興し
始める時期からすでにみられたことなのである O もちろんこうした事態が 1 7 世紀後半から 1 8 世紀にいたっても改善されたわけではなく 13) レイデン毛 織物工業の危機がさけばれるたびごとに,高賃銀がレイデン毛織物工栄の競 争力を弱めていると指摘されていたのである 14) 。
それではこうした事態に対してレイデンの毛織物工業関係者はどのような 対策を主張していたであろうか。消賀税の霊圧が労働コストを引き上げてい るということが正しく認識されていた以上,その免税ないしは軽減化の要求 が出されてくるのは理の当然であり,実際にそうした要求は出されている。
「人々が免税され,わずかな賃銀でもって当市で生活できるように手段を詰 ずること 15) J ,あるいは「消費税はできるかぎり軽減するのがよい 16) J I 若 干の消費税の廃止が軽減によって,いくぶんなりとも製造業の優遇に役立ち うるのではないか 17)
Jという主張がそれである。しかしながら毛織物業者 のこうした主張が容れられた気配は全くといってよいほどみられない。そも そも消費税の税率が州単位で決められていた以上,レイデンだけがその変更 をもちだしても受け容れられる可能性はほとんどなかったのであろうし,そ れに例えレイデンだけで調整できる部分があったとしても,レイデン市の財 政が消費税収入に大きく依存し,また依存せざるをえないという現状のもと では,その軽減化はきわめて困難であったように思われる O
ところでレイデンの如き中世都市ないしは近世の特権都市と消賀税との関
係はどのようなものであったのだろうか。やや遠回りの感はあるが,乙乙で
この問題について若干考えてみたい。一般に中世都市ないしは近世の特権都
市はたえず外部からの移住民の流入によって人口の減少を防ぎ,その人口を
維持しようとする政策がとられていたといわれている 1 針。これはいわば中
世都市ないしは近世の特権都市の存立の原理ともいうべきものであろう口そ
して都市当局は住民の保護のために市監の建設や保守,公共土木事業を行な
っていたわけであるが,その賀用をまかなうことが都市財政の出発点となっ
ていた。中世の末期までは市民の租税負担はそれぞれの財産に比例していた
が,次第に消費税が導入されるようになった 19) 。つまり消費税によって都
市自らの費用をまかなうことになっていったのである o レイデンの場合も同
じように 15 世紀以来,消費税がもはや一時的な臨時税としてではなく経常税 として確固たる地位を築いていたのである。消費税は主として生活必需品に かけられていたから,市内の人口が増えれば,それだけ消費税収入もふえる ことになり,消費税はまさに都市の存立の原理に適合的な税制であったとい うことができる o
周知のようにレイデンは 16 世紀後半のオランダ独立戦争 (80 年戦争〉の過 程で南ネーデノレラントから難をのがれてきた多くの人々をうけいれ,一気に 息を吹きかえすことになるが,この当時の人口の増加にはまことにめざまし いものがある D 実に 1581 年から 1622 年までの 42 年間に 4 倍弱という増え方で ある(第
l表参照) 0 これはもちろん自然増ではなく,難民の流入によるも 第 1 表人口と住宅数の推移 20) のであった。乙うした来住者 人 口(人〉 住 宅 数 ( 戸 〉 の半数以上が毛織物工業に携 わる人々であったことはいう
1581~f
1 2 , 1 4 4 1 5 8 1 年 2 , 7 9 9
までもない。レイデン市当局 1 6 0 6 年 4 , 8 8 6
はこうした来住者をうけいれ 1 6 2 2 年 44 , 7 4 5 1 6 2 3 年 約 6 , 6 5 5
1 6 4 0 年 約 50 , 0 0 0 1 6 3 4
i:f三8 , 3 5 8 ることによって,市の人口を
1 6 8 9 年 約 6 2 , 0 0 0 1 6 7 0 年 頃 約 1 3 , 0 0 0 増やし毛織物工業の再生を狙
っていたのであるから,来住
者たちが市堕の外に定着することはみとめなかった 21) 。となるとレイデン
市当局は来住者の住宅はもとより,毛織物工業関係、の空間をも市内に確保し
てやらなければならなかった。その上人口が問えるにつれて住宅問題が深刻
さを増していった。第
l表からもうかがえるように,この時期には住宅建設
もかなり進んだが,それでも十分なものではなかった。こうしてレイデンは
人口の過剰と劣惑な住宅事情が誰の自にもあきらかな一大過密都市と化した
のである。それにまた街生の問題も懸念された。したがって一方では毛織物
工業関係の空間を確保しながら,他方では住宅不足の緩和により家賃の急騰
を抑え,あわせて住民の街生を守る乙とがレイデンT ! f 当局にとって焦眉の問
題となったのである。もしこれらの問題を有効に解決できなければ,来住者
が再び市を去ってしまう恐れが十分あったからである。
そこでレイデン市当局は 1 6 1 0 年にいたり,ホラント州議会に対して市域の 拡張を願い出た。これは翌1 6 1 1 年 5 月にみとめられ,レイデンは市の北側に 約30% 市域を拡張することになった 22) 。そしてここに縮紙業者と染色業者
23) ̲ ̲̲I‑'‑"̲.L.L.
