長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題
重藤威夫
第一章 居留地晋易時代の始期と終期
第二章 鎖国時代の居留地外人の在留者数
第三章 開港当時長崎における開国と鎖国政策の矛盾の諸問題
第一節 総 説
第二節 無条約時代の華僑と自由通商
第三節 俵物貿易独占権をめぐる問題
第四章 開港当時の密貿易と外人居留地の埋立
第五章 外国貿易における西洋人と安邦人の勢力
第六章 外人の長崎からの退去と貿易衰退の傾向
第七章商権の回復を必要とした事由
第 一 章 居 留 地 貿 易 時 代 の 始 期 と 終 期
居 留 地 貿 易 時 代 の 意 味 を 如 何 に 定 め る か に つ い て は
︑ 多 く の 問 題 が あ ろ う が
︑ 大 体 に お い て 次 の よ う に 考 え る こ と が で き る
︒ 先 ず 居 留 地 の 意 味 で あ る が
︑ そ の 国 に 来 住 し た 外 国 人 の 居 住 及 び そ の 職 業 活 動 の た め に
︑ 指 定 さ れ た 開 港
長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題 一
経 営 と 経 済
場の一定地域であると言いうる♀詳ヨす引いば︑貿易︑宜れ活動其他の目的を以て︑その国に来住した外国人の居住並
にその職業活動の区域として︑通商航海条約を通じて︑その国の主権者の命令によって︑一定地域を限って指定され
た開港場の区域と言うことができる
oM
留地貿易時代とは︑その国の輸出入貿易の主導権が︑居留地に住んでいる外
国商人の手中にあり︑本国商人はその附随的な或は買弁的な役割を演ずるにすぎなかった時代である︒
かかる意味での居留地貿易時代は︑我国では安政六年(一八五九)六月に始る︒その前年に五ヶ国(米・蘭・露・
英・仏)との問に通商航海条約が締結されたが︑横浜︑長崎︑函館︑神戸︑新潟の五港が開港されることに定められ
たのは︑安政六年六月からである︒始期については︑近代の我国の場合には︑長い間の鎖国の後︑通商条約によって
開国されたのであるから︑形式上も実質上も一致する︒居留地貿易時代の終了には︑形式上と実質上の二つの意味が
ある︒先づ第一に︑形式上の終了とは︑出留地の制度が廃止され︑外国人は居留地以外︑国内いたると乙ろに自由に
屈住或は旅行ができるようになったことを意味する︒居留地時代には︑外国人の目的住は出留地域内に限られ︑旅行す
︹註
)
る場合にも︑開港場の周辺の一定区域(遊歩規定)以外には︑自由に旅行する乙とは原則として許きれなかった︒
︹註︺安政五年日米修好通商条約第七条︑何日仏通商条約第二一条︒一入四三年南京条約泊加条約第六条参照︒
実質上の終了は︑本国商人が従来の買弁的地位から向上して︑貿易の主導権を彼等の手に回収した乙と︑換言すれ
ば︑いわゆる﹁商権の回復﹂が実現された乙とを意味する︒
欧州の場合は︑鎖国という歴史的事実がなかったから︑始期については形式上と実質上の区別は容易につけ難いで
あろう︒英国の例を考えて見る︒
英国は十四世紀までは︑安政六年に開国しに当時の我国と同様に︑英国の北万諸都市とスカンジナビア諸国との間
の貿易を除けば︑殆んどすべて外国人によって行われて来た︒その頃までは英国の商人は輸出入貿易について︑大陸
の諸都市にまで進出するだけの企業心や資本をもっていなかった︒フランダース︑フランス︑ドイツ︑イタリー及び スペインの諸都市から︑商人達が貿易のために英国にやって来た︒それらの中で特に有力であったのは︑イタリー商
人
(5
0H
bg
gE
ω)
とハンザ同盟の商人(吾均出ωロ
Z E
ω )
であった︒彼等は十四︑十五世紀の英国の貿易事業の大
部分を支配していた︒英国での居留地の起源は︑ハンザ同盟の商人達に与えられた﹁スチール・ヤード﹂であろう︒彼
等のロンドンにおける居留地は∞
ZZベω
三或は間二島
g =
え吾ゆ
UZ
ZY
開gZ
ユE m
ω .
