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佐藤弘幸

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レイデン毛織物工業の衰退過程(下)

レイデン毛織物工業の衰退過程(下)

佐藤弘幸

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4 危機回避のための第3の道の模索

〔1〕マニュファクチャー経営の限界

17世紀中葉のレイデン毛織物工業は明暗2つの対照的な動向を示してい た。1つはそれまでのレイデン毛織物工業の発展を担ってきた硫毛工業部門 が次第に停滞の様相を濃くしていったという事実であり,もう1つはそれと は反対に17世紀後半以降のレイデン毛織物工業の主役にのし上がる紡毛工業 部門が大きな飛躍をみせはじめたという事実である。レイデンの杭毛工業の 方は発展著しいイギリスの新毛織物工業や再生しつつあったフランドルのホ ントスホーテのサーイ織工業の競争をうけてきわめて苦しい立場に追いこま れていたが,出発当初からもともと多数の小生産者によって担われていたこ の部門では,これといった経営上の革新もみられず,ずるずると泥沼の中に 落ちこんでいった感がある。

これに対して紡毛工業部門の方は,同じようにきびしい競争にさらされな がらも,これを克服しつつ17世紀後半には一大毛織物工業に発展してゆく。

しかしながらその過程は決して坦々としたものではなかった。そのためこの 部門がようやく拡大上昇の過程に入った当初から,きびしい国際競争に耐え ぬくための方策が真剣に模索されていたのであり,その中から出てきたの が,これまでみてきたような2つの解決方向であった。この2つの解決方向 は問題の所在を正しくついていたにもかかわらず,当時のレイデン毛織物工 業の在り方を規定する枠組の中ではいずれも実現不可能なものであった。そ

こで登場するのが本節で扱ういわば第3の道である。

紡毛工業部門の中心はラーケン織工業であるが,ここでは当初から集中作 業場の建設による経営拡大への志向がはっきりとみられた。ラーケン弁別ま起

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34  経 営 と 経 済 毛・男毛を中心とする仕上工程が製品の良し思しを決定するきわめて重要な 工程であったために,ラーケン織の織元はこの仕上工程を自家作業場に集中 して経営を拡大してゆく方向を目指していた。ところがこのように仕上工程 を中心にして経営の集中・拡大を目ざすラーケン織織元のやり方には,独自 の組織をもっていた仕上工ギルドが強く反対していたが,それでも1637年頃 にはともかく仕上ヱギルドの反対を抑えて,ラーケン織織元は経営を意のま まに自由に拡大してゆくことが可能になった。そしてその過程で出てきたの がレーデノレとよばれる少数の大織元であり,彼らによるマニュファクチャー 経営であった。このマニュファクチャーがどの程度の規模とひろがりをみせ たのかは,史料の制約上残念ながら確認できないが,ただl件のみ確認でき るマニュファクチャーをみるかぎりでは,その経営規模は 5つの集中作業場 を結合したかなり大規模なものであったことがわかる(1)。 そ こ で は お よ そ 120人の労働者による分業・協業関係が成立していたものと思われるD レー デノレとよばれている大織元がこうした大規模なマニュファクチャーを作り出 したことにより,脅威をうけつつあった中小の織元は乙れに再三抗議してい るが,もとよりこれは容れられるべくもなかった。その際レーデノレがマニュ ファクチャー経営の利点として明らかにしている事実は当面のわれわれの関 心からしてきわめて興味深いものであるoすなわちマニュファクチャー経営 によりレーデノレにとっては「ラーケン織がより安く作られ,その結果他の都 市や国に対して市場を確保することができたJ (傍点は引用者)というので ある(2)。つまりここでは大規模なマニュファクチャー経営により内外市場 で競争力を確保することが可能になっているということがはっきりと認識さ れているのである。したがってレーデノレによるマニュファクチャー経営はレ イデン毛織物工業が国際競争力を維持してゆくための方法の1っとして出て きていることは明らかで、あるロそしてこの際当時のレイデン毛織物工業を特 徴づけているネーリング制の諸規制がこうしたマニュファクチャー経営の展 開に何ら怪桔とはなっていないこともはっきりと確認しておいてよいであろ

"

‑ (3) 