が移ることになった 。この市域の払張により家賃はたしかに一時下がっ た 24) 。しかしながら乙うした状態も長続きはせず, 1640 年頃には再び市域 拡張の問題がもちあがった。 1 6 4 4 年 2 月にラーケン織の織元とレーデノレが市 参事会に拡張を請願し,翌 3 月にはホラント州議会によって認可された。今 回は市の束側に 6 モルゲンという比較的小規模の拡張に終ったため, これ でも最終的な解決とはならず, 1 6 5 9 年に市の南側に三たび拡張が行なわれ た 25) 。乙の通算 3 度にわたる市域の拡張で結局 2 2 3 モルゲンと 2 9 1 ルーデの 拡張となり,レイデンはアムステノレダムに次ぐオランダ共和国第
2位の大都 市に成長したのである 26) 口
ところで1 7 世紀に入ってからの,乙うした相次ぐ市域の拡張が長期にわた って多額の財政支出を要したであろうというととは想像にかたくなし 127 〉 口
つまり市域を拡張して人口の増加をはかり,毛織物工業の発展を促せば,一 方ではそれだけ消費税収入は増えるわけであるが,他方では市域拡張のため に膨大な支出を要するという相関関係があったのである 28) 。レイデン市の 行なった,多額の財政支出を伴う市域の拡張はたしかに来住者をうけいれ人 口の増加をはかろうとする中世都市ないしは近世の特権都市の存立原理に適 うものであるが,しかしこのことはレイデンの毛織物工業の利害に真向うか ら反するものでも必ずしもなかったのである。なぜなら毛織物工業を主導す る織元やレーデノレといった企業家はできるだけ市内に人口を集中することに より,労働者間の競争を激化させて賃銀の圧下をはかるとともに腕のすぐれ た職人ないしは労働者をみつけることができたからである 29) 。中世的なギ ノレド制を欠如していたレイデンの毛織物工業においては,こうした効果は十 分期待できたようである。その意味で市域拡張による人口の維持ないし増加
l策は,都市工業が競争力を維持するための
1つの可能な,かつ現実的方法で
もあったというべきである O それにまた当時の都市の住民はかなり流動的側
面をもっており,もしそこに住むに値する便宜が与えられなければ,他へ移
ってしまう恐れがあったので,市域の拡張による住民への便宜の供与は都市 当局にとっては避けがたいことであったと考えられる 30) 。であるとすれば,
当時のレイデンにおける消費税の水準が他の都市以上に高く,それが高い生 活費,高い賃銀を経て結局レイデン毛織物工業の競争力を弱めているという 認識がなされたとしても,容易には消費税を軽減したり,いわんや廃止した
りするなどということは事実上不可能なことであったのである 31) 口 こうして消費税の減税ないしは廃止によって毛織物工業に対する都市固有 の制約条件を克服しようとする第
lの方向はとり容れられなかった。とり容 れられるまでもなく,実現不可能なことであったのである O そのため 1 8 世紀 に入ってからも1"当州〔ホラント州〕における消費税は過重である O した がって労働者は近隣地方で支払われているよりも%多い賃銀をもらわなけれ ば生活してゆけない J , 1"ホラント州の都市はその消費税によって極度に担 われている」という苦情は一向になくならなかったのである 32) 。そしてこ の消費税に関する苦情の最後に行き着くところは,レイデンやホラント州内 の消費税の軽減や廃止という方向ではなく,レイデン毛織物工業に帝威を与 えている属領(占領州)や近隣諸地方にも等しくホラント州並の,あるいは レイデン市並の消費税を導入し,両者を対等の条件におこうとする方向であ った。そうする乙とによって内外の競争に立ち向かおうとしたのである 33) 。 しかし地方分権的な傾向のきわだっていた当時のオランダ共和国の政治的椛 成からして,それが実現不可能であったことはいうをまたない。こうしてこ こにわれわれは当時のレイデン毛織物工業がおかれていたところの,近 u t の 特権都市固有の歴史的制約と並んで特殊オランダ的な事情の一端をみること ができるのである。
それからもう
1つレイデン毛織物工業にとり重要と思われた税があった口 これは国内のある州から他の州へ商品をもってゆく時に課せられるところの,
内国関税とも称すべき一程の消費税( cousum p t i e )ないしは物品税(i mpos t )
である D オランダの北部 7 州が 1 5 7 9 年にユトレヒト同盟を結成して独立をは
かった時,この程の内国関税の撤廃が目標の
lつにかかげられていたにもか
かわらず,地方分権的な政治体制をとった?オランダ共和国では,統一的税
制 は 現 実 に は つ い に み ら れ ず , 各 州 ま ち ま ち に こ の 程 の 税 が 徴 収 さ れ て い た
34)
。例えばレイデンに関係の深い毛織物製品についてみると,次のよう な現実であった。すなわちホラトン州のラーケン織をフリースラント州,ユ トレヒト司教区,フローニンゲン州,オーフェJ
レエイセノレ州などへもってゆ くと,従価%の消費税(consump t i e )
を課せられるか35)
あるいはラーケ ン織半反毎に5
グノレデン,ないしはl
エノレにつき5 , . . . . . . , 6
スタイフェノレを課せ られるといった具合である36)
。ところが逆にそれらの州でつくられたラー ケン織がホラント州に入ってきても何ら課税されなかった37
に こ う し た 事 態はいたずらにレイデン毛織物工業の国内市場を狭隆にするものであったこ とはあきらかであるo
そこでレイデン毛織物工業の側からこの程の消賀税の 廃止が主張されたわけであるが,しかしさきの消費税と同様にレイデン市な いしはホラント州が他州に働きかけてもその効果はほとんど期待できなかっ た。そ乙でこうした主張も結局のところ,レイデン毛織物工業にとって不利 なこの程の税の廃止という方向から,ホラント州でも他の州並にこの程の税 を強化すべしという方向におし曲げられていったのである38)
。しかしこれ とても現実にどの程度実現されたのかは不明である。乙の点でもレイデン毛 織物工業は特殊オランダ的制約を背負っていたのであるO
注
( 1 ) L. T. N.