5ゆとして知られてい出 ︒
た︒彼等がそこに住むようになったのは︑二ニ二
O年以来であるが︑そのγ居留地の実際の所有者になったのは︑一四
七五年に市会
( 5 0
立与の︒
E5
己)が︑それを彼等に譲渡してからである︒ζ
のスチール・ヤードはロンドンに限ら
ず︑ボストン︑リl
ンにも設けられた︒このスチール・ヤードが設けられた時期が︑英国における居留地貿易時代の
形式上の始期と考えられる︒しかし実質上の始期はこれよりもかなり早かったであろう︒
しかし英国商人もその聞に無為であったわけでなく︑一ゴ二三年以来のステーブル制度
( 目 ︒ 円
︒ Z E
ω
え
50
ωs
・
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・5
0E
2S
ω
三
ω S
1 2
ω )
や冒険商人(自立与
ω三包︿
gZ
円 ︒ 円
ω )
の制度などによって︑積極的に外国貿易に進
出するようになった︒冒険商人の起源は︑ロンドンの呉服商人のギルドで︑2
・吋
F︒
g h
凶ω
︒同
わ
ωロ 件
︒ 円 σ
ロ ミ と い う 団 体であった︒それはすでに十三世紀に未だ加工しない毛織物をフランダ
lス地方へ輸出する特権をもっていた︒その
後ドイツ地方やスカンジナヴイア地方を輸出先とするものが参加し︑それぞれ王から特許を得て公然たる団体になっ た︒その間ハンザ同盟やステーブル商人のはげしい反対をうけたが︑冒険商人は益々発展した︒一五
O五年にはヘン
リl七世から一人の総裁(問︒︿28円)と二四人の理事
28 E2 2)
をもっ自治的会社である乙とを認可された︒そ の後官険商人は規制会社
( 円 ︒
mz
ZZ
品︒
︒自
同出
ロ可
) としての組織をもつようになった︒十六世紀の後半に入ってから
は︑次のような各種の会社が活躍し始めた︒一五五四年設立の河口
gg
ゎ︒
・又
は︑
一五七七年にスペインとボルトガ
長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題
経 営 と 経 済
四
ルとの貿易を目的として設立された︑
印同
︾州
wロ同
mw y
ハ い ︒
一五七九年にパルチック沿岸諸国との貿易を目的とする︑開2・
己ωロ円四わ︒・一五八一年にトルコ︑シリア︑アジア地方との貿易を目的とする
FO
︿ω
ロ同
わ
0・等が活躍しはじめた︒
英国で居留地貿易時代が実質的に終ったのを定めることは容易ではない︒英国では鎖国の歴史がなく︑また外国貿
易の歴史が︑大陸との貿易が盛んになったノルマン征服
Z2
Bω
ロわ
︒ロ
ρロ2件
( 一
O六六)から後︑冒険商人達が本
格的な活躍を見せるようになった十六世紀後半までの間を数えても五
O
O年位の長年月にわたっているからである︒
しかし︑大体において︑右に述べた回目険商人達の各種の貿易会社が活躍しはじめた十六世紀の後半と考えて誤りはな
いであろう︒形式的には︑スティール・ヤードから︑ハンザ同盟の商人が退去した時であろう︒それは一五九七年ま
では存続し︑その年までにハンザ同盟の商人は︑貿易上の諾特権を失って︑英国から退去した︒乙の時が英国におけ
る居留地貿易時代の形式上の終期と考えられる︒
我国の場合は︑居留地貿易時代の始期と終期とを定めることは比較的に容易である︒形式上の始期は︑安政六年六
月に五港が開港されることが決定されてからである︒また形式上の終期は︑明治三二年(一八九九)七月に条約改正
が実施されるようになった時である︒その時以来︑外国人の内地雑居が認められ︑彼等は我国領土内のどこにでも居
住或は旅行ができるようになった︒但U同年七月の勅令によって︑中国人の一部労働者に対しては居住の制限が依然
として続いた︒かくて法律上は居留地の意味がなくなった︒
居留地の実質上の始期については我国の場合は︑形式上(法制上)の始期と一致する︒鎖国の歴史をもたなかった
欧州諸国と異なり︑我国は約三百年にわたる長い鎖国の後に︑各国との通商航海条約によって開国したから︑形式上
の始期と実質上の始期とが一致するのは当然である︒幕府時代の一出向﹂は我国の出留地の起源であり︑我国対外貿
易史上︑重要な意味をもつが︑それは鎖国時代という世界史上極めて稀な時代的背景の下で生じた特殊なものである
から︑始期・終期を論ずる場合には除外するのを適当とする︒
実質上の終期になると問題の解決は甚だ困難である︒実質上の終期とは︑輸出入貿易の主導権が居留地外商の手か
ら︑邦商の手に移った時代︑いわゆる﹁商権の回復﹂がなきれた時代を意味する︒乙の商権の回復ということについ