ところでわれわれが史料集で確認できるただl件のレーデノレのマニュファ

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レイデン毛織物工業の衰退過程(下) 35  クチャーというのは2人のレーデノレによる共同経営のマニュファクチャーで あり, 2人が共同出資して1641年から6年間の期限っきで始めたものであっ た。しかしながら先にものべたように大規模なマニュファクチャーは中小の 織元の経営にくらべてかなり有利な立場にあったにもかかわらず,この共同 経営マニュファクチャーは当初の6年が過ぎると解散されてしまった。これ がいかなる理由によるのかは残念ながら明らかにしえないが,当時ラーケン 織工業が拡大上昇期にあったことからすれば,このまま2人が毛織物工業か ら手を引いてしまったということはまず考えにくい。とすればこの2人のレ ーデルは大規模なマニュファクチャー経営よりももっと有利な方法をみいだ し,そちらの方に移っていったとしか考えられない。もとより乙の l例のみ から一般化することは慎しまねばならないが,第2節でみたようにラーケン 織の内外の市場ではヴェルヴィエとかオイペンなどの毛織物工業の低価格 攻勢が日増しにきびしさを増していたから,レーデノレは大規模なマニュファ

クチャーの設立による経営の合理化によってもなお国際競争力を維持してゆ くことが次第にむつかしくなり,マニュファクチャー経営は比較的短期間の うちに限界につきあたってしまったものと考えられるo とすると当面これに かわる新たな方法としては一体何があったのであろうか。

ここにいたってはじめてわれわれは危機回避のための第3の道に辿りつく のであるo これは結論を先回りしていえば良村工業との分業関係の形成にほ かならなかった。ただしここでいう農村工業とはレイデンの位置するホラン ト州内部の農村工業ではなく,連邦議会直結領における良村工業であるo ランダ共和国の中心たるホラント州では特権都市がいわば支配的権力をにぎ り,州内の農村工業を厳重に禁止してきたことは周知の事実である。そして こうした事情を背景にオランダ型貿易国家とよばれる独自の社会科3成が築か れたことも先学によってつとに指摘されてきたところである(句。ところが レイデン毛織物工業が17世紀後半にきびしい国際競争の場で諸外国の毛織物 工業と互角のたたかいを続ける乙とができたのは,皮肉にも良村工業との分 業関係の成立によるところきわめて大きいと考えられるのであるD これはい かにもパラドキシカノレに問えるが,歴史的現実はまさにこのように進行した

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36  経 営 と 経 済

のであるo しかも後にも若干ふれるように乙れは何もレイデンのみにかぎっ たことではなかった。アムステノレダムの毛織物工業にとっても,またハーJ

レムの麻織物エ業にとってもこの農村工業はきわめて重要な役割を演じてい たように思われるのであるoそこでわれわれは以下にこの農村工業との分業 関係の展開過程をみてゆくことになるが,その前提としてまず連邦議会直轄 領というものがどういう性格のものであったのかを概観し,それから乙の農 村工業の問題に入ってゆきたいと思う。

(1)拙稿 117世紀レイデン毛織物工業におけるマニュファクチャーJ, Ii'経営と経済』

創 立70周年記念号, 1975 (2)  前掲拙稿, 15

(3)  拙稿 117世紀レイデン毛織物工業とネーリング制J(下), Ii'経営と経済.!I544 号(1975年), 128""9

(4)  その代表的なものとしては,石坂昭雄『オランダ型貿易国家の経済構造.!I , 1971  年,および石坂昭雄「オランダ共和国の経済的興隆と17世紀のヨーロッパ経済ーーそ の再検討のために一一‑J, Ii'経済学研究.!I (北海道大学〉第24巻第4 (1974年) ,  上野香『オランダ初期資本主義研究.!I, 1973年,がある。

(2) 連邦議会直轄領の成立

オランダ共和国は7州よりなる連邦共和制の国として出発したことはよく 知られているが, 1648年にウエストフアリア条約でその独立が正式にヨー

ロッパの列強により承認された時点では,乙の7州のほかにさらにいくつ かの占領地域が領土として加わっていた。この占領地域が連邦議会直轄領 (Generaliteitslanden)とよばれていた地域で,俗に占領州とか属領ともい われているo 乙の属領は大きくいって3つ の 部 分 に わ か れ て い た(5) 1 は属領フランドノレ(Staats ‑Vlaanderen)で , こ れ は 現 在 の ゼ ー ラ ン ト 州 の南部地方にあたる。その名称、が示しているように独立戦争の過程でスペ イン領フランドルの一部を奪いとったものである。次が属領ブラーパント