,d l . V, N o . 3 0
, ~4 0 .
( 2 ) r
もし(消費説等の)免税( o n t l a s t i n g e )が個別的にも全体的にも望みえないの
であれば,第2
の救済策に向かわざるをえない。つまりそれは外国から入ってくる製 品への課税であるJ L . T. N.
,d l . V
,N o . 3 , 1
~4 2
.同じような考え方はN.
W. Posthumus
,Adviezen
,No. 1 7
, ~1 0
にも表明されている。( 3 )
例えばレイデンでは15
世紀以来,消費税が経常税として花田たる地位を築いてい た。P . J . Blok
,Geschiedenis eener Hollandsche s t a d . Eene Hollandsche stad onder de Bourgondisch‑Oostenrijksche Heerschappij. 1 9 1 2 . b l z . 1 3
1.1 7
世紀後半にはホラント州内で徴収される税収の約6096
が?目立税によるもので あった。石坂昭雄『オランダ型貿易国家の経済枯造~ ,1 9 7 1
年,1 9 1
頁。( 4 )
例えば次のような指摘がみられる。r
わが国の,とくに諸都市の,その中でわけでもレイデンの企業家は消費税を他の都市以上にきびしくとりたてられており,労働者 にはヨリ多くの賃銀を与えざるをえなくなっている J L. T. N. , d 1 .
VLNo. 1 4 .
「当地〈レイデン〕では全てのものが過度に重い消費税を課せられている J
L. TN. , d 1 . V , No. 3 0 ,
~14. その他,L. T. N. , d 1 . m , No. 4 2 ,
~2 ,No. 3 4 , 1 d 1 .
IV, No. 2 3 8 , No. 2 9 0 ,
~, 1 d 1 .
VLNo. 2 4 3 . N. W. Posthumus , Ges‑
c h i e d e n i s
,d l . m
,B i j l a g e I
V.( 5 ) P i e t e r de l a Court , Het Welvaren van Leiden. Handschrift u i t het j a a r 1 6 5 9 , uitgegeven door F . D r i e s s e n . 1 9 1 1 , Cap. 3 9 , b l z . 9 0 .
( 6 ) L. T. N. , d l . 町 , No. 2 9 , 1
~9~12 , ~14~20. もちろんこれだけに尽きるのではない。ホラント州の主要な消費税については,石坂昭球,前 f 昌吉, 1 9 1 頁以下の 詳細な分析を参照されたい。
( 7 ) , ( 8 ) L.
T.N. , d 1 .
V, No. 3 0 ,
~4 1
( 9 ) そ の ほ か に 消 毘 税 と は や や 性 格 を 異 に す る と は い え , 家 賃 に 対 す る % 税 ( 8 e penningh) ,地代に対する%税,干 J 石税,デイク(堤防)の保守杭,京市税,科 7
呈税なども住民は負担しなければならなかった。
( 1
日 ( 4 ) を参照。
( 1 1 ) L. T. N. , d 1.町, No. 3 5 5 , A ,
~ l.なおラーケン紋 l 反は約40~64 エルである。したがって l反ということになれば差はかなり大きいものとなる。同じ 1 6 4 7 年の 史料では,縮械を終えた段附でのラーケン織 l反の賃銀についてみると,ホラント州
と他の地方とでは粗目ラーケン紋で約 15~6 グルデン,中級品で 52 グルデ、ン 10 スタイフェノレ,高級品で約 4 0 グルデンの聞きがあることがわかる。 O.Pringsheim , o p . c i t . , Anhang n , s . 7 8 . その { i l i L. T. N. , d 1 .
V, No. 3 0 ,
~2 , No. 5 7 ,
~