ては多くの問題が起るであろうが︑乙乙では簡単に輸出入貿易の五割以上が︑邦商の手に移った時を以て︑その標準
と考
えた
い︒
かかる観点に立って︑その時期を考察する︒乙れは各港の事情によって︑それぞれ異るであろう︒神戸港の場合に
は︑明治三O年には輸出入合計の約六五%は外商によって取扱われていた︒その割合は次第に減少したが︑明治四O
年にはまだ五O%を占めていた︒四四年には四OMに下った︒この傾向に対して最も決定的な作用を及ぼした原因は
第一次世界大戦であった︒大正三年に大戦が開始される直前には︑邦商はすでに七O泌を占めていたが︑大戦開始後
は外国商館が受けた打撃は深刻であって容易に回復し難ノ¥この傾向は決定的になっ出︒従って神戸の場合は︑大体に
おいて明治四O年を境として︑次第に商権が邦商の手に回復されたと考えてよい︒次に長崎港の場合は如何?明治三
八年には輸出入合計の三七労を邦商で占めていたが︑三九年と四O年には何れも五一%になっている︒神戸の場合は
欧米及び中国の商人が競争相手であったが︑長崎の場合には主として中国人との競争である︒特に輸出部門において
は︑三九年を除いて︑一二八年と四O年には中国人の方が邦商より少し多い︒輸出部門全体の中での各年度の百分比を・3示せば次のようになっている﹁
輸出の部長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題
五
しかし︑輸入部門では︑邦商が三二%l六O泌を占め︑中国人の万が一四%ー一七労を占めるにすぎないので︑全 経 嘗 と 経 済
体としては邦商が優っている︒
輸入の部
三 九 年 一 四 O 年 一 五 三 一 六
O一
一 一 四 十 一六
明治三七・三八年における日露戦争での大勝利によって︑我国の国際的地位が大いに向上したために︑長崎の邦商
が積極的に進出するように結果が︑商権の回復となった原因の一つである︒神戸の場合は四O年以降︑長崎は三九年
以降を以て商権が回復されたが︑何れの場合にも日露戦争後であることは注目に価する︒横浜は始から主として生糸
の輸出港であった︒明治二0年代では外商の手を経て輸出される数量が︑邦商により直輸出される量の一O倍l二O
倍を占める年が多かった︒しかしこの比率は次第に減少し︑一二0年代に入ると邦商の進出が著るしくなった︒三九年
にはその比率は一O(外商)対八(邦商)になり︑四O年には一O対九に接近した︒これは生糸だけの例であるが︑
a n τ
横浜港でも日露役後に商権の回復が大いに進んだことを知り得る︒
この商権回復の最も重要な基礎が︑日露戦争を契機とする我国産業界の飛躍的発展にあったことは勿論である︒我
国船舶所有屯数は︑明治三二年の五一万屯が四O年には一一二万屯︑大正三年に一五九万屯に増加している︒総屯数
中で千屯以上の船舶の占める割合は︑明治三二年の七五M汚から四二年の八O%︑大正三年の八二%に増加している︒
銑鉄では明治三九年から国内生産が輸入を追越し︑国内需要の六O%以上を占めた︒鋼鉄では明治三四l一二八年平均
で︑国内需要の一六%パすぎなかったが︑明治四四年│大正四年には四O%に達した G綿糸の生産高は次表のように
phd 飛躍的に増加している︒
明治三六年
四
O H H
四四
グ 大 正 三
生産高
八O万梱
九八
H H H H
一一
一ニ
ググ
//
一六
七
H H H H
輸出高一
一一
一グ
グ
二一
ニグ
グ
二九
H H H H
五七
H H H H
内hu明治七年以降の輸出入物品価額の内外商の取扱割合は次のようになっている︒これは我国全体の統計である︒
年度
明治七年一O年
二O年
二二年
二四年
外 商
九九・五六
九七・四四
八七・五四
八七・五九
八三・五二
邦 商
0
・四
四
二・五六一
二・
四六
一二
・四
一
一六・四八 年度二六年二八年三O年
三三年
外 商
八二・七
邦 商
一七・二七
七五
・
O一
六七・二O
六一・五六 二四・九九三ニ・八O
三八・四四
三三年において︑全国的に輸出入の六一%が外商の手にあった︒この年以後の全般的統計はなく︑次の神戸港の統
守a
計が
ある
︒
一 輸 出 一 輸 入 一 邦 商 一 外 商 一 邦 商 一 外 商 明 治 三 四 年 一 二 四
・ 入 一 七 五
・ 二 一 三 七
・
0
一 六 三
・
O
四 四 年 一 五 一
・ 五 一 四 八
・ 五 一 六 王
・ 入 一
年 次 同
長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題
一 六
七
経 営 と 経 済
入