(Staats‑Brabant)で,これは現在オランダの工業地帯になっている北ブラ

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レイデン毛織物工業の衰退過程(下〉 37  ーパント州にほぼあてはまる地域である。ここも独立戦争の後半に,都市を 中心舞台にしてオランダ軍,スペイン軍がはげしい争奪戦をくりかえした地 域で,最終的にはオランダの領土としてみとめられた。最後が属領オーフェ ノレマーゼ地方 (StaatsLand van Overmaze)で,ここはオランダ本国から はなれた飛地となっており,現在のリンブノレフ州の一部にあたる地域であ る(句。

これらの3つの連邦議会直轄領はスペイン領ネーデノレラントと接する国境 地帯として軍事的に重要視されていたためであろうか(7) 他の7州とは異 なり連邦議会での代表権も州としての自治権もみとめられず,まさに国境地 帯の属領としてきわめて不平等に扱かわれていたのである。またカトリック 教徒が大部分を占める地域であったため宗教的自由は大幅に制限されていたD

しかしながらこうした不平等な扱いにもかかわらず,これらの属領はオラン ダ共和国に対してきわめて重要な貢献をなしているoそれはこの地域が国境 地帯としてオランダ共和国の軍事防衛上重要な役割をはたしていたというこ とばかりによるのではない。連邦議会は属領が代表権も自治権ももたないこ とを幸いに,人口の多い比較的豊かなホラント州並みの,場合によってはそ れ以上の重税をこの地域に導入し,しかも関税については乙の地域を国内と はみなさず外国扱いにして,税制面でもこの地域を徹底的に収奪したのであ (8)。その上レイデン,アムステルダム,ハ‑)レレムなどホラント州の諸 都市は属領,その中でもとりわけプラーパント地方の農村工業をそれぞれの 都市工業のために下請工業化し,それによって都市工業を有利に維持してゆ こうとしたのである向。 17世紀後半のレイデン毛織物工業も属領の農村工 業を下請工業として組み込むことによってその国際競争力を維持してゆくこ とができたといってよい。その具体的展開過程を明らかlとするのが以下の目 的であるが,それに先だちここではともかく自立的な7州の連邦制として知 られているオランダ共和国にも属領という陽のあたらぬ,それでいてきわめ て重要な役割を担っていた部分があったことをまず確認しておきたい。

ところで3つの属領中もっとも大きく,かつまた経済的にもっとも重要な 役割をはたしていたのは属領ブラーパントであったが,この属領プラーパン

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38  経 営 と 経 済 トはデン・ボス市とその代官区 (Staden Meierij van 's‑Hertogenbosch) ,  Jレへン・オプ・ゾーム市とその辺境伯領 (Bergen‑op‑Zoomen Markie‑

zaat) ,プレーダ市とその男爵領 (Bredaen de Baronie),マーストリヒト (Maastricht)その他から構成されていた(10)。乙のうち良村工業地帯と して発展し,ホラント州諸都市の工業に大いに貢献したのがデン・ボス代官 区であったD ここは属領ブラーパントのほぼ束半分にあたる地域で,現在で はテイノレブノレフ,エイントホーフェン,へjレモント,デン・ポスなどの工業 都市が集中しており,オランダの一大工業地帯をなしているD そこでわれわ れも乙のデン・ボス代官区を中心lこ論をすすめてゆくことにしたい。

(5)  H. Brugmans, De Republiek der  Verenigde Nederlanden  in  1648, in:  Geschiedkundige Atlas van Nederland, dl.  1 1 1919, blz.  11. 

(6)  政治的には属領フランドノレはゼーラント州の,民館プラーパントとオーフェノレマー ゼ地方はホラント州のそれぞれ強い影智下に入っていた。 ibid.blz.  64, 67. 

(7)  V.  A.  M. Beermann, Stad en Meierij van 's‑Hertogenbosch van 1629  tot  1648.  Een  episode  uit  het  laatste  stadium  van den  tachtigjarigen  oorlog, 1940, blz.  254 (以下 Beermann1と略記),H. J.  J. van Velthoven,  Stad en Meierij van 's‑Hertogenbosch. Bijdragen tot de sociaalgeogra fische kennis van dit  gebied.  Dl. , 1935, blz.20  (以下 Van Velthoven, 

Iと略記)

(8)  とりわけ属領ブラーパントはとのため「貧しきブラーパント」という具名をとる乙 とになった。との点については, Th.  Goossens, Het Arme Brabant (Rede),  1929を参照。

(9)  L.P.L.  Pirenne, De Generaliteitslanden van  1648  tot  1795, 4, in:  Algemene Geschiedenis der N ederlanden, Deel ¥tlll. 

UD)  H. Brugmans, op.  cit., blz.  65.  (3) デン・ボス代官区の農村工業の展開

デン・ボス代官区はもともとはブラーパント公園の一部をなしていた。

オ ラ ン ダ 独 立 戦 争 の 過 程 で オ ラ ン ダ 軍 と ス ペ イ ン 軍 は 乙 の 地 域 を め ぐ っ て

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レイデン毛織物工業の衰退過程(下) 39  はげしい争奪戦をくり返したが, 16299l乙乙この中心都市デン・ボス

('s‑Hertogenbosch)がオランダ軍のフレデリック・へンドリックに征服 され,オランダの支配下におかれた。しかしデン・ボス市以外の代官区(農 村部)はいぜんとして帰属が決まらず,住民はオランダ,スペイン両国に共 通財源(消費税) (de gemene middelen)や 懇 願 税 (koningsbede), 戦 争協賛金 (oor1ogscontributie)を納めなければならないというきわめて不 安定な状態におかれていた(11)。そして1648年のミュンスターの講和ではじ めてデン・ボス代官区全体が最終的にオランダに帰属することになった。

デン・ボス代官区の人々はそのほとんどが農業や牧畜(主に羊と牛)で生 計をたてていたが,乙の地方は砂質上壌のため地味が豊かでなく,良民の生 活は一般にかなり貧しかったといわれている(12)。そのため人々はかなり早 くから家計補助のための副業として織物生産に従事していたD そして16世 紀 には毛織物工業や麻織物工業が代官区のいくつかの地域でかなりの重要性を もつようになっていた(13)。毛織物工業ではテイルプルフ (Ti1burg),ヘノレ ドロプ (Geldrop),オーステノレウェイク (Oisterwijk),オス (Osch) どが,また麻織物工業ではヘノレモント (Helmond),エイントホーフェン (Eindhoven) ,ウンセJ(Woensel),へーメノレト (Gemert) ,ヘステノレ (Gestel) ,ポクステノレ (Boxtel)などが知られるようになっていたり的。乙 のうちとりわけ毛織物工業の中心地として有名になったのはテイルブノレフで あった。

テイノレブノレフはその少し南のホーノレレ (Goirle)と と も に1387年以来 l つの荘園を構成していた農村であるが(15) 乙 こ で も 代 官 区 の 他 の 良 村 と 同 じ よ う に 農 民 は 良 栄 だ け で 生 計 を た て ら れ ず , 近 く の ケ ン ペ ン 地 方 (Kempenland)の羊毛を利用する毛織物生産(ラーケン織)が14世紀には かなり盛んになっていた(16)口このテイノレフツレフの毛織物工業は15世紀には あまりふるわなかったようであるが, 16世紀に入る頃から再び盛り返し,

1550年頃には全工程を包含するかなりの規模の毛織物工業になっていたとい われている(17) しかしながら独立戦争が始まると,多くの毛織物商やラー ケン織仕上工,縮紋工がロッテノレダムをはじめ各地へ四散してしまい, 17

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40  経 営 と 経 済 紀のはじめ頃にはテイノレプノレフは未仕上げのラーケン織をホラント州の都市 に送って,そこで縮紋,染色,仕上げをしてもらわなければならないような 状態であった(18)。もとより毛織物工業が全く姿を消してしまったわけでは なく,紡糸や織布を中心とした毛織物生産は独立戦争中もずうっと維持され てきており, 17世紀の20年代にはホラント州の工業都市の織元たちにとって も無視しえぬ存在になっていたのである。