神一戸港については先に述べたように︑明治四O年から輸出入貿易の五
O
Mは邦商の手に帰し︑四四年にいたっては
邦商の優位は明かになっている︒尚内外船載貨対照について見れば︑三五年に内国船載貨は二億円に対して外国船載
貨は三億二千万円であったが︑大正三年には前者六億七千万円に対し後者四億九千万円となった︒
註 (7) (6) (5) (4) (3) (2) (1)
Fq
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開
no ロO B古 田
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門司
O同開ロぬ
‑ ω
ロ 円 Y︿
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‑H MY
品目吋
神戸市史戸大正十年︺本篇︑総説四O五ページ
長崎市制五十年史一四七ページ
肥後竜編︑横浜開港五十年史下︑五七Ol二ページ
土屋喬雄︑続日本経済史二七五︑二七三︑二四八︑二五四ページ
土屋喬雄︑同右書二O八ページ
同 右 二 九 一 ペ ー ジ
第二章
鎖国時代の居留地外人の在館者数
(唐館)に在留した蘭人と唐人の数はどれ位あったであろうか?これについて
は充分な資料を欠いているので正確な数を知る乙とは困難であるが︑できるだけそれに関連のある記録を集め︑それ 鎖国時代に﹁出島﹂と﹁唐人屋敷﹂
を追及しつつ同時に彼等と幕府との交渉の一端に触れ︑鎖国と通商との矛盾を考えたいと思う︒
長崎の場合には︑いつの時代にも支那人の数が西洋人よりもはるかに多かったことは言いえられる︒出島は寛永二二
年(一六三六)に完成し︑最初はポルトガル人が居住した︒出島が完成した年にそれまで市中に寄宿したり或は船住
いしていた葡人を皆乙乙に移らせたのである︒乙の頃の葡人の数はわからない︒葡人を出
何に集めた年に︑彼等がそ' U
れまで市中に在住した間に町方の婦女子と通じて出産した子孫を物色し︑男女二八七人をマカオ港に遠流した︒寛永
十三年七月(一六三六・八・八)にマカオの船が四隻長崎に入港した後︑司令官ゴンサルベズ以下悉く出島に宿泊す
ることになった︒この船が同年九月に出帆する時︑ポルトガル人の妻子等二八七人をマカオに追放した︒周年十月に
平戸商館長からシヤム商館のエレミヤス・ファン・フリlトに贈った書翰に︑
右のガリオット船により︑男女及び子女二八七人マカオに送られたり︒右はポルトガル人の子孫のみならず︑数年
間ポルトガル人と同棲し︑その後日本人に嫁したる者も︑その生みたる子女五六人以上及びその犬と共に追放され
ヮ
たり︒中には混血児を養子となしたるため︑同じく追放されたるものあり︒
これはポルトガル人の妻子だけの数で︑居留地商人としての葡人の数を示すものではない︒ζの二八七人は元亀一万
年(一五七
O)
にポルトガルの定期船が初めて長崎に入港し︑その後定期船が入港するようになってから寛永十三年
(一六三六年)までの六六年間に増加した人数である︒乙の中には混血児の外に︑数年間葡人と同棲しその後日本人
に嫁いだ女はその子供と夫と共に追放されたので︑それらの数も合まれている︒混血児を養子にした日本人も同様で
ある︒乙の数字は当時長崎に在留した葡人の数を示す上に何の手がかりを与えるものではないが︑次の寛永二ハ年(
一六三九)のオランダ人子女の追放事件と共に鎖国政策の矛盾が生んだ悲劇としてここに取上げる価値がある︒
鎖国時代には世界文化発展の基礎である各民族問の人と物資の交流という世界の大勢とそれに逆行する鎖国との矛
盾は当然生ぜざるをえなかった︒幕府はその矛盾を克服するために︑鎖国と禁教政策を徹底し︑厳罰主義を以て臨ん
だために︑混血児の国外追放とかキリシタンの殉教とか世界史上でもあまり類例をみないような多くの惨酷な悲劇を
生じた︒その矛盾の時代を通じて居留地の外人達が如何に矛盾を克服しつつ生きたかということが問題になる︒
平戸のオランダ商館員についても正確な数はわからないが︑寛永二ハ年四月七日(一六三九・五・九)の有名なオ
ランダ人の子女の追放事件の記録によって︑その当時の商館員の数についての大凡が推察されうる︒
長崎
居留
地貿
易時
代及
び其
後の
諸問
題
九
経 蛍 と 経 済
O
その当時追放された子女十一人と共に平戸から同船してパタピヤに渡航した商館員の氏名と人数とが判明している
が︑商館員は四名である︒彼等は追放されたのではない︒乙の数は当時商館に在留していた商館員の大体の数を示す
と考えて差支ない︒出島時代でも商館員の数は一O名位であったことを考えるとこの数は妥当であろう︒その時渡航