そうしたホラント州の工業都市の不安を象徴しているかのようにみえるの 16225月のオランダ国務院 (deRaad van State)の措置であるo

乙れはオランダに戦時協賛金を納めている地域の人々が当時オランダの諸 都市と売買取引をする際に必要とされた通行証 (paspoort)と対敵通商税 (licent)について,国務院が解釈を示したものであるが,それによるとオ ランダに戦時協賛金を納めている地域の人々が滞りなくそれを納める乙とが できるようにするために,彼らに一定の優遇措置を講ずる乙とになった。そ れは乙れらの地域の人々が彼らの生活必需品を一定量にかぎりオランダの諸 都市で購入したり,また逆に彼らが自分で作った農産物や乳製品,手工業品 をオランダの諸都市にもってきて売る場合には通行証と対敵通商税をともに 必要としないという内容のものであった。ただし毛織物については,長さが 32ないしは33Jレの半反もののラーケン織 (eenhalf stuck wolle lakens)  や粗質の端ぎれば対敵通商税を支払う乙となくオランダの諸都市にもってき てもよいが,それ以外の1反もののラーケン織 (allesoorten van wolle  laeckenen)やティーレンテイン織 (detirentijnen) は対敵通商税を支払 わなければならなかった。ところがテイルフ、JレフとウエーJ (Weert) けはこの優遇措置からはずされ,そ乙でつくられたいかなる毛織物も対敵通 商税を支払わなければならなかったは句。これは何よりもレイデンなどの ホラント州の工業都市がテイルブJレフなどの潜在的競争力を恐れていたため と考えられている(20)。それにテイルフツレフを含めたデン・ボス代官区全体 の帰属がまだ流動的で,場合によってはスペイン領になるかもしれないとい う懸念がいっそう乙ういう措置を要求したのかもしれない。事実ウエーJ はミュンスターの講和でもついにオランダ領にはならなかった。

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レイデン毛横物工業の衰退過程(下) 41  しかしながら1629年にいたり代官区の中心的都市であり,かつまたスペイ ン軍の有力な拠点であったデン・ボス市が4カ月におよぶ包囲の後,ついに オランダ軍の手中に陥落し,オランダに有利な情勢が聞けてくると,テイノレ ブソレフに対するオランダの態度も次第に変化をみせていった。それがいかな る考え方にもとづいているのかは明らかではないが,いずれにしてもテイル プノレフの毛織物工業に対して次第に好意的な取扱いがなされていったととは まずまちがいのないと乙ろである。というのは16346月にはテイルブルフ 産の半反もののラーケン織や端ぎれが他の地域のそれと同じように対敵通商 税の支払いを免除されることになったからである(21)。ただし商品価値の高 1反もののラーケン織 (helelakens)については従来通り,オランダの都 市にもってゆく場合には対敵通商税を支払わなければならなかった。テイノレ ブノレフの毛織物工業の発展に脅威を感じていた特権都市デン・ボスでは毛織 物商ギノレドや仕上工ギソレドが16389月に連邦議会に働きかけて,テイノレフ事 ノレフも含む代官区でつくられたラーケン織ないしは代官区で織布中のラーケ ン織から1反ごとに3ク勺レデンの消費税を徴収する権利をみとめられた(22) ホラント州やオラン夕、、連邦議会はこの時点ではさしあたり特権都市デン・ボ スの言い分をみとめ,農村工業に不利な決定を下したのであるo しかしなが らテイルフツレフの抗議とアムステノレダムの毛織物商や羊毛商の反対にあい,

翌日月にはこの決定も取り消されてしまった(23)。ここでは何よりもアムス テノレダムの商人がテイノレフツレフ〔良村工業〕の後押しをしている事実が注目

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される

ところで代官区全体の帰属がまだ流動的であったこの時点において,何よ りも興味深いのは,レイデンをはじめとするホラント州の工業都市がテイノレ フ勺レフや代官区の農村工業に対してとった態度であるo レイデンのラーケン 織の織元15人がテイノレブノレフやオーステルウェイクといった代官区の良村毛 織物工業の脅威についてはじめて懸念を表明したのは16375月のことであ るが(25) 乙れはレイデン側からテイノレフツレフ等の毛織物工業に対して言及 した最初のものであるD われわれはまずこの1637年という時点に注目してお きたい。乙乙でレイデンの織元がのべているととは,テイノレブノレフ等のラー

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42  経 営 と 経 済

ケン織が対敵通商税も消費税 (consumptie) (乙こでは1つの州から他の 州へもってゆく際に課される一種の内国関税のこと)(26)も支払わずにオラ

ンダ国内にもちこまれているために,レイデンの織元は大きな損害をうけて いるということであった。ここでいうテイルブノレフ産のラーケン織とはおそ らくは先にもふれた半反もののラーケン織や端ぎれのことであろう口そこで 織元たちはその対策として,原則的には代官区でつくられたいかなるラーケ ン織もオランダ国内にもち乙まないように要求するとともに,テイノレブノレフ 産のものだけは,それを証明する鉛印をつけていればもちこみをみとめる そのかわりに対敵通商税と折税 (de 7 de  penning)  (消費税に相当 するもの〕を支払うように主張した。したがって少くともこの時点では対敵 通商税と折税を課せば,テイノレブ、ノレフ産の毛織物といえども,まだそれほど

レイデンの脅威にはならなかったということなのであろうo

これに対して連邦議会は16377月にlつの決定を下し,代官区からオラ ンダ国内への輸入には原則的には対敵通商税を課すが,テイノレブノレフ産のラ ーケン織〔半反もののラーケン織や端ぎれの乙とであろう〉だけはそれを免 除することになった。そのかわりにテイルフノレフのラーケン織にはそれがテ イノレブJレフ産のものであることを証明する鉛印をつけ

r

対敵通商税免除」

と明示する乙とになった(27)。 そして同時にテイノレブノレフ産のラーケン織を オランダにもち乙む際の通過都市を4都市指定した(28) これはいわば両者 に対する妥協的な措置であると考えてよいが(29) これによってともかく レイデンはテイルフソレフ産の製品である乙とを装って入ってくる外国製品を 防ぐことができた。それと同時に連邦議会は代官区全体を外国ないし敵国の 領土と同じように扱いながらもー一対敵通商税を認すという乙とはそ乙が国 内とはみなされていない乙とを意味している一一テイノレブノレフのみはいわば ホラント州の飛領土のようなものとして国内扱いをしたのである。

しかしながらレイデンはこれには満足しなかった。というのはレイデンに してみればテイノレフツレフが対敵通商税の免除をうけるのはやむをえないとし ても,オランダ国内でlつの州から他の州へ商品をもちこむときに諒される 消費税はテイノレブ、Jレフといえども免除されてはならないものであったからで

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レイデン毛織物工業の衰退過程(下) 43  ある。レイデンのラーケン織ネーリングの総代はこの点をはっきりと表明し ている(30)。そしてこの消費税として,先に15人の織元が主張していたろす税の 課税をあらためて要求したのであるD そして翌1638年には今度は「オランダ 国内のレーデjレや織元たち」一一ーおそらくはレイデンのラーケン織のレーデ ノレや織元が中心になっているのであろうーーが連邦議会に「短い弁明書」を 提出した(31)口彼らはその中で先に特権都市デン・ボスが出したところの,

テイノレフツレフのラーケン織から 3ク勺レデン徴収すべしという要求を改めて支 持するとともに,この要求がわずか数週間実現をみただけで終ってしまった ことに不満を表明し(32) その実現を再びせまったロしたがって少なくとも この時点ではレイデンのレーデノレや織元は特権都市デン・ボスと共通の利害 に立ち,テイノレブソレフの農村工業の拡延を何とかしてくいとめようとしてい ることがわかるoそ乙にみられるのはテイノレプルフや代官区の良村工業をホ ラント州の都市工業と対等の条件におくことによって,都市から良村へ人口 が流出してゆくのを極力抑えようとするあの中世都市ないしは近世の特権都 市固有の発想である(33)。それにまた都市から農村への人口の流出は単なる 杷夏ではなかった。 I外国人〔移住者〕は最少限の移動と最低の家賃,最低 の課税を望んでいるので,今後は,いや,もうすでに始まっていることだが,