内δした男女の数は次表のように=二名である︒
イ サ ベ ラ
メ ル ヒ ヨ
lルd γフ ァ ン
・ サ ン 卜 フ ォ ー ル ト
自由居留民
ピ ン セ ン ト イ サ ベ ラ
』ーー}
ロ マ イ
/
貿易事務員
ウ イ ル レ ム
・ フ エ ル ス テ
l
ヘン ス サ ン ナ
・ フ ァ ン
・ サ ン ト フ ォ ー ル ト 幼 児 ヘ ラ ル ド
・ フ エ ル ス テ
l
ヘン
貿易事務員補
ア ウ グ ス チ ン
・ ミ ユ レ ル スサンナ
子
女 アンドリ
lス十一才
アン
︑不 ケ
九才
ニコラlス
五才
ラフエル
才
亡イタリヤ人某を夫としたる長崎のマリヤ
其女マグダレナ
同
エロニマ
マルテン君とのマグダレナの子は台湾に留置たり︒ 十五才
英国人某を夫としたる平戸のマリヤ
其女ジヨアンナ
マルテン君との子オフケは台湾に留置きたり︒
司令官カレル・リ
l
フェンスの子の母︑イサベラ 船長ヤコブ・ハ
lウがこの 婦人に生ませた女
フロイ卜船"スワン号乗組の下士
アールトが右の婦人に生せた女 東京のジヤンク船にて殺された商人補ハイブ レフト・ヘムスがこの婦人に生せた女
フエンロ1
乗組の運転士チャボス・ヘンドリ ツクスが生ませた女
長崎居留地貿易時代及び其後の諸問題 十人才十八才
ヘレナ
コミナアリア1ン卜ヘン
フウケショ
スサンナ
オフケ
マゲダレナ
フイケシヨ
七ケ月
五才
四才五
才
経 営 与 経 済
船長︒ハ!ルの生ませたマヂヤス・パール
ハ才
ウイルレム・ヤンセン
ピlテル・ファン・サンテン
右の中サントフォールトは︑慶長五年我国に来た蘭船リ
l
フデの乗組員で︑同十年船長クワケルナックと共に南洋 に渡ったが再び引返し︑その後我国に留って外国貿易に従事していた︒またロマインは元マニラ航路のメキシコ船の 乗組員であったが︑長崎に定住して貿易に従事していた︒フエルステ
l
ヘンは平戸商館の出張員として多年長崎に駐
在し︑サントフォールトの女と結婚した人︒ミユレルは平一同商館員で︑ヤンセンとサンテンとは同氏名の蘭人を父と
した混血児であろう︒
右のうちエロニマ十五才とあるのが︑﹁じゃがたら文﹂で有名なお春とされている︒
寛永十五年(一六三八)二月に向原の乱が平定された後は︑幕府は葡人の来航を厳禁し︑出向居住の葡人はすべて 帰国させた︒出島は空家になり長崎の市況は淋れていったので︑幕府は市民の請願を容れ︑寛永一八年(一六四一)
に平戸に居住する蘭人を平一戸に移した︒
出島に移転した年には商館長の外︑五人の館員が居った︒同年十月一日に商館長マキシミリアン・メ
lルが退任し
フロイ卜船デ・メールマン号に乗って長崎を出帆した︒新館長として次席商館長ヤン・ファン・エルセラックが就任 し︑その外館員が五人居った︒その後大体において右の数は変らなかったようである︒商館員の数を推測させうるよ
うな記事には次の数件がある︒
一六四九年十一月二五日(慶安四・一0・二一)にオランダ特派使節と商館長一行が長崎を出て︑海路下関を経て
十二日自に大阪に着いた︒そこで準備を調えて︑十二月二O日に正副使の外︑オランダ人二O人︑通詞三人︑役人其
他の日本人三七人の行列で京都に着き︑順路十二月ゴ二日(慶四・十一・二八)に江戸に着いた︒この二二人の蘭人
A吐のうち商館員は六名位で︑他は使節団であろう︒
戸註
)村
上直
次郎
編︑
オラ
ンダ
商館
¢日
記︑
第二
輯一
入ベ
1ジでは︑日本人三百十人とあるが︑人数があまりに多すぎるような
ので
︑長
崎市
史︑
通交
貿易
編︑
西洋
諸問
部冗
二六
ベ
1ジ
によ
り︑
人数
守改
めた
︒
この特使派遣の目的は︑幕府当局の歓心を得て永く貿易を独占せんがためであった︒というのは︑それより二年前
の一六四七年七月(正保四年六月)にホルトガル船二隻が長崎に入港し︑幕府に通商の再開を求めたことがあったの
で︑オランダ人は我国との貿易独占権がホルトガル人によって反されるのを懸念したのである︒ポルトガルピけでな
く︑右の荷船が長崎に入港する二年前に︑英国商船がマカオに渡来した却が伝わり︑次に我国にも来るであろうと噂
されたことがあった︒そのため一六四五年二月(正保二年一月)に出品商館長オlフェルトワlテルが江戸城中で老
中と会見した時に︑井上筑後守から英国のことを種々尋ねられ仁乙とがあった︒そこでオランダ商館では貿易上再び
F D
英葡両国と競争するようになることもあろうかと懸念したのである︒
一六
四O年にホルトガルはスヘインの圧制的支配から独
した︒新しい同王はドン・ジョアン四世と称した︒二ハJ .
四三年になって︑日本との通交が断絶したことを知ったポルトガル政府は︑新王の即位を報じ︑日本と親交を結び
併せて通商の再開を求むることに決し︑多年インド地方に勤務して功労のあった甲比丹のソイザを特派大使として日
本に派遣した︒大使一行の乗船二隻は一六四五年七月(正保四年六月)に長崎に入港した︒長崎奉行は二人の家来と
通詞三名とを大使坐乗の船に派遣した︒大使はドン・ジアン国王から徳川将軍宛の親拝を江戸表に取次ぐべきことを
長崎奉行に依頼したο奉行はさっそく幕府へ注進し仁c幕府の返答は通商再開を認めない︒即︑‑彼国より渡海船か
長崎居留地貿易時代及び其後¢諮問思
一一一
経 営 と 経 済
四
たく
御制
禁之
事ー
一
(正保四年七月一四日附)という次第であった︒ホルトガル船は渡航の目的を達しないで翌月に長
崎から退去した︒この事件から二年後にオランダは特派大刊を派遣したのである一)
一ヶ年の任期で毎年交代する例であったο新館長は多数の献上口聞をもって江戸へオランダの商館長即︑甲比丹は︑
出府し︑将軍に拝謁し︑日蘭貿易の存続に対して御礼を言上した︒行列は日本役人一人が警視先導となり︑オランダ 側では︑商館長︑副商館長︑医師︑書記長及ぴ助員数名が参加し︑日本人は通詞の外︑オランダ人附及び警視附とし て多数の召使が加わった︒費用はオランダ東印度会社持で︑長崎奉行もこの機会を利用して︑幾干かの荷物を運送料
n o
なしで江戸に運ぶことを怠らなかった︒
一六
五
O
年(慶安三年)十一月一四日に︑第十一期商館長ヒ
lテル・ステルテミウスは.長崎を発し︑江戸へ参府し
てい
る︒
一行はオランダ人六人︑奉行所員通詞孫兵衛と八左衛門外日本人二六人で︑海路同周一八日大阪若︑二
O日
﹃4
奉行所訪問︑二三日大阪発︑京都経由︑東海道を下って一六五一年一月五日に江戸に若いた︒将軍との謁見はこの時
は度々延期された︒家光はこの四月に死去しているが︑病中で謁見できなかったのである︒一二月二四日(慶安四・二
・三)になって︑老中酒井讃岐守と松平伊豆守が引見し︑次に由子家綱に拝謁している︒この時の献上品は次の通り であった︒左記のうち︑オランダ国王よりのものは︑さきに南部浦に漂着した蘭人を無事︑帰国させた謝礼の意味の
︒ ︒
ものである︒
オランダ国王よりの贈呈品
大鏡
花 髭 金装千里鏡
狸 々 緋
彩羅色紗
奥 縞
みい
ムノ
カピタンより例年の献上品 狸々緋
彩色羅紗
白羅紗
小羅紗
毛ちよろけん
色ふらに
糸u
緋給子
更 紗
へいきらはさら巴且杏
陳陀酒(ちんた酒)
オランダ国王より大納言殿(世子家綱)へ
小羅紗
狸々緋色羅紗羅背板
奥 縞
金装千里鏡銀装千里鏡珊瑚の盆山
カピタンより大納言殿へ
銀造蛮船
このほかカピタンは五乃至七人の老中︑二人の江一同町奉行︑三︑四人の高僧︑勘定奉行及びそれらの人々の種々の 羅背板毛椴子東京総子しょら霜降更紗竜紋臼紗綾貝光布飲児烏(いん乙)
秘書役に対しても贈物をした︒右の献上品や贈物は鎖国時代の日本人にとって正に珍主に価するものであった︒
五五年(明暦元)に奉行与兵衛は︑将軍に対しては黒布をもう二一反附加えねばとて︑届けられた目録を許可しなかっ
た︒また一六六一年(寛文元)には︑奉行は目録を検し終ってから︑進物は年々減少し︑しまいにはなくなって了う
一六
ではないか︑丸で粗布の寄せ集めにすぎぬではないかという趣旨を商館長インダイクに伝えた︒そこで商館長もこの
場合には深紅色布三反を将軍のため追加して奉行の不興を和らげるより外致し万がなかった︒日本人の不満にも理由
はあった︒以前には一三︑000
一五
︑
000グルデン高の献上品であったが︑年々一一︑0001
一二
︑
000
グルデンに減少したからである︒日本人側から度々要求があったので︑二ハ六七l
一六
七
O年(寛文七1
同一
O)
の
向 日
聞には︑年々一四︑000グルデンに増加されたc東印度会社が将軍等への献上品や毎年一回カヒタンの江戸往復の
費用等巨額の犠性をも顧みず我国との貿易の存続を希望したのは︑我国との貿易によって莫大な利益があったからで
ある
例えば一六五一年(慶安四)皮の純益は六二︑八五グルデンであり︑参府費用は一八︑OO ︒
三一七グルデンである︒蘭人が我国に輸入する詩商品(生糸︑ラシャ︑呉絹服︑ビロード︑皮革︑.ガラス類︑絹織物
長崎居留地貿易時代及び其絞¢諮問匙
二二献上品は一五︑
五
経 営 と 経 済
一六
蘇木︑乙しよう︑丁子︑檀香木︑砂糖等)の価額と︑彼等が政国から輸出する諸商品(金・銀・銅・銅銭・樟脳・煙
草・木材・陶漆器等)のそれとを比較すると︑後者の価額は常に前者のそれを倍額近く上まわっている︒また後者が