テイ jレフツレフやデン・ボス代官区に住みつくようになり,わが国の城壁都市 の住民とはならないであろうD ……そしてわれわれ請願者〔レーデノレや織 元〕も(場合によっては)テイノレブノレフやデン・ボス代官区,その他の地方 に移るかもしれない……(34)Jというところまで事態は進んでいたのであ o この怠味でこの「短い弁明書」はオランダ国内諸都市の織元の危機芯識を 何よりもはっきりとあらわしているoそれとともにデン・ボス代官区がやが てはオランダ領になるかもしれないという事態を予想して微妙に揺れ動く都 市の織元の複雑な心境の一端をものぞかせているD しかしながら述邦議会が 163810月と12月に相次いで行なった決定は,こうしたレイデンなどの都市 側からの要求をしりぞけるものであった(35) テイノレブソレフのラーケン織は 鉛印をつけることを条件に対敵通商税も消貨税も免除されたのであるo おそ らくレイデン側には不満は残ったのであろうが,その後はレイデンも連邦議

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44  経 営 と 経 済

会も表立つた勤きをしばらくみせていない。

と乙ろでこれまでの経過をみて気付くことは,レイデンはテイルブノレフの 農村工業を一貫して危険な競争者とみなして,乙れと対決する姿勢をみせて いるのに対して,連邦議会の方はいまだ帰属のはっきりしない代官区の農村 工業に好意的な対応をみせているという乙とであるo工業都市レイデンがそ の競争者を抑えようとする勤きを示したことはいわば当然といえば当然のこ とであるが,連邦議会の対応の仕方はいかなる理由によるのであろうか。こ 乙でまず注目されるのが,すでにふれたようにアムステダム商人の態度であ oテイノレフツレフの農村毛織物工業に原毛を供給していたのはアムステノレダ ムの羊毛商であったといわれているが,彼らがまずテイノレブノレフの側につい たのである(36)。それと並んでアムステノレダムの毛織物商もまたテイノレプノレ フでラーケン織生産の下請けをさせ,その染色・仕上げをアムステノレダムで 行なうようになっていたので,同じくテイノレブノレフの擁護にまわったという ことであるoつまりアムステノレダムの羊毛商と毛織物商の経済的利害がテイ ノレフツレフの農村工業の利害と密接に結びついていたわけであるく37)。 アムス テノレダムの大商人は連邦議会の政策にもっとも影響を及ぼしうる立場にあっ たから,連邦議会の決定を彼らの望む方向にもってゆく乙とは十分可能なこ とであったと考えられるO

しかしながらより注目すべきことは1640年代になるとそれまで一貫してテ イルフ勺レフなどの農村工業に敵対的態度をとり続けてきたレイデンの対応の 仕方にも次第に微妙な変化があらわれてきたということであるO それは具体 的には,レイデンの内部が従来通りテイルフツレフの農村工業を抑えようとす るグループと,それとは逆にテイノレブ、ノレフの農村工業を利用して自己の利害 をテイノレプノレフのそれに合致させてゆこうとするクツレープとに分れていった ということである(3へ前者のグループを構成するのは占ふら森元であった ようで,彼らはテイノレブノレフや代官区の農村向けの羊毛に輸出関税を課した り,染色・仕上げのためにホラント州に送られてくる未仕上品には対敵通商 税や消費税を課す乙とによって,テイノレブノレフ毛織物工業の競争を何とか封 じこめようとしていた(39)。 これは従来レイデンがとってきた態度をそのま

(13)

レイデン毛織物工業の衰退過程(下) 45  ま維持しようとするものであった。乙ういう立場に立つ織元の考え方を代表 するような請願がやはり「短い弁明書」という形で16479月に連邦議会に 提出されている(40)。 この「短い弁明書」が誰の手になるものかは特定でき ないが,その内容からしてレイデンの中小の織元の考え方を代表しているも のとみてまずまちがいないであろう(41)。そして乙の中ではじめて,ホラン ト州の若干の人々が友人や隣人の迷惑をかえりみず,自己の利益のためにス ペインの羊毛を代官区などの農村に送り,そこでラーケン織をつくらせてい るという事実が明らかにされている。そのためこの弁明書はデン・ボス代官 区や属領の農村のあらゆる地方においてスペイン羊毛でラーケン織をつくる ことを禁止し,違反したら製品を没収のうえ 1反につき25グルデン以上の 罰金を課すべしと主張した。

乙乙で代官区などの農村工業を下請に利用しているとして非難されている 人々は,すでにのべたように主としてアムステノレダムの毛織物商であったで あろうということは,乙の弁明書に対してまもなくアムステjレダムから反論 が出されたことからも伺がえる(42)。 しかしながらアムステルダムの毛織物 商だけが非難の対象であったかというとそうとばかりはいいきれない。レイ デンの中にもそれと同じような乙とをやり始めた人がおそらくは出てきてい たのであろう(43)。すなわち乙れがレイデンのもう一方のグループであり,

(44)

彼らはおそらくはレーデノレなどの大織元であったと想像されるか , 乙の 段階ではまだ史料の上では確認できない。ただ先に本節の (1)でみた2 のレーデノレの共同経営になるマニュファクチャーが解散されてしまったの が,ちょうどこの頃であったということはきわめて暗示的であるo レーデJ たちはおそらくは,染色・仕上げというもっとも経営的に有利な工程を従来 通りレイデン市内で自ら営みつつ,紡糸・織布.~!f百紋などの工程を属領の農 村に下請させ,コストの引き下げをはかる行動に出たものと考えられる(45) そして16486月にミュンスターの講和でデン・ボス代官区などの良村部が 最終的にオランダ領に組み入れられ,属領ブラーパントの政治的・法的地位 が確定されるに及んで,テイノレプノレフの農村工業に対して早速あらたな措置 が連邦議会により諮じられていった。以下に節をあらためてみるように,乙

(14)

46  経 営 と 経 済 のあらたな措置は当時すでにアムステノレダムやレイデンとテイjレプノレフとの 聞 に 進 行 し つ つ あ っ た 関 係 を 法 的 に 追 認 す る と と も に , さ ら に そ の 関 係 を 促 進 し よ う と す る も の で あ っ た の で あ るo

Ul)  Beermann, 1, blz.  201, 206"'211.  (

12)  ibid., olz.  222.  P.  C. Boeren, Het Hart van Brabant, 1924, blz.  17.  (

13)  z. W. Sneller, De opkomst van de Noord‑Brabantsche Industrie, in:  Economisch‑statistische Berichten, Sep. 1931. B. Dijksterhuis, Bijdragen  tot  de Geschiedenis der Heerlijkheid Tilburg en Goirle, 1899, blz.  125"' 

127. 

U l4ただしこのうちオーステノレウェイク,オス,ヘノレモント,エイントホーフェンはい ずれも都市法をもっているので厳密には農村とはいえない。しかし特権都市でもなか ったようである。 VanVelthoven, 1, blz.50"'51. Van Ve1thoven, Noord‑

Brabant. Een gewest in opkomst, 1949, blz.  180, 286~( 以下 VanVeltho ven,  Noord‑Brabantと略記).P.  C.Boeren, op.cit., blz.  10. 

U l5B.  Dijksterhuisop.  cit., blz. 1. P.  C.  Boeren, op.  cit., blz.  11.  P. C.  Boeren, op.  cit., blz.  17. 

U7)  P.  C.  Boeren, De Tilburgse wolnijverheid tot het  begin der 17e eeuw,  in:H. J.  A.  M. Schurink en J. H. van Mosselveld  (red.), Van Heidorp  tot Industriestad.  Verkenningen in  het ver1eden van Tilburg, 1955, blz.  125. 

(

18)  ibid., blz.122, 131"'134.  (

19)  B. Dijksterhuis, op.  cit., Bijlage M. 

1) P.  C.  Boeren, Het Hart van Brabant, blz.  23, 24.  Van Velthoven,  1, blz.  127.  Beermann, 1, blz.  245.  B.  Dijksterhuis.  op.  cit.  blz.  122.  N. W. Posthumus, Geschiedenis, dl.  IL blz.  435. 

ω 

連邦議会もこれより3年後の1637年にこれを確認している。 Beermann,1, blz.  245.  Van Velthoven, Noord‑Brabant, blz.  170.P. C.  Boeren, Het Hart  van Brabant, blz.  29.ただしウェーノレトの扱いについてはどうなったか明らかで ない。

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