一六四二年(寛永一九)から一六七一年(寛文一)にいたる各前者の倍額を上まわる年が調査年数の三割近くある︒
年度の純利益金額は︑オランダが我国から持出す諸商品の価額の一二一一%から六二%の間を上下している︒
一六五八年(万治元)の統計では︑オランダが我国に持込む商品の価額は一︑O八四︑︒五一グルデンで
あるが︑我国から持出す商品のそれは︑二︑O八O︑五六Oグルデンであるιその差額が大体において純利益として
表示されている︒
例え
ば︑
蘭船によってもたhりされる﹁阿蘭陀風説古﹂は︑唐船によって得られる海﹁華夷変態﹂と共に︑鎖国時代の海外情
報の二大源泉であったc蘭船が入港する一度毎に長崎に欧州及び其他の国々の情報を呈出させ︑それを通詞が和解して
付 け 川 悼 川 は
︑
幕府へ進達した︒これは多く政治情報が圭円かれている︒その一例を次に示す︒これは天保十五辰年のもである︒
阿蘭陀風説書
一︑去年御当地より帰帆仕候船日本地方之内にて大風に遭い本船大いに動揺仕候而浪入漏り強く候問唐国の内ホン
コン地方に入れ修覆相加申候右ノ仕合ニ而漸去十二月廿一日岐昭肥者船仕候
一︑当年来朝の阿蘭陀船壱般五月十五日岐哨肥出船仕海上無別条今月御当地着岸壮候
於洋中外国船此唐船見掛け不申候
一︑エゲレス園女王為見舞フランス国王扶ベルギー国王万え参り申候
一︑阿蘭陀先国王去十一月死去仕候
一︑オロシャ国帝ブロイス国王万へ為見舞参り巾候
一︑イスパニヤ国中の一援静議に相成申候 てイサベルラ!と申王女子女王に即位仕候
一︑フランス国より唐国へ使節差越軍船数般引連候儀に御降候
一︑唐国とエゲレス国との一件是迄追々申上候末之模様ハ別段に相認差上申べく候
辰六月十六日
天保十五辰年
幕府の指導階級も一面においては鎖国政策を徹底させたが︑他面においては文化の進歩︑肝界進展の大勢との矛盾
に苦しまねばならなかった︒出品の蘭人を通じて得られる和蘭陀風説書が世界の大勢を知るための唯一とも一一一口ってよ
い重要なニュース源であり︑また出品蘭館長から毎年献上される数々の欧州及び諸国産出の珍奇な品々は珍章一おく能
はざるものであった︒従って︑奉行を通じて度々献上品の増加を要求するなどの厚顔な振舞をなさねばならなかった 伊沢美作守様御在勤
ことに鎖国と通商との矛盾が露出されている︒間界各同産の珍奇な商品を多数入手するためには︑鎖国を放棄しなけ
ればならなかった筈である︒
一六五一年(慶安四)第十二期商館長アドリアlン・ファン・デル・ブルフは江戸へ参府しているc彼は同年十二
月二七日に︑彼の外にオランダ人五人と日本人一O人を従えて山発した心日本人は奉行所員二人︑通詞一人︑書記一
人︑料理人一人下男五人の一O人である乙同日乗船出帆し︑翌年一月八日大阪若︑一O日奉行訪問︑十三日大阪発︑
十四日京都を経て︑二五日江戸に着いた︒二月七日家綱に拝謁しにペ
以上のオランダ人の人数は大体において︑徳川初期時代の出品在留ω外人の数を一市すと考えられる︒出向時代彼等
の生活は能の民同様であった︒年に二︑一二一山市中散歩を許3れるにけで︑その時に警護の役人が同行した︒市民と寸一
長崎居向田地貿易時代及び其絞の訪問貯
七
経 営 と 経 済
話することすら許きれなかった︒これば日本人との言語不通等から不測の災が起らないように︑外人の保護︑取締と
同時に︑当時盛であった抜荷取締の目的から出たものである︒彼等にとって江戸への出府は︑我国の人情・風俗を知
る上に︑また観光の目的にとって絶好の機会であったに相違ない︒従って極めて少数の留守番を除いてこの旅行に参
^
加したことは当然であろう︒乙の六人が在館者の大部分の数を示すものと考えて差支えない︒
出品に在留する商館員の公の数については︑
れている︒それによれば︑商館長︑副商館長︑商務員補一アー三人︑助員一四l一五人という定めであった︒しかしオ 一六七八年(延宝六)六月七日の指令(蘭印布的集)により明かにさ
ランダ東印度会社は経費を節約する必要がったので︑二ハ七九年六月二九日の印度政庁文習によって船の出帆後︑出
島には単に月俸一
O
Oグルデンの商館長︑六
O
l六五グルデンの副商館長及び他の職員七人だけが止ることと定めら
れた︒この七人の中には書記長一名︑倉庫長一名及び帳簿万一名が含まれ︑この三名は商務員不在の場合︑その職務
机剖
を行うことになっていた︒出島蘭館には医者も居った︒出向には倉庫︑牛・馬・豚等の家畜小屋︑薬草園︑菜園︑花
畑があったから︑右の他に下僕は必要であった︒下僕として黒人が居ったことは︑長崎犯科帳に出てくるので実証さ
ー し '3 0
︑ サ μT・4F1
安永七年(一七七八)に起った事件は︑出向へ出入していた日雇人夫と出品蘭館の召使の﹁黒ん坊﹂との間に生じ
た小さな密輸入事件である︒その人夫の姉が長い間病床にあり︑高価な薬を買与えたが一向にききめがなかった︒人
夫仲間の一人からオランダ人が日常食料にしているボiルト(バタ
l)
が︑極めてよく効くと教えられた︒そ乙で彼
はカピタンの召使の黒ん坊に相談した︒黒ん坊は真織の延板をもって来たら︑ボールトと交換してやるという︒その
人夫は出島で飼っている牛や豚にやる草を近郊の野辺から刈取って遥込むのが仕事であった︒彼は市中で手に入れた
真鎗板を刈った草の中にかくして出向に持込もうとしたが︑探番(門番)に兎見された︒結川︑その人犬は五O
肢の
刑を言渡され︑以後出島への出入を差止められた︒
天保二年(一七八二)の事件は黒坊と出島の水汲日雇人夫三人に関するものである︒三人の人夫は出島へ水を供給
するためのものである︒蘭館の召使通称シャコという黒坊が主謀者になり︑黒坊が出向の倉庫を破って盗出した反物
一七端の密買を三人にすすめた︒反物は奥縞︑海黄︑皿沙等一七反である︒代金は四両二分であった︒三人は金子を
工面してシャコに渡し︑反物を数回に分けて出島から持出した︒後で倉庫が破られ反物が多数盗難にあっている乙と
が発見され︑厳重取調べたところ以上の事実が判明した︒反物は元に戻った︒人夫一二人は捕えられ五O殻の上︑居町
払に
なっ
た︒
出島蘭館の駐在員の数が多数に上り得なかったことは︑入港した蘭船の隻数からも判断できることである︒元鵡元
年(一六八八)には唐船は入港隻数を毎年七O隻に制限されたが︑蘭船は元誠一四年からは四・五隻に制限された︒
乙の貿易制限政策は新井白石によって更に強化され正徳五年(一七一五)には唐船三O隻︑蘭船二隻と定められた︒
我国の銅の産額が減少する傾向があったので更に制限は強化され︑寛保二年(一七四二)には唐船一O隻︑蘭船一隻
になった︒しかし実際には二隻入港している年も多い︒天保五年(一八三四)以後は一隻の年が多い︒年に一隻或は
二隻の入港では︑出島で大世帯をはることができなかったのは当然である︒文化七年(一八一
O)
から九年までの三
年間︑蘭船が入港しなかったことがあったが︑その聞に蘭館での生活は著るしく窮迫した︒その間船載の貯蔵物は全
く欠乏したが︑日々の食料品及び其他の生活必需品は幕府の命により︑長崎会所から毎月規則正しく供給した︒バ
タl︑洋酒︑靴︑冬衣等特に欠乏した︒生活費は長崎会所の・一川替を受けたが︑文化九年にはその総額が八O
︑二
O O両
哨仰を越えたといわれる︒かくの如く出島蘭館の生活は全く蘭船の入港とその貿易数量に依存していたことは明かである︒
唐船の場合は入港隻数も貿易金額も蘭船よりはるかに多かった︒正徳五年(一七一五)の貿易制限令によっても︑
畏崎居留地貿易時代及び其後の諸問題
九
経 営 と 経 済
両者の聞に著るしい差がある︒ 二C
入港隻数(一年間)貿易金額
唐船
O
銀高
六︑
000貫目(内銅を以て支払高三O万斤)
オランダ船
銀高
三︑
000貫目(内銅を以て支払高一五万斤)
この差は大体において幕末までつづけられた︒従って唐人屋敷(唐館)の在留者の数は蘭人よりはるかに多数であ
ったことが考えられる︒敷地は出島のゴ一︑九六九坪に対し︑唐館は九︑三六O坪であった︒それは出島のような人工
の島ではなく︑市の南東部︑十善寺村の一区域であった︒周囲は高い練塀をめぐらし︑出入には一の門(大門)と二
の門という二重の門を通らねばならなかった︒唐人も蘭人同様︑箆の鳥の生活で荷役︑仏参︑墓参りの外は自由に出
入を許されず︑外出の際は唐人番が護衛した︒
唐館内には弘化年間(一七七二l八
O)
には︑二階建の唐人部屋が十三軒あった︒その他観音堂︑土神洞︑関帝堂
川HUなどあったc当時には本国から流亡帰化した在地唐人として館外に居住していたものも相当数あり︑唐通事達もそれ
らのうちから任命されていたが︑在留数は明かでない︒来津の居商達は蘭人同様に︑妻子の同伴を許きれなかった︒
彼等は商売の完了次第帰国した︒従って唐船の入港時と否とでは唐人の在留数は季節的に浮動していた︒入港隻数は
元雄元年(一六八八)の一一七隻を最高とし︒その後逐年減少し︑幕末の弘化︑嘉永︑安政年間は年平均四・四隻に
すぎなかった︒一船の乗組員数は五O名乃至一一O名程度であったから︑元械年聞の盛時には毎年数千人の来津があ
ったと考えられる︒後年の天明四年(一七八四)七月には在留唐人数は八九二名であった︒
文政七年(一八二四)には入港唐船は六笠あり︑その乗組員数は計五八七名︑
一船
平均
一
O
名内外であったそCc
の前年の文政六年九月唐船出帆後の在留者数は三二名であっ仁︒これは夏季帰帆後の在留人口数を示している︒更に